2021年8月31日火曜日

『死の黙劇』山沢晴雄

NEW !

創元推理文庫 山沢晴雄セレクション 戸田和光(編)
2021年7月発売



★★★★   そこまで極端に無機質なパズラー小説ではない





巻末解説には〝大前提となるのは、書きたいのは本格推理であり、小説ではない〟と説明されているため、この作家がどんな芸風か知らずに書店で本書を手に取り、解説部分をチラ見して、「え~、そんなんだったら読んでも手に負えないんじゃ・・・」と敬遠する人もいるだろう。

編者の戸田和光は作者の良い点も悪い点も包み隠さず正直に紹介している。山沢晴雄のような超マイナーで、クセの強過ぎる作家を文庫で出す場合には、解説ページでいたずらに持ち上げたり書誌データばかり並べ立てるより、そのほうがずっと好ましい。



本格を追求するあまり、難解で読みにくい。そんなイメージを持たれている山沢、初の文庫。
ここに収められた作品を読む限り、これはあくまで私個人の感想だけど、
天城一よりは小説の形になっていて楽しめた。
読んでいて一寸わかりにくいところがあっても、
その直前部分からゆっくり何度か読み返せば、
眠くなったり放り出したくなる程の難しさでは全然ないから安心して頂きたい。



本格の驍将・鮎川哲也なんかだと、
彼自身女性に縁遠そう、といったら言い過ぎかもしれないが、
読んでいて女性の扱いがいかにもニガテなのが透けてみえるし、作品に色気が欠けている。
でも不思議と、この本の登場人物たちから、そこまでのフラストレーションは受けなかった。
シチュエーションが非常に現実的だから、プロットにロマンや潤いを求めるのは無理だけどね。

 

 

次の五作は、もともと1950年代前半に発表されたもの。 



「砧最初の事件」86年アンソロジー『無人踏切』収録時の改稿ヴァージョン)

「死の黙劇」92年アンソロジー『パズルの王国』収録時の改稿ヴァージョン)

「銀知恵の輪」00年同人誌『別冊シャレードVol.56』収録時の改稿ヴァージョン)


 

「ふしぎな死体」01年同人誌『別冊シャレードVol.62』収録時の改稿ヴァージョン)

「ロッカーの中の美人」(スポーツ新聞に掲載した問題編/解決篇の犯人当て小説)


 

本格クレイジーな一部の人達は気にも留めない要素だろうが、
私は探偵小説を読む際、その作品の時代背景も重要視していて、
日本の探偵小説だったら、高度成長期以後の社会には何の興味も無い。
そんなんだから、ついつい初出ヴァージョンのほうを求めてしまいがちだけれども、
改稿ヴァージョンでは時代の変化に対応すべく表記を変えているのかどうか分らないが、
読み手が謎のロジックを理解しやすいよう手直ししているのは間違いない。



この文庫の中で、どの作品だったか、つい失念してしまったが、
文中に衛星放送/携帯電話という(私にとって好ましからぬ)単語が使われていた以外は、幸いにして時代色の違いは感じさせないので、私を含む多くの読者にとって、改稿ヴァージョンから入っていくのは正解なのだろう。
ここから下は90年代以降に書かれた作品。


 

「金知恵の輪」   (アンソロジー『本格推理 』が底本)

「見えない時間」(アンソロジー『本格推理 14 』が底本)

「密室の夜」      (アンソロジー『密室探求 第二集』が底本)

「京都発〝あさしお7号〟」

(アンソロジー『鮎川哲也と13の殺人列車』収録時の短縮ヴァージョン)




(銀) やっぱり私立探偵・砧順之介が出て来る作品が良かった。
それと相棒の須潟賛四郎警部がアホな脇役じゃなくて、考える頭脳を持たされているのもGood。意外と面白かったし、以前なら迷わず満点にしていただろうが、あとになってガッカリさせられる事が最近この業界何かと多いので、慎重に★4つ。             



前にも書いたけれど、昭和前期の日本探偵小説を復刊させるべく新刊本が次々出たとしても、
同じ編者/同じ出版社ばかりが独占していたら、全然競争が起こらなくなり、
今みたいに〝ぬるま湯〟というか、素人レベルの本作りが横行してしまう。



戸田和光はミステリ書誌マニアな人で、これまでも自主出版で島久平の単行本未収録作品を多数刊行してきた実績を持つ。今回創元推理文庫の編者として起用されるとは意外だったが、本人にやる気があるのなら、商業出版でもマニアックな日本探偵小説新刊本の編纂を今後どんどんやってもらいたい。今日の「女妖」はお休み。




2021年8月29日日曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

NEW !

九州日報
1930年5月26日~6月2日掲載



⑪ 「打續く惨劇」(1)~(7)




【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。

 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「打續く惨劇」1)~(7

 

木澤由良子が春日邸に預けられた翌朝、今度は春日龍三が寝室のベッドの上で心臓を抉られて死んでいた。邸内の者に事情聴取が行われ蛭田紫影検事が血の付いた片方の皮手袋を示し、これに見覚えがないか執事に訊ねたところ、「それは成瀬珊瑚子爵のものだ」という証言を得る。さらに蛭田は「前日に春日邸を訪れた千家篤麿という人物が成瀬子爵の変装姿ではなかったか」と重ねて執事に質問を投げかける。

 

 

続いて由良子の聞き取り。彼女は、
「春巣街の死美人を陳列所で見て自分の母だと認識したけれど、両親の名前を知らずに生きてきたため、警察が明らかにできずにいる死美人の身元を届け出る事が出来ぬまま今日に至り、昨夜は龍三氏の部屋の窓から誰かが飛び下りるのを偶然見てしまった」と語る。そこへ刑事の一人が「SNの頭文字が入った金色のカフスボタンを邸の庭で見つけた」と報告。SN・・・又してもそれは成瀬珊瑚のイニシャル。

 

                        

 

以下は打續く惨劇」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A   扉をノックするとすぐに            (春)  306頁9行目

   扉を叩(ノック、とルビあり)すると直(すぐ)に(九)

  

 

B     おい、みんな来てくれ        (春)  308頁2行目

        オイ、皆(みな、とルビあり)来てくれ(九)

 

 

C   床に上に落ちた。(春)  309頁1行目

   床の上におちた。(九)

   

 

D   赤黒い血の塊が  (春)  309頁4行目

   赤黒い血の固まりが(九)

 

 

E   関連があるとすれば(春)  310頁6行目

   関聯があるとすれば(九)

 

                      

 

 

F       あまりにもめまぐるしい(春)  310頁8行目

     あまり目ま苦しい   (九)


 

 

G   警察の人びとばかり。みな一様にじっと(春)  312頁13行目

       警察の人々ばかり皆一様に、凝つと  (九)

     

 

H   ひどくびっくりなされたご模様で          (春)  314頁16行目

     ひどく吃驚(びっくり、とルビあり)なされた御模様で(九)

 

 

I    木沢由良子でございます。(春)   317頁10行目

         澤木由良子でございます。(九)

 

 

J    暗い顔をしてそっぽを向いた(春)  3182行目

       暗い顔をして外方を向いた (九)


                        

   

 

K    ええ、それは存じておりました(春)  3199行目

    ゑゑ、それは存知て居りました(九)

   

 

L   判事は訝しげに眉をひそめた           (春)  31914行目

   判事は審(いぶか、とルビあり)しげに眉をひそめた(九)



M  あなたはいままでどこにいられたのですか(春)  3212行目

        あなたは今迄何處にゐられたのですか  (九)

        底本どおり〝いられて〟としていて大変結構なのだが

        こういう箇所こそ〝おられたのですか〟へ書き換えるべきではなかったか。

 

 

N   由良子はようやく涙を干しながら (春)  3226行目

       由良子は漸く涙を干(ほし)ながら(九)

  

 

O     春日さまのご寝室の窓と思しい所から     (春)  3233行目

         春日様の御寝室の窓と覺(おぼ)しいところから(九)


                        


本章(5)によれば、春巣街の殺人事件が起きてから二か月が過ぎているらしい。
その二か月という作中の時間には矛盾が無いのか確かめたいところなんだが、今週はBlogに時間を割いていられるだけの余裕が無かった。



春巣街の死美人は舞台の場に戻りたいから春日家を出たというけれど、物心もつかぬうちに娘の由良子を手放してしまうぐらいなら、どうして春日家に由良子を置いてこなかったのか不思議だ。その方が自分も好き放題できるし、由良子も片親とはいえ孤児にならずにすんだのに。そんな不幸な木澤由良子だが、お暇な方は以前の章③⑥あたりの描写をもう一度読んでみると、微妙な彼女の変化に気付いて面白いと思う。



もし本作が本格長篇だったら「ここでレッドヘリング噛ましてるな」と突っ込める章なのだが、全然本格でもないし、作者の書き方にしても一般読者を意識してわかりやすくしすぎてるから、あまりレッドヘリングの意味は成してないかも。多少なりともミステリ風味を持たせた日本の連続ドラマでも、最終回の直前には真犯人ではない登場人物に視聴者の目を向けさせて大詰めで騙す、みたいなことをよくやっている。詳しくは書かないけど本作の場合、もっとしっかり大団円まで謎は丁寧に隠しておかなくちゃ




(銀) この章を『北海タイムス』に連載している時期の横溝正史の創作状況を見ると、
7月に短篇「喘ぎ泣く死美人」、8~11月には中篇「ルパン大盗伝」といった作品を博文館の『講談雑誌』に書いてはいるが、作家としてはいわば仮免状態の最終段階だろうか。




本章は春日龍三まで死なせてしまったわりに低調気味というか、いまだクライマックスへなだれ込む気配も見せず、総じて〝繋ぎの章〟みたいな感じがするし、(1)~(7)、つまり七回しかない上、テキスト比較の部分でも奇天烈な異同が無かった。それから本日upした挿絵は、由良子が前夜目撃した龍三氏の部屋の窓から出てくる曲者の図だ。         



⑫へつづく。  


 


2021年8月24日火曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

NEW !

九州日報
1930年5月14日~5月23日掲載



⑩ 「過去の影」(1)~(9)




【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。

 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「過去の影」(1)~(9

 

娘・花子の失踪に悩み、ひとり閉じ籠っている春日龍三の邸に千家篤麿が訪ねてきた。河内荘の村役場で謄本の一部を破り取ったのは、やはり彼の仕業。篤麿は花子の身の安全を約束する代わりに五十萬フランを要求。更に二の矢として、龍三氏が所有していたのにいつの間にか春巣街死美人殺しの兇器として使われていた例のナイフまでチラつかせてみせる。なぜ篤麿があのナイフを持っているのか?春巣街の死美人が龍三氏の先妻である事までも篤麿は知っていた。 



篤麿は龍三氏に捨て台詞を残し春日邸を去りかけた時、入れ違いで到着した馬車の中から綾小路浪子と木澤由良子が降りてくるところを目撃する。浪子は龍三氏の先妻の娘として改めて由良子を紹介。親の情愛を知らずに育った由良子は父からの温かい言葉を待っていたが、龍三氏は花子の立場を慮って曖昧な態度を取ってしまう。

 

 

昔、龍三氏は二十七歳の時に美しい篠崎龍子と熱に浮かされたような最初の結婚をした。ところが赤ん坊が生まれると夫婦の間に亀裂が入り始める。元々舞台が仕事の場だった龍子は家庭的で地味な暮らしが性に合わず、赤ん坊を連れて家を出て行った。氏は手を尽くして妻と娘の行方を捜したがどうにもできず、それから二年後・・・豪州より龍子が自動車事故で即死したとの知らせが届く。まだ若かった龍三氏は勤め先である貿易商の主人に見込まれており、龍子の死亡通知をきっかけに、主人の娘つまり花子の母と二度目の結婚をしたのだった。 

 

                       

 

以下は過去の影」の章にて、春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A   悠々として迫らない態度で  (春)  2831行目

   いういうとして迫らない態度で(九)

 

 

B   自分の勝手で身を隠している者の安全を(春)  28312行目

   自分の勝手で身をかくしてゐるものを (九)

 

 

C   ひと振りの短刀である。

   しかもあの春巣街の事件の折、  (春)  28410行目


   一口(口=ふり、とルビあり)の短刀である。

   しかも、あの春巣街の事件の折柄、(九)

   

 

D   しかし、しかし ―― おれは何も知らん (春)  2861行目

         然し、然し ―― 俺(おれ)は何も知らん(九)

       春陽文庫は龍三氏の〝俺〟を〝わし〟と読ませたいのなら、

   全て統一してもらわないと。

 

 

E   テーブルの水瓶を引き寄せぐっと飲み干した (春)  2871行目


   卓子(テーブル)の水瓶を引き寄せ、

   コップに一杯それに注ぐと、ぐつと飲み干した(九)


 

                     

 


F   こんな生易しいことで(春)  288 1行目

   こんな生優しいことで(九)

 

 

G   コツコツと舗道を鳴らして(春)  28817行目

         かつかつと舗道を鳴らせて(九)

         擬音語まで勝手に変えてしまう春陽文庫・・・。  

 


H   息を呑み込むと、

     慌てて傍らの街路樹の陰に身を隠し       (春)  2894行目


     息を飲み込むと、

       周章(あわ)てゝ傍らの街路樹のかげに身を隠すと(九)

 

 

I    またしても彼の仕事の邪魔をしようとする(春)   2904行目

         又しても彼の仕事の邪魔を仕様とする  (九)

       明らかに『九州日報』の間違い。

 

 

J    彼女らは表の階段を上り切ると(春)  2911行目

       彼等は表の階段を上りきると (九)

     これは浪子と由良子の事だから〝彼等〟ではおかしい。

       前章から引き続き『九州日報』の担当者はやる事なす事ボロボロで、

       このあと(4)の最終行でも同じ間違いをしでかしている。 


 

                     



K    浪子はなんでもないように     (春)  2938行目

      浪子は何(な)んでもない事のやうに(九)

   

 

L    そのある点までは知っているけれど     (春)  2939行目

    その或點(あるてん)までは知つてゐるけれど(九)

 

 

M   よろよろと二、三歩後ろへよろめいた        (春)  29511行目

         よろよろと二三歩後(あと、とルビあり)へよろめいた(九)

 

 

N   お母さまだと信じ切っていたんです。が、(春)  2978行目

       お母様だと信じきつてゐたんですが、  (九)

  

 

O     この無謀な恋愛を後悔したかしれない (春)  2992行目

         この無暴な戀愛を後悔したかも知れない(九)

 

 

                        

 


P   妻の不心得もさることながら(春)  30013行目

   妻の不心得はさる事ながら (九)    

   

 

Q   生まれて初めて(春)  3038行目

         産まれて初めて(九)

 

 

R     彼女はいろんな興奮のために         (春)  3039行目

       彼女は種(いろ、とルビあり)んな昂奮のために(九)

 

 

S   しかしそのくせ               (春)  30315行目

       一種甘いやうな懐かしいやうな、然し、そのくせ(九)

 

 

T   この名を呼んでいたのだった。(春)  3041行目

   この名を呼んでみた。    (九)  


                       


謎の解明に少しだけ進展があった。
春日龍三と対面した二名だが、千家篤麿に関しては当時新聞で毎日本作を読みながら、何かに感付いた読者もいたかも。彼への言及はもうしばらくの間お預かりということにしておいて、木澤由良子である。



春日花子と腹違いの姉妹にあたる由良子の素性はかなり明らかになってきた。
でも前章で河内荘の幽閉から助け出されたというのに、彼女を拉致したのは誰だったのか、明かされないのは不自然。何はなくとも綾小路浪子が問い質すべきなんだけど。舞踏会の場で白根辯造と春日龍三の会話を篤麿も由良子も聞いていた事になっているが、あの脅迫話は花子以外にもそんなに盗み聴きされるほど、あけすけに交わされていたっけ?



そして本作のローラ・パーマー的(?)存在である春巣街の死美人。
この人、作者が名前をコロコロ変えたがるものだから整理してみると、
こういう扱いをされてきた。


満璃子(安藤婆さんによる出まかせだった)

         ↓

白根星子(庄司三平によって通報された名前だが、まだ不明なところ多し)

         ↓

お鈴(前回の記事に書いたとおり、お利枝婆さんの言に偽りが無ければ本名の可能性大)

         ↓

篠崎龍子(本章に至って初めて龍三氏の口から語られた名前)


満璃子以外の一体どれが死美人の本当の名前なのか、いまだ決め手に欠ける。







(銀) 本作について触れている文献というのがなかなか無くて、とりあえず松村喜雄の『乱歩おじさん』第八章「代作問題について」を読み返してみた。松村は1992年の正月に帰らぬ人となり、その年の秋『乱歩おじさん』が刊行。氏は本作初の単行本である春陽文庫『覆面の佳人』を手に取る事はできなかった。



生前の松村は山前譲から新聞連載の複写を渡されて本作を読んだのだが、山前が提供したのは後発の『九州日報』だったから、松村はそれを初出だと誤認していた節がある。山前は北海道出身なので私はてっきり本作を地元の新聞『北海タイムス』で知ったものだとばかり思っていたら、そうじゃないみたいで。


                        


ちょうど好都合だし、これは是非書いておかねばならない。
江戸川乱歩推理文庫第65巻『乱歩年譜著作目録集成』の「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」、その昭和5年度における【小説】の欄に、

〇女妖(横溝正史と合作)(九州日報、二月一日より八月十四日)

という記述がある。「ナーンダ、乱歩自身ちゃんと認めてるじゃん!」と仰る方がいそうだが、実はこの部分、乱歩本人の記述ではない。「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」は元々『探偵小説四十年』の巻末に載っていたもので、乱歩生前にリリースされた元本、あるいは沖積社復刻版で昭和5年度の【小説】欄を見ると、本作の記述は存在していない。どういう事かといえば、江戸川乱歩推理文庫を出すにあたって、中島河太郎がせっせと頑張った追補のうちのひとつが上記の本作に関する箇所だったのだ。



プライベートな『貼雑年譜』(東京創元社版)でも本作の事は触れられていない。ひとつだけ目を引いたのは、乱歩のインタビュー記事の切り抜きの中に(どの新聞かは失念したようだが)「外國の探偵小説の翻案がしてみたい」という発言があって、昭和4年7月18日と日付が書き込んである。その意味するところは「実際本作に関わってもいなければ、こんな作品が新聞に掲載されている事実さえ知らされていなかった、だから乱歩はこんな言葉をもらしたのでは?」という風にも受け取れるのである。7月といったら「覆面の佳人」の『北海タイムス』連載は既に始まっていたのだから。

                        


れはともかく松村の本作への言及だ。中島河太郎は「稚拙」だと切り捨てていたが、松村は「捨て去るには惜しい作品」とフォローしつつ、こういう事を述べている。

「そうした乱歩に目を付けた『九州日報』から執筆依頼があったと推測される。せっかくの依頼だから、引き受けはしたものの、時間的に乱歩は書く余裕がなく、当時『新青年』の編集長でもあり作家でもあった横溝氏に相談したのではないだろうか。ただし、『九州日報』としては乱歩の名前が欲しいので、横溝氏との合作という体裁をとったのだと思われる。また、実際に執筆したのは横溝氏だとしても、横溝氏と乱歩は親しく行き来していたので、大体の構成やエピソードなども相談しあったとみるのが自然だろう。」



今、この松村発言を素直に受け入れるのは難しい。
乱歩の名を借りて代作がなされる時は、乱歩本人から代作者へ依頼があるか、又は代作者が乱歩に断りを入れるだろうし、友人・横溝正史に書いてもらった他の乱歩名義代作についてはどれも明確にしていながら、本作に限って見ざる聞かざる言わざるというのは、どうにも説明がつけられぬ。正史がもし、乱歩に内緒で勝手に名前を借りて新聞連載していたと仮定しても、北海道と福岡のファンから乱歩へ何がしかの報告なり感想の手紙が送られてくる筈でしょ。本作について乱歩が何も知らなかった、そんな事ってまずありえない気がする。




⑪へつづく。




2021年8月22日日曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

NEW !

九州日報
1930年4月28日~5月13日掲載


⑨ 「古塔の老婆」(1)~(14)



【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。

 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「古塔の老婆」(1)~(14

 

河内兵部の子孫の一人である綾小路浪子は春巣街事件の手掛かりを求めて、巴里のずっと南にあるシャトワール村へ向かう。彼女の乗る列車には千家篤麿の姿もあった。シャトワール村には河内兵部が昔住んでいた河内荘と呼ばれる中世期風の古城が立っている。浪子は河内荘の門内にある村役場で、自分の他にはどんな子孫がいるのかを知るため謄本閲覧を申し出ると、その日同じ目的で訪ねてきた者が浪子の前に二人もいるというではないか。しかも浪子が見たかった謄本のページは破り取られていた。

 

 

受付の老役人の話では、現在この古城の塔には河内兵部の血を引くお利枝という婆さん、そして孫娘の小夏が住んでいるという。しかし一足遅く、既にお利枝婆さんと小夏に賊の魔の手が伸びていた。「二十年ぶりに男に化けて戻ってきた自分の娘に書類を奪われた」と言い残してお利枝婆さんは息を引き取る。しかし浪子は老役人から、
お利枝婆さんの娘・お鈴は十七の時に家出をして、
 巴里の安藤婆さんの処で生活していた事〟
〝安藤婆さんは実はお利枝婆さんの妹だがお鈴を悪い道へ唆し、
 その後お鈴は豪州へ逃げた事〟
そのふたつを教わった。

 

 

幸いにも救われた幼い小夏を巴里に引き取ろうと浪子は考えていたが、ほんの少し目を離した隙に小夏は若い紳士に連れ去られる。その紳士が河内荘のほうへ歩いていったという情報を得て、浪子は宿の給仕達数名の男と共に河内荘の塔へ急ぐ。塔上の真っ暗な部屋には、何者かに拉致されていたあの木澤由良子が監禁されており、浪子と再会できたにもかかわらず、由良子は幽霊のように無表情。部屋の穴倉には小夏も囚われていた。 

 

                      

 

以下は古塔の老婆」の章にて、春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A   外国貴族らしい紳士。それについで青年貴公子。     (春)  24215行目

   外國の貴族らしい紳士。それについで、中年の青年貴公子。(九)

   〝中年の青年〟って何?

 

 

B   シャトワール村に着きさえすれば(春)  2441行目

   シャトワールの村さへ着けば  (九)

 

 

C    四、五町でございましょうか(春)  24610行目

      四五丁でございませうか  (九)

   

 

D   そうやで(春)  24815行目

       さやうで(九)

    〝そうやで〟じゃなくて〝さようで〟では?

 

 

E   これは一時も猶予ならぬと思った(春)  25012行目

   これは一刻も猶豫ならぬと思つた(九)


 

                     

 

 

F   と五十格好の、       (春)  2516行目

   と、奥の方から、五十格好の、(九)

 

 

G   最近千切ったものに違いない (春)  2536行目

       最近に千切つたものに違ひない(九)

     

 

H   老人は暢気そうに奥から出てきた (春)  2543行目

     老役人は暢氣さうに奥から出て来た(九)

       このあと春陽文庫も『九州日報』も〝役〟の字を抜かしている箇所がある。

 

 

I      赤っぽい階段を上っていった(春)   25417行目

         垢つぽい階段を登つて行つた(九)

       現代人には通じにくいけれど、これは〝赤〟と変換すべきではないと思う。

       昔の人は〝垢っぽい〟という言葉を使っていたのかもしれないし。

 

 

J    彼は足を忍ばせながら             (春)  2576行目

         彼は足跫(あしおと、とルビあり)を忍ばせながら(九)


 

                      

  

 

K   彼女は人でなしじゃ           (春)  25813行目

       彼女(あいつ、とルビあり)は人でなしぢや(九)

       お利枝婆さんとお鈴は親子なのだから、

       ここは底本のとおりに〝あいつ〟というルビを入れないとおかしい。

 

 

L   浪子はそれを見ると急いで駆け寄った。無惨にも咽喉を絞められたとみえて、

  頸(くび)の周囲には青黒い痣がついて(春)  2596行目

   

  頸(くび)の周圍には靑黑い痣がついて(九)

 

   〝浪子は ~ 絞められたとみえて〟のくだりが何故『九州日報』には無いのだろう?

 

 

M      なんという恐ろしい殺人鬼だろう(春)  25910行目

   何といふ恐ろしい人鬼だらう  (九)

 

 

N   きょろきょろと辺りを見回していたが(春)  2605行目

     きよときよとと邊を見廻してゐたが (九)

  

 

O   しかし、相手もさる者、そうやすやす  (春)  2638行目

         然(しか)も、相手もさる者、さう易々と(九)


  

                     

 


P    春陽文庫の2642行目から2653行目にあたる数行、

  〝その翌日、浪子は小夏を伴ってパリへ帰ることになっていた〟から

   〝たったいままでそこいらにいたのに・・・」〟までの部分が、

   『九州日報』では、この回の最終行〝じっと前方に目を据えていた。〟の後へ

    ゴッソリ移動している。『九州日報』の人間が内容をよく読まずに

    原稿の順番を取り違えてしまったに相違ない。信じられんミスだ。    

   

 

Q     みないちように(春)  26814行目

    皆一様に   (九)

   春陽文庫は無闇に漢字を開くから、こんな風に余計解りづらくなる。

 

 

R   中の様子を覗(のぞ)いた (春)  26915行目

   中の様子を覗(うかが)つた(九)

 

 

S   さながら魂が脱け出したようである(春)  2716行目

   さながら抜け出したやうである  (九)

         初出の『北海タイムス』にはちゃんと〝魂が〟は入っていたのだろうか?

 

 

T   人であろうがなんであろうが襲ってくる(春)  27612行目

   人であらうが何であらうが襲ふて来る (九)   

 

                       

 

 

U   花子嬢について喜ばしき報をもたらせり         (春)  2802行目

       花子嬢について喜ばしき報を齎(もたら、とルビあり)せり(九)  

   

 

V   困惑の色が表れる      (春)  28017行目

       困惑の色が窺(うかが)はれる(九)


                      


⑥「奇怪の曲者」の章にて綾小路浪子は足の生爪を剥がしてしまったから、暫くの間は歩くのもしんどい筈なのに、本章では作者がその負傷を忘れてしまったかの如く、遠く離れた村まで行って、彼女は精力的に動き回っている。あの舞踏会の夜からどれほどの日数が経ったのか知りたいものだ。それにしても浪子は春巣街の殺人事件が河内兵部の遺産と関連している事をどうやって知りえたのだろう。



今迄もちょいちょい物語の中でその名が挙がっていた河内兵部だが、
ここに来て、その存在が一気にストーリーの前面へと浮上してきた。
前々回から、記事の冒頭にて【ネタバレ注意】の警告を出していることだし、ここまでの内容を通して見えてきた人間関係を少しだけおさらいしておこう。
かなりの財産を遺しているらしい河内兵部の血族だと判明しているのは次の登場人物。


お利枝婆さん ―――― お鈴(娘)

       ―――― 小夏(孫娘)   

  ↑

  〈姉妹〉

  ↓


安藤婆さん ―――― 春巣街の死美人(娘?)

      ―――― 牛松(息子)



綾小路浪子





今更説明する必要も無いだろうが、
①「雪中の惨劇」の章で蛭田紫影検事から成瀬珊瑚子爵を救い出したのも、
④「時計の中」の章で蛭田の追跡からお兼を逃がしてやったのも、
これすべて綾小路浪子の活躍によるもの。



④にて庄司三平が蛭田に告げた情報、すなわち「春巣街の死美人の名は白根星子といい、彼女は巴里随一の富豪と結婚すると話していた」この件に関し、既に白根辯造なる怪人物は殺されてしまったが、白根星子とはどういう関係なのか?お鈴は安藤婆さんの娘という名目で巴里で女優になった〟のなら、お鈴=春巣街の死美人なのか?まだまだ予断を許さない。



(銀) 本作のストーリーをこうやって章ごとに見ていく作業をしていると、まるで『ツイン・ピークス』TVシリーズを初見で一話ずつ観ていた時の気分に近いものがある。「これって、ちゃんと最後には納得のいく決末へ着地するの?」みたいな。




⑩へつづく。