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2022年4月6日水曜日

『狂人館』大下宇陀児・外

NEW !

東方社
1956年10月発売



★★★★    戦後派作家の活躍




本書に収録されている三つの中篇はどれも、探偵作家三名が 前篇中篇後編 を分担して書いているため一見リレー小説のように見えるが、三篇とも同じ雑誌・同じ号に一挙掲載されているので、事前に三人でおおまかな打ち合わせをした上で書かれている可能性はある。初出誌に当たっていないから、この企画の詳しい事情については何とも言えないけれど、通常のリレー小説のように方向性も文体もバラバラな感じが無くて、スッキリ読める。




                     





「狂人館」【『読切小説集』1955年3月増刊号】

上)大下宇陀児

(中)水谷準

(下)島田一男

 

 

三船紀子は小さな食料品会社に勤め、新聞記者の戸沢信一とつきあっている。信一とのデートの途中、弟に貸す約束をしていたカメラを会社に置き忘れたのに気付いた紀子が事務所に戻ると、会社の社長・疋田文平が見知らぬ男二人女一人と密談を交わしていた。それというのが他人に聞かれてはまずい話だったらしく、彼らは紀子を脅して車に押し込み、ある場所へと連れてゆく。その建物はまるで狂人が設計したような奇妙なビルだった。

 

 

〝狂人館〟と名付けられた建物は普通の雑居ビルとは全然違う怪しい造りになっているが、そこまで読者に印象付ける程のものでもない。

このメンバーゆえ、どうという事もないスリラーだけど、ひとつ感心したのは三番手の島田一男が、大下宇陀児と水谷準の蒔いた種をすべて丁寧に回収している事。紀子が信一を呼ぶ時「信一さん」と言っていたのが島田の回のみ「信さん」になっていて、これだけはご愛嬌。

宇陀児/準からすると島田一男は探偵小説界の後輩ではあるが、水谷準と殆ど年齢に差は無く、単にシーンへのデビューが遅かっただけに過ぎない。連作や合作の場合、回収し忘れる些末事はいつもありがちなのに、それが無い点は褒めていい。〝狂人館〟が雰囲気作りの為だけのものでなく、何かしら必然性のある意味合いを持たせられれば、尚良かった。


 

                     

 


「鯨」【『探偵実話』19537月号】

発端篇/血染の漂流船      島田一男

捜査篇/血しぶく女臭      鷲尾三郎

解決篇/血ぬられたる血潮    岡田鯱彦

 

 

漁業仲買人・津上専吉には、お新という年齢が十四も違う若い女房がいる。
お新は男好きのするところがあって、貞淑とはいえぬ女で人の評判もよくない。
専吉の船・第三半七丸に乗り共に働いているのは専吉の弟でギャンブル好きの与太者・啓次と、男前だが最近胸を患っている雇人の坂田為蔵。この二人、あわよくばお新を自分のものにしたい魂胆を抱いている。ある日の午前、第三半七丸が本来戻るべき木更津ではなく、東京港から品川~お台場を経由、南の方角に向かっているのを他の船が目撃。そのまま船は大森へ航進し、大勢の海水浴客が遊んでいる砂浜へと暴走する。それなのに乗り上げた船は無人状態、船倉には大量の鮮血が・・・。

 

 

この作にはトリックがあるので、本書の中では一番興味を引かれた。
「狂人館」では上手くラストを締め括った島田一男が、今度は一番手。
スリラーに設定してもイケそうな発端ではあるが、先程も申したとおり三作家が事前にキッチリ打ち合わせして書いたと云われても納得いくような、スムーズに謎解きを提示する展開を見せている。「鯨」というタイトルから、読み手はある程度犯人の企みを予想できるかもしれないけれども、それだけでは終わらないのが良い。

 

 

                       



「魔法と聖書」【『探偵実話』1954年2月号】

前篇 ― 小心な悪漢    大下宇陀児

中篇 ― 五階の人々    島田一男

後篇 ― 三つ巴の闘い   岡田鯱彦

 

 

丸金商事の外交員・浅井新吉は自分の会社が入っているビルのエレベーター・ガール南条市子を情婦にしている。二人とも悪い意味でのアプレで、新吉はホテルで市子とセックスするか、パチンコ屋に入り浸るかの日々。そんな新吉の行くところに妙な男の影がチラつき、市子はエレベーターの中でセクハラをしてきた丸金商事のエロ支配人が往来で死体となっているのを目にする。彼らの周りでいかなる悪事が進行しているのか?

 

 

う~ん、これは「狂人館」よりもイマイチ。
〝赤と青のインクじみが沢山付いた碁盤縞のハンカチ〟と〝支配人の持ち物だった聖書〟に、
二つで一つとなる秘密を持たせるとしても、あまり有機的なカタルシスは生まれていないかな。ここまで読んで思うのは、トリックに興味が無い宇陀児のような戦前の先輩作家と、戦後デビューした後輩作家を組ませて異世代のケミストリーを狙わせる・・・それもひとつの面白いトライだと理解はできるけれど、こんな企画が持ち上がった時「(戦前の本格派)濱尾四郎が生きててくれれば」とか「蒼井雄がバリバリ本格ものを書き続けてくれていたらなあ」とか、叶わぬ望みが湧いてくるのである。


 

 

 

(銀) なんにせよ、島田一男/岡田鯱彦/鷲尾三郎といった戦後派の作家が頑張っているのはよくわかる。奥付を見ると、本書の著者検印は大下宇陀児のものだった。著者名は大下宇陀児・外になっているし、年長者を立てるということか。





2021年11月3日水曜日

『影を持つ女』鷲尾三郎

NEW !

東都我刊我書房 善渡爾宗衛(編)
2021年10月発売




★    三冊連続でテキスト入力ミスが多過ぎ




Q夫人と猫』『葬られた女』よりも収録ボリュームを増量したというが、本の厚みは上記の既刊二冊とあまり変わりなくて、フォント・サイズを縮小することにより文字数を多く詰め込んでいる。改めて説明するまでもなく★1つの根拠は前回前々回と同様、本書編纂者の制作姿勢に対して。今回収録された四作の底本には全て初出誌テキストを採用、それぞれの作が当時の単行本に収録された時には以下のようなタイトル変更がされていた。


 

 

【初出時のタイトル = 本書】
♦「俺が法律だ」

【初刊本収録時のタイトル】
♦「俺が相手だ」(『俺が相手だ』東方社)

 

警察を辞め私立探偵になった男が敗戦後の混乱に乗じ私腹を肥やしてきた犯罪一味に立ち向かう暴力と性を売りにした中篇。初出誌『探偵倶楽部』の編集部は和製スピレーンと謳って本作をプッシュしていたようだ。戦後になって日本でも一気に流行りだしたこの手のハードボイルド/アクション小説はさまざま映画化されていたから、大衆の注目とニーズがあったことは間違いない。ただ残念ながら探偵趣味の魅力を湛えているとは私にはあまり思えないし、江戸川乱歩もこういったものを新時代の探偵小説の潮流として認め支援はしていたろうが、内心きっと「自分の愛する探偵小説とは違う」みたいな複雑な気持だったのでは?と想像する。

 

 

 

【初出時のタイトル = 本書】
♦「蒼い黴」

【初刊本収録時のタイトル】
♦「青の恐怖」(『青の恐怖』同光社出版)

 

金が欲しい地方出の大学生・内田真吉は偶然鉢合わせた事件現場に残されていた大金に目が眩み、つい自分のものにしてしまったことから行き当たりばったり連続して人を殺めてしまって、その大金を狙う悪漢そして彼の周辺を嗅ぎ回る警察と、ふたつの敵に対峙せねばならない状況へ追い詰められてゆく。戦後派のケツの青い若者が引き起こす無軌道さばかりが目立ち、謎のインプットは一切無い中篇クライム・ストーリー。本書巻末解説で初刊本収録時の改題タイトルを「蒼の恐怖」と書いているが〈蒼〉じゃなく〈青〉では?

 

 

 

【初出時のタイトル = 本書】
♦「誰かが見ている」

【二度目の単行本収録時のタイトル】
♦「何処かで見ている」(『恐怖の扉』同光社出版)

 

今回収録されている作はどれも昔、古書で一度読んではいたが内容をまるっきり忘却。でもこの中篇「誰かが見ている」だけはタイトルこそ平凡そのものだけど、謎解き要素を持ち合わせているし犯行現場のシチュエーションが特異なので記憶に残っていた。


戦後の日本の消防士は進駐軍に廃止しろと云われながらも、大きな火災発生を防止する目的にて火見櫓的な望楼からの夜間監視を続けていた。主人公・矢代正司が日々監視に立つ望楼のそばには、戦争で家主の消息も知れず瓦礫と高いコンクリート壁だけになった豪邸跡が残っている。ある晩矢代は望楼の上から、この屋敷跡へ車でやってきた三人組の不審な行動を目撃、加えて彼らのうち一人がコンクリート壁の中へ投げ込んだカバンの中身に興味を抱いたことから予期せぬ危難が次々と彼を襲う。


死体消失をはじめここにはトリックがあって安心するし、何度も読みたいとは思わない先の二作とは違ってディティールを再確認したり何度も楽しめる。それに「俺が法律だ」「蒼い黴」は一気に読めるけれど私にとって快作ではないもんで、これと次の「影を持つ女」は結末の後味が良く口直しにもなる。本作改題時のタイトルは「何処かで見ている」が正しく、本解説で編者は「何処で見ている」と誤記。

 

 

 

【初出時のタイトル = 本書】
♦「影を持つ女」

【初刊本収録時のタイトル
「影のある女」(『地獄の罠』光風社)

【二度目の単行本収録時のタイトル】
♦「悪の敗北」(『刑事捜査』章書房)

 

短篇。戦災で両親を失った女学生の〝わたし〟は神戸でひとり生きてゆくだけで精一杯だった。そんな時、彼女は逸見信祐という男に「楽な、いい金もうけができる」と誘われるが、実は逸見は麻薬密売に関わっており警察から目を付けられていた。〝わたし〟の申告で逸見は獄にブチこまれ、その後東京に出た彼女はある男性に見初められて社長夫人となり、誰よりも倖せな年月を過ごしてきた。


八年の時が過ぎ、出所して彼女の居場所を突き止めた逸見はかつての神戸時代の写真をネタに彼女を恐喝する。悪人の飼い犬である筈のドーベルマン/ネロと〝わたし〟の心の交流が犬好きにはグッとくる。鷲尾三郎には「影を持つ男」という作品もあってまぎらわしい。


 

 

 

〈鷲尾三郎傑作撰〉も三冊目だし、テキストの入力ミスが無くなっているのを心から願ったが、今回も入力後のチェックは一切されていないようで、上記にて挙げた傍線部分の巻末解説における誤りだけでなく本文中も入力ミスは多し。(下記に数えたものが全てではない)

 

「ペンシャコ」(36頁下段) ✕    →   「ペシャンコ」 ○

「しかしったい」(49頁上段) ✕   →   「しかしいったい」 ○

「血まみの腸」(50頁上段) ✕    →   「血まみれの腸」 ○


「美くしいものはすぐに」(68頁下段) ✕  →  「美しいものはすぐに」 ○

本書は変な送り字が非常に目に付くが、それはみな初出誌編集部のせいかもしれないので、一応この例だけ挙げておく。


「瞞されてい車輪の下敷に」(87頁上段) ✕  →  「瞞されて車輪の下敷に」 ○ 

 

                   


「それはいった誰だね?」(92頁上段) ✕   →  「それはいったい誰だね?」 ○

「そいつなナイフの刃を」(100頁下段) ✕   →  「そいつはナイフの刃を」 ○

「邪魔物」(103頁上段) ✕          →  「邪魔者」 ○

「また新の記事へ目を」(156頁上段) ✕    →  「また新聞の記事へ目を」 ○

僕にどしろというんだ?」(168頁上段) ✕  →  「僕にどうしろと言うんだ?」○




古本ゴロどものせいで、ただでさえ古書としての残存数が少なく読むのが困難な鷲尾三郎を同人出版とはいえこうやって新刊で読みたい人が読めるようにするのはとても良い事なのに、なぜ善渡爾宗衛は不正確な入力のままテキストを見直すこともせずに本を発売するのか、そこがワカンナイんだよなあ。一冊にもっとゆっくり時間を掛けて制作するのは嫌なのか?そんなに慌てて次々新刊を連発しなければならない事情って何?もしかして善渡爾自身は毎回打ちあがったテキストを逐一確認しているつもりなのかもしれんが、間違いの存在に一向気が付けてないのか。

 

 

 


(銀) こんなテキスト入力ミスだらけの新刊を三冊も出しながら、来春にはまた鷲尾三郎の新刊を出す善渡爾宗衛は予告している。鷲尾だけじゃなく、近々盛林堂から出そうな善渡爾の手掛ける新刊が同様の酷いことにならないといいのだけど。



性格の悪いこの私でさえ、これでも気を使って氏にヤンワリお願いしてきたつもりなんだが、探偵小説業界や古本の世界の人達はこういう状況に何も考えたり感じたりしないのかな。所詮皆見て見ぬフリ、本もひたすら読んだフリってのが関の山なのかねぇ


                                      

 


2021年9月4日土曜日

『葬られた女』鷲尾三郎

NEW !

東都我刊我書房 善渡爾宗衛(編)
2021年8月発売



    テキストの校正をここまで無視して
          発売された新刊を私は見たことがない




表題作長篇「葬られた女」は顔の無い屍体こそ出てきても結局はアクション・スリラーじゃんとか、併録された短篇「嵐の夜の女」は犯人の殺人方法こそちょっと面白いけどさあ・・・とか、悠長に収録作品の紹介をする気持ちさえも沸いてこない。先月出た『Q夫人と猫』よりも更にテキストの入力ミスが増加していて、擁護のしようがない。これで定価が5,000円・・・いや値段が安けりゃミスしていいってものでもないが



編者・善渡爾宗衛は〝凡例〟の頁にて、「文章(小説)について、基本的には、執筆者のものでありますから、いたずらに文章破壊をしないために、初出誌にそって、統一などはしていません。」と謳っている。要するに見識の無い出版社みたいにテキストをいじりまくる事などせず、底本の表現を尊重すると言っているように私には受け取れる。だが・・・。

 

                   


そりゃあね、善渡爾は私のBlogなど見ないだろうから、前回の『Q夫人と猫』の記事に書いた文章にしたって氏に伝わる筈など無いのは百も承知だし、〈鷲尾三郎傑作撰〉が『Q夫人と猫』のあとにまだ何冊か出る予定だとしても、既にテキスト入力作業は全て終わっていて早々と原稿データを製本会社へ回していたとしたら、『Q夫人と猫』に近い頻度の恥ずかしい誤字は回避できないだろうなあ、とは思ってたよ。

 

 

東都我刊我書房というレーベル名が付く時には盛林堂ミステリアス文庫とは異なり、その新刊本は善渡爾個人の意思で制作されているんだったっけ。だからって、本の販売窓口になっている盛林堂書房店主の小野純一とか誰でもいいけど、善渡爾にアシストしたりアドバイスしてあげる人は周囲にひとりもいないのだろうか?ありえない数のテキスト入力ミスでこんな誤字だらけの本になっていて、でもそれは打ち込んだ原稿を当り前にチェックしていれば、それなりに防げそうなものだろ?

論創社『幻の探偵作家を求めて 完全版』の時も感じたけれど、探偵小説の新刊を買う人々がひどい作りの本を読んでも何も感じず何の疑問を持たず黙認しているのは何故?制作側も読者も揃って〝あきめくら〟しかいなくなってしまったのか。

 

                    


今やってる「女妖」のテキスト・チェックと違って徒労感しか湧かない指摘なんてできれば書きたくないけれども、若狭邦男の著書がずっとマシに見えるほど本書は入力ミスが多過ぎるから、読んでいない人にも体感できるように示さなければ、第三者にはきっと伝わるまい。一体どうなっているのか状況を正しく伝えるため、心を鬼にして書かねばならぬ。

 

 

 「りゅうとした」(○) → 「りゅとした」(✕)  8頁上段

これくらいの誤植なら底本である当時の雑誌(昭和30年代の『探偵実話』)に存在しててもおかしくはない。だが以下に列挙した誤字はどれも不注意な入力ミスとしか見えず、本書の制作者が底本そのままの表現や作者の癖を意図的に活かしているからとは到底思えない。

 

 

「大成することの出来る」(○) → 「大成することの出る」(✕)  26頁下段

 

「支配人室にいましたの」(〇) → 「配人室にいましたの」()  28頁下段

 

「ご馳走しましょうか?」(○) → 「ご走しましょうか?」(✕)  30頁下段

 

「しのぶは給仕に」(○) → 「しのぶは仕に」(✕)  35頁上段

 

「地下鉄が通うように」(○) → 「地鉄が通うように」(✕)  41頁上段

 

 


「ゴールデン・スター」(○) → 「ゴー・スター」(✕)  56頁下段

 

「良心の呵責」(○) → 「良心の責」(✕)  58頁上段

 

「ぼくとあなたのご主人」(○) → 「くとあなたのご主人」(✕)  65頁下段

 

「彼女の死を哀れんで」 → 「彼女の死をれんで」(✕)  67頁下段

 

「かたくなに口を閉じ」(○) → 「かたくなにを閉じ」(✕)  74頁上段

漢字の〝口(くち)〟であるべきところが、カタカナの〝ロ〟になっている。

 

 


「千円札を握らせて」(○) → 「千円札をらせて」(✕)  74頁上段

 

「砕かれていたうえに」(○) → 「かれていたうえに」(✕)  75頁下段

 

「突飛」(○) → 「飛」(✕)  76頁下段

 

「昨夜使用された」(○) → 「昨夜便用された」(✕)  91頁上段

 

「あなたに警告して」(○) → 「あのなたに警告して」(✕)  94頁上段

 

 


「クラブ」(○) → 「クブ」(✕)  101頁下段

 

「なぐり倒されて」(○) → 「なり倒されて」(✕)  118頁下段

 

「葉巻を吸う外人」(○) → 「巻を吸う外人」(✕)  171頁下段

 

「啓介は不機嫌な表情で」(○) → 「啓介は不嫌な表情で」  200頁上段

 

「五味が経営している」(○) → 「五味が経している」(×)  223頁上段

 

 

書いててもやるせないほどに間違いは数え切れない。おそらくこれらのテキスト入力ミスは善渡爾宗衛本人が仕出かしてしまったものに違いない。



なぜなら底本を用いて入力作業をしてゆく本文のみならず、編者自ら書いているはずの〝凡例〟でも「テキストの細部につましては」(〝つきましては〟の間違い)となっていたり、末解説〟では「ハードボイルドボイルド調」(〝ボイルド〟が重複)になっていたり、同じような入力ミスをやっているからだ。〝凡例〟と〝解説〟まで協力者に代筆してもらっているなんて考えにくい。


                   



善渡爾宗衛は〈鷲尾三郎傑作撰〉の三冊目以外に、その他の本も近日発売を予告しているが、この様子では、次も必ず同じあやまちを繰り返すのは残念ながら明白。氏は相当高齢の人だと私は想像しており、老化による視力・思考力の低下なのかどこか体調が悪いのか分からないけれど、これだけはハッキリしている。現在の氏は本のテキスト入力や校正を遂行できるコンディションではない。ちょっと前までの氏の本では、こんなミスはしてなかったと思う。




(銀) 知人から聞いた話だけど、海外ミステリ同人「Re-Clam」が最近出した新刊、クライド・B・クレイスン『ジャスミンの毒』の訳に不備があるという指摘があったそうで。私はその本を持っていなくて、不備や指摘がどういうものなのかも知らない。



それでも「海外ミステリ愛好家はまだ健全なのかな」と思ったのは、その本の翻訳者にしても「Re-Clam」の主宰者にしても、読者に対してすぐにお詫びのコメントを出していた事。つい誰にでもやってしまう不手際はある。そんな時は彼等のように一言なりとも発信し、今後同じ過ちさえ犯さなければそこまで大きな汚点にはならないだろう。それに比べたら海外ミステリのファンとは人種がだいぶ異なるのか定かではないが、日本探偵小説の周辺は腐っている。



今日述べてきた本書の「No 校正、No チェック」で最大の被害者は、我々購入者ではなくて鷲尾三郎の著作権継承者かもしれない。血族の遺した作品をこんな扱いにされてしまったのだから。本書の不手際は「同人出版だから暖かく見守りましょう」なんていう生ぬるいレベルではない。



今日の「女妖」はお休み。



  

2021年8月12日木曜日

『Q夫人と猫』鷲尾三郎

NEW !

東都我刊我書房 善渡爾宗衛(編)
2021年7月発売




★★★   企画そのものは大変嬉しいけれど・・・




 善渡爾宗衛 様


拝啓 常々私が欲している方面の作家/作品を柔軟かつマニアックに刊行して下さっていることにまずは御礼申し上げます。大河内常平『人造人魚』もそうでしたが、〈鷲尾三郎傑作撰 壹〉と題された本書が単行本テキストでなく初出誌テキストを優先してコンパイルされている嬉しい新刊であるのは言うまでもありません。

 

 

鷲尾三郎は古書市場で値の張る作家の一人になってしまったわりにはどういう訳だか「代表作というか名刺代わりとなる彼の作品って果たしてどれがふさわしいのだろう?」 と逡巡してしまいます。貴方の解説にあるように、それはハードボイルド系なのでしょうか?もしくは、数は少ないながら本格テイストを持つ作品でしょうか?結局は古書でも現行本でも入手しやすい「屍の記録」に落ち着いてしまうのでしょうけれど、あれにしても「呪縛の沼」も「裸女と拳銃」も「虹の視覚」も、私だけの感想かもしれませんが絶対的決定打に欠けているとでも言いますか、名刺代わりと呼ぶにはなんかちょっとだけ押しが足りない、というのが正直な感想です。  


                  

 

これまでコツコツ古書を探して鷲尾を読んできた人達なら、本書収録作のてんでバラバラなベクトルの多様さには呆れつつも、きっと楽しんでいるに違いないと想像します。そこまで上出来とは言えないけれど論理をベースに考えて書いた「影繪」「白い蛇」倒叙というか自滅犯罪もの「くずれたアリバイ」スケベ心が墓穴を掘った「望遠鏡の中の美女」続けてれも一種の覗きネタだがヘンな艶笑譚としか思えない「アパートの窓」ここまでの内容ならば、同世代の他の作家にも十分ありうるヴァリエーションでしょう。

 

 

ところが本書はここからがスゴイ。シンプルに古代魚類のSF風スリラーにしとけばいいものを、そこに犯罪テイストを練り込み最後は超安易なオチでずっこける「サラマンダーの怒り」東北地方の山深く貧しい部落が舞台でセリフもすべて東北弁、しかしながら本書中で一番イヤ~な読後感に包まれる「銀の匙」宮野叢子にも似て一筋縄では行かない女の一面を描いたQ夫人と猫」同じく女性の物語でもこちらはとことん欲深なヘンタイにまで墜ちてしまう「極悪人の女像」これらの節操の無さには思わず笑ってしまいました。でも、この節操の無さは意外と鷲尾三郎のチャーム・ポイントなのかもしれません。

 

 

将来、鷲尾作品が潤沢に読めるような状況が訪れてくれるのなら話は別ですが、例えば岡田鯱彦/大河内常平ぐらいに「これ!」といえるわかりやすい特徴が挙げにくいので、商業出版界では何となく再発するには少々売りづらい存在だと誤解される可能性もあります。この辺の日本の探偵作家はデビューの時期が敗戦の後という不幸なハンデを負っているので、どうしてもチープな空気が纏わり付いているのも否定できないでしょう。とはいえ、平成後期~令和を生きているDSオタな人達の傾向(?)からしますと、木々高太郎が口にしそうな〝高級なブンガク・ゲージュツ感〟よりも本書に収められている雑多な面白さのほうが求められている、そんな風に私には映るので、斯様な追い風が鷲尾にプラスに吹いてくれれば喜ばしいのですが。(こんなこと書いていたら余計に木々の新刊が出なくなってしまいそう。)


                   


さて、ここからが本題といいますか最もお伝えしたい部分なのです。探偵小説本の購買層は入手するのが第一目的で満足してしまい読書など二の次三の次らしく、私の他に疑義を唱える者など誰もいないのでこんな事を耳にされる機会も無いのでしょうが、近頃の日本探偵小説の新刊本は同人出版も含め、(作者ではなく明らかに)制作者の入力ミスとしか思えない誤字があちこち目についてどうにも困るのです。



貴方の編纂する優れた企画の本に対しては、かつての論創ミステリ叢書のように目を瞑って毎回満点で褒めちぎりたいぐらいなのですが、さして目ざとくもないこの私でさえ本書の中でもそういうミスに気付いてしまいます。その一部を挙げますと、



害者(×) →  害者(○)  21ページ上段16行目/36ぺージ下段4行目


等々力野部(×) →  等々力警部(○)   102ページ下段2行目


第二の設人者(×) →  第二の殺人者(○)  113ページ上段4行目


黒かったが者、学者らしい(×) → 黒かったが、学者らしい(○) 155ページ下段3行目


コンクリートの(×) → コンクリートの(○)  159ページ上段13行目




編纂なされる本のテキストの入力作業は貴方ご自身ですべてやっておられるのか、もしくはクレジットされている協力者の方がやっておられるのか、はたまたキツキツの突貫スケジュールを強いられていらっしゃるのか、どちらにしても人間のやることですから、時には間違いがあっても仕方無いとは思いますし、校正業が専門でない方が作業をすると、こういうミスは避けられないのかもしれません。そうは言っても盛林堂書房から出ている新刊のうち貴方が手掛けるものまで望ましからぬ誤りが常に発生しているのはとても残念でなりません。



〝凡例〟のページに記しておられるとおり、多少変に見えてもそれが作者の意図であるならば、書き換えずにそのまま残す手法はとても良い、というかそれが当り前だと私は考えます。ただ上記に並べた五つの誤字は明らかに作者・鷲尾三郎の書き癖ではなく、テキスト入力する際のミスとしか見えないので、こういうものはやはり正しい表記に訂正するか、あるいは底本の誤字でさえ極力いじりたくないなら〝ママ〟と入れるべきではないでしょうか?(本書にはルビを振っている箇所もあるのですから)


                   


こういうことをお伝えしてもSNSで「悪意がある」「ケチをつけられた」などと逆ギレするような人間には言ってもムダなので、かかわる気など毛頭ありません。しかし貴方の事を詳しく存じ上げてはいませんが、少なくとも善渡爾宗衛という人は本作りの仕事をほったらかしてネット・ジャンキーと化すような方ではないと私は思っているので一筆したためました。



気を悪くされたかもしれませんが貴方の編纂する本を楽しみにしている一読者の声として、どうかポジティヴに受け取って頂けましたら幸いです。今後も益々の御活躍をお祈り申し上げます。敬具



銀髪伯爵拝



(銀) 〈鷲尾三郎傑作撰 貳〉はどのような作品が収められるのか、またその先の〈參〉以降はあるのか、発売が待たれる。今日の「女妖」はお休み。


 


2021年1月10日日曜日

『屍の記録』鷲尾三郎

2016年6月15日 Amazonカスタマー・レビューへ投稿

戎光祥出版 ミステリ珍本全集⑫ 日下三蔵(編)
2016年6月発売




★★★★★   ジュヴナイル級の人間消失トリックを
                許容できるかどうか




鷲尾三郎というと大河内常平・楠田匡介・岡田鯱彦らと並んで、60年代後半以降に著書が再発 されず古書価がえらく高騰した戦後作家。

 

 

「屍の記録」(長篇)

とかく脱力しそうな人間消失トリックで好事家には有名な作。だがそれを除けば由緒ある古都の酒蔵に代々連続するオカルティックな凶事とそれに立ち向かう主人公のラブロマンスが交錯するストーリーは実にいい。バカバカしくて子供騙し過ぎるトリックかもしれないけれど、探偵小説なんて抑々つくりもの・御伽噺みたいな要素が美味しいのだから。

 

 

現実に擦り寄り過ぎたミステリが社会派な訳で、世知辛いこの時代、わざわざ産業ミステリとかサラリーマン・ミステリみたいな小説を読みたいとは思わない。最低限のリアリティは必要だけども、探偵小説好きの立場から言わせてもらえば、その古さ・奇妙さ・前時代っぷりがセクシーなのであって、本作における実際ありえない仕掛けを〈本格〉として扱うことに嘲笑があったとしても、これはこれで面白い。

 

 

「呪縛の沼」(長篇)

こちらも本格調で、撃抜かれた密室死がメインテーマ。だが探偵役の英法学者・三木要の個性に特筆すべきところがなく、これなら上記「屍の記録」のウエットなプロット、そしてなにかと隙の多い探偵作家・牟礼順吉の方が味がある。三木要はラストにて開陳する大勢の容疑者達の入り乱れた暗い過去をどうやって全部探り当てたのかも疑問。

 

 

「雪崩」(中篇)

アプレゲールなカップルが罪に罪を塗り重ねてしまう倒叙もの。性行為がフリーではなかった戦前人にとって、アプレ達の無軌道な行為は当時ショッキングだったろうが、現代の眼から見るとたいしたことではない。アプレものの弱さはそんなところにある。

 

 

「生きている人形」(短篇)  「魚臭」(短篇)  「死の影」(短篇)

これら三短篇は単行本初収録。
「魚臭」「死の影」は犯罪のない、もろスーパーナチュラルな小品。「生きている人形」は生きるため躰を犠牲にしなくてはならない京祇園舞妓の悲しい運命を描いたもの。江戸川乱歩の「人でなしの恋」に近いようで異なるしっとりした倒錯の世界。京都弁での進行もあり印象深くて良かったけれど、結末の場面とタイトルに読み手の気持をガッチリ掴むもう一捻りが欲しかった。

 

 

「早くも」というべきか「ついに」というべきか、この全集も本巻で一旦打ち止めとのこと。




(銀) 鷲尾三郎もここに入っているような、一応本格と呼べる長篇ばかりならいいのだけど、戦後の貸本時代にありがちなアクション・ハードボイルド/スリラー風の作品も多いのが難点。そういう本格でもないし探偵趣味があるといっていいのか微妙なストーリーの昔の単行本までも高騰しているのだからどうにも呆れる。レアなら何でもいいのか。



この辺の戦後作家はレア扱いこそされているけれど、文体その他なんでもいいが自分の打ち出す個性というものが、もうひとつ弱い気もする。その辺に欠点があるから、独特の世界観を持っている香山滋/鮎川哲也/山田風太郎らとは違って再発されるチャンスも無かった。現に商業ベースで近年出た彼の本といったら河出文庫『文殊の罠 鷲尾三郎名作選』と本書のみ。寂しい限りである。