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2024年12月13日金曜日

『津山三十人殺し最終報告書』石川清

NEW !

二見書房
2024年11月発売



★★★   もうそっとしといてやればいいのに




都井睦雄の存在をここまで肥大化させる原因を作ったのは、まぎれもなく横溝正史長篇「八つ墓村」(☜)である。いや、それだけなら「津山事件」は単に知る人ぞ知る戦前猟奇犯罪のひとつとして、「鬼熊事件」ぐらいの認知しかされなかっただろう。狂える殺人鬼と怖れられた反面、世間から同情の声もなくはなかった点において、睦雄の境遇は鬼熊こと岩淵熊次郎のそれに若干似ている。

 

 

時代が下り、影丸譲也の「八つ墓村」コミカライズに目を付けた角川春樹が横溝正史猛プッシュを始めるものの、メディアミックス商法にて仕掛けられた野村芳太郎監督映画「八つ墓村」(1977年公開)の巻き起こした過剰なブームは低俗な馬鹿騒ぎに過ぎず、横溝正史作品を一度も読んだことのない人々にまで、睦雄をカリカチュアした悪鬼のような田治見(多治見)要蔵の姿が伝播してゆく。それでもまだこの頃は「津山事件」そのものに対する好奇の目はそこまで露骨ではなかったような記憶があるのだけど・・・ただ、私の知らないところで「八つ墓村」狂騒の残滓に便乗しつつ、後述する筑波昭の著書は刊行されていた訳だが。

 

 

潮目が変わったのは、バブル崩壊した1990年代半ば。あの忌むべきオウム真理教の出現を境に、出口の見えない闇の隧道へ日本は迷い込む。地下鉄サリン事件発生後、堰を切ったかの如く酒鬼薔薇聖斗による神戸連続児童殺傷事件、あるいは世田谷一家殺害事件、過去の事例に当てはまらない陰惨な犯罪が多発。そんな時代の変化に加え、万人がネット環境を持ち、大衆が個々の閉ざされた空間へ引き籠るようになるにつれ、いつの間にか都井睦雄を偶像化する土壌が出来上がっていった。大袈裟かもしれないけど、そんな気がする。

 

 

                   🌺

 

 

現実社会の猟奇的事件を扱った本には煽情的に盛ってるだけのイカモノも少なくないし、二~三日ばかりよく思案した上で本書を購入。決め手となったのは当時の司法省刑事局が作成した例の『津山事件報告書』が複写転載されていたから。著者・石川清は元NHK記者の経歴を持つフリーライターで2022年逝去。五十七歳の死はあまりに早い。不慮の事故あるいは重患かと推測するも本書には死因の説明が無く、ネットで少し調べてみたがやっぱり不明。読む前からなんだか禍々しい。

 

 

都井睦雄を除く事件関係者の氏名表記は、過去の「津山事件」本に準じた仮名を流用し、『津山事件報告書』転載ページは黒塗りで処理(よく見ると実名が露出している箇所も)。或る章にて述べられていた内容が別の章でまた繰り返されていたり、無駄の無い論述とは言えないのだが、長年コツコツこの事件に向き合ってきた石川の気概は紙背から伝わってくる。「津山事件」本と無縁だったおかげで、既存の情報に毒されていなかった私はあちこち角を立てることも無く没頭できた。

 

 

とにかく「え ゙?」と思ったのは、都井睦雄の内面だとか彼を取り巻く周囲の目以上に、「津山事件」本の草分けと目されてきた筑波昭が(当Blog的には黒木曜之助と呼んだほうが通りがいいかな)最初に上梓した『津山三十人殺し~村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか』(1981年刊)から、その後の同書改訂版に至るまで(旺文社文庫『惨殺~昭和十三年津山三十人殺しの真相』/新潮OH文庫『津山三十人殺し~日本犯罪史上空前の惨劇』)、自分で捏造したとんでもないフィクションを垂れ流していた事だなあ。もっとも「津山事件」本をチェックしてきた読者には以前から周知の事実だったみたいだけど。

 

 

〝内山寿〟という名の架空の人物を捻出、〝内山〟が睦雄を好色の道に走らせ、また匕首を調達してやったことにしていたり、「津山事件」の二年前世間を騒がせていた阿部定まで持ち出し、睦雄が自分に阿部定をダブらせていたことにしたり、矢野龍渓の作品「浮城物語」を盗用して、睦雄が「雄図海王丸」なる自作小説を書いていたことにしたり、いくら自分の本を売るためとはいえ、よくもまあ人の不幸を肴に、これだけの嘘八百が作り出せたもんだ。こんな人間が堂々と日本推理作家協会の会員になっていたことも、参考がてらお知らせしておこう。
(画像はクリック拡大して御覧あれ)



       

 

                   🌺

 

 

こんな風に私は呟いた。


これまで下山事件の関連書籍上にて飛び交ってきたまことしやかな数々の説に、どれだけ我々は翻弄されたか、思い返しただけでも苦笑してしまう。

柴田哲孝は木田にこう語っている。

〝荒井証言を初めて聞いた瞬間に、私は思いました。「ああ、俺ははめられたな」と。
今思うと、あの情報提供者は、本当の「現場」から私の目をそらせようとしたのでしょうね。
下山事件では決まって、核心に迫るジャーナリストが出てくると、
かく乱する情報を何者かが吹き込んでくるんです。〟

これを素直に受け取っていいものか・・・・ハッタリを吹聴するのは下山事件を追っているジャーナリスト本人なのか、それとも彼らが証言を得ようとしてアプローチする取材対象者なのか。いったい誰の言うことを信じたらいいか、もうよく分からんというのが正直な感想である。私が〝下山ビジネス〟などと揶揄したり、下山本に対して「承服しかねるところが多い」と言いたくもなる理由は、見えないところで作り話を捏造する輩がウヨウヨしている気配がそこはかとなく伝わってくるからなんだよな~。


危惧していたとおり、ありもしないことをそれ風にでっち挙げるやり口は、実録ドキュメントの界隈では日常茶飯事みたい。まあ探偵小説方面でも「旧江戸川乱歩邸の土蔵を乱歩は〝幻影城〟と呼んでいました」(☜)だの「江戸川乱歩は昭和5年頃『猟奇倶楽部』という雑誌の主宰者でした」(☜)だの、根拠の無い情報をばら撒く立教大学の一部のセンセイもいたりするし、目クソ鼻クソって感じかな。




そうそう、これは忘れずに書いておかねばならない。本書の肝である『津山事件報告書』なんだけど、原書見開き2ページ分の複写を本書1ページ枠に当てているため、文字が相当小さくなり、老眼ではない私でさえ読むのに難儀。貴重なこの資料を読破するには、虫眼鏡かハズキルーペが必要だ。原書1ページ分に対し、本書も1ページフルに使って複写転載するのが理想的だったが、本書からして既に800ページを超える厚みゆえ、これ以上ページ数を増やすのは無理っぽい。

また自殺した睦雄の写真や、彼に殺された村民の写真も縮小サイズで掲載されてはいるけれど、村民の遺体はどれも黒塗りで覆い隠されている。




「津山事件」に詳しくないワタシでも、よく調べ上げたなあと敬意を表したくなる一冊だった。だからこそ一言申したいのだが、いまだに犯人が誰か分からないのであればともかく、もうここいらで「津山事件」についてしつこく詮索するのは打ち止めにしたらどうよ。石川清はこの世を去り、1938年5月21日に起きた惨劇の現場をよく知る古老にしたって、寺井ゆり子氏も2016年には鬼籍に入られている。いまさら津山の山奥を踏み荒らしたり、ネタを取るべく関係者の遺族を追い回したところで新情報は出てきやしないさ。いい加減、そっとしといてあげたら?






(銀) 本書の中で、森谷辰也なる人物が「石川清さんの思い出~世界で一番津山事件に詳しい男」という文章を寄せており、同人誌『津山事件の真実』の制作者らしい。筑波昭も大概だが、自分の事を〝津山事件フリーク〟などと名乗るような手合いが研究者ヅラして幅を利かせているのには呆れる。



事件発生から九十年近く経っているとは言いつつ、大勢の人が無惨な殺され方をした事実は厳然として存在している。御一新より昔の話ならまだしも、近現代の岡山にて起きた大量殺人事件に対し〝フリーク〟などという言葉を使うその無神経さが信じられん。毎年倉敷にて横溝正史作品コスプレ集会を催している連中にしても、田治見(多治見)要蔵になり切ってヘラヘラしているところを被害者の遺族の方が目にしたら彼らがどんな気持ちになるか、一度でも考えてみたことがあるのだろうか。






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2024年10月14日月曜日

『下山事件~封印された記憶』木田滋夫

NEW !

中央公論新社
2024年10月発売



★★★★  「下山事件」はビジネス化してしまったのか




読む価値があると思った下山事件の関連書籍は何冊か紹介してきたけれども、西暦2000年という大きな時代の節目を迎えたあと諸永裕司/柴田哲孝/森達也らによって上梓された比較的新しめのものには、今一つ深入りできずにいる。彼らの主張を全否定するつもりは無い。しかし、疑り深い(?)私には承服しかねるところが多いのもまた事実なのだ。

 

 

ひとつ例を挙げるとすれば亜細亜産業。柴田哲孝は自分の祖父が亜細亜産業の一員で、下山事件実行犯に加わっていた可能性もあると述懐している。この辺の情報を初めて目にした時、「なんだって今頃そんな事実が浮上してきたの?」というのが私のファースト・インプレッションだったし、「話が少々うますぎやしないか?」とも感じた。

勝浦にある亜細亜産業の缶詰工場で下山総裁は殺されたと見做す説も然り。同じ千葉県でも浦安あたりならともかく、総裁が失踪した日本橋、そして屍体発見現場である綾瀬、この都内二カ所と勝浦を比較した場合、屍体を再び都内へ運び、衆目を集めさせる計画だったとしても、実行に移すとなると距離が相当離れすぎていて、現実味に乏しい。

 

 

どこまで行っても解決の糸口は見えない。あまりに下山事件の闇が深すぎるため、いつのまにか〝下山ビジネス〟なるものが芽吹いてしまったんじゃないか・・・・そんな疑問さえ抱くようになった私には例のNHK『未解決事件 File.10 下山事件』も、それっぽい実録ドラマを見せることのみ重視しているだけのpointlessな番組でしかなかった。

そうは言いながら、ちまちまチェックしていたネット連載もある。『讀賣新聞オンライン』にて令和412月から翌59月にかけてupされた「下山事件の謎に迫る」がそれで、筆者の木田滋夫は昭和46年生まれの読売新聞記者。今回取り上げる『下山事件~封印された記憶』はそのネット連載分に加筆、更に巻末資料をプラスするなど再構成した上で、紙の本として先日発売された。



                  



本書の中で鍵となるのは、新たに出現した三つの紙資料。
第一の資料は足立区立郷土博物館の文芸員が平成18年、下山事件の文献として広島の古書店から『改造』と『中央公論』の二誌を購入した際、一緒に挟まれていた事件当時の捜査資料と思しき『ガリ版資料』だ。昭和2412月にマスコミへリークされた『下山白書』とその『ガリ版資料』を見比べてみると、『下山白書』が自殺説寄りに結論付けられているのに対し、『ガリ版資料』のほうは疑義の問題点を箇条書きにした簡単な内容とはいえ、自殺にも他殺にも偏りの無いフラットな姿勢で綴られている。

 

 

二番目の資料は、神奈川で教師として働いていた永瀬一哉が旧知の間柄である本書の筆者・木田滋夫へ知らせてきた『下山事件捜査秘史 元東京地方検察庁検事 金沢清』という、昭和58年にタイプで打たれた八枚の文書。なんでも永瀬は自分の教え子から、「身内に下山事件を捜査した元検事がいる」と云われ、二度ほど金沢清と接見したそうだ。その時に金沢から手渡されたのが上記の『捜査秘史』だった。

 

 

これらの資料は量的に嵩張るものでなく、本書巻末に【資料編】として全文収録されている。結果的に明言こそしていないが、木田滋夫の視線は自然と他殺説側に向いている様子。下山事件が発生した直後に『読売』と『朝日』が他殺を主張していたことを盲信して、読売の記者である木田も最初から他殺説に凝り固まっていた訳ではなかろうが、どのみち本書の立ち位置を知っておくに越したことはない。



                  



新資料はもう一つある。
平成21年、前述の足立区立郷土博物館を訪れ、紙の束をホチキス止めしただけの『小菅物語』と題された自伝的な小説を置いていった来館者がいた。文芸員からその事を聞かされた木田は、『小菅物語』を書いた82歳の老人・荒井忠三郎を運良く見つけ出す。老人の住まいは下山総裁轢断現場の近所だった。その後、木田は十五年近くも荒井とやりとりを重ね、小説における創作と実話の部分とを切り分けるべく、各種証言を引き出すことに努める。荒井は令和5年7月死去。

 

 

或る意味では、このパートが本書のハイライトかもしれない。下山事件の頃、荒井が働いていた彼の長兄が経営する町工場〝荒井工業〟は総裁轢断現場から遠くない場所にあり、矢田喜美雄の『謀殺 下山事件』に登場する不審な外車が目撃された朝日石綿工場のちょうど裏手に位置するばかりでなく、荒井工業もまた亜細亜産業の系列であることが判明。木田が荒井から得た情報は100%裏付けが取れている訳ではないと断りつつも、綾瀬方面における謎のミッシング・ピースを埋める要素を内包していたのだ。

 

 

諸永裕司/柴田哲孝/森達也らの本の内容に対して私が思ったように、木田もまた荒井の証言について「話ができすぎている」と感じ、柴田哲孝のもとへ会いに行き、荒井証言から得た推理の鑑定を乞う。木田が導き出した〝線路轢断より前に総裁が殺害されていた現場を荒井工業の敷地内と見る説〟は柴田からすれば自著にて提示した〝勝浦殺害説〟とは相反するのだし、下山事件研究者としてのプライドもあるだろうから、木田の持ちかけた話を否定するどころか、一切耳を貸さぬ態度を取ることも予想されたに違いない。

ところが『讀賣新聞オンライン』~「下山事件の謎に迫る」最終回(☜)を見てほしいのだが、柴田は勝浦説の間違いを素直に受け入れている。これは一見出来そうで、なかなか出来る事ではない。私はちょっと柴田のことを見直した。本書にて明らかにされた新たな情報を踏まえ、今後アップデートされた柴田哲孝の下山本が再び世に出るかもしれない。



                  



柴田が木田の発見を尊重したことで、本書に対する好感度もグンと上がったけれど、拭い去れぬ疑問点は依然として残っている。昭和の時代は遠くなったにもかかわらず、下山事件について何か証言しようとする人々は、核心に迫るところを訊かれた途端、どうして皆一様に口を閉ざしてしまうのだろう?あの時分社会を取り巻いていた得体の知れぬ不気味さをリアルタイムで知っている彼らからすれば、いくら時が経とうと、刷り込まれた恐怖は抜けないのかもしれない。でもそれなら、第三者に読まれることを意識した思わせぶりな自伝小説をわざわざ書いたりする必要など無い訳で・・・怖い、でも言わずにはいられない・・・それが人の性(サガ)なのか?

 

 

これまで下山事件の関連書籍上にて飛び交ってきたまことしやかな数々に、どれだけ我々は翻弄されたか、思い返しただけでも苦笑してしまう。

柴田哲孝は木田にこう語っている。
〝荒井証言を初めて聞いた瞬間に、私は思いました。「ああ、俺ははめられたな」と。
今思うと、あの情報提供者は、本当の「現場」から私の目をそらせようとしたのでしょうね。
下山事件では決まって、核心に迫るジャーナリストが出てくると、かく乱する情報を何者かが吹き込んでくるんです。〟

これを素直に受け取っていいものか・・・・ハッタリを吹聴するのは下山事件を追っているジャーナリスト本人なのか、それとも彼らが証言を得ようとしてアプローチする取材対象者なのか。いったい誰の言うことを信じたらいいか、もうよく分からんというのが正直な感想である。私が〝下山ビジネス〟などと揶揄したり、下山本に対して「承服しかねるところが多い」と言いたくもなる理由は、見えないところで作り話を捏造する輩がウヨウヨしている気配がそこはかとなく伝わってくるからなんだよな~。






(銀) 本書は総論めいた内容でなく、240ページ弱のハンディな単行本だし、多くを望むのは無理だと分かってはいるのだが、せっかく著者が読売の人間ゆえ、社内にアーカイブされている下山事件関係の旧い写真が多数あるだろうから、それらを惜しみなく収録してほしかった。ネット連載時よりも写真の数が減っているのは大変残念。







■ 下山事件 関連記事 ■































2024年8月6日火曜日

『ミステリと他のよもやま話/付録EQインデックス』萩巣康紀

NEW !

同人誌
2024年7月発売



★★   PCで文章を書くのは意外とタイヘンなのだ




萩巣康紀がこれまで発行してきた同人誌には『マイナー通信』『マイナー・インデックス通信』などがある。それら全てに目を通している訳ではないが、萩巣といえばCD-Rも使って熱心に雑誌のインデックスを作成・提供している人というイメージが私には強い。今回の『ミステリと他のよもやま話/付録EQインデックス』は全276ページのうち、前半部分に短めのエッセイ130本、後半部分に【作家名順】【年月順】などテーマ別に分類した、雑誌『EQ』のインデックスを掲載している

 

 

エッセイはミステリだけでなく、自分の仕事/釣り/ビリヤード等の話題も織り交ぜ、自己紹介の意味合いがそれとなく込められている様子。わりと最近の情報に触れてあるし、これまでストックしてきたもののアーカイヴではなく、本書のため新たに書き下ろしているみたい。

ちょくちょく東海地方の方言が混じっていたり、ローカルな視点に重きを置いていたり、個人誌ならではの特色が感じられてGood。一つの項の情報量がほどほどなので気軽に読める点も良い。しかしながら誤字も目立ち、全体の作りが洗練されていないところは我慢して接する必要あり。後半のインデックス・パートでは特段気にならないのに、エッセイの文章となると誤入力があちこち見つかった。

 

 

著者は吉永小百合と同世代だそうだから、結構なご高齢とお見受けする。サユリスト・エイジは若い頃からからPCに馴染んでいないハンデがある分、デジタルな作業に長けていない人の割合が高くなるのはしょうがない。ただ若狭邦男の文章などを読んでいて思うのだが、ミステリマニアやらコレクターを自称している高齢の人達って、国語力もあまり高くない傾向にあるような気がするのは私の偏見だろうか?

 

 

自分自身、愚にもつかぬ文章をいつもBlogに連ねているから解るのだが、好きな分野のことしか書いていない筈なのに、誰にでも読み易く伝わる文章を書くのは意外と難しい。書き終えてすぐの時にはそれなりにちゃんと書けてるつもりでも、後日読み返してみると独りよがりで第三者に通じにくい物言いになっていたりしてゲンナリする。

Blog記事の末尾には【関連記事】と称して既出エントリのリンクを張っている。これをやる本当の目的は、かつて書き散らかした自分の文章がどうにも見苦しいので、【関連記事】として振り返りつつ、内容そのものは変えずに読点を増やしたり、細かい修正を行っているからだ。他にプラットフォームの問題もあるのだが、それは本日の記事と無関係だし、ここでは触れない。

 

 

話が横道に逸れたので本題に戻ろう。この本の著者もインデックスを作っている時はそこにあるデータをそのままタイプしてゆけばいいのだから、ミスをする確率はそう高くはあるまい。ところがエッセイは頭の中で自らの考えを逐一文章へtransferする負荷が伴う。さらにPCに打ち込んだ文章が普通に第三者へ伝わるだろうと自分では思い込みがちだが、実はそうなっていないことが頻繁に起こり得る。

私など一度upしたBlog記事を後で見返すと、「なんちゅう下手な文章を書いたのか」と毎回イヤになる。Blogまだ後から気付いて手直しが可能だけど、紙の本は製本してしまったら、そうはいかない。他人に読ませる文章は最低でも一晩寝かせて、見直しをした上で公にするのが本当は望ましい(自戒も込めて)。

 

 

文章の上手・下手は個人差があるだろうし、こういう同人誌の場合、ある程度欠点に目をつぶってあげることも必要だろうけど(私のBlogには目をつぶらなくて結構ですがね)、本書中に散見される「置いたのではないだろうか」「ヤオフク「ビリヤード界から足を洗って」等のケアレスな表記は、一度書き終えたあと時間を空けて見直しさえすれば十分防げたミスだから、もう少し気を配ったほうがよかったのでは?





萩巣康紀もワタシも自分で思いを巡らせて書いた自分の文章ゆえ、もし不備があれば自分が恥をかけばそれで済むが、読むに堪えないテキスト入力で物故作家の作品を汚すだけ汚し、法外な価格の本で金を巻き上げる善渡爾宗衛/小野塚力/杉山淳のような手合いの罪は重く、鬼界ヶ島へ流刑にでもしなければ(俊寛僧都か)、被害に遭った作家達は浮かばれまい。

本書にて萩巣も綺想社の高すぎる価格について疑問に思う問いかけこそしているものの、「他にもミステリだけでなく、ホラーなども扱い、レアなものも時々出されている(ママ)のでファンとしては嬉しいのであるが」といった具合に、あのレーベルの酷い訳文については何も語られていないし、むしろリリースを楽しみにしているフシさえ伺える。作家を冒涜する悪質な本を未だに買い続けて、何とも思わないですか荻巣さん?






(銀) どこまで行っても高齢のミステリ・マニアやコレクターは自分の所有する蔵書、そしてそれらの古書価値について、アピールせずにはいられない衝動に絡め取られている。これもいわゆる承認欲求って奴なのかな。萩巣康紀がそこまで極端に賤しいマニア&コレクターだとは思わないが、この界隈で真っ当な人を見つけるのはジャンボ宝くじで一等を当てるぐらいに難しい。



私が幼い頃、祖父はよく本を買ってくれただけでなく、こんな事も教えてくれた。

〝年を取ると目がよく見えなくなったり、集中力が無くなったりして、本を読む体力が失われるから、いくら山のように本を持っていたって読めなきゃ何の意味も無いよ〟

この教訓が叩きこまれているので、私は読みもしない本を買い込んだり、蔵書自慢をする人間になどならず、現在に至っている。そもそも自慢できるようなレア本なんて殆ど持ってないけど。






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2024年7月1日月曜日

『戦後出版文化史のなかのカストリ雑誌』石川巧(編集代表)

NEW !

勉誠社  カストリ雑誌編集委員会(編)
2024年6月発売



★★   最終目標はカストリ雑誌のデータベース完成




カストリ雑誌といえば昭和25年あたりまで出回っていた、定期刊行物として認められていない怪しげなブツの総称だと思ってきたし、本書にてフォローしている年代も昭和208月の敗戦から昭和2412月迄と区切られているけれど、近年はカストリ雑誌の定義がより曖昧になって、発行年度の該当範囲は昭和30年以降にまで更に広がっているそうだ。いくらなんでも昭和40年代に出たものまでカストリ雑誌と呼んでいいのか?と、私なんかは訝ってしまうが。

 

 

 

この本の編集代表・石川巧の「あとがき」によれば、もともと企画されていたのは『カストリ雑誌総攬』ともいうべきカストリ雑誌のデータベース。国内に残存している分の調査はもとより、メリーランド大学のプランゲ文庫にはかなりのカストリ雑誌が所蔵されているので、あちらへのアプローチも準備していたところ、例のコロナ禍が起きて三~四年ほどアメリカへの渡航が難しくなり、当初の予定は一旦ペンディング。仕切り直して制作されたのがカストリ雑誌の入門書的な内容を持つ、この『戦後出版文化史のなかのカストリ雑誌』という訳。

 

 

 

では本書の第一部、カストリ雑誌編集委員会の面々が「カストリ雑誌」主要30誌に選んだラインナップを見てもらおう。括弧内は各項目の執筆者である。

 

 

『赤と黒』(石川偉子)『アベック』(尾崎名津子)『ヴィナス』(石川巧)

『うきよ』(石川巧)『オーケー』(大原祐治)『オール小説』(石川偉子)

『オール猟奇』(石川偉子)『奇抜雑誌』(光石亜由美)『狂艶』(石川偉子)

『共楽』(光石亜由美)『サロン』(大原祐治)『小説世界』(石川偉子)

『新文庫』(大原祐治)『青春タイムス』(尾崎名津子)『性文化』(尾崎名津子)

 

 

『千一夜』(大原祐治)『探訪読物』(大原祐治)『にっぽん』(牧義之)

『ネオリベラル』(石川巧)『犯罪実話』(尾崎名津子)『ベーゼ』(牧義之)

『ホープ』(牧義之)『妖奇』(石川巧)『読物時事』(石川巧)

『ラッキー』(牧義之)『らゔりい』(光石亜由美)『リーベ』(光石亜由美)

『りべらる』(尾崎名津子)『猟奇』(光石亜由美)『ロマンス』(牧義之)
 
 
 

これら30誌の概要がそれぞれ約34ページ程載っていて、データの提示というより読み物として仕立てられている。「カストリ雑誌」と聞くとエロ・グロで煽情的な実話やら時事ネタ、それに得体の知れない人が書いた小説ばっかりじゃないの?と思う方もおられるかもしれないが、知名度のある作家(探偵作家含む)の名前も少なからず見つかる。そういう作家達の存在を示すことが本書のセールス・ポイントでもあるし、各誌に掲載されているめぼしい作品にはどんなものがあるか、(全て網羅している訳ではないにせよ)紹介されているのが嬉しい。

 

 

 

第二部は十四本の研究エッセイ。
そこには、当Blogにて以前取り上げた北川千代三『H大佐夫人』(☜)に言及した光石亜由美のエッセイ【北川千代三「H大佐夫人」と「其後のH大佐夫人」】も含まれている。「H大佐夫人」がわいせつ物頒布等罪に該当して罰金刑を喰らったというのに、北川千代三はよほどこの作品にこだわっていたのか、「H大佐夫人」の縮約版/続編/芝居/スピンオフまで懲りずに手掛けていたらしい。

 

 

 

惜しいかな、「え?」と思った点が一つある。
前述の光石亜由美エッセイ【北川千代三「H大佐夫人」と「其後のH大佐夫人」】、そして川崎賢子のエッセイ【サバを読む―『猟奇』と検閲文書】、その両方にて〝江戸川乱歩が戦前(1930年代)『猟奇倶楽部』なる雑誌を主宰していた〟と書いてあるのだが、通俗長篇が大ウケしていて連載の掛け持ちにヒイヒイ言っていたあの時期、乱歩が雑誌を出していたなんて、あいにく私は聞いたことがない。そんな事実あったっけ???川崎賢子、尾崎名津子、そして編集代表・石川巧の三名は立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターのメンバーなんだけどな。

 

 

 

カストリ雑誌って現物の〈奥付〉及び〈オモテ表紙/ウラ表紙〉に印刷されている発行年月さえ鵜呑みにできぬものもあるぐらい、作りはいい加減だし書誌データも杜撰。かつて山前譲が探偵雑誌のデータベース『探偵雑誌目次総覧』を頑張って制作したとはいえ、カストリ雑誌のデータベースを完成させるとなると、あれ以上の難行になるのは間違いない。各誌の創刊から終刊まで履歴を突き止め、歯抜けとなる欠号がひとつでも減らせるよう、どこまで追い込めるか。今後の成り行きを注意深く見守っていきたい。






(銀) 昭和中期~後期にかけて存在したビニ本なんかは、実態の掴めなさそうな点でカストリ雑誌に似ている。もしデータベースが完成できたら素晴らしいけど、完成に至るまでのハードルがあまりに高そうで、実現の目算は立っているのだろうか?






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2024年5月22日水曜日

『あぶない刑事インタビューズ「核心」』高鳥都

NEW !

立東舎
2024年5月発売



★★★★★   最初のTVシリーズ全51話は、今観ても面白い





 本日の隠れテーマ。
〝立東舎/リットーミュージックの出す本には、あなどれないものが多い〟
それはさておき、このところ映画『帰ってきた あぶない刑事』のプロモーションを目にする機会が多い。家の近所を歩いてたら、警察の防犯ポスターにまでタカとユージのツーショットが使われてるし、公開日5月24日の『オールナイトニッポンGOLD』には舘ひろしと柴田恭兵がフル出演するっていうけど、マジか?あの二人、七十代やぞ。

 

 

198610月から19879月までオンエアされた「あぶない刑事」の最初のTVシリーズだけは、LDBOX買って何度も観たぐらいだから、結構好きだったんだな~(未だBDに買い替えることもなく、LD所有のまま)。

でも後続の『あぶない刑事』(映画)→『またまたあぶない刑事』(映画)→『もっとあぶない刑事』(TV2ndシリーズ)→『もっともあぶない刑事』(映画)になると、〝シリアスさ〟〝サスペンス〟の邪魔にならない程度にやるべきだった〝おフザケ〟の部分が制御不能に陥り、絶妙なバランスでコンパクトにまとまっていたTV1stシリーズの良さはごっそり失われてしまう。私にとって「あぶ刑事」とは、毎週日曜夜9時に放送されていたドラマ全51話以上でも以下でもない。

 

 

『もっともあぶない刑事』のあと、ちゃんと観たのは1998年の『あぶない刑事フォーエヴァー』(TV+映画)だけか。どう足掻いたところでTV・1stシリーズの完成度を再現するのは不可能。ロングスパンな間隔を置き、その都度映画の新作が作られても「あ~、またやってるんだ」程度にしか思わない。いまさら「あぶ刑事」復活させてどうすんの?・・・・それが『あぶない刑事リターンズ』(映画)以降ずっと抱き続けてきた、偽らざる私の本音である。

ところが、何がきっかけで興味が再燃するか、わからないものだ。先月偶然見かけた新刊情報によると、舘ひろし/柴田恭兵ら出演者だけでなく、長きに亘って「あぶ刑事」を支えてきたスタッフの貴重な証言を集成した『あぶない刑事インタビューズ「核心」』という本が出るらしく、発売される前からネット上では「初期のあぶ刑事ファンこそ、これは絶対読むべき」みたいな期待感が漂っているではないか。ウーム・・・さすがに『帰ってきた あぶない刑事』を観る気にはなれんけど、この本はちょっと読んでみたい・・・。

 

 

♠ 版元の立東舎というかリットーミュージックは、2010年代に入って『ミック・カーン自伝』のような採算度外視の良い本をちょくちょく刊行してくれたり、最近では手塚治虫漫画の復刻もやっているので、チェックを怠ってはいけない出版社だ。また『あぶない刑事インタビューズ「核心」』の著者・高鳥都は1980年生まれ。TV・1stシリーズの頃はまだ幼い年齢だから、当時の雰囲気をどの程度把握しているのか微妙だったけれど、「必殺シリーズ」のマニアックなインタビュー本を立東舎か三冊出し、それらの評判は良いらしい。この出版社と著者の組み合わせでなかったら、本書を買ってみる気にはならなかったかもしれない。




♠ そんなこんなでTOWER RECORD ONLINEに予約注文しておいた本書が到着。結論から言うと、買ってよかった。スタッフ・サイドが全面協力していて、ここまで力の入った本はめったにお目にかかれないんじゃないの?あまりの面白さに一息入れる間も無く、むさぼるように一気に読み終えた。


 

再放送その他で幾度となく「あぶ刑事」を観てきた人であっても、セントラル・アーツをはじめ黒澤満/志熊研三/大川俊道といったスタッフ・クレジットに対し、何がしかの見覚えはおありだろうか?彼らの名前にビビッと反応する人でなければ、この本はディープ過ぎて咀嚼するのが少々大変かもしれない。それぐらい専門的で奥深い内容だと申し上げておく。

「あぶ刑事」立ち上げ時のスタッフにはハードボイルド・アクション時代の日活関係者が多い。それゆえ、彼らの証言を読んでいると「あぶ刑事」は日活アクションの最期の末裔だったことがよくわかる。つまりこれは「あぶ刑事」に対する検証であるのと同時に、今やその灯が消えようとしている日本産のアクション映画の検証でもあり、本書の内容を〝奥深い〟と表現したのは、そういった二重の側面を持ち合わせているからだ。






(銀) 世の中には批判する人もいるが、大川俊道が脚本を手掛けたTV・1stシリーズ第51話「悪夢」は、あれ以外には考えられない見事な最終回だと私は絶賛している。そ大川のX での最近の投稿が、本書ともリンクする興味深い内容で、X嫌いのくせに、ついついそちらも読みふけってしまった。

彼の脚本が「あぶ刑事」TV・1stシリーズにもたらしたものは、他のどの脚本家よりも大きい。大川俊道個人でも「あぶ刑事」の裏側を語り尽くした本を出してみたらどう?


 

 


2024年4月30日火曜日

『悪い夢~私の好きな作家たち』久世光彦

NEW !

角川春樹事務所/紀伊國屋書店
1995年10月発売




★★    作詞も手掛けた多才な人





 女中を雇えるほど裕福な戦前の家庭に育った彼は、どう見てもいいとこのボンボンTBSのプロデューサー・演出家だけでなく、のちに作家としても名を成した久世光彦が、自分の愛する作家について雑誌などに執筆したエッセイを一冊に纏めたのが、この本。

 

 

 

亂歩に還る1991年『銀花』に発表)

悪い夢~私の乱歩1993年『鳩よ!』に発表)

明智小五郎は二人いる1995年 講談社文庫〈大衆文学館〉『明智小五郎全集』に発表)

はじめに挿絵ありき~小説誌のなかに見る乱歩1994年『小説新潮』に発表)

乱歩の洋館1994年『太陽』に発表)

異形たちの蜜月1995年『別冊太陽』に発表)

 

 

ぬばたまの丸の内~海野十三の深夜の散歩1993年『銀花』に発表)

去年の魔都 いまいずこ~久生十蘭「魔都」1995年 朝日文芸文庫『魔都』に発表)

キネオラマの幻景~稲垣足穂(1991年『太陽』に発表)

外題がよければ、それでいい~私の鏡花(1992年『鳩よ!』に発表)

半七老の語り口~岡本綺堂『半七捕物帳』(1992年『小説新潮』に発表)

鏡の中に何かいる~岸田理生(1993年 角川ホラー文庫『最後の子』に発表)

 

 

陽炎小路はどこにある~虹二(ママ/虹児の間違い)・華宵・夢二
1994年 『大正・昭和のロマン画家たち』に発表)

覗き機械、のぞいてみれば~佐伯俊男(1995年 『佐伯俊男作品集・痴虫』に発表)

 

 

不良の文学、または作家の死~伊集院静と松井邦雄
1993年 講談社文庫『乳房』に発表)

ほんとに咲いてる花よりも~山口瞳『木槿の花』
1994年 新潮文庫『木槿の花』に発表)

たぶん一度死んだ人~山本夏彦という人
1994年 中公文庫『ダメの人』に発表)

 

 

 

吾輩は『猫』を読む(1993年『ノーサイド』に発表)

漱石が笑った(1994年『プレジデント』に発表)

『吾輩は猫である』の愉しみ(199394年『ドゥマゴ通信』に発表)

 

 

隠れ太宰(1992年『週刊文春』に発表)

隠れ野菊はいまもいる~伊藤左千夫『野菊の墓』
1991年 集英社文庫『野菊の墓』に発表

人に教えたくない一冊~小島政二郎『俳句の天才-久保田万太郎』
1994年『波』に発表)

『珈琲挽き』に思うこと~小沼丹1994年『新潮』に発表)

眩しい少年たち~大江健三郎(1994年『文藝春秋』に発表)

 

 

 

書物の夢 夢の書物~その壱・その弐
1989年『SPA!』/1995年『トランヴェール』に発表)

 

 

 

ドン・ファンの末裔たち(1989年『週刊文春』に発表)

私の読書日記(1992年『オール讀物』に発表)

本の森の散策(1994年『読売新聞』に発表)

題名のはなし(1993年『新刊ニュース』に発表)

遊びをせむとや(1994年『小説新潮』に発表)

あとがき






◆ 江戸川乱歩への思い入れでは人後に落ちない久世。
彼にとっての乱歩とはあくまで初期短篇、「蜘蛛男」やら講談社系の雑誌に書くようになる前のものに限ると強調。1935年(=昭和10年)の生まれなのに、「赤い部屋」「踊る一寸法師」「鏡地獄」なんかより世代的にジャストな筈の「少年探偵団」シリーズには〝こんなものを読んでいたら、可愛らしい子供向きの夢を見てしまいそうではないか〟と、大層ひねくれた事をおっしゃる。

 

 

 

そのわりに「人間豹」「緑衣の鬼」の挿絵を描いていたのは嶺田弘なんて、挿絵画家のことも詳しい。本書の出た95年頃だと、普通の人はまだこんな初出情報を手軽に知ることはできなかった訳で、な~んだ、通俗長篇の乱歩もしっかり雑誌で読んでるじゃないスか。

久世の最も愛する乱歩本は、当時の人が読んだと一様に口にする1931年(=昭和6年)に配本が開始された『江戸川亂歩全集』ではなく、その四年前(1927年=昭和2年)同じ平凡社から出た『現代大衆文学全集第三巻/江戸川亂歩集』。さりげなく岩田準一の話を持ち出すあたり、なんちゃって乱歩ファンの有名人とは違うね。

 

 

 

◆ 上段に記した本書の目次につき、(乱歩を含め)当Blogの趣味にフィットする項は色文字にしておいたが、それ以外に探偵小説とは関係なさそうな項の中でも、渡辺温/小栗虫太郎/夢野久作/長谷部史親/ウォールポールといった名前がポンポン出てきて楽しめる。私は久世と同世代の作家はどうでもよく、中でも大江健三郎なんて死ぬまで決して読むことはないと言い切れるけれど、久世がプラトニックな想い(?)を寄せていた向田邦子を巡り山口瞳への嫉妬を綴った文章あたりはなぜだか引き込まれるし、共感が持てる。

 

 

 

小沼丹について、私に影響を与えたのも本書。
いくらミステリの角書きが付いた『黒いハンカチ』『春風コンビお手柄帳』が現行本で出たところで、「村のエトランジェ」ほどに感じるものが無いのは久世のせい。

「孤島の鬼」の挿絵画家を岩田専太郎としていたり、本書の中に些細なミスが無い訳ではない。伊集院静や山本夏彦あたりはバッサリ切り捨てて、昭和前期以前の作家に絞った内容だったら、もっとヨカッタ。このエッセイは蔵書自慢厨とは真逆の、本を読むことがなによりも好きな気持ちがストレートに伝わってくるのがいい。

 

 

 

 

(銀) 天地真理の「♪ ひとりじゃないって~ すてきなことね~」とか、
ジュリーの「♪ 足早に過ぎて行く この秋の中で~ あなたを見失いたくないのです~」の詞を手掛けているのが実は久世であることは、ペンネームを使っていることもあってか、あまり知られていない。
 
 

 

 
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