2022年1月31日月曜日

『夜の肌』園田てる子

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あまとりあ社
1956年7月発売



★★   あまとりあ で よろめいて



1961年、日本の女性推理作家が集まってひとつの親睦グループを結成した。その名称を「霧の会」という。発足時のメンバーは仁木悦子/新章文子/芦川澄子/南部樹未子/宮野村子/藤木靖子/夏樹静子、そして園田てる子の八人。のちに曽野綾子/戸川昌子/水芦光子らも加入している。

 

 

かくして園田てる子は曲がりなりにもミステリの世界に属していながら、「霧の会」発足前より愛欲小説の書き手として活動しており、文壇ではむしろそっち方面での認知が広く、『第三の情事』『証人台の女』など探偵小説と呼べそうな著書は非常に少ないという特異な経歴の持ち主。この時代には頻繁にありがちなのだが、同じ内容の本なのに別の書名を付けて再発されている事例が園田の著書にも見られるので、古書を購入する際にはまず収録内容を確認したほうが無難。

 

 

で、今回はそんな彼女の数少ない探偵小説本を取り上げる・・・と思わせといて、私の知る限り園田てる子が一番最初に発表した著書はこれではないかと思われる『現代女性情艶小説集 夜の肌』について記してみたい。本書はエロの殿堂・あまとりあ社が出していた新書サイズのひとつで、探偵小説関連だと楠田匡介・岡田鯱彦・九鬼紫郎・大河内常平らのものが刊行されている事は前にも飯田豊一『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ 』の記事にて述べた。発行人には中田雅久の名がクレジットされている。


 

                    

 


後〝よろめく〟という言葉がよく口にされた時代があった。そのきっかけは1957年に三島由紀夫が発表した小説「美徳のよろめき」から来るもので、戦前お堅かった日本女性の〝性〟の考え方が敗戦によってユルくなり、女の不貞・浮気を表す気持ちや行為を〝よろめき〟〝よろめく〟と呼ぶ事が流行ったのだ。園田てる子の作家業がいつどのように始まったのか定かではないが、三島の「美徳のよろめき」より本書のほうが発表時期が先行しているのを見ても〝よろめき〟に関してはエロのエキスパートである園田のほうが一歩早かったのがわかる。

 

 

「女のすべて」「別離の譜」「忘れまいぞえ」「装える蝶」

「二上り新内」「黄昏に咲く花」「愛欲の渦潮」

 

 

本書に収められている七つの短篇はどれも〝女のよろめき〟が描かれたものばかり。しかも最初の五篇の主人公の女性達は昔の時代の暗い影や貧しさを引き摺っていたりして、その古臭さはどうにもやりきれぬ。あまとりあ社の本なら読み慣れてる私でもこれでは読書のテンションがダダ下がりになるのだがそんな中「黄昏に咲く花」だけは〝掃き溜めに鶴〟な内容で、これだけはちょっと探偵趣味も意外性もあってオッケー。最後の「愛欲の渦潮」も人妻と若い画家のありふれた不倫話だけど、設定が始めの五篇ほど貧乏臭くないからまあなんとか許せる範囲。

 

 

園田てる子の著書は何冊か所有していて(よって未読作品もけっこうある)、たとえ愛欲小説であってもなにかしらのサスペンスが含まれていれば読めない事はない。ただ前段にて触れたとおり、あまりにも素材が貧乏臭くなるとちょっとキビしい。そう考えれば、この『夜の肌』は園田てる子著書の中では中~下クラスになってしまうのかも。本書以外に彼女の短篇集ってたぶん読んだ事が無くて、決めつけるのは早計かもしれないけど、私が今迄読んできた園田てる子作品の印象としては(どちらかといえば)短篇より長篇のほうがベターな感じがする。

 

 

 

(銀) 『探偵雑誌目次総覧』の園田てる子の項には、小説としては「新橋烏森広場」と「学生心中」、たったこの二篇しか載っていない。となると彼女が執筆していたのは探偵雑誌以外の一般誌だったり、あるいはエロを売りにした媒体だろうか。あ、そういえば園田には少女小説もあったな。この人とにかく情報が少ないし、今後徐々に著作の数々が解明されてゆくと嬉しいね。




2022年1月29日土曜日

『日本橋に生まれて』小林信彦

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文藝春秋
2022年1月発売




★★★    『文春』コラム完結す



「人生は五十一から」と題した『週刊文春』小林信彦コラムは199811日号よりスタート。                     途中でタイトルを「本音を申せば」に変更し、長い長い連載は地道に続いてきた訳だが、                        昨年(2021年)の夏に前振りも無く突然このコラムは終わりを迎えたので、                                同シリーズの単行本も二十三冊目の本書が最後。今回はいつもと異なり、                            前半に201811月からコラム内企画として八か月間執筆された「奔流の中での出会い」が、                         後半に2021114日号から78日号最終回までの通常運転コラム「最後に、本音を申せば」25回分が収められている。

 

 

 

「奔流の中での出会い」は小林と関わりがあった故人の想い出話だと早合点されそうだけど、                         現在活躍している人についても言及あり。中でもひとりだけ若い柄本佑の回があるのは、               NHK2016年に小林の『おかしな男 渥美清』をドキュメンタリー・ドラマ化した折、             渥美清を演じたのが彼だったから。                                   その登場人物を掲載順に記すが( ⤵ )費やされたページ数(掲載回数)は人によって異なる。

 

野坂昭如/山川方夫/渥美清/植木等/長部日出雄/

大瀧詠一/井原高忠/江戸川乱歩/柄本佑/笠原和夫/

横溝正史/橋本治/内田裕也/大島渚/坂本九/タモリ/伊東四朗

 

小林の著書をマメに読んでいる人なら、度々目にしたエピソードでおなじみの顔ぶればかりだが若い頃渡辺プロに所属していた内田裕也が先輩の植木等のところに謙虚に挨拶にくる話や、                  新宿で赤塚不二夫と飲んでいた小林がすっかり酩酊して、赤塚に飼われていたタモリにタクシーで送ってもらう話などはこれまで読んだことのない蔵出しネタかも。                      橋本治の回で山崎豊子を礼賛しているのもGood。



あと普段はナイアガラのCDを聴いてはいるけれど、大瀧詠一を妙に神格化する世間の無節操さには違和感があって、大瀧や山下達郎のことを〝師匠〟だの〝御大〟だのと呼ぶ輩や音楽雑誌(『レコード・コレクターズ』)はなんだか頭悪いな~と思っている。そんな自分にとって、                        小林が大瀧の小児性を(やんわりと、だが)指摘しているのは、大瀧より年上だからとはいえ、                  久しぶりに「さすが小林信彦」と感心できる瞬間だった。大瀧について今、              こんなシビアな発言ができる人間がいるとしたら、もう松本隆と小林ぐらいしかいないもんな。

 

 

その反面 江戸川乱歩の回で、無職時代の小林は乱歩邸に招かれる前に戦前の新潮社版『江戸川            乱歩選集』を貸本屋で借りて読んだと述べているけれども、                                   以前小林は文春文庫版『回想の江戸川乱歩』182~183ページ「文庫版のためのあとがき」で、                                「乱歩邸を再訪したのは三十一年ぶり、(中略)〈二十畳ほどの洋間〉の外には、                  ぼくが初めて目にする古書(例えば新潮社版の『江戸川乱歩選集』など)が多く置かれていた             のが目に付いた」って書いてたじゃ~ん?                                 この数年ずっと危惧してきた事だけど、ご老体の記憶力の減退は如何ともしがたく、                           同じ本の中でさえ見飽きた同じネタが繰り返し出てくるのはちょいとキツイ。                                (植木等の「まだ営業、イケますかね?」発言とかね)                          小林が『あまちゃん』に入れ込んでたのっていつだっけ? 八年前(2013年)か。                              あの頃に思い切って連載終了してもよかったのかも。                                   結果論とはいえ2017年には脳梗塞になってしまうのだし。




◕ ひとつ苦言を。                                                       これは小林信彦と『週刊文春』に限った事じゃなく、日本のメディア全体に対して。                                       例によって小林は菅義偉内閣をボロカスに言ってて、それは結構なんだけどさ。                  日テレ/細野邦彦プロデューサーの子供の頃の武勇伝が書かれている251ページで、             細野少年の喧嘩相手を〝某国の少年たち〟なんて著者は書いているが、                          前後の文脈から、どう考えてもこれ朝鮮半島出身者の事ではないか。                         なんでわざわざ〝某国〟なんてボカす必要があるんだ?                            自国の事は言いたい放題なのに、朝鮮半島人の事になると何故こんなにへっぴり腰になるのか?                          こんなヘタレな表現は実に見苦しく、いい加減に止めたらどうよ。

 

 

 

◕ 話を元に戻そう。連載終了といえば、                                               新年早々「二〇二一年もよろしくお願いいたします」と書いていながら(本書158ページ)、                       なぜ小林はこのタイミングでコラムを唐突に終わらせたのだろう。                                         あれだけ批判していた東京オリンピックが決行されてクサっちゃったのかな、とも考えたし、                    奇しくも小林著書の装幀仕事をいつも担当してきた平野甲賀が亡くなったのがこのコラムの終了する数ヶ月前だったから、その影響も大きかったのかなとも想像するけれど、                                  〝どうして終了するのか〟本書のあとがきで、その理由はなにも触れられていない。               終わる時なんてそんなものなのかもしれないが・・・。

 

 

 

コラムの終了した翌月に『週刊文春』に掲載された小林信彦特別インタビュー「数少ない読者の皆さんへ」は本書に収録されるかと思ったが、されなかった(文庫にボーナス収録か?)。                  そのインタビューから拾い出してみると、                                             「これ(毎週のコラム連載)やっていると、結構キツイ」                                        「やっぱり小説を続けないわけにはいかないだろうと思います。                                       もともとそういうつもりでこの世界に入ったから。」だそうで。                                       小林の自己都合で終了したのならいいけど、                                         最近はラジオもテレビも長寿番組が次々リストラされるご時世。                               「もう止めるほうが正解」だと思いながらも、連載の終わり方を私が気にするのは、                                小林の好きな伊集院光のラジオ番組の打ち切りと同じような理由で、                         『文春』の連載が終わらされたのでなければいいが・・・と、ふと懸念したからだ。 




(銀) とにもかくにも、長い間お疲れ様でした。                                 二十数年、なんだかんだ言いながら楽しませてもらったのは間違いない。                                        これでコンビニに行った時に立ち読みする雑誌がなくなってしまった。                            その代わりじゃないけど、現代の喜劇人として小林が最も期待している大泉洋が源頼朝役で                 出演する『鎌倉殿の13人』は私も最後までバッチリ観るつもりでいる。 

                   

 


2022年1月20日木曜日

『鮮血の街』島田一男

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桃源社ポピュラー・ブックス
1976年10月発売




★★★★    パンデミック小説「黒い旋風」




大量のシリーズものが存在する島田一男作品の中にノン・シリーズの短篇がいくつか存在する。私も全ての初出情報は把握しきれていないが、それらはほとんどキャリア初期に発表されているようだ。〈島田一男・初期傑作集〉と副題があるこの『鮮血の街』に収められた八短篇もそんなノン・シリーズ短篇の一部で、うち七篇は日本の大東亜戦争敗戦まで十五年にわたり作者が新聞記者として生活してきた満洲の地での体験と知識を基に書かれ、中国人・満洲人・蒙古人・ロシア人そして日本人が入り乱れる〝大陸絵巻〟的な内容。内地に帰ってきた島田一男が探偵作家としてデビューするのは1946年の事。ここではそれより過去に遡りし時代を題材にしている。

 

 

 

◗◖ 「鮮血の街 ―赤靴イワン物語― 」

北満の小巴里と云われた哈爾浜(ハルビン)に巣食う白系露人ギャング。

 

 

◗◖ 「万国寝台車(ワゴンリー)」

巴里を出発、満洲里を経て一路哈爾浜へ向かう国際列車。麻薬密輸業者はどいつだ? 哈爾浜屈指の富豪・梅紅玉夫人という謎めいた女性は何者?鉄道ミステリ・アンソロジーに入れてもよさそうな一品。後味のいい結末。

 

 

◗◖ 「霧海の底」

東洋の避暑地・芝罘港口で爆沈された安南(アンナム)王国の海防艦ホンコーヘ号には金貨・金塊、そして膨大な宝物が積まれていた。それをサルベージして一山当てようとする潜水夫のサブたち。だが彼は海の底で悪夢のような光景を目にする。

 

 

◗◖ 「芍薬の墓」

北満の小興安嶺にある大砂金区には採金を目的とした日本の施設が立地し、七人の日本人と一人のオロチョン少年が占有していた。顔ぶれの中にひとり色香を放つ女医がいて、男たちは彼女のカラダを欲しがっている。そこに次々と連続殺人が発生。犯人は誰か?もしも私が本書の中から探偵小説のアンソロジーに一篇選ぶとしたらこれかな。

 

 

◗◖ 「太陽の眼」

樺太に向け大陸を流れる極寒の黒龍紅(アムール川)。永安号の船長である紫堂は日蝕観測隊を載せるよう徴用され、その隊は漢・中・露を中心とした様々な国の人間で構成されている。ここでも船上で隊員の謎の死が。幻夢のような日蝕の表現の仕方など、この辺の島田作品には小栗虫太郎の影響もあるのでは?と、なんとなく思ったりする。

 

 

◗◖ 「狼頭歓喜仏」

ロシア革命期の1921年秋、満蒙国境で主人公・水戸の属する外人部隊を含む白軍は赤軍によって壊滅させられてしまった。生き残った女参謀ニーナそして傭兵の野見と水戸は沈哈爾廟へ逃走。そこでニーナと野見は彼らの体内仏を盗もうと企んだ。狼、コワイ・・・。

 

 

◗◖ 「黒い旋風」

ペスト菌を持った鼠の大繁殖により新京が死の街と化してしまう、昭和・平成と違って令和の今読むと非常にタイムリーでもあり肌に粟を生ずるような短篇。ただ単にパニック譚でもなければ「赤き死の仮面」のように詩的でもなく、後半にはミステリ色を注入しているのが面白い。これは『外地探偵小説集 満洲篇』(せらび書房/2003年刊)にもセレクトされていた。

 

 

◗◖ 「妖かしの川」

本書の中で、これだけは〝大陸〟と関係のない内容。妻とは元々押し付けられた結婚だったし、自分には不貞の相手もいるし、川に浮かぶボートを転覆させ憎しみを抱いていた妻を葬り去った毛内甚九郎。倒叙ものとしてケリがつくと思ったら・・・???

 

 

 

大物のわりに島田一男が再評価されない理由のひとつは、小器用過ぎて「これぞ島田一男!」と呼べるような個性が感じられないことか。冒頭でも述べたとおりシリーズものがあまりに多すぎるし、各探偵キャラの職業色が出過ぎて二時間ドラマの原作に使うにはベンリかもしれないけれども、読書の対象たる探偵小説として見ると何かが欠落している。その意味では今回取り上げたノン・シリーズ短篇のほうが、シリーズものよりもずっと探偵小説の魅力がある気がして。

 

 

もれなく文庫に入るなどの再発はなぜかされてないみたいだが、この手のノン・シリーズ短篇を集めた島田著書は新書サイズだと本書『鮮血の街』の他にも『夜の花』(桃源社・ポピュラーブックス/1972年刊)『地獄の歌姫』(桃源社・ポピュラー・ブックス/1978年刊)、そして山前譲が編纂した『夢魔殺人事件』(青樹社BIG BOOKS1998年刊)で読める。収録作品が重複しているものもあるけれど、すべて読みたければ四冊とも揃える必要あり。

 

 

 

(銀) 大陸書館は近日中に「島田一男大陸小説集」(全三巻予定)を出すという。それらは各巻ともオリジナル編成らしく『鮮血の街』からもセレクトされているようだ。

 

 

〝大陸〟といえば思い出すのが上記で触れた せらび書房 。『外地探偵小説集』の四冊目は大陸篇になると予告され、ず~~~っと待ち望んでいたのだけど、もう新刊を出してないみたいで本当に残念。『外地探偵小説集』は内容だけでなく装幀にも魅力があって、せらび書房の本は好きだったのにな。



 


2022年1月18日火曜日

左川ちか問題にて馬脚を露わした盛林堂書房周辺の本造りに対する姿勢

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盛林堂書房は自らの通販サイト「書肆盛林堂」より115日に発売する筈だった同人出版の新刊『左川ちか文聚 左川ちか資料集成・別巻 詩歌・譯詩・散文』について、「版元(えでぃしおん うみのほし)からの依頼により販売開始延期となりました」との告知をTwitterにて行った。これは左川ちか研究者であり、福岡の書肆侃侃房より2022年に発売が予定されている『左川ちか全集』の編纂者でもある島田龍が自らのアカウントにて、盛林堂を販売窓口とする左川ちか本のテキスト内容について疑義を呈した事に端を発している。




盛林堂が制作もしくは販売する日本探偵小説の関連書籍、その中でも特に〈東都我刊我書房〉名義の善渡爾宗衛主導で最近制作された鷲尾三郎本三冊のあまりにも酷いテキスト入力が許し難かった私としては「やっぱり、そうだったのか」と頷いてしまう到底見過ごせない問題であるし、本件がなし崩し的に流されてしまうその前にキッチリ発信しておきたかった。(鷲尾三郎に関する記事は、画面右側ラベル一覧の下の方に位置する「鷲尾三郎」の文字をクリックして読んで頂ければ幸いである)

 

 

 

まずは渦中四名のTwitter上での主な発言の数々を見てもらうとしよう。ここでは原文そのままではなく要旨を整理して紹介しているけれど、本当なら全てありのままの発言を見て、何が正しいのか判断してもらうのが一番好ましい。ちなみに当Blogでは殆ど敬称略しており、この記事でもそのように表記しているので念の為。

では島田龍Ryusankun『左川ちか全集』今春刊行@donadona958から。


A-1

自分(島田龍)の調査する限り、盛林堂書房がこの数年同人出版してきた左川ちか詩集はどれもテキストにやたら問題が多い。


A-2

盛林堂が過去に発売した左川ちか詩集のうち、『左川ちか資料集成 The Black Air:Collected Poems and Other Works of Chika Sagawa』(2017年刊)に資料を一部提供した以外、自分(島田)は一切制作に関わっていないのに、『新編 左川ちか詩集 幻の家』(2019年刊)『左川ちか資料集成 増補普及版』(2021年刊)の協力者クレジットの中に自分(島田)の名が無断で記載されていた。


A-3

2019年に誤りの指摘を発表したら(盛林堂)関係者のO氏〟から「編者でもない人間が勝手に指摘することなど越権でありえない」と猛抗議を受け、一度は取り下げた。しかし2021年の本でも誤りは訂正されていなかったので再度誤りの数々を指摘発表したら、これまた前述の〝O氏〟から抗議を受けた。


A-4

昨年(2021年)自分(島田)が校訂を担当する左川ちか詩集文庫出版の話があったが、その出版社にも脅しと圧力がかけられ、結局企画は潰された。



他にこのようなツイートも。これらはTwitterの画像をそのまま御覧頂く。

A-5

 


 

 







対する盛林堂サイドからの反論ツイート。


BCのツイートは誤字だけでなく読みにくく解りにくい所があり、同じ事の繰り返しも多いので私(銀髪伯爵)が⦅注⦆を入れたり訂正をしたり、第三者にも読み易くしている。
最初は問題の中心人物 善渡爾宗衛/よしとに@onedaba



B-1

『左川ちか文聚 左川ちか資料集成・別巻』を出しているのは〈えでぃしおん うみのほし〉であって、一度も「書肆盛林堂」から刊行したことはなく委託をお願いしてるだけ。⦅注/このツイートの最後には〈紫門あさを〉と記名がある。(銀)⦆

 

B-2

『変奏曲』も『幻の家』も『左川ちか資料集成』も全部〈紫門あさを〉の編纂だし、『左川ちか文聚 左川ちか資料集成・別巻』にも訂正を入れている。誰かに何か言ったこともなくて集成の資料もほとんど一人で集めた。⦅注/『変奏曲』ではなく『前奏曲』の間違いでは? (銀)⦆

 

B-3

左川ちかは誰のものでもない。パブリック・ドメインなのだから独占しちゃいけない。⦅注/ここでも〈紫門あさを〉の発言である事を示す記名あり。(銀)⦆


B-4

(銀) ここは私(銀髪伯爵)の発言というか解釈だけども、下の画像を見ると『左川ちか文聚』の発行元が〈東都我刊我書房〉になっていて、しかも善渡爾宗衛のアカウント上で〈紫門あさを〉が発言しているのだから、善渡爾と〈紫門あさを〉が同一人物なのは明白。










 

つづいて、りき@onozukarikiこと小野塚力。

 

C-1

発行は〈えでぃしおん うみのほし〉であり、盛林堂は単なる販売委託先。

 

C-2

「正確なテキストを」という主張をする前の段階で版元誤認というのがあり、販売をお願いした先の盛林堂に向けて、制作の精度を中心とした論議提起以外の話になっている。

 

C-3

所感ではあるが、現物を確認し具体的な指摘を伴った話題提起ではなく、未見状態での論議開始に違和感がある。いささか主観的かつ過激な表現をまじえた一連のツイートが版元と販売委託先を勘違いしたまま話が進んでいる。巻き込まれた盛林堂のことを考えると頭が痛い。⦅注/このあと〈版元誤解〉〈勘違い〉〈過剰な表現〉といった同じ内容の発言が繰り返されている。(銀)⦆

 

C-4

島田龍のツイートは自分りきをブロックしてから開始されている。冷静な対応とは思えない。




 

 

 





最後に盛林堂書房店主・小野純一/盛林堂書房@seirindou

         

D-1

「書肆盛林堂」では当店刊行物以外にも様々な同人誌の取扱い(委託販売)を行っている。『左川ちか文聚 左川ちか資料集成・別巻 —詩歌・譯詩・散文—』についても、〈えでぃしおん うみのほし〉の刊行物であり「書肆盛林堂」の刊行物ではない。また、今まで左川ちか関連本を「書肆盛林堂」で刊行したこともない。      




 

 



D-2

(銀) B-4同様、ここも私(銀髪伯爵)の意見で恐縮だが、臆する事が何も無いのならばどうして彼らは『左川ちか文聚』を販売開始延期に?そして「書肆盛林堂」の制作・刊行した本でなければどうだというのだ?「テキストにいくらミスがあろうが我関せず」とでも言いたいのだろうか?「今後このような不手際がないよう当店から版元へ申し伝えます」ぐらいの、気の利いたお詫びの一言さえ浮かばないのかねえ。




以上、私(銀髪伯爵)のコメントはともかく、このやりとりを読んで貴方はどう思いましたか?




左川ちかは私の興味の対象ではなく、島田龍のお名前も今回初めて知ったぐらいの門外漢ゆえ、過去に盛林堂経由で発売されてきた左川ちか本のテキストにはどんな問題があるのか、細かい点について自ら発言できるほどの知識を私は持ち合わせていない。また、島田龍からの誤り指摘に対し猛抗議をしたという〝O氏〟についても、そのイニシャルから小野純一もしくはりきの事だろうなと推測はできるが、抗議内容の原文を見てないし、また某出版社左川ちか文庫企画に横槍を入れたという件にしても島田龍のツイート以外に事実を確かめるすべが無いから、これも静観すべきと考えている。




自分のことで言えば、普段買って読んでいる盛林堂の制作販売した日本探偵小説書籍において、冒頭でも述べたとおり鷲尾三郎本があそこまで校正ゼロの酷いテキストにされていなかったら、今回左川ちかの件に関してこのような記事を書く事もなかったろう。確かに「書肆盛林堂」サイトからは色々な同人出版の本が販売され、委託販売も多いのが実情。私がいつも買っている盛林堂の日本探偵小説書籍には〈盛林堂ミステリアス文庫〉〈東都我刊我書房〉といった具合にレーベル分けがされてあって、以前も書いたとおり前者は小野純一主導、後者は善渡爾宗衛主導で制作しているのも知っている。

それゆえに確信を持って言えるけれど、レーベル名を〈えでぃしおん うみのほし〉にしたり編者の名を〈紫門あさを〉と名乗ったり、まるで別の人がやった仕事のように振舞っているけれど、左川ちか本のテキスト問題も私が散々このBlogで言ってきた鷲尾三郎本のテキスト問題も根幹はすべて一緒で、結局善渡爾宗衛の仕事の杜撰さから来ているのではないのか?

 

 

 

専門家の島田龍が盛林堂の発売してきた左川ちか本に対して、(それらの責任が誰にあろうと)問題点をわかりやすく一覧にまとめている以上、それは言い逃れのできない事実だ。ネットで探せば「左川ちか資料集成・覚書」という pdf が簡単に見つかるので、それを見てもらいたい(本当はここにもupしたかったが一応遠慮した)。上記B善渡爾島田に「版元誤認」という文句ばかり繰り返し、Cにおけるりきのツイートも「現物を確認し具体的な指摘を伴った話題提起ではなく」などと言っているが、どうもこの二人の言動は問題をすり替えようとしている風にしか見えない。        

 

 

 

そして盛林堂の店主・小野純一もしかり。小野もまた善渡爾宗衛主導の〈東都我刊我書房〉は盛林堂刊行物ではないと言い張っているが、レーベルは別個とはいえ小野善渡爾はいつも新刊本制作でお互い協力し合っている間柄なのに、今回の場合〝『左川ちか文聚 左川ちか資料集成・別巻 —詩歌・譯詩・散文—』は「書肆盛林堂」の刊行物ではない〟なんてまるで他人事みたいな物言いがよくできるものだ。ヒラヤマ探偵文庫の本や『「新青年」趣味』なら盛林堂人脈が制作に絡んでない完全な委託だとこちらも断定できるけれど、善渡爾宗衛が自分のアカウントで宣伝し「書肆盛林堂」サイトで販売している同人出版本に「自分は全く関係ありません」などとシレッと言えるその神経がとても理解できぬ。まことに探偵小説のギョーカイは狂っているというしかない。




(銀) 私が長年「どうも信用できない」と言い続けてきた盛林堂書房周辺の本造りの姿勢を、古本キチガヒや探偵小説好きな輩は盲目的に有難がっているだけなのに対し、左川ちかのシンパの人達が正しくシビアな目で見ていたというのが皮肉でもあり面白い。私以外にも見ている人達はちゃんと見てるんだな。ま、つまるところ盛林堂書房周辺の人間はユーザーをナメきっているというのが結論だろうよ。





2022年1月14日金曜日

『南海囚人塔』横溝正史

NEW !

柏書房 横溝正史少年小説コレクション⑦ 日下三蔵(編)
2021年12月発売




★★★★   玉井徳太郎、魅惑の挿絵(「南海の太陽児」)




横溝正史少年小説コレクションの最終巻が出た。                                     この巻には短篇のひとつに等々力警部が顔を見せるだけで、                                    シリーズ・キャラクターは一切出てこない。逆にそれゆえの楽しみ方もあるのだ。

 

 

 

   「南海の太陽児」

太平洋戦争直前に発表された秘境探検小説。熊谷書房の初刊(昭和17年)が出たっきり、                                単行本では一度だけ『少年小説大系 第18巻 少年SF傑作集』(平成4年)に編入されるも、                   その版元・三一書房が何かと語句改変をやらかしてしまうブラック出版社であったため、                           信用できぬテキストに変えられてしまっていた。それもあって今回は価値ある再発。



正史は「幽霊鉄仮面」(昭和12年)の後半でも、敵を追って蒙古の奥地に向かう展開にしていたけれど、本作が連載されていた頃の日本はもはや犯罪を描写する探偵小説など許される状況にはなく、主人公が自分のルーツを求めて南方へと旅立つ全編冒険調の長篇にせざるをえなかった。                                 HR・ハガード作品を引用しているのだが、かの人外魔境の地の果てに倭寇の子孫が築き上げた                 〝やまと王国〟なる別世界が存在し、その住民及び文明はなんと旧世紀の日本そっくりだったという設定がキッチュでヘンテコ。横田順彌は非常に面白がっていたっけ。

 

 

いつもの事ながら、横溝正史の筆に読みにくいところは無い。                                 ただ、タイトルにもなっているぐらいだから〝南海の太陽児〟こと東海林龍太郎は主人公としてバリバリ動き回るべきなんだが、マラリアになって寝込んだり何かと影が薄く、クライマックスの攻防でも活躍の場は少ない。むしろ前線に出て常に物語を牽引しているのは降矢木大佐と寺木中尉のほう。それに当時の日本は石油不足問題を抱えていたせいか、寺木中尉が〝燃える水〟を探すくだりにはじっくり頁が割かれているのに対し、日姫軍の逆襲で盛り上がるべき「ヒアテの裏切」からThe Endまでの肝心な終局があっさり終わってしまうのにはやや不満が残る。

 

 

それでも私は初出誌を飾っていた玉井徳太郎の挿絵が本書に収録されて大変嬉しい。                        横溝正史少年小説コレクション①~⑥に入っていた他の挿絵とは存在感がまるで異なり、                         彼の挿絵はことさらコッテリしてバタ臭い。渡辺啓助「沙漠の白鳥」江戸川乱歩「偉大なる夢」小栗虫太郎「地軸二万哩」木村荘十「印度は叫ぶ」等々、彼の長いキャリアの中では昭和10年代の仕事が最も強烈に印象深い。探偵小説に提供された挿絵を纏めた画集が欲しい画家の一人だ。

 

 

 

   「南海囚人塔」

ずっと単行本未収録だったので、この作品を目当てにしていた人も多かろう。                      主役を務める二少年の乗った定期客船/上海丸が南シナ海を日本へ向かう途中、                           オランダの幽霊船と遭遇。そこへ黄衣海賊団が襲いかかり危難に陥るという、                             これも海の冒険ストーリー。こちらは昭和6年発表で、まだ自粛規制が無かった時期なんだけど                月刊誌八回連載にしてはボリュームが少なく、                                                    内容も挿絵(嶺田弘)も「南海の太陽児」よりはずっと劣る。                                             この年、正史は「仮面の怪賊」「笑ふ紳士」「鋼鉄仮面王」といった少年物も書いてはいるが、                      博文館在籍時には出来の良いジュブナイルをまだ生み出せていない。

 

 

 

 「黒薔薇荘の秘密」(昭和24年)     「謎の五十銭銀貨」(昭和25年)

 「悪魔の画像」(昭和27年)       「あかずの間」(昭和32年)


いずれも戦後発表の短篇。                                                   「あかずの間」だけは『姿なき怪人』に『奇妙な味の菜館(アンソロジー)』と、                               過去に収録されていた本がいずれも角川文庫ばかりだったから、                                         テキスト改悪の懸念が無い出版社の本に入ったのは意外にも初めて。


 

 

 

   「少年探偵長」 海野十三

これはあくまでも海野十三の長篇であって、ボーナス・トラック的なイレギュラー収録。                  横溝正史と同じ肺結核の持病を抱えていた海野十三だったが、昭和24年に入ると自分でも薄々                迫りつつある死期に気付いているような素振りを見せるほど体調は良くなかったらしく、                      執筆は旺盛ながらも外出は一切控え摂生していた。折しも親しい仲の正史が前年岡山から東京に                  戻って、海野の住む三軒茶屋とはそれほど遠くない成城に居を構えていたし、                                        たまたま調子が良かったのか安静の禁を破って海野は514日に横溝邸を訪問したのだが、                    これがまずかった。



その三日後の5月17日、自宅で突然の大喀血を起こし気管を詰まらせて窒息、                                         不幸にも海野は51歳の若さで急死してしまう。                                        そんな痛ましい経緯があったからこそ、自分とて病身かつ多忙だったにもかかわらず、                                         正史は連載途中だった「少年探偵長」が完結するまでの残りの執筆を引き受けたに違いない。                                                    それと、この作品がもろSF調ではなく少年探偵活躍譚だったのもあるだろうけれど。

 

 

前段にて述べたような事情があり、決して海野も正史も責められないのを前提とした上で、                 誰も指摘してこなかった本作の疵瑕を今回は見直してみたい。                                  いくら子供向けに荒唐無稽であっても、小説として看過できない箇所というのはある。





【 注意 !!  海野十三「少年探偵長」を未読ゆえ絶対ネタバレされたくないとおっしゃる方は                           ここから下(⤵)は、くれぐれもお読み飛ばし下さい。



 

 

 最初は物語全体にさして支障の無いところから。                                 冒頭にて主人公・春木清少年は〝本来は東京暮らしなのに、                                家庭の事情で本作の舞台である関西の港町(おそらく神戸)の伯母さんの家へあずけられ、                 牛丸平太郎のいる中学へ転校した〟とある。                                              だが、その理由は「いずれ後でのべる時があるからここには説明しない」(本書301頁)と                 書かれながら、最後までフォローされていない。                                          こんな感じのちょっとした問題点はいくつも見つかる。シンドかったんだな・・・海野。

 

 

 次は中クラスの矛盾ふたつ。                                            牛丸平太郎少年は敵の頭目・四馬剣尺の手下に誘拐され山塞(アジト)に閉じ込められる。                                            その山塞へ賊どもはヘリコプターで移動しているので神戸の街からは相当離れた山奥の筈。                                   そこへ何の伏線も無く突然春木清がたった一人で助けにくるのだが(本書378頁)、                              彼はこの山塞の場所をどうやって知り、どうやって地下巣窟まで辿り着けたのか?                            これまた後のシーンでの説明が無い。

  

それに監房へ食事を運んでくる唖で聾の五十男・小竹デク公にしても、                                やはり囚われの身であった戸倉八十丸老人が春木/牛丸二少年を連れて山塞を脱出する際、                        どうやって戸倉老人が小竹を丸め込んで味方にしたのか不明なまま。

 

 

 最後は重大な(?)矛盾。これも物語の始めの方のエピソードで、                             四馬剣尺のアジトに猫女が初めて現れるシーンをじっくり見て頂きたい(本書329頁)。             四馬剣尺は六尺近い巨躯を支那服に包み、頭に被った冠から三重の紗幕を垂らし顔を隠しているので、手下でさえもその正体を知らない謎のベールに包まれた怪人だ。


この場面で四馬剣尺と女賊・猫女は完全に相対し、猫女がメダルを奪い去ろうとするので、                                         四馬剣尺は部下を引き連れ、逃げる猫女を追おうとしており、決してヨチヨチ歩きではない。                          という事はこの時の四馬剣尺は歩くのを見られても構わない〝二人羽織〟状態な筈だから、                    猫女と四馬剣尺とは、全く別々の存在でなければならない。(こう書いても未読だとさっぱり 伝わらんだろうけど、要するにここでいう〝二人羽織〟とは例えば『バイオレンスジャック』/鉄の城編の兜甲児とジム・マジンガの姿を連想してもらいたい)


ところが話が進むにつれ、いつの間にか猫女は〝二人羽織〟の片割れとして確定してしまうため                              序盤におけるこの猫女初登場シーンの矛盾はどうにも解釈できなくなってしまった。

 

 

 

山口直孝は『横溝正史研究6』にて、擬音表記が〝ひらがな〟から〝カタカナ〟へ変わったのを                   根拠に、横溝正史が「少年探偵長」の代筆を始めたのは連載第七回(「燃えあがる山塞」)からではないかと推測している。                                                     念の為、旧い版の『少年探偵長』も用いて何度か読み返してみたが、                                      この推測は間違ってはいないように思えた。                                            四馬剣尺初登場の章題が「男装の頭目」とされていたり、連載第五回で四馬剣尺に裏切り行為                    をした机博士のエックス線装置によって頭目の骨格が露顕する場面を見ても、                            当初海野が四馬剣尺の正体をどのように考えていたのか、いまいち判断が付かない。

 

 

 

でも敵の首領の正体を〝二人羽織〟にするアイディアはメチャクチャ優れているし、                           海野の探偵小説ならばそのバカバカしさも許される。これはもしかして江戸川乱歩「魔術師」の                        大入道からイメージしたのかもしれない。海野と正史、二人がかりで無理やり完結させたわりに                    ツッコミどころ満載でも意外と読ませてしまうのは、この四馬剣尺というキャラクターあっての事だとも思う。もう少しだけ海野が元気でいてくれて一人で本作を書き上げるか、                                 あるいは青鷺幽鬼みたいに最初から海野十三+横溝正史の共作で完成させていたなら、                              矛盾点を正史が補正してくれたかもなあ、と楽しい妄想が頭の中を駆け巡ったりもした。




(銀) 巻末資料ページに「横溝問答」なんていう、                                      「カー問答」を真似た日下三蔵の雑文が入っている。                                    本人も認めているとおり、これが書かれた90年代にはまだ判明していなかった事も多く、                          今読むと新しい読者に間違った情報を与えてしまいそうだから、                                    こういうものを載せる必要などなかった。そんな適切な判断ができず、                                    せっかく本編は楽しめるのに、やみくもに何でも追加収録してしまうのが日下の思慮の無さ。                          なんにせよ〈横溝正史ミステリ短篇コレクション〉〈由利・三津木探偵小説集成〉そして、              〈横溝正史少年小説コレクション〉と、あまり高くなり過ぎない価格で発売してくれた柏書房は褒めてもいい。


 


2022年1月8日土曜日

『言論統制というビジネス/新聞社史から消された「戦争」』里見脩

NEW !

新潮選書
2021年8月発売



★★   同盟通信社のことが知りたい



昨年の春に刊行された小栗虫太郎『亜細亜の旗』を読んだ時、巻末外編の中に「この長篇が執筆されるきっかけとして同盟通信社からの斡旋があったのではないか?」という二松学舎大学の                           山口直孝、それを受けて「同盟通信社の編集局文化部が虫太郎に小説の依頼をしたのでは?」という本多正一、このふたりの推論が挙がっていた。                               本日取り上げるこの『言論統制というビジネス』には残念ながら新聞小説への言及は無いが、                    その同盟通信社の成立ちを軸に論じられており、戦後になって新聞人が「満州事変や盧溝橋事件以降ずっと、我々は言論封鎖を軍部に強いられ挙国一致な報道をせざるをえなかった」などと                          被害者ヅラして語った証言とは裏腹に自主的国策協力が実は行われていた事実なんかがガッツリ                     焙り出されていて興味深そうな一冊だ。戦時下において新聞連載された探偵小説を読み解く際に今後参考になるかもしれないので、これは書き留めておこうと思った。


 

                   

 


本書を読みながら、うなずいた箇所 ⤵ 。

 

 現代の日本人は「戦争はもういやだ」と言うけれど、                                         それはあくまで太平洋戦争が悲惨極まりない負け戦に終わったからであって、                               戦勝したなら、国民は愛国心の名のもとに反省も無くひたすら喝采するであろうこと。                        〈(銀) 戦争をすればたとえ自国が勝っても、戦場で命を落としたりダメージを受けて一生をフイにする兵士(=国民)はワンサカ発生するというのに。                                 探偵小説に見られるその格好の例が江戸川乱歩の「芋虫」に登場する廃人・須永中尉。〉

 

 戦後は真実とは異なるデタラメを捏造してまで日本をディスる事を社是としている、                       (一応左派の代表とされる)あの朝日新聞でさえ戦前は拡大路線をワッショイ報道していた          という事実。                                                            〈(銀) 本書9596頁に載っている朝日が実施した戦勝イベントのなんと多いことよ。〉

 

 

 

戦争/天変地異/大事件が起これば大衆は速報を渇望する。                                    今はネットやテレビがあるけれど、戦前の大メディアとなれば、                                  (ラジオ局は日本放送協会しかなかったので)やはり日刊の新聞が頼り。                              あさま山荘や上九一色村オウム本部に警察が突入した時テレビがずっとそれを流していたのは、                       通常の番組より観る人が断然増えるからで、戦前の場合も日本が外地に侵攻して毎日激しい戦いを繰り返せば、そりゃ国民はこぞって新聞を読むに決まっている。                                           第一次大戦時ドイツを悪だと報道した英ロイター通信の巧みな情報戦によってドイツは負けて                   しまったと振り返る独逸軍人もいるぐらい、国にとって戦時中の情報管理は重要なものであり、                        また新聞社にとって戦争は収益を生む又とないビジネス・チャンスだった。

 

                    

 

満州事変の頃から我が国における言論統制の蠢動は始まっていて、                                      対内外のプロパガンダ機関として陸軍が昭和11年に発足させたのが同盟通信社。                           その中心にいたのが本書の主人公ともいえる古野伊之助という人物だ。                                こう書くと古野はメディア・サイドの東條英機みたいに思われそうだが、                             財政が楽ではない地方紙が存続できるよう、あの手この手と画策したのは彼だった。                 甲賀三郎「支倉事件」における重要な登場人物のモデルでもある読売の正力松太郎が利益最優先主義なのに対し、古野は理想を最優先とする策士で、全国紙の人間から相当嫌われてたみたい。

新聞というものは紙の調達が出来なくなったら即アウト。                                軍部と繋がる事で紙やインクの配給を途絶えさせない、つまりどんなに日本が物資難で困っても                      新聞の発行を一日たりともストップせずに済んだのはこの人のおかげだそうな。                            一概に古野や同盟通信社を戦争協力のキーマンと批判するのは如何なものか、と著者・里見脩は問いかける。

 

 

 

当時の全国紙は毎日/朝日/読売。 そして各地に地方紙が様々散らばっているという状況。                      日中戦争が始まって国内によりキナ臭さが増してくると全国紙と地方紙の競争は激化し、                    全国紙に買収されてしまう地方紙もあった。                                      昭和13年に内務省によって新聞統合は着手されていたが、                         昭和16年になると政府は一県一紙令をより強制的に通達する。                             とはいえ一度に〝せーの〟でそれが出来る筈もなく、                                    一番最初に一県一紙が完成した県は昭和1410月の鳥取。                               一番最後は昭和1711月の新潟と北海道。数年がかりでなんともご苦労な事よ。                                                  東京・大阪そして広島だけは特例で複数紙の共存が許されたが、全国紙でも例えば毎日だったら『東京日日』と『大阪毎日』を『毎日新聞』に題字統一させられて、現在に至っている。

 

                    

 

探偵小説がらみの話もしておこうか。戦時下に新聞連載され長い間埋もれていたが近年書籍化              された小栗虫太郎「亜細亜の旗」と横溝正史「雪割草」については、                           当Blog 2021年4月の記事にて詳しく特集した。                               この二作が一番最初に掲載された地方紙は今のところ『京都日日新聞』と見られており、                                     「雪割草」が昭和156月11日~12月31日まで連載して完結。                                             次いで「美しき暁」(=「亜細亜の旗」)が昭和16年1月1日よりスタートし、                                           全245回分あるところを同年6月30日179回をもって打ち切られている。

 

 

上記にて述べた一県一紙新聞統合が完成した年月を一覧表にしたものが本書230頁~231頁に                    載っていて、京都府を見てみると昭和174月に『京都新聞』一紙化が完了している。                         どこの都道府県でも地方紙同士でどう統合するか、ああだこうだと揉めるのは当り前で、                           古野伊之助が統合交渉に出向いた県の逸話が載っているが、京都のぶんは無かった・・・残念。                      京都の場合だと昭和10年以降では府内久しぶりの統合で、『京都日日新聞』と『京都日出新聞』がくっ付いて『京都新聞』になった訳だが、「美しき暁」(=「亜細亜の旗」)の連載を途中で                             打ち切らねばならないほど混乱していたのだろうか? それとも作者虫太郎の都合?

 

 

それからまた「雪割草」の書籍化底本に使用された地方紙は、                                         現在同作の掲載が判明している新聞の中で最も連載開始が遅かった『新潟毎日新聞』。                         この新聞は昭和168月にそれまで敵対していた『新潟新聞』と合併して『新潟日日新聞』へ              改称。翌1711月には『新潟県中央新聞』『上越新聞』とも合併させられて、                                   ようやく本書231頁に載っている『新潟日報』の形へと辿り着く。あ~、めんどくさ。


                    


という感じで、もうちょっと突っ込んだ内容つまり同盟通信社の編集局文化部は具体的にどんな業務をこなしていたのか、みたいな事が細かく載っていれば万々歳だったけれど、                              この本は新聞に連載される小説の事まで語り尽くすスペースは無いのだからやむを得ない。                       でもまあ、同盟通信社を知るとっかかりとしては上出来か。                               他にも同盟通信社に関する文献はあるみたいなんだが、ワタシ的には地方紙へ連載小説を売込む エージェント業を行っていた池内祥三の大元社と同盟通信社を繋ぐ線を教えてくれる本があればサイコーだけど、そんな気の利いた資料はなかなかないだろうなぁ。

ともあれ、戦前日本のメディア論に興味のある人にとっては良書なのではないでしょうか。




(銀) 他に電通の悪口とかも書きたかったし、『名張人外境ブログ2.0』で江戸川乱歩からの             書簡を受け取っていると紹介されていた城戸元亮の事も書きたかったのだが、                              ダラダラ長くなりそうなので、その辺はバッサリcutした。                               いつもの探偵小説関連本と勝手が違い、どういう切り口で本書について書くべきか、                         すぐにピシッと頭の中が整理できず、この記事は書き終えるまでに少々手古摺ってしまった。





2022年1月5日水曜日

『幽霊の接吻』宮野村子

NEW !

盛林堂ミステリアス文庫
2021年12月発売




★★★★   現(うつつ)に戻す罪の深さを




❆ 盛林堂の宮野村子も巻数を重ね、さすがにクオリティが落ちていくのかなと思われたが、              『無邪気な殺人鬼』『童女裸像』といったこれまでの三冊の中では一番良かったかもしれない。                 前二冊以上にバラエティ感に富み、探偵小説にうるさくないフツーの読者にも読み易くて、                      同人出版としては商品性高いんじゃないの?

 

 

 

❆ それでは今回も一作ずつチャッチャッと紹介していこう。                              まずは、江戸川乱歩「心理試験」の前半部分をアダプトしたような「罠」。                               殺人をやり遂げた後の発覚部分はあっさり短め、                                      宮野村子にしては感情移入を控え〝お仕事〟モードに入って書いたような一篇。

 

 

次の二つは作者の最も得意とする、女ごころの複雑怪奇さに翻弄される男を描いたもの。                    まず「夜の魚」。街の仲間達にも知れているほど健一は春美に気があるのだが、彼にとって                     春美は〝上手(うわて)の上手(うわて)〟な存在。蒼い敗北感に苛まれ、健一は姿を消す。                       半年後、街に戻ってきた健一は少し大人びた変化を見せるのだが、                                    その事が皮肉にも春美にダメージを与え・・・。

 

 

「心の記録」は短篇ながらも枚数の多い力作。                                         内縁の妻を絞殺した罪で裁判中の原健一(「夜の魚」の健一とは無関係)。                              あまりにも素直に供述する健一に対し裁判員達は「被告にはまだ語られざる何かがあるのでは                  ないか?」と決め手に悩む。健一の人生には消そうにも消せない暗い残像があった。                      物心つく前に、母親は彼を捨てて去っていった。祖母が健一を引き取ったものの体を壊し、                   不幸なまま一人この世に残すくらいならと祖母はタオルで健一の首を絞めようとしたが、                         それはあやうく未遂に終わる。最終的に健一の面倒を見てくれたのは家出した母の従姉妹夫妻で                 その明るい森本家にはさく子という健一の姉代わりになる娘がいた。                               だが戦争によって、ふたりの運命は弄ばれてしまう。                                    前半では裁判員が推理/斟酌する健一の内面を、                                        後半は健一自身のトラウマそして悲劇に至るまでの道程を描いた多面的な物語。                             奇しくも木々高太郎が書いていてもおかしくないような出来である。

 

 

「黒眼鏡の貞女」は主人公の設定がユニークで、                                   按摩さんのような〝めくら〟に近い視力しか目が見えない女の薄幸を書くのかと思ったら、                   彼女は執念深い仕返しを企んでいた。同様に、                                 雑誌発表時のページ数が限られていたからなのか、エンディングが慌ただしいのがちょっと。                                    「怪奇探偵 運命の足音」は現代の商業出版なら腰が引けて収録を絶対見合わせるだろう。                       またポリコレ・クレーマーはこのタイトルに〝怪奇〟という単語が付いているだけで、                        「けしからん!」とカッカするんだろうな。汚れなき愛情が描かれているのに。

 

 

主人公の〝あたし〟は姉・波奈子と共に喫茶店を経営しており、                                    彼女達は弟代わりになりそうな可愛らしい少年給仕の章二を雇っている。                                ある日、仮面のように表情の無い顔をした奇妙な人物が店にやってきた。                            その男は「紫夫人」の怖ろしき使者だったのだ。                                   これは〝人攫い〟というものがありがちだった昭和前半の香りが漂うスリラー。 

妾の息子として生まれ育った伸夫少年。                                            隣人の三千代は夫の不貞と冷たさに鉛を飲むような毎日を送っている。                             そんな三千代は伸夫に自分の息苦しさを打ち明ける。                                 この作品の「恐ろしき弱さ」というタイトルはちょいと安直だったかも。                            

 

 

「幽霊の接吻」は幽霊話なのかイタズラなのか、                               微妙なオチをつけたハート・ウォーミングなよみもの。                                   「二つの遺書」はシリーズ・キャラクラーである広岡巡査はじめ警察の面々が温かさを見せる                   その分だけ余計に、交番に捨てられた幼児ミエ子の救われなさが際立ってくる。                     いや、探偵小説的な見所はそこじゃなくて轢死トリックなんだけども。                                最後の「あやかしの花」にも兇器隠蔽トリックが使われているが、                          この兇器は警察が現場を捜査に来たら、いくらなんでも見落としはしないだろ?と、                      ピュアな私は突っ込んでしまうのだった。

 

 

 

(銀) 小説そのものは面白かった。盛林堂の本じゃなかったら★5つにしたよ。              なんだろう、宮野村子にトリックは最初から期待していないけれども、                             彼女なりにトリックに取り組んでいる作品があると、そのトリック自体は独創性が高くなくても                やっぱりちょっと嬉しくなるね。地の文章がイキイキしているだけに。