前にupした『悪男悪女』(桃源社/推理小説名作文庫)がそうだったように、この短篇集にも「狂焔の魔女」というタイトルの作品は入っていない。〝狂焔〟の形容詞にふさわしい短篇は見当たらないが、なにゆえ『狂焔の魔女』なんて書名を付けたのだろう?本書は一年前に藤田書店から出された『壁の中の女』の紙型を流用しつつ二篇を追加収録しているとのこと。前半には戦前、後半は終戦後に発表した作品を収めている。
♯「壁の中の女」 『冨士』昭和15年1月号掲載
「出た、ポオ譲りの塗り込め芸!」と煽りたいところなれど、あまりゴシック路線を期待すると梯子を外される。詳しくは書かないでおくが、両親と死別し妹と二人で洋裁店をやっている主人公・戸田綾子が他人から頼まれた事にイヤとは言えず情にほだされやすい、言うなればゴシックテイストにはそぐわぬ性格に設定されている点を押さえておきたい。それにしても塗り込め犯の結末に目を向ければ、「初期の渡辺啓助作品には倫理観が欠落している」と指摘した権田萬治の言葉に一理あるとはいえ、昭和15年の国内状況でよくお上から「伏字にしろ」とかやいのやいの注意されなかったもんだ。
♯「消えた啞娘」 『新青年』昭和15年9月号掲載
女中・お小夜が付き添う鴻巣晃子は社長令嬢であり外見も人並み以上なのだが〝啞〟のハンデを背負っている。その晃子が行方不明になり、あたふたしているお小夜の前に靴磨きの靴墨太郎が現れ、助力を買って出る。詩集を用いた暗号や探偵役を登場させてはいるが、『新青年』へ発表した短篇にしてはいまひとつ。この頃になると以前とは打って変わって明るい作風への変化が顕著。
♯「面影の秘密」 『名作』昭和15年6月号掲載
苗字のアタマに〝小〟の字が付く家ばかりを狙って押し入る不思議なコソ泥。昭和の前半ぐらいまでは幼い子供がよく誘拐されていたもんです。
♯「鼠座の踊子」 『新女苑』昭和14年2月号掲載
素性の知れぬ舞踏団アンナ・ペトロヴエナ一座が公演しているR劇場は明治以来の名建築と謳われながら今では老朽化して「化物劇場」「ネズミ座」と呼ばれている。その千秋楽当日、朝刊に〝舞姫アンナ・ペトロヴエナは本日午後九時十分から十七分の間に変死を遂げるものとして宿命づけられているのだ〟と語る心霊学者ウイリヤム・ウイルスン博士の寄稿が掲載された。
突拍子もない殺人方法。この手の殺しは甲賀三郎に書かせたらもっとエンターテイメントっぽくなると思うのだが、残念ながら渡辺啓助には向いていない。
♯「冷い薔薇」 『オール読物』昭和14年8月号
本文より引用。
みたところではまだ子供つぽく、それに、いつたいが着瘦せのする方で、水兵服の肩さきなど、すんなりとなだらかすぎて、ちよつと病身じみた印象さへ與へるけれど、一皮剥いて、プールの人魚になつた水着姿の由美をみると、十九の處女として眩しい美しい緊まつた肉體を持つてゐることがわかるのだ。
(中略)
ジヤツクナイフ
スワロー
ハーフトウイスト
(中略)
たらたらと滴を散らしながら、鐵梯子をのぼつていつて飛込臺の上に立つ。水光りする由美の軀はゾーツとするくらい美しかつた。その軀が矢庭に空間に抛り出される。見事な姿態(フォーム)が、夕明りのする大空に黒々とラインを引いて落ちて行く。
探偵小説として特別語るべき長所も無いストーリーなのだけど、夕刻になればたったひとり女学校のプールの飛込台に立ち見事なスプラッシュを決める美少女・銀舘由美の魅力に不思議と引き込まれてしまう。
♯「小さな娼婦」 初出誌不明
二十六歳の大学生で女性経験がまだ無い旗野旗吉は悪友たちに連れられていった色街で木間スミレという娼婦を見染めてしまい、自分にとってなけなしの持ち物であるヘンドンの時計を質に入れ、スミレをものにしようとする。オリジナルは「六本指の海賊」(『新女苑』昭和13年7月号掲載)だそうだが、「小さな娼婦」名義で初めて単行本に入ったのは冒頭で述べた昭和22年刊の『壁の中の女』なので、戦争が終わったあと「六本指の海賊」に手を加えたのではないかと推測される。
ここから下は明らかに戦後の作品と確定しているもの。
♯「盲目人魚」 『宝石』昭和21年10~11月号掲載
本作については既に『悪男悪女』の記事にて触れているので(下段の関連記事リンクを参照)、ここでは省略。
些細な事だが、同じ「盲目人魚」でも昭和23年刊行の本書『狂焔の魔女』と昭和33年刊行の『悪男悪女』では旧仮名遣いから現代仮名遣いへの変更以外に、テキスト上の表現で微々たる違いが見られる。
1 谷底館第一夜
『狂焔の魔女』収録「盲目人魚」 151ページ8行目
メモによると、私は、六月某日の夕刻
『悪男悪女』収録「盲目人魚」 218ページ13行目
メモによると、私は、六月✕日の夕刻
6 もう一匹の妖魚
『狂焔の魔女』収録「盲目人魚」 206ページ7行目
本所向島三丁目といふのは
『悪男悪女』収録「盲目人魚」 278ページ11行目
本所向島✕丁目というのは
♯「魔女物語」 『新讀物』昭和21年10月号掲載
若き日の苦い初恋の想い出を甥の青年に語ってきかせる老い先短い朝倉信吉。老人はその想い出に関係するらしい女持ちの風呂敷包みを青年に渡すが、中身を見るのは絶対自分が死んだあとにしてほしいと念押しする。渡辺啓助自身の思い入れもあって、本書の中では一番の代表作になるかもしれないが、これなんかも秘密めいた湖のヒロイン・久慈怜子の存在感がすべてであって、彼女の造形を失敗していたら箸にも棒にも掛からぬ凡作になっていた可能性も無くはない。
(銀) 渡辺啓助の作品は時に〝絵画的〟とも表現され、〈トリック〉だったり〈ストーリーのひねり〉が評価の決め手にならない場合だってある。だから本書を読んでいても作品の出来どうこうより、銀舘由美(「冷い薔薇」)久慈怜子(「魔女物語」)あるいは「盲目人魚」序盤の聖河順子夫人らが醸し出す謎を秘めた美女偶像のインパクトのほうが私には伝わってくる。
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