2024年5月14日火曜日

『放火地帯』大下宇陀児

NEW !

東方社
1955年11月発売



★★★★   宇陀児の手癖も見えてくる



〝新作探偵小説〟と謳っていても、単行本初収録はごく一部の作のみ。
結果、戦前のものから昭和30年の最新作まで幅広くフォローする内容になっている。
この年「殺人病患者」「愛慾禍」「魔法街」の三篇は雑誌に再録される機会があったため、本書にも入れられた可能性あり。以下、括弧内は初出年度と雑誌を示す。





「放火地帯」(『オール読物』昭和309月号)

本書リリースの直前に発表された短篇。四十件以上発生し続けている放火騒ぎ、加えて潔癖過ぎる少女・相原桂子が立腐れ同然の空家で首を絞められ殺されていた事件、この二つの要素を複雑にグリグリ絡ませ、クライマックスへともっていく手腕は宇陀児ならではの見事な名人芸だが、新機軸に欠ける食い足りなさも。

 

 

 

「花の店」(初出誌不明)

犯人当て小説。被害者が剣山(ケンザン)で顔を潰されているため、「おっ、顔の無い死体路線か?」と思ったりもするが、そこはまあ本格嫌いの宇陀児なんで・・・。本書の最後に二頁ぶんの「花の店」解答篇が短く載っている。

 

 

 

「綠の奇蹟」(『オール読物』昭和136月号)

難産の末に長沼康子が産み落とした赤子・喬一郎の瞳は、まるで翡翠のような緑色をしていた。その事が原因で仏蘭西人ヂョルヂュ・マルセルとの不義を疑われ、康子は一方的に長沼家から離縁されてしまう。身に覚えのない誤解を解くためには友人の加奈子そしてマルセルの証言が必要なのだが、材木座にあるマルセルの別荘で彼らは殺されていた・・・。

 

前にも紹介したように、宇陀児の戦前作品には単行本によってテキスト異同が生じているものがある。本書収録作品の中では「綠の奇蹟」に最も多く同が見られるので、戦前の単行本と比較し、特に目立つ箇所を記しておく。

)=『甲賀・大下・木々傑作選集/第一巻/惡女』(昭和13年/春陽堂書店)

)=『綠の奇蹟』(昭和17年/大都書房)


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良人は長沼喬助といつて遞信省の技師である。 )(

良人は長沼喬助といつて郵政省の技師である。 (本書793行目)

 

 

「あたしね、體はまだ何ともないわ。そこまではまだ行かないの。
だけど、ベエゼだけ・・・・」(


「あたしね、體はまだ何ともないわ。そこまではまだ行かないの。
だけど、あの人だつてあたしをとてもとても好きだといつたし・・・・」(


「あたしね、体はまだ何ともないわ。そこまではまだ行かないの。
だけど、ベエゼだけ・・・・」(本書8915行目)

 

 

接吻まで許してゐたとしたら(

ここまでお互の話が進んでゐたとしたならば(

接吻まで許していたとしたら (本書903行目)

 

 

鎌倉署と、神奈川縣刑事部の係官とは、(惡)(綠)

鎌倉市署と、国警神奈川県本部の係官とは、 (本書961行目)

 

 

全く、スパイつて奴は、殊にG・P・Uの派遣してゐる奴は、(

全く、スパイつて奴は、殊に某国の派遣してゐる奴は、 (本書10812行目)


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「怪異の変装者」(『講談倶楽部』昭和151月号)

夜店で古い紙幣・軍票・切手等を売って生活している畠山輝介に、自分の夫の身代わりになってほしいと頼み込む色っぽい婦人の目的は?そこまで重く血腥いストーリーでもないにせよ、こんな悪巧みを働く日本人の話を、昭和15年の世情でよく発表させてもらえたな、と思う。それだけに悪人どもの足取りがバレる手掛かりになる死体遺棄場所の発覚には、もう一捻り論理的な根拠が欲しかった。本作にも、時代の変化に対応した表現の異同あり。



)=『亞細亞の鬼』(昭和16年/八紘社杉山書店)
 

 

四谷區と麹町區との境界みたいなものになつてゐて(

四谷と麹町との境界みたいなものになつていて  (本書1494行目)


 
 

 

「殺人病患者」(『キング』昭和128月増刊号)

女の肌を見ると発作的に殺してしまいたくなる精神病の持主・鉄村由吉が、看護婦の咽喉に噛み付いて精神病院から脱走。これとてパニック・ホラーで押し切っても十分イケるのに、入り組んだ設定を拵え、いつもの宇陀児調探偵小説に仕上げてしまうのだから、苦笑しつつも感心。

 

 

 

「恋愛工場」(『新青年』昭和146月号)

恋人など居やしないのに、「いる」と見栄を張った挙句、墓穴を掘るパターンはよくある。ここではそんな人間の機微を逆手に取り、謎に繋げてはいるものの、小品の域を出ていない。

 

 

 

「愛慾禍」(『週刊朝日』昭和1061日初夏特別号)

自分より二十以上年下の、妖しい肢体を持つエロい未亡人を時間を掛けて口説き落とし、やっと結婚にまで漕ぎ着けた元・代議士の高見沢浩。悲しい哉、オイシイ話には裏があり・・・。

 

 

 

「魔法街」(『改造』昭和71月号)

宇陀児の傑作短篇ベスト20を選ぶとなると、かなりの確率でセレクトされそうな代表作。都市のアンバランス・ゾーンを描く本作の視点はどこか海野十三とも共通していて、発表の場が『新青年』ではなく『改造』というのもなかなか興味深い。

たしか戦時下の単行本には収録されていない筈だし、テキストの変動など無さそうな「魔法街」だが、ここでも微妙に違いは存在する。


(魔)=『魔人』(昭和7年/博文館)


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一九――年の冬Mの市に起つた事件、といふことにして置かう。(魔)

たいへん古い事件だ。一九――年の冬、M市に起つた事件、といふことにしておこう。
(本書2661行目)

 

 

某活動俳優、アメリカ領事館付某武官など(魔)

某映画俳優、某省事務官など(本書2737行目)

 

 

筆者はも早、これ以上何も贅言を加へる必要がないと思ふ。惡夢の如きM市の怪事件は、これでもつて奇體に終りを告げたのであつた。(魔)

筆者はも早、これ以上何も贅言を加える必要がないと思う。魔法博士ゲイエルマッハは、爾来この地球上のどこへも姿を現わしたことがないと伝えられる。しかしながら、悪夢の如きM市の怪事件は、これでもつて奇体に終りを告げたのであつた。(本書3094行目)


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(銀) 「放火地帯」の他に、「の奇蹟」「恋愛工場」も一度は宇陀児著書の表題作になっている短篇なんだが、そのわりに本書は(「魔法街」を除くと)Aランク級とは言い難い地味なものがコンパイルされている印象を与える。もとより宇陀児作品の中で、探偵役の比重はちっとも重くない上、本書において、事件を解決へ導く登場人物の存在感となると尚更希薄。

 

 

そこまで一見地味な作品ばかりだからこそ、良い所も悪い所も含めて宇陀児の手癖みたいなものが見えてくる。上段でも述べたように、「殺人病患者」なんて鉄村由吉をひたすら悪鬼と化して暴れ回らせ、余韻嫋嫋たる結末を迎えさえすれば、ホラー・エンターテイメントとして成立する筈なのだ。だけど人情派の宇陀児はホラーではなく探偵小説的展開にこだわり、エンディングでは、鉄村に咽喉を噛まれて普通だったら恐怖と怯えしかないはずの看護婦・篠山あさ子に、狂人に対しての憐れみを抱かせている。こういう点など〝良くも悪くも〟宇陀児らしい。







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2024年5月9日木曜日

映画『散歩する霊柩車』

NEW !

日本映画専門チャンネル
2019年12月放送



★★    いわゆるひとつのB級ミステリ映画





樹下太郎が雑誌『宝石』へ発表した小説「散歩する霊柩車」を、1964年に映画化したもの。
今でもソフト化はされていない様子。

さえないタクシー運転手の麻見(西村晃)は、女房のすぎ江(春川ますみ)が複数の男と不貞を重ねている事実を知り、彼女を絞殺。自殺したテイにサクっと偽装した上で、すぎ江の浮気相手の男達から金を巻き上げるべく行動を開始する。コンゲームとは違うけど、騙したかと思えば騙されていたり、ブラック・コメディ色を纏ったミステリ映画だ。

 

 

 

西村晃は昔から好きな役者で、本作のセコい小悪党のみならず、どんな悪役/怪人を演じても、クリストファー・リーばりの風貌と、あの美声に得難いものを感じるね。声優として彼をマモー(映画『ルパン三世~ルパンvs複製人間』)にキャスティングした人は具眼の士といえるし、逆に黄門様なんぞやらせた奴は万死に値する。

 

 

 

出番はそう多くないとはいえ、西村晃と並んで目を引くのは、
まだ中堅クラスで藻掻いていた時代の渥美清
彼の演じる霊柩車運転手・毛利は最初と最後しか出てこないわりに抑えた演技が効いていて、
イヤ~な目付きと滲み出る胡散臭さが強烈な印象。

この頃の渥美は映画『拝啓天皇陛下様』でスマッシュ・ヒットを放ち、本作もトメ扱い(キャスト・クレジットで一番最後に表示される出演者のこと)なのだが、小林信彦の評伝『おかしな男 渥美清』の中で『散歩する霊柩車』は注目すべき作品扱いをされておらず、フジテレビのドラマでテキ屋の寅として大ブレイクのきっかけを掴むまで、あと四年待たなければならない。

 

 

 

麻見(西村晃)の女房・すぎ江は毛利(渥美清)よりずっと重要な役柄で、男好きのする肉感的なキャラクターの筈なんだが、どうも川ますみだと胸焼けがして困る。

いやブラックとはいえ、笑わせる要素も必要なストーリーだけに、変に整った女優だとコメディな部分が引き出せなくなるのは解るけど、ひたすら田舎臭く、でっぷりしたこの人の感じは申し訳ないけど私にはムリだな~。そこそこ許せる範囲の女優がすぎ江の役を演じていたなら、映画自体の評価もグッと上がったんだが、たった一人の配役が私には受け付けなかった。春川ますみって結局、1970年代以降の『江戸を斬る』での口うるさい女将のイメージが付き纏ってしまうね。菊池俊輔の音楽は ◯。

 

 

 

(銀) 考えてみると、声だけの演技のマモー役と同じぐらい俳優・西村晃の魅力を引き出している映画やドラマって、どれぐらいあるのだろう?怪奇キャラなんか結構ノリノリでやっていたらしく、日本にもハマー・フィルム・プロダクションのような会社があったら、西村はその道でなお一層、成功を収めていたに違いない。




 


2024年5月6日月曜日

『妖奇の船』紀野親次

NEW !

照國書店
1947年6月発売



★★★★★   大阪圭吉のレベルまで、もう一息




以前このBlog『狂人の世界より帰りて - 精神病全快者の手記』(コチラの記事を見よの著者・紀野親二に触れた折、漢字が一字違うだけだし、紀野親二=紀野親次なのでは?と推論を述べた。なにしろ昭和22年に発表した著書以外、どういう活動をしていたのかさっぱりわからない・・・なんて前置きは短めに切り上げて、早速本題に入ろう。

 

 

 

表題作になっている長篇「妖奇の船」
何者とも知れぬ幻の探偵作家が書いたものにしては、なかなか面白い。

 

 

登場人物

 

 

中村務/遊覽船グリーン號の運転手。

大野博士/醫學博士。栗山有造とは大學の同窓にあたる老紳士。

菊池船長/グリーン號・船長

 

 

栗山有造/グリーン號の所有者。政治的不正の噂もチラホラ。

栗山有造夫人/有造の妻にして洋子の母。

栗山洋子/栗山家の美しい一人娘。

山田爲之介/有造とは裏で何か強い繋がりがあるらしく、栗山一家と共に乗船している。

 

 

三宅/グリーン號の無電係。中村とは昔からの親友。

富永/下級船員。四國生まれ。

吉田/下級船員。橫濱生まれ。

北川/下級船員。

牛島/下級船員。混血兒か。

白鳥/下級船員。コック。

 

 

白い影の幽霊/?

 

 

 

富豪・栗山有造は家族で遊覧のため、六月の海にグリーン號を出航させている。そこで栗山夫人の指環が紛失したり、有造氏が「二」というたった一文字のみの不可解な打電を三宅無電技師に指示したり奇妙な出来事が連続した直後、有造氏は錠の下りた自らの船室で顔をズタズタに傷付けられ、死んでいるところを発見される。その部屋には娘・栗山洋子の真珠の首飾りが落ちていた・・・。

 

 

 

船上にチラチラ姿を見せる白い影の幽霊の怪奇演出あり、乗船している者が皆怪しく思えたり、大阪圭吉路線をめざして(?)本格調で攻めているのはイイ。ただ登場人物一人一人の奥行きを出すためには(短めの長篇とはいえ)もっと書き込んでほしいし、意外な犯人ではあるけども、そこに辿り着くまでの丁寧な伏線を張っているとは言い難いのが弱点。たとえ強引すぎる真実であろうと、カーばりの無茶なロジックで説明を付けているだけに、「本陣殺人事件」「刺青殺人事件」級は無理でも、あと一押し完成度を上げられたらよかったんだがな~。

 

 

 

「山蟹に呪はれた女」は過去の時代から連綿と繋がるコワ~い因縁もの。内容の安定感では「妖奇の船」より上か。鮎川哲也が編んでいた往年のアンソロジーに入っていてもなんら遜色の無い出来なのに、「妖奇の船」といい、どうして今迄知られていなかったのか不思議でならない。「女白波二代記」は明治の御維新によって世の中が変わりつつある江戸を舞台に、脛に疵持つ母の哀感を描いている。この作だけは探偵趣味から若干外れるかもしれないが、それにより三篇のバラエティが豊かになって好印象を受けたので、少々の問題には目をつぶり本書は満点にした。

 

 

 

これは書こうかどうしようか迷ったけれど、真犯人のネタバレにまでは至らないから、まあいいだろう。「妖奇の船」は一応フーダニットが主題である反面、そこには「やっぱり『狂人の世界より帰りて』の作者だなあ」と思わせる要素がしっかり含まれているのである。紀野親次という作家を知りたいのなら、『狂人の世界より帰りて』は一度読んでおいたほうがモアベター。

 

 

 

 

(銀) これらの三篇はいつ頃執筆され、どこの雑誌に発表されたものなのか、もしくは書下ろしなのか、皆目分からない。とはいうものの、「山蟹に呪はれた女」に登場する令嬢・お銀さまについて、作者が次のような記述をしている点に私は着目してみた。

〝藤色の薔薇の大柄裾模樣のお召しに、薄茶と燃え立つやうな紅色の染分けに、蝶の刺繍をしたお太鼓の帯、そして練絹の白足袋に、滲むやうな紅緒のフエルト草履-黒革のハンドバッグを持った二十二、三にも見える美人だ。〟

 

 

日本人作家が今自ら生きている現代の小説を書く場合に、国民誰しも食や衣服に不自由しているご時世、いくら吾妻富士の山深い温泉地に良家の娘を登場させるといっても、ここまでズレた感覚の優雅な装いに設定するだろうか。もちろん昭和21年に連載開始された横溝正史の「本陣殺人事件」が荒廃した当時の日本ではなく、内地が軍靴に荒らされる直前の昭和12年まで話の時間軸は遡っているように、「山蟹に呪はれた女」も女性のオシャレが許されていた数年前の内地を頭に浮かべて書かれた可能性が無いとはいえない。

 

 

それでも、(「女白波二代記」は明治初期の話だからともかく)「妖奇の船」と「山蟹に呪はれた女」に敗戦後の日本を匂わすような描写が一切見当たらないのは、妙に気にかかる。根拠の弱い妄想に過ぎないけれど、以上のような理由から、「もしかしてこれらの三篇は戦前に書かれたものなのでは・・・」と感じたのだが、真相や如何に?


 

 

 

   幻の探偵作家たち 関連記事 ■

 

 

『梅蔭書窩主人/久米延保遺稿集』  ★★★★★  久米徹 探偵小説選 (☜)

 

 


 

 



 

 


 

 


 

 

『忍術三四郎』関川周  ★  結末欠落 (☜)

 

 

『夜の顔ぶれ』松本孝  ★★  ポルノ小説へ転向した男 (☜)

 

 

『肌色の街』森田雄蔵  ★  陥  穽 (☜)

 






2024年5月3日金曜日

『ザイルの三人/海外山岳小説短篇集』妹尾韶夫(訳編)

NEW !

朋文堂
1959年6月発売



★★    標高数千メートルの世界





版元の朋文堂という出版社は山岳図書のパイオニアだという。本書の旧ヴァージョンは昭和17年に、この朋文堂から『靑春の氷河』のタイトルで刊行。昭和34年の再発時には『ザイルの三人』と改題しただけでなく、全十三篇のうち五篇は他の作品に入れ替えられた。
それゆえ下記の如く、この色文字になっている短篇は『靑春の氷河』には入っていない。

 

 

「ザイルの三人」エドウィン・ミュラー

「山頂の燈火」M.L.C・ピクソール

「形見のピッケル」(=旧題「K3の頂上」)ジェームズ・ラムゼイ・アルマン

「第三者」サキ

「山上の教訓」サーデス

 

 

「二人の若いドイツ人」ウルマン

(目次と本編ではウルマン表記だが、あとがきはアルマンとなっており、
「形見のピッケル」と同じ作者か?)

「青春の氷河」A. E .W・メースン

「単独登攀者」ミュラー(「ザイルの三人」と同じ作者?)

「マカーガー峡谷の秘密」アンブローズ・ビアス

「氷河」ウラジミル・リディン

 

 

「山」アーヴィン

「山の宿」モーパッサン

「メークトラインの岩場」ケイ・ボイル

 

 

 

ミステリ/怪奇幻想系の作家として認識されているのはメースンとアンブローズ・ビアスのみ。経歴がよく分からない人も多いし、各作品の内容をトータルで俯瞰してみて、本書を純粋なミステリ・アンソロジーと定義するのは、いささかキツイ。されど人が標高数千メートルの高地に足を踏み入れるとなると、そこには常に危険と恐怖が伴う。妹尾韶夫のセレクトだけあって、ここに収められた山岳小説はサスペンスや人間ドラマの要素を含んでおり、前々回の記事で取り上げた松井玲子『大人は怖い』(☜)が探偵小説として読めるのならば、本書だってミステリを鑑賞するような心持ちで接することもできなくはない。

 

 

 

アンソロジーとはいえ、「山岳小説?どれも似たようなシチュエーションの話じゃないの?」と先入観を持たれるかもしれないが、それなりにヴァリエーションはあるので心配には及ばない。メースンの「青春の氷河」とビアス「マカーガー峡谷の秘密」が当Blogの趣味的に頭一つ抜けているかといえばそうでもなく、二人のアルピニストが相対し、悲惨な結果に終わりながらも最後にちょっと感動させる「形見のピッケル」なんて、妹尾韶夫があとがきにて激賞するだけのことはある。

 

 

 

それからモーパッサンの「山の宿」なんかは、春が来るまでシュワーレンバッハの山の上にある宿屋の留守を守らねばならず、雪の牢に閉じこめられる者の精神崩壊を描いており、さすがの名手ぶりに唸らされる。「アルプスの少女ハイジ」でペーターの家がある山の下と、ハイジやおんじが住んでいる山の上とでは雪の量が全然違ってたでしょ。モーパッサンは山の上のあの厳しい冬の脅威をジットリとmadlyに伝えている。

 

 

 

しかしこの本、校正担当もしくは活字を組む人間が三流だったのか、例えば上段で述べたように同じ作家の名がアルマンやウルマンに揺れていたり、表記の面で気になるところが結構多くて疲れる。朋文堂の本はいつもこうなのか私には分からないが、こういうのがあると作品にまでマイナスな印象しか残らなくなるから良い事ではない。






(銀) 目次に「訳者あとがき・・・・ディケンズ・・・・」と表記があるけど、本書にはディケンズの作品は入ってないし、どういう意味なんだろ?これも編集サイドのミスかな?

 

 

 

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