2024年10月30日水曜日

『森下雨村犯罪実話集』湯浅篤志・編

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ヒラヤマ探偵文庫 35
2024年9月発売



   犯罪レジュメを読まされてもね・・・




本書に収められている森下雨村の犯罪実話とほぼ同じ頃、牧逸馬が海外の素材を元にした実話物を積極的に執筆しており、「世界怪奇実話」というタイトルなのだが、あちらは意外とニーズがあったのか昭和のみならず平成になっても何度か再発されていて、御存知の方も少なくない筈。一方、記録文学叢書『カスパー・ハウゼル 泰西天一坊伝』のような著書は出していたものの、(森下岩太郎名義ではない)森下雨村の犯罪実話が単行本に入るのは初めてのような気がする。

 

 

名探偵マセの活躍 「死体を無くした男」

殺人鬼伝 「冷酷無情 カザリン・ヘーズ」

「コンスタンス・ケント事件」

猟奇夜話 第一夜「鼠を飼う死刑囚」

猟奇夜話 第二夜 第三話「十五萬ポンドの頸飾」

猟奇夜話 第四話「実説 噫無情」

 

 

ノンフィクションの事件を描いた作品として甲賀三郎「支倉事件」や山本禾太郎「小笛事件」は一定の評価を受けている。あの二長篇はワンテーマに単行本一冊分の紙数を費やしているから、それなりのクオリティーを求めても問題無い。だが、本書の犯罪実話はどれも事件発生から解決までを短く簡潔に要約しているだけで、【場面ごとのうねり】【登場人物達が交わす会話の妙】など小説を楽しむのに欠かせない大切な要素を放棄しているため、言い方は悪いが新聞やネット記事を読んでいるのと大差ない。本書の制作者は「だって小説じゃないもんね」と反論するだろうし、実際そのとおりかもしれないが、これは無味乾燥な一種の犯罪レジュメだ。

 

 

「コンスタンス・ケント事件」は海外ミステリの定番作品であるウィルキー・コリンズ「月長石」やヴァン・ダイン「グリーン家殺人事件」の構想に少なからず影響を与えている〟と雨村は述べる。要するにこういうものは〝探偵作家が頭の中でアイディアを捏ね上げる際、有効な資料として意味を持つ〟と言いたいのだろう。ごもっとも。この中で印象に残る事件を強いて挙げるとするなら、現実の出来事なのに複雑怪奇な展開を見せる「実説 噫無情」かな。

でもこの書き方じゃ、あまりに中身がスカスカで感情も潤いも無く、読む側は全然楽しめない。ストレートに実話を文章化するのではなく、材料を上手く活用して一作でも多く自分の創作探偵小説を書いたほうがずっとプラスになったのに。




いつも言っているとおり犯罪実話(探偵実話)と創作探偵小説は全く別個のものであって、ごく一部の例外を除けば、読んだところでたいして面白くもない。森下雨村という人は天才型探偵の推理ではなく、足でコツコツ捜査して謎を解いてゆくスタイルが好みなのは私も承知している。彼の取り上げた猟奇的犯罪は、当時の日本に流れていたエロ・グロ・ナンセンスの風潮とも合致するとはいえ、「玉の井八つ切り殺人」(昭和7年)を思わせるグルーサムな事件にそこまで雨村が関心を抱くイメージを持っていなかったから、その点については「へえ~」と思った。





(銀) 森下雨村が書いた実話物だから面白くないと言っているのではない。実話物それ自体が面白くないのだ。江戸川乱歩を見よ。横溝正史を見よ。一度として彼らは実話になぞ手を出さなかったではないか。






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2024年10月27日日曜日

『江戸川乱歩トリック論集』江戸川乱歩

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中公文庫
2024年10月発売



★★★  本格長篇で成功を収められなかった乱歩の副産物





私はこのBlogを、「自分の持っている本を売ったらいくら儲かるか」、それしか頭にない底辺のミステリマニアなオッサン連中とは何の関わりも無い、「X」なんてものに無駄な時間を浪費することなく静かに読書を楽しんでいる人達に見てもらいたくて、随時更新している。

だから気になるのだが、国内外のミステリ作品に用いられた各種トリックのみを抽出、それらをあたかも見本市のごとく並べて見せる評論書が発売されて、「読んでみようかな」と思う一般層の読者が今時どれぐらいいるのか、見当も付かない。例えば、ミステリ小説を二十冊未満ぐらいしか所有していない人が、江戸川乱歩のネームバリューに頼りつつも本書に興味を持ってくれるだろうか?中公文庫にしてはやや専門性の高い内容なので、つい考えてしまう。





この本は 【類別トリック集成】そして 【探偵小説の「謎」】をベースに、過去のどの乱歩本とも異なる自の編集がされており、【資料】篇以外の底本に使われているのは光文社文庫版『江戸川乱歩全集』/河出文庫版『江戸川乱歩コレクション』(全六巻)/講談社版『江戸川乱歩推理文庫の三種だ。『江戸川乱歩推理文庫』なんて底本にするにはあまり相応しくない粗い仕上がりなのだが【トリック各論・補遺】 【トリック総論】の二章は乱歩生前の著書に入っていない随筆が含まれ、また光文社文庫版『江戸川乱歩全集』に収録の随筆が少なからず存在するため、『江戸川乱歩コレクション』及び『江戸川乱歩推理文庫』から適宜補填している模様。

 

 

なにしろ仕込まれたトリックだけでなく、場合によっては犯人の正体まで明かしているのだし、ここにピックアップされた作品をこれから読もうと楽しみにしている人達にとってはネタバレのオンパレードでしかない。とはいえ、世の中そこまで目くじら立てて文句を言う人がいる訳でもなく、トリックを指標としたミステリガイドックとして利用することもできる。【類別トリック集成】 【探偵小説の「謎」】もトリックに対する知識の有無に関係なく私はあれこれ楽しめるけれども、初めて本書でお読みになられた方、如何ですか?

 

 

トリックの紹介ばかりでなく、Ⅱ【探偵小説の「謎」】における「スリルの説」の章は、スリルというものが探偵小説を成り立たせる大事な要素のひとつであることを解り易く論じていて役に立つ。以前私は園田てる子『黒い妖精』(☜)の記事にて、「探偵小説ではないのに何故か読ませてしまうsomethingがある」と述べた。どうしてそう思ったのか、乱歩の文章を読んでいると「なるほどな」と腑に落ちるし、非探偵小説で面白いものに出会った時、何故自分はその作品に引き込まれたのか、分析の手助けにもなる。

 

 

「スリルの説」の章にはもうひとつ、着目すべき箇所あり。時々乱歩は文豪ドストエフスキーについて言及することがあるのだが、本章にて触れている「カラマゾフの兄弟」序盤の決闘シーンがいたくお気に入りのようで、或るセリフなどは自らの長篇「吸血鬼」冒頭での岡田道彦と三谷房夫決闘の場面にそっくりそのまま引用されているのが、乱歩作品をよく読み込んでいる人ならすぐ分かるはず。乱歩ファンだったら、やっぱり一度はドストエフスキーも読んでおかなければならない。

 

 

最後に【資料】篇。乱歩と横溝正史、昭和24年の対談は良いとして、乱歩の没後に中島河太郎と山村正夫が「類別トリック集成」のフォーマットに則り、新しく「トリック分類表」を作成しているのだが、これが新保博久・解説の指摘どおり個々の説明がくどくなってしまい、煩わしい事この上ない。「トリック分類表」は乱歩本人が関わっていないボーナストラック的扱いであれ、オリジナルの「類別トリック集成」が読み易く書かれているその証左にはなっても、ごく普通の読者からすれば蛇足だったか。





本書の帯には「トリックは無限にある。心配することはない。」という乱歩の言葉(392頁)がデカデカと引用されている。結果的に戦後の乱歩は、切れ味鋭いトリックを活かした本格長篇で大成功を収めることができず、日本の探偵小説界も終戦直後に横溝正史/高木彬光/角田喜久雄が一瞬本格の風を起こしてみせたけれど、その後はなんとなく尻窄みになってゆき海外ミステリとの差を縮める程の成果は生み出せなかった。 

 

 

 

(銀) 1014日の記事にて、本書と同じ中央公論新社の新刊『下山事件~封印された記憶』(☜)を取り上げた。下山事件に踏み込む新刊を今出すなら、日本の探偵作家が下山事件に言及している座談会や各人のエッセイを纏め、あの時代彼らが一人一人どんな見解を示していたか、詳らかにする書籍も一緒に刊行してくれると嬉しかった。


でも江戸川乱歩関係の書誌・文献データはwebサイト『名張人外境』で長年中相作氏が調査してくれているからそれを参照すればいいが、他の作家がどの文献で下山事件について発言しているかは不明な部分が多く、一点ずつ資料を見つけ出してゆくとなるとハードルは高い。さりとて、これがもし一冊の本になったら、他に類を見ないものになるのは間違いない。






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2024年10月23日水曜日

『のすたるじあ』城昌幸

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創元推理文庫
2024年10月発売



★★★★  丁寧な本作りと「怪談京土産」の魅力




今回、桃源社版(昭和37年刊)に数篇増補した『みすてりい』、そして牧神社版(昭和51年刊)に数篇増補した『のすたるじあ』、この二冊を藤原編集室が編纂、創元推理文庫が同時発売する件につき、事前新刊情報を目にして感じたことは先日述べたとおり。
(下記のリンクをクリックして参照されたし)

 

『夢と秘密』城昌幸  ★★★★  ダブリが多い城昌幸の短篇集 (☜)

 

当Blogではこれまで城昌幸の記事をいくつかupしており、
桃源社版『みすてりい』は既に紹介済みなので、本日は『のすたるじあ』を軸に話を進めてゆきたい。

 

 

創元推理文庫版『のすたるじあ』収録内容

 

 のすたるじあ

「大いなる者の戯れ」「ユラリゥム」「ラビリンス」「まぼろし」「A Fable

「光彩ある絶望」「燭涙」「エルドラドオ」「美しい復讐」「復活の霊液」

「斬るということ」「蒸発」「哀れ」「郷愁」

解説 星新一

 

 その他の短篇

「今様百物語」「シャンプオオル氏事件の顛末」「東方見聞」「神ぞ知食す」

「死人に口なし」「吸血鬼」「書狂」「他の一人」「面白い話」「三行広告」

「間接殺人」「うら表」「憂愁の人」「夢見る」「怪談京土産」「白夢」

「2+2=0」「はかなさ」

 

日本の探偵小説でも城昌幸や渡辺温など、掌編小説形式を用いた作品が高く評価されている作家はいるが、「ショートショート」という呼び名から真っ先に連想するのはやっぱり星新一かな。高校の時、同じクラスの奴が星の何かの文庫を貸してくれたのだけど、その書名を覚えていないぐらいそっち方面にはとんと疎く、戦後SF系「ショートショート」といったらシュールな世界観/ブラック・ユーモアを頭に思い浮かべる程度の知識しかない私だ。

 

 

本書の中で牧神社版『のすたるじあ』に該当する【  のすたるじあ】のページ数は全体の半分にも満たず、全345頁のうち127頁。冒頭の「大いなる者の戯れ」「ユラリゥム」は筋らしい筋も無く詩的な空想世界の表出。できればどんなに短くとも、物語性を提示してくれたほうが自分にはフィットするね。そういえば昔、知人と交わした雑談の中で〝『のすたるじあ』って城昌幸が亡くなる直前に出した本だから、入ってるのは晩年の作品なんだろ?〟とその相手が口にした言葉に釣られて、私もそう思い込んでいる部分があった。ところが巻末にある初出データを見てみたら意外にそうでもなく、戦前に発表されたものも多く含まれている。

 

 

「斬るということ」は江戸時代が舞台(タイムスリップではない)。星新一は初刊時の解説にて(本書124127頁)〝城さんの作風のはばの広さを示しており、この名人芸にはただただ感心させられる〟と持ち上げているものの、逆にこれだけ浮いてしまってマイナスな意味での違和感しか残らない。どうも【  のすたるじあ】は都会的だったりスタイリッシュなテイストが控えめな作品が並んでいる印象を受けるし、文庫増補分にあたる【  その他の短篇】に属している作品のほうに良さを感じる。

 

 

【  その他の短篇】には単行本初収録作も含まれ、「今様百物語」「うら表」「夢見る」「白夢」「2+2=0」「はかなさ」がそれにあたる。城昌幸作品にも上段で述べた「ショートショート」の代名詞みたいなシュールな世界観/ブラック・ユーモア的要素は点在しているが、個人的に本書の中で最も惹かれたのは、七頁に亘りひとつの改行も無く文字を連ねながら祇園で出会った舞妓への慕情を描く「怪談京土産」。〝【  のすたるじあ】には都会的/スタイリッシュな味が足りない〟と言いつつ、酒を嗜む壮年男性のウエットなストーリーを推すのもなんか矛盾しているように思われそうだけど、これは好き。

ほんの僅かな枚数の中で、戦時下における舞妓との出会い、国策によって彼女達の仕事が許されなくなってゆく様子、敗戦後の奇妙な再会まで、旅先で出会った若い京おんなへの思慕がコンパクトな流れで綴られているのが素晴らしい。

 

 

この度刊行された文庫版『みすてりい』『のすたるじあ』共に初出一覧データが詳しく記されていて、それぞれの短篇が作者生前のどの単行本に収録されていたかも一目で分かる。『のすたるじあ』の巻末にある夕木春央という人の解説は一読者の思い入れ吐露にすぎないが、長山靖生の『みすてりい』解説はベテランらしい的確な文章だし、城の改稿癖にも言及。今回の文庫二冊で初めて城昌幸に接する方は、何はなくともまず『みすてりい』からどうぞ。

 

 

 
(銀) カバーデザインの面でも『のすたるじあ』より『みすてりい』のほうが断然出来は上。創元推理文庫は四年前『菖蒲狂い~若さま侍捕物手帖ミステリ傑作選』を出しているとはいえ、果して「若さま侍」の固定客が本書のような城のショートショートに興味を持つだろうか?またその反対に、ショートショート探偵小説を好む人達は「若さま侍」を手に取ってくれるかな?私の見立てでは、この二つの客層は殆ど分離しているような気がする。

 

 

 

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2024年10月20日日曜日

渡邉溫選集『あゝ華族様だよと私は嘘を吐くのであつた』

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盛林堂ミステリアス文庫  編・繪 YOUCHAN
2024年9月発売



★★★   盛林堂周辺に都合よく使われて、可哀相な温




Ⅰ 始まりの頃

影  Ein Märchen(*)

少女(*)

 

Ⅱ 新青年の時代

赤い煙突(*)

どぶ鼠(*)

可哀相な姉(*)

風船美人(*)

勝敗(*)

繪姿

 

Ⅲ モダニズム雑誌のとき

あゝ華族様だよと私は嘘を吐くのであつた(*)

兵隊の死(*)

父を失ふ話(*)

シルクハット(*)

 

Ⅳ 映畫と藝術と

オング君の說

足 ― A PARABLE(*)

古都にて

夏の夜語

 

 

ハードカバーの造りで3,000円?いつもソフトカバー本にそれぐらいの値段を付けている盛林堂書房にしては良心的な価格。YOUCHANというのは盛林堂周辺にのたくっている、ミステリ/SF界隈お抱えの女性イラストレーター。彼女は今回挿絵を描いただけでなく作品選びも行っているとのこと。「あとがき」によれば、自分の個展で販売する図録としてこの本を制作したらしく、相変わらずあの辺の連中は昭和以前の探偵作家やSF作家を自分達に都合のいいよう利用することで頭がいっぱいのようだ。

 

 

本書は改造社版『日本探偵小説全集18 國枝史郎集・渡邉温集』(昭和4年刊)からのセレクトが中核で、そこに数点肉付けしている感じ。上段に掲げた目次のうち、(*)マークが改造社版『國枝史郎集・渡邉温集』に入っていたもの。よってそれらの底本は改造社版テキストを使用。ちなみに創元推理文庫版『渡辺温全集/アンドロギュノスの裔』の底本はすべて初出誌を用いている。凡庸な人間は手近にある新しめの単行本を底本にしてチャチャッと済ませようとするが、手間を惜しまず初出誌や初刊本にあたるのプロのやり方。

 

 

温の場合、ショートショート風な短めの尺でアバンギャルド&ノスタルジックな表現を実践しているものが一際輝きを放っている。兄・渡邉啓助に比べると余計な贅肉が無く、ひとつひとつの作が研ぎ澄まされている印象強し。ポオの翻訳など(☜)、まさに適任といえる仕事であった。また長山靖生が本書巻末の「解説」を書いていて、次の一文が心に留まる。

 

〝温の世界には幸薄い少女や娼婦がよく登場するが、その悲しみに寄り添いながらもプロレタリア小説的な社会性に向かうことはなく、ナイーヴなロマンティシズムと結び付いていた。そこには一種の精神主義と神秘主義、そして楽天性も垣間見える。〟

 

渡邉温にはモダンボーイとかダンディーとかシルクハットうんぬんかんぬん、目に見えるものにばかり捉われた修飾語が着せられるけれど、その根底にあるスピリットが一番重要でしょ。温が世に出てきた時代にはマルクス主義の風が吹き荒れていたし、日本の探偵小説にプロレタリア色が氾濫してもおかしくなかったのに、決してそうはならなかった。社会への恨みがこもったプロレタリアの姿勢とは対極にある温の「なんとかなるさ」的なoptimismのほうが、探偵趣味を好む人々にとって信じるに値するものだったんだろうな。

 

 

本書は発表時の味わいを活かすべく旧仮名・旧漢字テキストで作られているため、苦労したその過程もご丁寧にアピールされている。それだけ温をリスペクトする気持ちがあるのなら、YOUCHANや盛林堂書房の店長・小野純一とズブズブで仲良しこよしな善渡爾宗衛/小野塚力/杉山淳に対しても、「非常識なボッタクリ価格で本売って金儲けする前に、せめて最低限間違いの無いテキスト作りぐらいしろ!」って教育してもらいたいよ。




 

(銀) 本書に入っている作品はすべて『渡辺温全集/アンドロギュノスの裔』で読むことが可能。これが『新青年』研究会の浜田雄介や長山靖生の作った本だったら支持するけど、いくら温の作品が素晴らしいからといって、盛林堂周辺の胡散臭いプレゼンから生まれたものでは気持ちも冷める。

 

 

このところ、2015年以前に出ていた日本探偵小説の一部の本が版元でも在庫切れになっており、それを受け、既存のものとは少しばかり内容をいじっただけの新刊本が続けて刊行されている。今回の『渡邉温選集』なんかも、創元推理文庫版『渡辺温全集/アンドロギュノスの裔』の流通が無くなっているのを知っての刊行だと思う。

 

 

12月には河出文庫から、海野十三/新保博久(編)『盗まれた脳髄/名探偵・帆村荘六アンソロジー』が発売予定だそうだが、これも創元推理文庫が出していた『獏鸚/名探偵帆村荘六の事件簿』そして『蠅男/名探偵帆村荘六の事件簿2』が市場から姿を消してしまったがゆえの企画に違いない。





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2024年10月18日金曜日

『六死人』S・A・ステーマン/三輪秀彦(訳)

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創元推理文庫
1984年8月発売



★★   トリック/謎解き以外の部分がお粗末




物語の中に〝満洲〟への言及がある。「六死人」が発表されたのは1931年。日本の元号で言うと昭和6年。当時の若者が海外雄飛を夢見ていたのは仏蘭西人も同じだったらしい。当Blogで先日取り上げたばかりの超大物女性作家にとって畢生の傑作とされる某長篇、内容的にあれの先駆けだと喧伝されてきた過去が本作にはある。



死のターゲットにされる登場人物は次の六名。 

▶ ジョルジュ・サンテール

▶ ジャン・ベルロンジュール

▶ アンリ・ナモット

▶ ネストル・グリッブ

▶ ユベール・ティニョル

▶ マルセル・ジェルニコ 



この六人の青年に与えられた設定というのが、小説とはいえ「そりゃ有り得んだろ」と言いたくなるものでね。富を求めて世界中へと散らばっていった彼らが五年後もう一度集結する時、どれだけ成功していても一文無しで帰ってきても、全員の得た富は公平に分配する取り決めだという訳。ウ~ム、それは人間の欲望をちと甘く捉え過ぎていやしないか?性善説を信じ、世界一お人好しな日本国民に属するワタシでさえ「その約束事には無理があるんじゃないの・・・?」などと訝っているうち、案の定そう平穏に事が運ぶ筈もなく、ひとり又ひとり、彼らは命を奪われてゆく。

 

 

初めて本作を読む方にしてみれば、登場人物をfirst nameで呼ぶのかlast nameで呼ぶのか一定していない点が目に付き、煩雑な印象を受けるかもしれない。

例えばジョルジュ・サンテールだと〝ジョルジュ〟と呼んだり〝サンテール〟と呼んだり、探偵役にあたるヴェンス警部にしても、フルネームはヴェンセスラス・ヴォロベイチクというとても覚えられそうにない名前だから、作者もヴェンス警部で通してくれればいいものを、時々ヴォロベイチク表記にしたりするので、読んでいる最中その都度登場人物の名前を確認したくなる読者は面倒かも。

 

 

とりあえず本格マニアな人達が喜びそうな長篇ではある。「六死人」(原題:Six Hommes Morts)というタイトルもキャッチ・コピー的に悪くない。しかし全体からトリック/謎解きの要素を取り除いてしまったら、後に残る小説としての部分はどうにもまどろっこしいというか、読んでいて心地良さを感じられないのが大きな欠点。全ての男を惑わせるようなアスンシオンという美しいスペイン人女性が出てくるわりに、彼女のセックスアピールが事件の経過へ何がしかの影響を及ぼしているかといえばそうでもなく、ではヴェンス警部にそれなりの存在感があるのかというと、これまたNO。登場人物は皆〝仏作って魂売れず〟的な扱いにされてしまっている。





冒頭にて述べた大物女性作家の某長篇と比較したところで、文章の表現力がお粗末ゆえ、まるで相手にならない。人間が描けている描けていない以前の問題で、各キャラクターに持たせるべき必然性みたいなものがごっそり抜け落ちているため、読み終わったあと満足感が得られないのは痛い。






(銀) 本書は全部で230ページ弱程度のさほど厚くないボリュームだし、気になった人がちょっと手に取ってみるには丁度良い分量なんだけど・・・。解説の代りに翻訳者・三輪秀彦による4ページの「あとがき」しかないのも寂しい。





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2024年10月14日月曜日

『下山事件~封印された記憶』木田滋夫

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中央公論新社
2024年10月発売



★★★★  「下山事件」はビジネス化してしまったのか




読む価値があると思った下山事件の関連書籍は何冊か紹介してきたけれども、西暦2000年という大きな時代の節目を迎えたあと諸永裕司/柴田哲孝/森達也らによって上梓された比較的新しめのものには、今一つ深入りできずにいる。彼らの主張を全否定するつもりは無い。しかし、疑り深い(?)私には承服しかねるところが多いのもまた事実なのだ。

 

 

ひとつ例を挙げるとすれば亜細亜産業。柴田哲孝は自分の祖父が亜細亜産業の一員で、下山事件実行犯に加わっていた可能性もあると述懐している。この辺の情報を初めて目にした時、「なんだって今頃そんな事実が浮上してきたの?」というのが私のファースト・インプレッションだったし、「話が少々うますぎやしないか?」とも感じた。

勝浦にある亜細亜産業の缶詰工場で下山総裁は殺されたと見做す説も然り。同じ千葉県でも浦安あたりならともかく、総裁が失踪した日本橋、そして屍体発見現場である綾瀬、この都内二カ所と勝浦を比較した場合、屍体を再び都内へ運び、衆目を集めさせる計画だったとしても、実行に移すとなると距離が相当離れすぎていて、現実味に乏しい。

 

 

どこまで行っても解決の糸口は見えない。あまりに下山事件の闇が深すぎるため、いつのまにか〝下山ビジネス〟なるものが芽吹いてしまったんじゃないか・・・・そんな疑問さえ抱くようになった私には例のNHK『未解決事件 File.10 下山事件』も、それっぽい実録ドラマを見せることのみ重視しているだけのpointlessな番組でしかなかった。

そうは言いながら、ちまちまチェックしていたネット連載もある。『讀賣新聞オンライン』にて令和412月から翌59月にかけてupされた「下山事件の謎に迫る」がそれで、筆者の木田滋夫は昭和46年生まれの読売新聞記者。今回取り上げる『下山事件~封印された記憶』はそのネット連載分に加筆、更に巻末資料をプラスするなど再構成した上で、紙の本として先日発売された。



                  



本書の中で鍵となるのは、新たに出現した三つの紙資料。
第一の資料は足立区立郷土博物館の文芸員が平成18年、下山事件の文献として広島の古書店から『改造』と『中央公論』の二誌を購入した際、一緒に挟まれていた事件当時の捜査資料と思しき『ガリ版資料』だ。昭和2412月にマスコミへリークされた『下山白書』とその『ガリ版資料』を見比べてみると、『下山白書』が自殺説寄りに結論付けられているのに対し、『ガリ版資料』のほうは疑義の問題点を箇条書きにした簡単な内容とはいえ、自殺にも他殺にも偏りの無いフラットな姿勢で綴られている。

 

 

二番目の資料は、神奈川で教師として働いていた永瀬一哉が旧知の間柄である本書の筆者・木田滋夫へ知らせてきた『下山事件捜査秘史 元東京地方検察庁検事 金沢清』という、昭和58年にタイプで打たれた八枚の文書。なんでも永瀬は自分の教え子から、「身内に下山事件を捜査した元検事がいる」と云われ、二度ほど金沢清と接見したそうだ。その時に金沢から手渡されたのが上記の『捜査秘史』だった。

 

 

これらの資料は量的に嵩張るものでなく、本書巻末に【資料編】として全文収録されている。結果的に明言こそしていないが、木田滋夫の視線は自然と他殺説側に向いている様子。下山事件が発生した直後に『読売』と『朝日』が他殺を主張していたことを盲信して、読売の記者である木田も最初から他殺説に凝り固まっていた訳ではなかろうが、どのみち本書の立ち位置を知っておくに越したことはない。



                  



新資料はもう一つある。
平成21年、前述の足立区立郷土博物館を訪れ、紙の束をホチキス止めしただけの『小菅物語』と題された自伝的な小説を置いていった来館者がいた。文芸員からその事を聞かされた木田は、『小菅物語』を書いた82歳の老人・荒井忠三郎を運良く見つけ出す。老人の住まいは下山総裁轢断現場の近所だった。その後、木田は十五年近くも荒井とやりとりを重ね、小説における創作と実話の部分とを切り分けるべく、各種証言を引き出すことに努める。荒井は令和5年7月死去。

 

 

或る意味では、このパートが本書のハイライトかもしれない。下山事件の頃、荒井が働いていた彼の長兄が経営する町工場〝荒井工業〟は総裁轢断現場から遠くない場所にあり、矢田喜美雄の『謀殺 下山事件』に登場する不審な外車が目撃された朝日石綿工場のちょうど裏手に位置するばかりでなく、荒井工業もまた亜細亜産業の系列であることが判明。木田が荒井から得た情報は100%裏付けが取れている訳ではないと断りつつも、綾瀬方面における謎のミッシング・ピースを埋める要素を内包していたのだ。

 

 

諸永裕司/柴田哲孝/森達也らの本の内容に対して私が思ったように、木田もまた荒井の証言について「話ができすぎている」と感じ、柴田哲孝のもとへ会いに行き、荒井証言から得た推理の鑑定を乞う。木田が導き出した〝線路轢断より前に総裁が殺害されていた現場を荒井工業の敷地内と見る説〟は柴田からすれば自著にて提示した〝勝浦殺害説〟とは相反するのだし、下山事件研究者としてのプライドもあるだろうから、木田の持ちかけた話を否定するどころか、一切耳を貸さぬ態度を取ることも予想されたに違いない。

ところが『讀賣新聞オンライン』~「下山事件の謎に迫る」最終回(☜)を見てほしいのだが、柴田は勝浦説の間違いを素直に受け入れている。これは一見出来そうで、なかなか出来る事ではない。私はちょっと柴田のことを見直した。本書にて明らかにされた新たな情報を踏まえ、今後アップデートされた柴田哲孝の下山本が再び世に出るかもしれない。



                  



柴田が木田の発見を尊重したことで、本書に対する好感度もグンと上がったけれど、拭い去れぬ疑問点は依然として残っている。昭和の時代は遠くなったにもかかわらず、下山事件について何か証言しようとする人々は、核心に迫るところを訊かれた途端、どうして皆一様に口を閉ざしてしまうのだろう?あの時分社会を取り巻いていた得体の知れぬ不気味さをリアルタイムで知っている彼らからすれば、いくら時が経とうと、刷り込まれた恐怖は抜けないのかもしれない。でもそれなら、第三者に読まれることを意識した思わせぶりな自伝小説をわざわざ書いたりする必要など無い訳で・・・怖い、でも言わずにはいられない・・・それが人の性(サガ)なのか?

 

 

これまで下山事件の関連書籍上にて飛び交ってきたまことしやかな数々に、どれだけ我々は翻弄されたか、思い返しただけでも苦笑してしまう。

柴田哲孝は木田にこう語っている。
〝荒井証言を初めて聞いた瞬間に、私は思いました。「ああ、俺ははめられたな」と。
今思うと、あの情報提供者は、本当の「現場」から私の目をそらせようとしたのでしょうね。
下山事件では決まって、核心に迫るジャーナリストが出てくると、かく乱する情報を何者かが吹き込んでくるんです。〟

これを素直に受け取っていいものか・・・・ハッタリを吹聴するのは下山事件を追っているジャーナリスト本人なのか、それとも彼らが証言を得ようとしてアプローチする取材対象者なのか。いったい誰の言うことを信じたらいいか、もうよく分からんというのが正直な感想である。私が〝下山ビジネス〟などと揶揄したり、下山本に対して「承服しかねるところが多い」と言いたくもなる理由は、見えないところで作り話を捏造する輩がウヨウヨしている気配がそこはかとなく伝わってくるからなんだよな~。






(銀) 本書は総論めいた内容でなく、240ページ弱のハンディな単行本だし、多くを望むのは無理だと分かってはいるのだが、せっかく著者が読売の人間ゆえ、社内にアーカイブされている下山事件関係の旧い写真が多数あるだろうから、それらを惜しみなく収録してほしかった。ネット連載時よりも写真の数が減っているのは大変残念。







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2024年10月12日土曜日

図録『小栗虫太郎展』

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小樽文學舎
2024年10月発売



★★★   虫太郎による報国の短歌?




2024107日から1019日まで、神保町の東京古書会館にて「『黒死館殺人事件』連載90年記念 小栗虫太郎展」が開催中。本日取り上げるのは、その企画展の販売物である図録『小栗虫太郎展』。遺族の方が近頃「小栗虫太郎公式サイト」というHPを立ち上げたり、SNSを始めたのは知っていたが、この図録でも小栗光(虫太郎三男夫人)そして川舩通子(虫太郎四女)の御二方が虫太郎展開催に対して感謝の言葉を述べている。

 

 

「完全犯罪」「白蟻」「黒死館殺人事件」の原稿/「海螺斎沿海州先占記」の創作メモ/日記/茂田井茂「退屈画帳」/小栗虫太郎装幀美術館などがカラー図版で載っている中、かごしま近代文学館が提供したクアラルンプールにおける虫太郎のスナップ二葉が目に留まる。昭和16年の秋から翌17年の暮まで報道班員としてマライに赴任していた時に撮影されたもので、元来虫太郎の写真は残存数が少なく、南方での様子が垣間見れるのは有難い。

 

 

虫太郎と一緒に写っている海音寺潮五郎は鹿児島の出身。かごしま近代文学館は潮五郎関連資料を相当数所蔵していると思われ、旧い潮五郎の写真をチェックしていて虫太郎の存在に気付き、それで今回の図録に掲載する機会が得られたってことか。皇軍の傲慢さに怒りを覚えた虫太郎は東京に戻って「海峡天地會」を書くのだが、同じマライ組の一員であった潮五郎もまた、日本はこの先どうなってしまうのか、強い不安を抱いていたようだ。

 

 

もう一つ「これは何だろう?」と思ったのが、戦前の歌誌『青空』昭和161月号に発見された小栗虫太郎名義の短歌「佳き秋に」だ。今回の東京古書会館に先行して、2022年12月に「小栗虫太郎展」を開催した小樽文学館の館長・亀井志乃も判断しかねているとおり、北海道の歌誌へ唐突に虫太郎が短歌を投稿するとはちょっと考えにくい。どこぞの誰かが〝小栗虫太郎〟の名を無断で使用した?参考までにその短歌、下の画像をクリック拡大して見て頂きたい。

  

             



『青空』昭和161月号は「短歌報国の春」という特集を組んでいるらしく、この「佳き秋に」も皇紀二千六百年を高らかにcelebrateする内容である。戦前の探偵作家と北海道を繋ぐパイプとなると、水谷準の存在が思い浮かぶ。準の人脈が関係しているのだろうか?虫太郎は裕仁天皇を敬愛していたというし、このような短歌を作る訳がないとは言い切れないけれども、それにしたってあまりに馬鹿正直すぎる報国短歌で、とても虫太郎本人の作とは思えないなあ。




小栗とみ(虫太郎夫人)や小栗宣治(虫太郎三男)による家族のエッセイ、江戸川乱歩・横溝正史・渡辺啓助・海野十三・中井英夫・澁澤龍彦・権田萬治らが執筆した回想・評論など、図録にしてはヴィジュアルよりも活字のほうが多い印象。お値段は2,000円なり。







(銀) この図録に載っている各人の文章のうち新規の書き下ろしは僅かしかないが、これまで雑誌や月報へ発表されたままだったものが纏めて読める利点もある。


ネットを使って情報発信するようになった小栗家の方々、探偵小説の業界はハイエナみたいな奴らが多く、「X」にて熱烈なファンなどと名乗り狡猾に擦り寄ってくるので、そんな連中の口車に乗せられないよう、くれぐれも用心して下さいませ。







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2024年10月10日木曜日

『オリエント急行の殺人』アガサ・クリスティ/蕗沢忠枝(訳)

NEW !

新潮文庫
1960年8月発売



★★★★  延原謙→松本恵子→長沼弘毅に次ぐ四人目の訳者




いくつかの訳書が存在している海外ミステリ作品に言及する場合、刊本として引用される実例が多いのはやはり東京創元社の創元推理文庫、次いで早川書房のハヤカワ文庫/ポケミスだろう。昔からこの二社はミステリに関して専門性が高く、一種の指標に定められようとも何ら問題は無いのだが、他の出版社だって少なからず訳書を刊行してるんだし、それらが無碍に扱われるのは忍びない気もする。

 

 

なので今後、当Blogにてクラシックな海外ミステリを取り上げる際、東京創元社・早川書房以外のあまり顧みられないマイナーな訳書でも折良く私が所有しているものがあれば、ちょくちょくそれを使って紹介していこうと思っている。本日は説明不要なアガサ・クリスティ超有名作品、度々映像化もされている あの長篇を取り上げたい。

 

 

昭和35年に刊行された新潮文庫版『オリエント急行の殺人』。翻訳者は蕗沢忠枝。原書は英国版『Murder on the Orient Express』ではなく、米国版『Murder in the Calais Coach』を使用しているとのこと。書影をお見せしている新潮文庫の初版はまだカバーが付いてない時代のものだが、しばらく経ってアルバート・フィニーが名探偵を演じた映画「オリエント急行殺人事件」の公開に伴い、映画のワンシーンを用いたカバーが掛けられ、改版が昭和50年に出ている。タイアップ・カバーは角川文庫だけのお家芸ではなく、意外と新潮文庫もそういう商売をやっているのである。

 

 

〝赤誠〟や〝錠がかる〟など、現代人が使わなくなった言葉も時折混じっているが、万人向けのやさしい訳文なので、読みにくいということはまずあるまい。蕗沢訳は名探偵の名前をエルキュール・ポワロ(ポアロではない)と発音させ、彼の一人称を〝ぼく〟と云わせている。それが気になる人もいるかもしれないけど、私はno problem。

 

 

では本書・新潮文庫版の目次、出だしから五章分の章題を御覧頂こうか。


第一部     犯行

1【著名な乗客】

2トカトリアン・ホテル

3ポワロ断わる

4深夜の悲鳴

5犯罪


本書と同じく昭和30年代に刊行された文庫には、長沼弘毅(訳)の『オリエント急行の殺人』(創元推理文庫)と古賀照一(訳)の『オリエント急行殺人事件』(角川文庫)があり、それらの目次内容を国立国会図書館サーチで見てみたら、第一部/第二部/第三部構成といい、各章の表記といい、蕗沢忠枝(訳)とほぼ同じだった。

また昭和31年には、大日本雄弁会講談社よりクリスチー探偵小説集/ポアロ探偵シリーズの一冊として松本恵子(訳)『オリエント・エキスプレス』も出ているが、これは文庫ではない。松本恵子は戦前からクリスティの翻訳を手掛けているとはいえ、戦後になり新しく本が出るにつけ、クリスティ作品の訳文をその都度アップデートさせているかどうかまで私は把握できていない。


                
     


日本で最初に本作の訳書を世に送り出したのは延原謙。昭和10年に出た柳香書院版の函入単行本『十二の刺傷』がそれだ。小序によれば延原は英国版原書『Murder on the Orient Express』を使用しているように受け取れる。

英国版『Murder on the Orient Express』と米国版『Murder in the Calais Coach』にはなんらかのテキスト異同があるんだろうか?ま、それはここでは詮索せず、『十二の刺傷』の出だし五章分における章題も見てみると、どうも原文を直訳せず、訳者の感覚で付けているようなものがある。


気になる男女

野獸性の老紳士

ポワロ斷る

深夜のうめき

變事起る


『十二の刺傷』は第一部/第二部/第三部構成になっていない。各章題だけを追うと、端折っているところは無さそうに思えるが、新潮文庫版で言う第二部 証言 15乗客の荷物検査の章、エルキュール・ポワロがグレタ・オルソン嬢の荷物を調べる間、彼女をハッバード夫人の傍へ行かせるシーンで、まだ新潮文庫版ではその章が終わっていないのに『十二の刺傷』では新たにそこから赤いキモノという章題が立てられ、Mr. Pが「ふむ、こんなところに!挑戰だな。よろしい、大いに應じてやらう。」と呟いて、ようやくその章(要するに新潮文庫版の第二部)は終る。

 

 

さすがに蕗沢忠枝の訳は昭和35年の仕事だし、省略されている箇所はあるまい。それに対して、最も旧い延原謙(訳)の『十二の刺傷』は、どこかのブロックまるごとすっ飛ばすような事こそしていないものの、既に記したとおり章題を原文とは変えていたり、【赤いキモノ】という章を別途拵えたり、あるいは部分部分で細かなところを刈り取っているように見受けられた。ちなみに延原謙の訳は昭和29年『オリエント急行の殺人』へと解題の上、ポケミスに編入されている。コレ私は持っていないが、ネットで目次内容を見ると『十二の刺傷』と全く同じなので、訳文もそのまま流用しているのかな?






(銀) 本日の記事は近年の訳書をオールスルーしているばかりか、昭和53年の中村能三(訳)ハヤカワ・ミステリ文庫版でさえ触れてないのだから、旧訳を好まぬ方には何の役にも立たないだろう。申し訳ない。



各種日本語訳はともかく、「オリエント急行」という作品自体についての私的感想だが、最初に読んだ時はナチュラルに面白かった。でも私が年を取ったせいか今再読してみても、犯人の隠し方以外に改めて感心できる要素を見つけ出せるかどうか、心許ない。あまりにこの作品が大衆に消費され過ぎていることも影響しているのかしらん。