2021年7月19日月曜日

矛盾だらけの「下山事件」

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松本清張は自分の読書対象じゃないけれど、例外的にちょくちょく読み返す本がある。彼のノンフィクション代表作として名高い『日本の黒い霧』(昭和35年文藝春秋新社/初刊)がそれで、特に興味深いのは「下山事件」「帝銀事件」「松川事件」なのだが、今回は「下山事件」のみにスポットを当てる。

取り上げる書籍は「下山国鉄総裁謀殺論」収録の『日本の黒い霧』上巻(私の所有しているのは昭和49年初版の旧文春文庫/昭和58年第16刷)、それと、色々出回っている「下山事件」関連書籍のうち読むに値するものだと私が考えている矢田喜美雄『謀殺下山事件』(昭和48年講談社/初刊)、佐藤一『下山事件全研究』(昭和51年時事通信社/初刊)、この三冊だ。

 

                   


「下山事件」はGHQの統治下における戦後混乱期の日本にて起きた怪事件のひとつで、昭和世代の日本人なら一度は耳にしたことがあるだろう。昭和2475日朝の東京、当時の国鉄総裁だった下山定則が自分の公用車を降りて日本橋の三越に入ったまま失踪、日付が変わった76日午前0時半過ぎ、東武伊勢崎線と立体交差してガード下を走る常磐線北千住駅~綾瀬駅間の線路上で、轢死体となって発見された。

まったくの余談だが、NHKスペシャル『未解決事件』は何故こういった昭和前期の迷宮入り事件も取り上げないのだろう?時間が経ちすぎて直接取材できる関係者が殆ど鬼籍に入っているからかな。一回目の「グリコ・森永事件」は非常に見応えある内容だったものの、回を重ねるごとにあの番組はつまらなくなってしまった。

 

 

自殺なのか、事件性のある他殺なのか、この謎に対し死体発見直後より世を挙げて紛糾。松本清張は自著『日本の黒い霧』の中で扱っている事件の裏にはどれも敗戦後の日本共産化を懸念したアメリカの謀略があったと見ており、当然「下山事件」は他殺と見做して執筆されている。その『日本の黒い霧』がベストセラーになった影響で、殆どの日本人が他殺説を信じたのは至極ありがちな流れだった。

「下山事件」が時効を迎えたのは昭和397月。アメリカ統治も過去の出来事となり、ようやくGHQの検閲を受けず言いたい事を誰もが物申せる状況が訪れ、矢田喜美雄や佐藤一の著書が刊行され始めるのは、この時効以後であるのを踏まえておいてほしい。

 

                   


矢田喜美雄は事件当時『朝日新聞』の記者をしており、下山総裁の遺体を鑑定した東大法医の人々とも近しい関係にあった。東大/桑島博士のサゼスチョンを受けた矢田は、常磐線の現場で機関車が人体に最初に接触した位置より手前の線路にも血痕が残っているかもしれない可能性を求め、ルミノールを使って実地調査を行ったところ、血液反応が線路だけでなく土手下のロープ小屋からも発見された。その詳細な模様は『謀殺下山事件』にて語られている。こうして矢田は他殺説を代表する関係者のひとりとして知られるようになった。

 

 

それとは別に、時効成立と時を同じくして元・東大総長の南原繁を中心に下山事件研究会というグループが結成される。会員は松本清張/広津和郎/木下順二、その他法学のエキスパートが名を連ね、警察が自殺他殺の解明を放棄した「下山事件」を改めて検証するのが目的だった。当然彼らは他殺説を唱える論者の集まりであり、その研究会の事務局にならないかと声をかけられたのが松川事件容疑者グループのひとりで、昭和38年に無罪判決となり自由の身になっていた佐藤一。

 

 

佐藤も最初は他殺説の側だった。しかし自力で「下山事件」の調査を進めるうち次第に自殺説へ意見を変える。彼の最初の著書『下山事件全研究』はそれまで旗色が悪かった自殺説の信憑性を一気に高めるきっかけになったのは間違いない。なぜなら『日本の黒い霧』であたかも謀略の一味であるかのように書かれていた、常磐線を走る機関車に事件当日乗っていた機関士達にインタビューし、誹謗中傷に苦しんだ彼らの生の声を聞く事に成功していたからだ。

 

                    


ここからは、単なる一読者にすぎない素人の私がどうしても拭い去れない「下山事件」の疑問点を、ごく一部だがアトランダムに並べてみる。

 

              


Q: 『謀殺下山事件』には「自分は線路上へ死体を運ばされたのかもしれない」という、強盗の前科がある建設業S氏の発言が載っているが、死体の油については何も語られていない。総裁の死体(それも肌着のほう)からはかなりの量の油が検出されている。アヤフヤな情報ばかりの中で、これは素直に信じられる数少ないファクトだ。

それならば死体を土手の上へ運ぶ際に油のニオイが絶対していた筈なのに、S氏は臭いについて気付かなかったのか、何も語っていないのは不自然。この話は矢田が時効成立後にS氏本人から聞き取ったというが、『謀殺下山事件』を読んでもらうとわかるけれども、十年以上過ぎていながら事件当日の空の様子とか、そんな細かい事など記憶していられる訳がない。

 

 

Q:  私の持っている『謀殺下山事件』は新風舎文庫版(平成16年再発)で、ジャーナリストの和多田進が解説を書いている。そこで彼も指摘している如く〝75日の朝に家を出た時の総裁の着衣と、線路上で死体になっていた時の着衣が同じかどうか〟なぜこの本の中で徹底的にハッキリさせられなかったのか?という疑問もある。

まあ当時は捜査一課と二課が完全別行動で、しかも二課の主力だった吉武警部補は(実はGHQの 横槍ではなく別の理由だったそうだが)上野署へ配転、これからという時に強引な人事異動で、他殺として追っていた二課の面々は捜査から遠ざけられてしまったのだから、話にならんわな。



『謀殺下山事件』は手際よくまとまっていて読み易いけれど、何年も経って「自分は事件に関係していたかもしれない」などと言い出す証言者はどうも信じられん。しまいに〝夜の事件現場で下山さんの人魂がそれまでの捜査で気付かなかった血痕の跡を教えてくれた〟などと云われた日にゃ、なんだか小説みたいでリアリティが感じられない。朝鮮人暗躍説とて、まるで明治時代の安重根の幻影をいまだに引き摺っているような見方だし、ストーカーみたいに夜中電話をかけて脅してきたCICフジイなる人物の話などもどこか胡散臭い気がするし、今世紀に入る直前になって続々と刊行されている柴田哲孝/森達也らが書いた近年の「下山事件」本の売りになっているその手の情報は相手にせず、私はスルーしている。


 

             

 

一方自殺だと仮定しよう。下山総裁はずぶとい神経の人ではなかったとあちこちに書いてある。さらに自殺説を掲げていた『毎日新聞』の記者・平正一は『生体れき断』なる著書を昭和39に発表この本も時効が成立した年の刊行だ)、総裁は米軍から強要される国鉄職員の大量人員整理に悩んだ挙げ句、初老期欝憂症になっていたため自殺したと見ており、佐藤一の『下山事件全研究』でも最後はこの病気にふれてクロージングしている。

 

 

Q:  これを信じるのなら、総裁は日本橋からフラフラと一人で小菅方面へ向かい、現場付近で何人かの人に目撃されたあと、深夜になって線路に横たわり自らを機関車に轢かせた事になる。発見後の解剖では、総裁はなにか特別な薬を飲んでいた形跡はなかったらしい(この頃下痢気味ではあったようだが)。

もし初老期欝憂症だったとしても、本来繊細な性格の人が線路の上にほぼ垂直な体勢に横たわり素面で機関車に轢かれるのをじっと待っていられるものだろうか。すぐそばまで機関車が接近してきたら恐怖でじっとしていられず、瞬間その場所から逃げようと動いてしまうのではないか。そしたら車輪に巻き込まれるだけで、垂直にまっすぐ寝ていない状態であっても両足首がこんなにうまいこと切断されるかな?ちなみに、この疑問は当初木々高太郎も呈していた。

 

 

Q:  もひとつ言うと、下山総裁の死体はどういう訳か発見時に血液が殆ど残っていなかったから(これも動かし難い事実)、松本清張は米軍が総裁を拉致し血を抜き取って殺害、そのあと自殺に見せかけるため死体を線路上に置く犯行手順を推理した。しかし発見後の解剖で、轢断時に負った傷以外に注射針の跡の有無がどうだったかは明快ではない。局部が内出血していたそうだが、もし機関車に轢かれて陰茎と睾丸が内出血する可能性が無いのならば(要するに自殺だとするなら)、総裁の局部の内出血は何によってもたらされたのかという事になる。

 

                     


なんともアバウトに書き連ねたが、このように自殺だろうと他殺だろうと「下山事件」は辻褄の合わない事だらけなのだ。だから特に信じられる一冊なんて挙げられないのだけど、当時の各紙報道を漏れなく収録している『下山事件全研究』は、ボリュームの点では頭ひとつ抜けている。この本は平成21年にインパクト出版界から再発されたが、またしても価格が高いので旧版を古書で安く入手するのを薦めたい。

『謀殺下山事件』は現在祥伝社文庫から再発されているが、私の持っている新風舎文庫は一部の人名をイニシャルへ変えてしまったりしているので、『日本の黒い霧』もそうだが、なるべく旧い版で読むほうがいいかもしれない。




(銀) この事件は本当にツッコミどころ満載で、他にも日暮里駅で発見された落書き、いわゆる「5.19下山缶」って何だったんだ?とか気になる点はあるけれど、それはまた別の機会に。


今回取り上げた三冊には載ってないのだが、当時の探偵作家も意見を訊かれて江戸川乱歩/横溝正史/水谷準/香山滋/高木彬光といった殆どの作家が他殺説を採った。唯一、最初は他殺説派だった木々高太郎が自殺説に変更。木々の属する慶応大学医学部の中館久平が自殺説の代表みたいな人だったから、そこには木々もそっち側へ意見を変える理由があったと云われている。