2024年2月28日水曜日

『ゴア大佐の推理』リン・ブロック/白石肇(訳)

NEW !

仙仁堂
2024年2月発売



★★   リン・ブロックは知らなくても
             ゴア大佐の名前には見覚えがある筈




 日本ではリン・ブロックの作家名より、むしろゴア大佐というキャラクター名のほうで記憶されてきたんじゃないかな。


昭和10年、柳香書院からオファーを受けた江戸川乱歩は「世界探偵小説傑作叢書」と名付けられた一大企画に携わる。乱歩は海外ミステリの普及に貢献すべく、森下雨村と組んで積極的に作品選定・編集作業を行い、井上良夫にも助力を要請するほどの力の入れようだった。当初この叢書は全三十巻のリリースが予定されていた。しかし、フィルポッツ『赤毛のレドメイン一家』クリスティ『十二の刺傷』ミルン『赤色館の秘密』ノックス『陸橋殺人事件』メイスン『矢の家』の五冊を出したっきり、版元の事情で惜しくも中絶してしまう。

 

 

 

(本を買い込んだまま積んでいるだけの本の亡者と違って)純粋に読書を楽しむミステリ・ファンは江戸川乱歩の著書を読み耽り、「世界探偵小説傑作叢書」ラインナップの中に含まれていた「ゴア大佐の推理」とはどういう作品なのか、長年思いを馳せてきたに違いない。そのわりには海外ミステリをいつも取り扱っている商業出版社でさえ、リン・ブロックの作品を刊行する動きは(論創海外ミステリ『醜聞の館』の他には)皆無。戦前の刊行予定から遅れること約九十年、プライベート・レーベル仙仁堂が出したペーパーバックによって日本語訳の「ゴア大佐の推理」がやっと読めるようになった。簡素な本の造りは、POD(プリント・オン・デマンド)ではないらしい。

 

 

 

 これがワイカム・ゴア大佐ものの第一長篇。四十二歳の彼はそれほど若くもない年齢だが、この時点ではまだ探偵ではない。軍人の一家に生まれ育ったゴアは恵まれた青年時代を過ごし、第一次大戦が終わって退役したあとローデシアで暮らしたり、中央アフリカ探検隊に加わったりして充実した日々を送っていた。そこへ伯母の莫大な遺産が(彼を含む甥姪へ)分割相続される話が舞い込み、久しぶりに母国イギリスの地を踏む。

 

 

 

ゴアの幼なじみバーバラも今では、話下手でお堅い医師シドニー・メルウィシュの妻。そんな彼女だが、ありし日の軽率な男女関係が明るみになる手紙を握られてしまい、自分の旧友エセルの亭主になった男から強請られ続けている。夫へ実情を打ち明けることができないバーバラに泣きつかれるゴア。その矢先、バーバラを強請っていた男は車の中で奇妙な死に方をしていた。

 

 

 

車はメルウィシュ家のそばに駐まっていたので、死体はゴア達によってメルウィシュ家へ運び込まれる。妻バーバラがゴアに助けを求めているとは露知らず、夫シドニー・メルウィシュは周りに誰もいない自分の診療室で、死体の手の引っ掻き傷を拡大鏡で調べていたところ、一旦メルウィシュ家を発ったとばかり思っていたゴアが急に戻ってきた途端、あらぬ動揺を見せる・・・。

 

 

 

 本書をきっかけにゴア大佐シリーズを初めて体験したほうが、5~6ページにある主要登場人物21人のうち、主人公のゴアを除いた1/3ほどの人々に疑わしい裏の面があるよう感じられて、謎解きをフルに楽しめると思う。というのも、シリーズ第二作以降再び登場してくるサブキャラ達の行く末を知ってしまって本作を読むと、容疑の範囲が狭まり興味を削がれるからだ。


全体を俯瞰すれば、これはリンウッドの街の一角に限定された事件であり、スケール感や度肝を抜く派手な仕掛けは無い。ゴアをはじめ人間臭い登場人物たちの描写は、メロウになり過ぎると厭きてしまうが、その辺は抑制が効いていて、古典ミステリに興味のある人なら、そこそこ楽しめるだろう。

 

 

 

やっぱり気になるのは作品そのものよりも、プライベート・レーベルゆえの翻訳テキストだな。訳者の白石肇について、私は何も情報を持っていない。本書「あとがき」を読むとワセダ・ミステリ・クラブ出身の人らしい。ここでの翻訳文は極力易しい表現を選びつつ、それなりに語彙を使おうとしている痕跡も確かに見受けられる。


近年乱造され続けている非常識も甚だしい同人本のおかげで、この手のものには反射的に警戒心を抱いてしまうのだが、Amazonにおける本書の版元・仙仁堂の販売サイトを見てみると〝過去に出した本に「誤字脱字が多い」とレビューを受けたので、再版時に全体の見直しと修正を行った。〟と述べてあった。「どれだけミスがあろうが自分は悪くない。イヤなら買うな!」などとホザくどこぞの老人と違って、この制作者にはまだ誠意が感じられるし、本書にも誤字はあったけれど、それには目をつぶりたい。

 

 

 

とはいえ、東京創元社とか商業出版社のミステリ本でも時折見られる事例なんだが、「ゴア大佐の推理」は1924年(日本だと大正13年)発表作品なのに、その訳文の中で〝ドタキャン〟(252ページ)なんて言葉を使われると、食事の最中に口の中でジャリッと砂を噛んだような違和感が残る。旧い海外小説を何冊も翻訳し、一応プロっぽい顔をしている訳者でさえ時代を無視した言葉遣いをしているケースはあったりするから、翻訳業を生業にしている訳ではなさそうな白石肇を責めるのは、ちと酷かもしれない。然は然り乍ら、こういうのをいたずらに見過ごしていると、その作品と発表された時代との共振性はどんどん失われてゆくんじゃないか?

 

 

 

もうひとつ。バーティー・チャロナー(男性)という登場人物が出てくるのだけど、地の文にて何度も〝チャロナーくん〟と訳されていているのには、どうにも首を傾げてしまう。会話の中で誰かにそう呼ばれるのならともかく、普通は〝チャロナー〟と記すべきだろう。


原文に〝 Mr. Gore 〟とあれば、日本人なら〝ゴア氏〟〝ゴアさん〟などと訳すのが通例。ひょっとすると原文には〝くん〟に相当する英単語が存在している?一~二箇所程度ならばケアレスミスだと判断もできるが、本書には〝チャロナー〟表記と〝チャロナーくん〟表記が少なからず混在していたので、原文を確認するすべの無い私は非常に疑問に思ったのであった。

 

 

 

 

(銀) これから先、昔のミステリやSFが新訳で発売されるたび、その作品の書かれた時代に全くそぐわない言葉で訳された本が増えていくのだろうか。翻訳者の仕事が並以上なら良いけど、ハズレな場合も当然ある訳で、そんな風に翻訳者によって作品の印象を左右されるのが好きじゃないから、私は海外ものにはどっぷりハマらないようにしてきた。

 

 

 

 
   私が違和感を覚えるもの 関連記事 ■









2024年2月25日日曜日

『想い出大事箱~父・高木彬光と高木家の物語~』高木晶子

NEW !

出版芸術社
2008年5月発売



★★★★   やがて寂しき家族かな





高木彬光の長女・晶子による、一家の内幕を綴ったエッセイ。
内容は【第一章 作家高木彬光の周辺】【第二章 引っ越し話】【第三章 父・母・兄をめぐるエピソード】の3パートにて構成。言わずもがな、最も興味を惹かれるのは第一章。


なにせ私は北国生まれではなく住んだ経験もないので、青森には旅先での良いイメージしかないけれど、高木彬光からしたら冬が長いばかりか、早くに実母を亡くし継母とは確執の毎日だったため、さっさと縁を切りたい暗い故郷でしかなかったようだ。


 

 

昭和24年に天城一から彬光へ送られてきた「〝刺青殺人事件〟評」が高木家に保管されていて、それがそのまま紹介されているのだが、天城の物言いたるやKTSC(関西探偵作家クラブ)の一員らしく、どうにも口さがない。


「戦前戦後を問わず〝日本探偵小説界に於ける最良の作〟の一語につきる。しかし」

「〝刺青〟にはなんとVan Dineがノサバリ通っているのだろう!」

「殊に、小生の如き神経過敏のDSマニアにとって、許し難いのは、
貴兄の提起された古今未曾有・天上天下唯我独尊の名探偵神津恭介君の独創性の不足である。」

「この作を海外の佳品と比較して、(中略)小生の評価は、傑・佳・凡・愚・悪の五作に分ける。(中略)貴兄の作は凡作である。」


天城一のほうが一歳年上ながらも、ステイタス的には彬光のほうが上なのに、代表作をここまでとやかく言われるのだから、探偵作家という稼業も楽じゃない。


 

 

第二章では、晶子の生まれた宇都宮から都内へ高木家が移り住み、経堂~桜上水~豪徳寺~駒場~初台にて暮らした日々が語られている。時代が異なるとはいえ、私も長らく経堂に住んでいたので、ここいらはどこも勝手知ったる街だし、もう親近感しかない。だが鎌倉腰越に居を構えて以降の高木家は良い事ばかりでなく、昭和53年には代々木へ戻ってくるものの、今度は彬光が脳梗塞を患うばかりか、足を切断せざるをえないところまで病が悪化してしまう。

 

 

誰かが他界したり闘病に追い込まれる話は読んでいてツライ。それゆえ第三章の、トンカツ好きなエピソードや父・彬光の遺品整理をボヤくページに至るとほっこりする。彬光は占いにも没頭したので、そっち関連の裏話に頁が多く割かれるのかなと思ったら、一般的に男性より女性のほうが占いに頼りがちな傾向があるとはいえ、晶子は何事も占いに左右される彬光が大嫌いだったそうだ。その気持ち、よくわかる。度が過ぎて信心深くなったり、一度嵌まってしまうと身近な人の忠告も耳に入らなくなるから危ない。

 

 

あとがきで著者は、こう締めくくっている。


「自己中心で我が儘そのものだった父、親であることより妻であることを優先した母、
喧嘩もしなかったけれど仲も良くなかった兄・・・みんな嫌いだったけど、
でも死なれてみると好きだったのかな・・・なんて・・・
決して仲の良い家族ではなかったが、三人を看取った私の、
これは高木家へのレクイエムである。」


う~ん、含みのある言葉だなあ。いやでも晶子さん、誰ひとり仲違いせず、ひたすら幸せしか知らない家族なんて、きっとこの世にはいない筈ですから。
 

 

 
 

(銀) そろそろ高木彬光作品を記事にしなくちゃな・・・と思いつつ、探していた本がライブラリーにて見つからなかったので、前にも少々触れたことのある、このエッセイに差し替えた。高木晶子氏は今でもご健在と聞いている。

 
 

 

   高木彬光 関連記事 ■

















 


2024年2月23日金曜日

『ゴルドン・ピム物語』エドガア・アラン・ポオ/岩田壽(訳)

NEW !

春陽堂 世界名作文庫 四三二
1933年3月発売



★★★★★   南極海の白き巨人




 オールドスクールな海洋探検小説にして、ポオ唯一の長篇。ヴェルヌやウェルズより先にSFの分野をシレッと開拓していたとは、この人の先駆者ぶりも神懸かってますな。ポオの短篇から窺える神経質なレトリックは、詩的で濃密。仮にストーリーの情景描写を映像のカメラワークに喩えてみると、(同じ海を舞台にした内容でも)渦巻に呑み込まれる卑小な人間の恐怖をスローモーかつ雄大なヴィジュアルで捉えた「メエルストロウム」に比べ、人の動きの多さなども考慮してか、本作は短篇の時より若干カジュアルなフレームでもって活写。

 

 

 

☪ この長篇は、探検から帰還したアーサア・ゴルドン・ピムの手記を基にしている。

冒険に憧れていたピムは、親友アウグスタスの父・バアナアドが船長を務める米國帆船グラムプス號に忍び込もうと計画。それが実行可能であったのは、アウグスタスも彼の父と共にグラムプス號に乗船するため。

さて、恙なく船は出航。船倉に潜んでいるピムはアウグスタスが呼び出してくれるのを何日も何日も待ち続けているけれど、そんな気配が一切感じられない。それもそのはず、ピムの知らぬ間に乗組員達が暴動を起こし、バアナアド船長は殺されていた。グラムプス號は乗っ取られていたのである。

 

 

 

本書に没入していると、或る特徴に気付く。(最初の数章こそ僅かにあるにせよ)登場人物同士の会話というものが全体を通して、まったく鍵括弧(「○○○○」)で表現されていないのだ。これはポオが能動的にそうしたのか、あるいは自然とそういう風に落ち着いていったのか、推測するしかないとはいえ、(オーギュスト・デュパンの登場する)論理的作品で会話の応酬を重んじているのと異なり、「メエルストロウム」や「陥穽と振子」など恐怖小説の場合、一人称の語りが優れた効果を生み出すことを偉大なるポオは実践してみせてるんだな~と、私は勝手に感心するばかり。

 

 

 

前半のハイライトは、咽喉の渇きや空腹によって極限状態に追い込まれた人間がケダモノと化すカニバリズム(!)の場面。とはいっても、19世紀の小説だから目を背けたくなるほど煽情的ではないが。嵐に襲われグラムプス號は崩壊、理性を失ったも同然のピムたちが死と隣り合わせの状態で漂流し続けるくだりをクライマックスに位置付け、この流れのまま幕を下ろすのも一つの選択だったかもしれないけれど、話はまだ終わらない。

 

 

 

☪ 幸運にもピムたちは貿易船に救出され、その船に受け入れられて一行は南極へ向かう。創作ではない現実の人類が南極大陸を発見したのは、1800年代前半と云われている。南の極地についての知識は、本作(1837年発表)を執筆していた頃のポオにはまだ無いと思われるし、おそらくここに書かれているランドスケープは架空のイメージだろう。水温や気温の数値なども想像で書いていたって不思議は無い。

で、一行は未開の群島に住んでいる野蛮な土人の集団と遭遇。酋長トオ・ウイトをはじめ、最初はピムたちに親しく接してきた土人どもだったが実は・・・というのが後半の粗筋。要点だけを紹介してきたが、これ以上は伏せておかねばなるまい。

 

 

 

まだ本作に接したことの無い方は今日の記事をここまで読んで、「後半やや盛り下がりつつ終わってしまうの?」と思うかもしれない。おっとどっこい、最後に意味不明な謎のラストシーンが待ち構えているんですね~。

幻想的な白い瀑布に向かって(このあたり、原作「デビルマン」の結末にも似た神聖な空気に包まれている)、ゆっくりと進むボートの上でピムが目にする〝人間とは比較にならないほど遥かに大きく、雪よりも純白な皮膚の色をした、人の姿をしたもの〟とは果して何だったのか?そこまで回想の手記を書いたところで肝心のピムが自殺してしまっており、最終的にどうやって彼は極地から生還したのか解らぬまま、The End

 

 

 

☪ 世界中どこを探しても、本作を「一部の隙も無く構築された長篇」だと誉めそやす人はまずいないだろう。期せずして江戸川乱歩が矛盾の無い長篇を作り上げるのが苦手だったのと同様、ポオも思いつくままエピソードを書き連ねた結果がコレだったのかもしれない。それでも凡庸な探検小説に終わらず、21世紀のいま読んでも作品の中に【イヤ~な感じ】や【神秘性】が保たれているのは立派だ。完成度だけ目を向けるなら★5つの高評価なんてありえない。それでも私は本作の【荒々しさ】と【不穏さ】を買う。テケリ・リ! テケリ・リ!

 

 

 

 

(銀) 本書の訳者・岩田壽(=岩田寿)だが、ネットで調べてみても、他にどんな訳業があるのか見つけられなかった。岩田寿の訳による「ゴルドン・ピムの物語」は2006年にゆまに書房が発売した『昭和初期 世界名作翻訳全集』のうちの第二期第69巻(本体価格4,300円)として復刊されているようだが、オンデマンドなんで、おそらくそこにも彼のキャリアに言及した解説は載っていない気がする。そもそもこのオンデマンド版、今でも売ってるのかな?

 

 

巻末に付された「譯者の言葉」を読むと、以前からすでに「ゴルドン・ピム物語」は訳していたらしく、この春陽堂世界名作文庫に入ることが決まって、訳し直そうとしたのだが実行できなかったという。「ついては将来もっと良心的な改訂をしたい」と述べているが、少なくとも岩田寿名義ではそのような改訂はなされていない。

 

 

翻訳者としてどれぐらいスキルがある人なのか皆目見当もつかないけれど、戦前の翻訳レベルを鑑みても、精度がもうちょい高かったらな~、と思った。本音を言えば、渡辺啓助・渡辺温兄弟の訳で本作を読めたなら、それこそ至福だったろう。

 

 

 

   エドガア・アラン・ポオ 関連記事 ■












2024年2月18日日曜日

『讀切傑作/スパイ捕物帖』

NEW !

今日の問題  大衆文藝戰時版4
1941年5月発売



★★★    猟奇も淫靡も無かったことにする昭和16年




パールハーバー・アタックで日米が開戦。その半年前、【大衆文戰時版】と名付けられた叢書の一冊として、本書は刊行された。巻末に打たれた広告のラインナップを見ても、殆ど時代ものばかり。捕物小説に身をやつすか、もしくはスパイ間諜小説で御国への従順を取り繕うしかなかった探偵小説の肩身の狭さよ。

 

 

【大衆文戰時版】

1.     本社編󠄁輯部編      『捕物名作帖』

2.     同           『特選讀切小説傑作帖』

3.     同           『大衆讀物傑作帖』

4.     同               『スパイ捕物帖』(本書)

5.     野村胡堂著       『隱密捕物帖』

 

6.   横溝正史著       『紫甚左捕物帖』

7. 角田喜久雄著      『仇討捕物短篇集』

8. 村雨退󠄁二郎著      『幕末維新小説集』

9. 國枝史郎著       『武俠仇討短篇集』

10. 角田喜久雄著      『勤王武俠小説集』

 

11. 山手樹一郎著      『讀切時代小説選集』

12. 湊邦三著        『源七捕物帖』

13. 山本周五郎著      『浪人一代男』

 

 

『大衆文藝戰時版』刊行趣旨を謳う最終頁のうち、次の部分は大衆文学を研究する人の一助になるかもしれないので転載しておく。 

 

〝近來本書が線への慰問書として活用せられ、銃後の家庭に、農村に、工場に多數愛讀せられつゝあるのに鑑み、小社如上の刊行趣旨を巖守して、内容を選定し過去の大衆文藝の持つ獵奇性と淫靡性とを拂拭した健全なる大衆的魅力に富んだ文藝作品を戰線に銃後に汎く贈らんとするものである。〟 

 

つまり【大衆文藝戰時版】の単行本は千人針なんかと一緒に慰問袋に入れ、戦地にいる日本兵へ送るためのアイテムとして発売されたようだ。上記に挙げた刊行趣旨にある〝内容を選定し過去の大衆文藝の持つ獵奇性と淫靡性とを拂拭した健全なる大衆的魅力に富んだ文藝作品〟みたいな文言を目にすると、ポリコレの如き奇病が生まれるはるか昔から日本人というのは、それまで歩んできた自らの轍を無かったことにするのがどうにも好きな人種だったんだなア、と薄ら寒い気分になる。

 

 

 

本書収録作品はこちら。 

時代小説「夜霧の捕物陣」野村胡堂

間諜小説「上海」木村荘十

時代小説「維新夜話」山手樹一郎

科學小説「怪兵器の自爆」蘭郁二郎

 

若様侍捕物「埋藏金お雪物語」城昌幸

黒龍團秘話「孔雀莊事件」甲賀三郎

鷺十郎捕物「いろは政談」横溝正史

間諜小説「混血の娘」大下宇陀児

 

 

 

捕物小説と探偵小説が半分半分とは、戦時下ならではの珍妙なセレクション。時代ものではない作品のみ簡単に触れておくと、木村荘十の「上海」はややこしいことに、『外地探偵小説集/上海篇』に収められていた「国際小説 上海」と作者は同じながら全くの別物。蘭郁二郎「怪兵器の自爆」はタイトルからある程度の内容を想像できるので、詳しい説明は要らないだろう。 

 

 

甲賀三郎「孔雀莊事件」は、まだ学校を出たばかりの新米刑事・塚越青年が主人公。経験不足な彼は探偵讀本から得た知識を頼りに、殺人事件を捜査する。日本の探偵作家がスパイ間諜ものでお茶を濁すしかない状況下、めげることなく探偵小説の存在意義を作中にてアピールしているのが甲賀らしい。大下宇陀児「混血の娘」に登場するルヰ子は、父をロシア人に持つハーフ。外国人の血が流れていると、今以上に差別的な目で見られていた戦前の日本社会。人情派の宇陀児がルヰ子にどんな役割を負わせているか注目。 

 

 

ご丁寧に本書は裏表紙にまで〝戰時下國民の健全娛樂 スパイに注意しませう〟の標語が入っている。大東亜戦争中あれだけパイに入りこまれて痛い目に遭いながら、21世紀になっても能天気なニッポンは相変わらずスパイ天国のまま。学習能力の無い人間ほど愚かな生き物はいない。

 

 

 

 

(銀) 昭和10年代後半に刊行された日本探偵小説のアンソロジーは、(出来の良い作品を期待し過ぎてもいけないけれど)その作家の著書に未収録な作品があったりして悩ましい。この年代のアンソロジーに一度収録されただけで消えていった短篇はそれなりに存在している。

 

 

 

   日本探偵小説アンソロジー 関連記事 ■




























2024年2月15日木曜日

『殺された七人の女』木内廉太郎

NEW !

治誠社出版部
1947年8月発売



★★   作品内容よりも、作者がどんな人なのか気にかかる




「殺された七人の女」(本書の扉頁、並びに目次では「殺された七人の娘」と表記)

「レビュー劇場の殺人」

「赤髭の男」(若狭邦男『探偵作家発見100』では「未髭の男」と誤記されて紹介)

「死化粧の女」

「夜の歩行者」

 

 

 

木内廉太郎については、本書『殺された七人の女』、そして『影なき殺人』(「影なき殺人」「三人目の被害者」「赤錆御殿の殺人」の三篇を収録/19501月発行)、それ以上の情報を持っていない。単行本二冊とも発行元は足立区千住の治誠。探偵雑誌やアンソロジーに木内の作品が収録されていた記憶が無く、どういう人物なのか情報もゼロなので、とりとめなく推測してみるしかない。

 

 

 

お世辞にもこなれているとは言い難い文章。原稿用紙にペンを走らせている段階で作者が漢字に弱かったのか、もしくは本の発行時に(版元が空襲で焼かれて)満足な植字ができなかったか、普通に表記されておかしくはない漢字があっちでもこっちでも、ひらがなに開かれているのが目立つ。

 

〈例〉

一斉に        →       いつせいに

時折           →   ときおり

仰向け      →       あふむけ

暗澹たる     →       あんたんたる

到底    →   たうてい

推定    →   すい定

丹念に        →       たんねんに

血痕    →   血こん

 

こういう傾向は終戦直後の本や雑誌にありえなくないけれど、なにげに本書は戦前の旧い漢字や表現も使われているし、青年らしい筆の蒼さが紙背から伝わってこないので、当時の木内廉太郎は既にある程度の年齢を重ねていたのかもしれない。

 

 

 

ここに描かれているのは、敗戦ですさみきった東京の犯罪。杉本三郎という探偵が「殺された七人の女」「レビュー劇場の殺人」「死化粧の女」に登場するが、おしゃれ好きな妻がいる事の他に、さしたる特徴は見当たらない。「死化粧の女」の文中にて(岡本綺堂の)半七に触れてみたり、作者が捕物小説の読者であることを匂わせるくだりはあっても、執筆を生業にしている人の仕事には思えぬ。おそらく文筆業とは無関係な市井の存在で、戦前からの探偵小説好きが高じたため、それっぽい小説を幾つか書いてみた、そんなところじゃないかな。全然違ってたら大笑いだね。

 

 

 

(銀) 若狭邦男『探偵作家発見100』における木内廉太郎の項では、本書より先んじて発行された「木内廉太郎探偵小説傑作選集」と称する五冊の小冊子(?)『レビュー劇場の殺人』『殺された七人の娘』『岩崎家の殺人事件』『赤髭の男』『死化粧の女』に言及している。これらの小冊子発行元は世田谷区北澤のルパン社であって、足立区千住の治誠とは異なる。

 

 

本日の記事にupしたこの仙花紙本では「殺された七人の」になっているが(以下、下線部は私=銀髪伯爵による)、「木内廉太郎探偵小説傑作選集」では「殺された七人の」表記。治誠版で再発する機会に〝娘〟から〝女〟へと変更したのだろうか。それでも本書の扉頁と目次では〝娘〟のまま、変更し忘れている。

 

 

「木内廉太郎探偵小説傑作選集」の『レビュー劇場の殺人』『殺された七人の娘』『赤髭の男』『死化粧の女』がそのまま本書に再録されているのであれば、当然「岩崎家の殺人事件」って「夜の歩行者」のことかと早合点してしまいがちなれど、本書に収められている「夜の歩行者」を読んでも、岩崎家なんて一家は出てこない。ルパン社版「木内廉太郎探偵小説傑作選集」を手にしたことがないから確実とは言えないものの、「岩崎家の殺人事件」だけは治誠の二冊の単行本に入っている作品と重複していないようだ。

 

 

作家として特に名を成してもいないのに、「木内廉太郎探偵小説傑作選集」と銘打って予約広告を打ってみたり(本当に予約を募ったのかな?)、杉本三郎を有名な名探偵にしたり、そんな行動もアマチュアらしい稚気の表われに違いない。

 

 

 

    戦後のレアな探偵小説仙花紙本 関連記事 ■






 

 


2024年2月13日火曜日

『上を見るな』島田一男

NEW !

講談社 ロマン・ブックス
1959年7月発売



★★★    登場人物の跳ね過ぎる口調が難点





 どの本だったかウッカリ失念してしまったけれど、小林信彦が〝講談社版「書下し長篇探偵小説全集」の中では島田一男の『上を見るな』が良い〟褒めていた覚えがある。これが弁護士南郷次郎シリーズ第一作になるんだっけ。

ストーリーは彼の一人称で進行。島田一男の数あるシリーズものを私が読み尽くしていないからそう思うのかもしれないけれど、かつては学徒出陣兵として航空隊の一員になり、人生のうち最も楽しい筈の青年時代を御国のため奉公させられた世代のわりに、南郷次郎暗い影を全く感じさせない。この点について、あとで突っ込ませてもらう。

 

 

 

◉ 長崎の大地主・虻田家は複雑怪奇な血縁関係を成しており、遺産相続も容易ではない状況。また、虻田家所領地の一角は海上自衛隊砲撃訓練地として接収されそうな計画があって、虻田家と在住農民漁民は共に反対している。金庫部屋と呼ばれる自室に引き籠っている虻田家の当主・虻田一角斎老人は、落下物恐怖症という世にも奇妙な病気の持主。虻田家の一員である虻田弓彦に大学時代の学友として懐かしさを抱く南郷次郎は、東京に居を構えている虻田章司・剣子夫妻の依頼を引き受け、長崎へ発つ。

 

 

 

福岡の板付飛行場から列車に乗り替えて虻田家へ向かう途中、いきなり南郷はデッキで何者かに突き落とされそうになり、この弁護士が虻田家の問題に関与することを物語冒頭から犯人は既に熟知している気配が漂う。虻田一角斎の落下物恐怖症が何かしら関係しているのか解らぬまま、本作のタイトルに乗っかるような殺され方で、虻田家の人間や重要な目撃者の女性が次々と命を落とすのだが、疑わしい顔ぶれには皆アリバイがあり、犯人は簡単に尻尾を掴ませない。

 

 

 

◉ 「上を見るな」というタイトルが、最終的な核心に繋がっているかといえば、それほどでもないのが惜しいとはいえ、容疑の外にいた犯人へと徐々に辿り着くプロセスはよろしい。犯人の正体が暴露された時点で改めて序盤の部分をチェックしてみると、実は伏線が張られていたのがわかる構成も気が利いている。海上自衛隊砲撃訓練地のネタって、この物語にどれぐらい意味を持っているのかなあと訝りつつ読み進んでゆくと、最後にとんでもない結末が待っていたり。

 

 

 

ミステリとしての構造は良い。でも南郷次郎や南部刑事など、幾人かの登場人物の口調がチャラい・・・というと言い過ぎだが、いわゆるべらんめえ調なのは好きじゃないなあ。これは完全に私の偏食でしかないけれども、捕物小説やユーモア小説ではないのだから、探偵小説に描かれる登場人物の口調は、あまり跳ね過ぎていると全体の趣きを損ねてしまうことだってありうる。

 

 

 

 

(銀) 講談社版「書下し長篇探偵小説全集」は、


十字路』江戸川乱歩/『見たのは誰だ』大下宇陀児/
『魔婦の足跡』香山滋/『光とその影』木々高太郎/
『上を見るな』島田一男/『金紅樹の秘密』城昌幸/
『人形はなぜ殺される』高木彬光/『夜獣』水谷準/
『十三角関係』山田風太郎/『鮮血洋燈』渡辺啓助/
『黒いトランク』鮎川哲也


の十一冊から成る。『五匹の盲猫』角田喜久雄と『仮面舞踏会』横溝正史は未刊。初刊の函入り単行本は造本にあまり魅力を感じないため、同じ講談社の後発版であるロマン・ブックスで所有している。

 

 

上段でも述べたように、(それなりに明るいキャラ設定でもいいから)登場人物の口調さえ抑え気味にしてくれれば、本作は高評価にできるのだが。ただ、そういった装飾的なことに不満を感じないのであれば、何の問題もなく楽しめる内容である。

 

 

 

   島田一男 関連記事 ■








 


2024年2月9日金曜日

慾にまみれた悪徳レーベルとその盲目的信者が、自ら抗議できない小説家の作品を貶め続ける

NEW !

   

   
本日の記事なんですが、前置きとなるの段落は、いつもこのBlogを見て下さっている方には十分ご承知のことばかりですのでサクッと飛ばして、の段落より御覧下さい。
そうでない方はどうも御手数ですが、冒頭のから順を追ってお読み下さい。

いつものように、(☜)マークの左側にはリンクを張っています。

 

 

 

今でこそバッサリ見限っているけれど、まだAmazonへレビューを投稿していた平成の頃、私が一番に消えてなくなれと念じていたものは、社会の考え方が現在とは全く異なっていた昔の創作物に対し、人権云々を振りかざしてそれらの存在意義を消してしまおうとする集団、そしてそれに怯え弱腰対応しかできない商業出版社やメディアの自主規制病だった。


ところが令和になると、コロナの蔓延と足並みを揃えるかのごとく、予想もしなかった(コンプライアンス以上に理解不能な)新手の問題が蛆(ウジ)のように湧いてきて。言うまでもなくそれは、溢れかえるほど本を所有しているのに一切読むことなく、次々新たに本を買わずにはいられぬ購入依存症の探偵小説/SFオタク中高年を狙った悪徳プライベート・レーベルの同人本

 

 

 

 

コミケや通販で売られている同人本はおそらくどれも、属するジャンルの違いはあれ、普通に常識的なテキスト入力で制作され、販売ルートに乗っている筈だ。しかし(湘南探偵倶楽部もそうなのだが)小野塚力/杉山淳/善渡爾宗衛のレーベルが垂れ流す同人本はあまりに酷い。

 

 

綺想社(☜)

レアな海外小説の原文を翻訳ソフトでお手軽に日本語化。せめてそのあと日本語として自然な文章に修正すればいいものを、そういう手間のかかることは絶対しない反面、同人本としては法外な価格を付けて販売。 

 

東都我刊我書房(☜)

創作であれ翻訳であれ、日本語で発表された国内作家のレアな作品を復刊するレーベル。こちらも一旦テキストを入力したあと、一度たりとも再チェックをせずに製本するものだから、 

ましいブルドッグ〟〝マッチを取おとす〟〝味がわるくて生きた心持もしない〟 

といった噴飯物な文章まみれのまま、
やはり同人本として常識から並外れた価格で販売。

 

 

で、伝え聞く小野塚力/杉山淳/善渡爾宗衛らの言い分を、
この私が通訳してみると、こんな感じになる。 

「俺らはレアなものを復刊してやっているんだ、

どんなにテキストが崩壊していようが、おとなしく黙って読め!」 

幾度となく当Blogにてお伝えしてきたように、彼らは左川ちかを醜い書痴マニアだけの愛玩物にするべく島田龍に度々妨害+恫喝行為さえ働き、それとは別に、他でも無礼な振る舞い(☜)を行っている。

 

 

 

 

かくかくしかじかの状況にも〈ミステリ復刊に関わる業界の人間〉〈自称ミステリ(SF)・マニア〉〈ミステリ(SF)読み〉〈古本ゴロ〉といった連中は完全沈黙するばかり。つい最近では笑えることに、ミステリ本の所有価値自慢にいそしむ一部の輩にSNS上ですっかり踊らされている呉エイジ(☜)という人物が、たぶん小野塚力あたりからもそそのかかれたのだろう、「言っていることは正論だし、ミステリに愛情のある奴なんだろうが、銀髪伯爵は幼稚でキモイ!自分で本を作ってみろ!」とXや自分のブログを舞台に大騒ぎしたようである。SNSなどやらない私からすれば、労せずして当Blogの記事を世間に広めて頂き、誠に有難い限り。

 

 

 

クオリティーからして売る資格も無い東都我刊我書房の同人本を、積読状態のまま一度も開いてないのならいざ知らず、あのテキスト入力状況を知った上で全面肯定するほど重度の購入依存症に侵されているのだから、どうにも憐れというか、往年の釈由美子の名ゼリフそのまま「お逝きなさい」と言うほかない。私のことなんぞ一向にキライで結構だが、この呉エイジという御仁は自分のチンケな所有慾以前に、見るも無残な本作りの態度を善渡爾宗衛らが改めず、この世の人ではないため自分の口で抗議することもできない故人作家の大切な作品を貶め続けるその傍ら、さんざん私腹を肥やしている現状をもし知ったら著作権継承者の方々はどう思うのだろう?とか、作者サイドの痛みをちっとでも想像できないのかねえ。

 

 

 

十年ちよっと前から探偵小説の同人本を制作・販売する人は徐々に増えてきた。探偵作家の親族や著作権継承者の立場から、表立って作品復刊に際し明確な意思を表明した人というと、夢野久作の孫・杉山満丸氏ぐらいしか私は思い当たらないけれども、綺想社や東都我刊我書房のように他人の創作物を踏み躙ってまで金儲けしているような奴がいたら、自作を守る思いが人一倍強く不幸にも自死にまで追い込まれた芦原妃名子でなくたって、著作権継承者にあたる人は間違いなく傷付きもするし、強い怒りを抱くに決まってんだろ、と私は考えている。

 

 

 

なぜだか海外作品を主軸に読んでいる好事家のほうが純粋に読書を楽しんでいるというか、日本探偵小説のレア本を買い集めている手合いにありがちな見苦しい拝金主義が少ないように感じるのは気のせいかしらん?昨年末、この記事(☜)にて『Re-ClaM』の三門優祐に私の疑問を投げ掛けてみたところ、彼なりにすぐ反応してくれて、この場で御礼申し上げる。Xでの三門のポストに反応した数名の方のコメントのうち、「真っ当な考えの人も、いない訳ではないんだな」と私が感じたものを此処に紹介して、今日の記事は終わりたい。





























 






 







悪徳レーベルの所業は、古書店からも疑問の眼差しを向けられている。







(銀) Gratitude to Mr. puhipuhi as well.