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2025年3月10日月曜日

『車井戸は何故軋る~横溝正史傑作短篇集』横溝正史/末國善己(編)

NEW !

東京創元社
2025年2月発売



★★★   由利麟太郎、出番なし・・・




► 「恐ろしき四月馬鹿」(大正10年発表)

► 「河獺」(大正11年発表)

► 「画室の犯罪」(大正14年発表)

► 「広告人形」(大正15年発表)

► 「裏切る時計」(   〃   )

► 「山名耕作の不思議な生活」(昭和2年発表)

► 「あ・てる・てえる・ふいるむ」(昭和3年発表/江戸川乱歩名義)

 

► 「蔵の中」(昭和10年発表)

► 「猫と蠟人形」(昭和11年発表/由利麟太郎・三津木俊助シリーズ)

► 「妖説孔雀樹」(昭和15年発表)

 

► 「刺青された男」(昭和21年発表)

 「車井戸は何故軋る」(昭和24年発表)

► 「蝙蝠と蛞蝓」(昭和22年発表/金田一耕助シリーズ)

 

► 「蜃気楼島の情熱」(昭和29年発表/金田一耕助シリーズ)

► 「睡れる花嫁」(昭和29年発表/金田一耕助シリーズ)

► 「鞄の中の女」(昭和32年発表/金田一耕助シリーズ)

 

► 「空蝉処女」(昭和58年発表/執筆は昭和21年)

 

 

A  ジュヴナイルや時代小説を除く横溝正史のオールタイム創作短篇ベストってことね。唯一「妖説孔雀樹」は江戸時代が舞台とはいえ、チェスタトンの「孔雀の樹」ネタを頂いた怪奇幻想ものだからラインナップに入ってる訳か。しっかし正史のベスト短篇集を編むにあたり選択肢は潤沢にありそうなものを、アマチュアとしての投稿~『新青年』編集長就任期間、いわゆる初期フェーズだけで七篇選ぶなんて荒技だなア。戦時中だった昭和16年~昭和20年、そして探偵ものの短篇発表数が少なかった昭和25年~昭和28年の分がごっそり抜けてしまうのは、まあ分かる。でも昭和4年~昭和9年の間さえ選出無しって、此は如何に?

 

B  平成13年にちくま文庫から刊行された『怪奇探偵小説傑作選 2/横溝正史集/面影双紙』という本がありまして。「鬼火」が収録されているからオール短篇とは呼べず、同じコンセプトでもないんですが、本書と比較される対象がもしあるとすれば、その文庫になると思うんです。だからなるべく重複しないよう配慮したのではないかと・・・それでも「蔵の中」「山名耕作の不思議な生活」の二篇はダブってますけどね。

 

A  「山名耕作の不思議な生活」ってそんなに評価されてんの?どうせちくま文庫との重複が生じるんだったら「」でいいじゃん。後味は悪いし、初稿の半分の量に縮めて発表せざるをえなかったんで正史は後悔していたようだけど、立派な耽美系の逸品だぞ。あと、彼の絶頂期と呼べる終戦直後のフェーズから「刺青された男」を選ぶってのも個性的だな。

 

B  ユーモラスなやつも押さえておきたいとか、編者・末國善己の好みがあるんでしょうよ。それと留意すべきは、一昨年の暮に末國の編纂で創元推理文庫から人形佐七の傑作選が出たじゃないですか?



A  あ~、カバー裏表紙に堂々と〝人形左七〟って印刷されていたあの恥ずかしい本ね。



B  そうです、そうです。あの本の編者解説に〝底本は初出誌を基本とし、見つからなかった作品については初版本、各種全集で補った〟と書いてあったの覚えてますか?今回もその方針を踏襲しているらしく、こちらの解説でも〝可能な限り初出誌を底本にしたので、横溝が加筆修正を行った流布版との違いを楽しんで欲しい〟と言ってます。初出誌と単行本とでほぼ異同の無いものより、単行本テキストに加筆・改稿の跡がガッツリ存在するものを選んで収録してるのかもしれませんよ。本書のテキストが初出バージョンであることを売りにするために。


 

A  ふ~ん、商売上手やねえ。


 

B  〝可能な限り初出誌を底本にした〟という文言は柏書房版「横溝正史ミステリ短篇コレクション」「由利・三津木探偵小説集成」でも使われていましたけど、じゃあどの作品が初出誌ではなく初刊本のテキストで対応したのか、明記されないんですよね。初出/出典一覧ならあるんですが、それが毎回スッキリしない。

本書のテキストが柏書房の横溝本みたいに〝初出または初刊のテキストに準じて再編集〟するのでなく、基本、初出そのままに製作されたのであれば、のちに正史が手を加えた単行本テキストとどんな違いがあるのか、見てみましょうよ。


 

A  またそんな面倒なことやるのか? 疲れるだけだろ。


 

B  勿論ほんの一部ですよ。じゃあ、一篇しか選ばれなかった由利・三津木シリーズの「猫と蠟人形」をサンプルにします。柏書房版『由利・三津木探偵小説集成 ① 真珠郎』解説にて日下三蔵が説明しているように、単行本化の際、「猫と蠟人形」のテキストは加筆されている箇所が少なからずあり、その中で〈河沿いの家〉における終りの部分(本書146ページ下段14行目)を比較すると、こうなります。




✽ 本書/初出ヴァージョン「猫と蠟人形」~〈河沿いの家〉


「よし、この家だ!」
 二人は欄干に手をかけると、勇躍して舟から座敷の中へ掻きのぼった。座敷へ入って見ると、いよいよ、ここが犯行の現場であることが明瞭である。猫の趾跡のほかにも、畳の上に一筋、血の跡がスーッと河に向った縁側のほうに続いている。屍体を引きずった時についた跡らしいのである。




✽ 柏書房版『由利・三津木探偵小説集成 ① 真珠郎』所収
  /加筆ヴァージョン「猫と蠟人形」~〈河沿いの家〉
  (302ページ下段18行目から303ページ下段16行目まで)


〝屍体を引きずった時についた跡らしいのである。〟までの部分は初出ヴァージョンと同じ。
 そのあと、

「やっぱり、この家ですね。こゝで殺人が行われたのですよ」
 俊助は恐ろしい部屋のなかの惨状を、ひとわたり見廻すと溜息をつくようにそう言った。

 から、

等々力警部はそんな事には気がつかない。縛めが解けるとすぐ老婆の方に向き直った。

 までの1ブロックが加筆されている。このブロックは本書では読めない。

 

 

B  どうです?本書収録作品を他の横溝本と比べると、こんな違いがいろいろ見つかるんじゃないでしょうか。「猫と蠟人形」は昭和21年、岩谷文庫1に表題作として収められる際「蠟人形事件」と改題され、昭和30年代までこのタイトルのまま東方社の単行本に再録されました。



A  あっ、そう。とにかく「車井戸は何故軋る」原型版はダントツに面白い。それは声を大にして言っておくよ。一度発表したものをやたらイジりまくる。横溝正史と大瀧詠一は似た者同士だよな~。





(銀) この本も、出版芸術社の「横溝正史探偵小説コレクション」が刊行されていた頃に出ていれば、もっとインパクトがあったと思うのだが、一連の柏書房の横溝本が出たあとでは、やや印象が薄い。なにより由利・三津木シリーズからのセレクトが三津木俊助しか登場しない「猫と蠟人形」だけとなると、由利麟太郎はすっかり蚊帳の外。そりゃないわ。

 

 

 

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2024年10月4日金曜日

『死仮面(オリジナル版)』横溝正史

NEW !

春陽文庫
2024年9月発売



★★★★   らしからぬ〝緩み〟





平成以降出回っている横溝正史の角川文庫はごく一部を除き、買う意味の無いものばかりなので気に留めていなかったけれど、『死仮面』は令和4年に復刊されてたんだな。しかも暫定的な中島河太郎の補筆を使用したままで。

角川文庫版『死仮面』が出たのが昭和59年。後続の春陽文庫版が刊行された平成10年には、当初なかなか見つけられなかった連載第四回分も含め、底本となる初出誌『物語』のテキストは全て揃っていた。再発にあたり、爾来二十年という流通の空白がありながら、なぜ角川は完璧なテキストでリニューアルしなかったのだろう?「雪割草」の時は初刊の版元・戎光祥出版へ気を遣うこともなく、さっさと角川文庫に編入していたのに。「死仮面」だと何か春陽堂書店に忖度しなければならない事情でもあるのかねぇ。

 

 

ジュヴナイル短篇「黄金の鼻びら」を併録し、余計な自主規制の言葉狩りを一掃した、四度目の発売となる今回の『死仮面』(初刊はKADOKAWA NOVELS)。改めてその内容を見てみると、昭和20年代前半の金田一耕助長篇にしては中のやや下ぐらいな出来。細かい筋立てに長けた横溝正史らしくもない〝緩み〟があったりする。

この年(昭和24年)は伝奇色を打ち出した「八つ墓村」を『新青年』に、ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」風サスペンス・スリラー「女が見ていた」を『時事新報』に連載しているし、「本陣殺人事件」以来邁進してきたガチな本格長篇路線から、心持ちギアを落としたのかもしれないが、戦前の「覆面の佳人」ほどグダグダではないにせよ一言物申したくなる。

 




 

 

 

では「死仮面」のウイークポイントについて、具体例を拾ってみる。
どの登場人物が犯人か、あからさまに書くことは控えるものの、作品の核心に少しばかり触れているため、「死仮面」を未読の方はここから先、なるべくお読みにならないほうがよろしいかと思います。

 

 

 

 物語冒頭、岡山の気ちがいめいた美術家・野口慎吾による異様な告白書に軒並み読者は幻惑されるだろう。どこまでも野口を惹き付けて離さない山口アケミとの爛れた性愛関係など、その内容は真に迫っているのだが、最後には金田一の調べによって、野口などという男は存在せず、本作の犯人Aがわざわざ東京から岡山まで行って野口慎吾を演じていたことが判明する。ただそうなると、この人物の描き方には違和感を抱かざるをえない。

 

 

  野口の住居である野口美術店から嘔吐を催すような異臭が匂ってくるため、マーケットの隣人は意を決して野口の留守中に踏み込み、女の腐爛死体を発見する。警察に連行された野口には突っ込んだ精神鑑定が必要と判断され、留置場から別の場所へ護送される途中、彼は刑事の手を振り切り川へ飛び込んでしまう。もとより変態性欲者の疑いを掛けていたこともあって、警察は野口が自殺を図ったと見ており、彼の死体は結局未発見。

 

本作は読者を欺瞞する叙述トラップが横行しているけれども、野口の逃亡に関しては磯川警部が金田一に語って聞かせる話なので、ここはフェイクに非ず。

 

東京でなんとしても成し遂げたい企みがあり、その目的のため一定期間とはいえ、シレッと野口慎吾を演じていた犯人A。なら、女の死体を美術店内に放置していたおかげで警察に捕まってしまっては、東京での動きに差し障りが生じて本末転倒だったんじゃないの?というのが私の疑問。不審者レベルの扱いだったから運良く逃亡できたが、もしも警察にガッチリ拘束されていたら、犯人Aが岡山でやったことは単なる藪蛇に終わったかもしれぬ。

つまり何が言いたいかというと、作者が冒頭にて不穏な猟奇色を強調するあまり、本当は気違いでもなんでもない犯人A(=野口)の行動が筋道立っておらず、不自然に映るのだ。

 

 

 川島夏代/上野里枝/山内君子(全員独身)・・・それぞれ父親が異なる三人の姉妹。このち一番下の君子は川島家の生活に耐え切れなくなり、家出してしまう。これについて地の文で作者は〝銀座のキャバレーで葉山京子と名乗る女が、男を射殺して姿をかくしたのは四月のことである。してみると川島家をとび出した君子は、葉山京子と名前をかえて、キャバレーの踊り子になっていたのだろう。〟と説明している。

 

話が進むにつれ、野口慎吾が岡山から夏代宛てに送ってきたデス・マスクの元だと思われる人間は二転三転しつつも、最終的に君子の顔から型を取ったことが分かってくる。ここで野口慎吾と三人の姉妹に関する一連の動きを時間軸に沿って並べてみよう。

 

昭和233

山内君子、川島家を家出

 

同年4

葉山京子、男を射殺して逃走

川島女子学園では新学期開始に合わせて創始者・川島春子の胸像除幕式を行う

 

同年6

野口慎吾、岡山のマーケットに現れ、美術品店を開く(本書24頁)

~ 一方、107頁では〝7月のはじめ〟とも表記している

 

同年9月半ば

野口美術店から異臭が漂ってくるという近所の噂が立ち始める

野口慎吾、警察に連行されるも川へ投身、そのまま行方不明

川島夏代宛てに岡山からデス・マスクが届く

 

10月半ば

上野里枝、銀座裏の金田一耕助探偵事務所に赴き、デス・マスク事件について調査依頼

次の二点はいずれも里枝の申告

~ 届いたデス・マスクを見て、夏代と里枝は家出した君子が岡山で死んだものと思い、回向

~ 金田一と会う二、三日前の夜、夏代と里枝は川島家寝室の窓に幽霊の如き君子の顔を見る

 

1023

怪しい跛の男、川島女子学園に初めて出現

 

 

 重要事項だから、先に言ってしまおう。家出して葉山京子と名乗りキャバレーで働いていた君子は男を射殺したあと、こっそり川島家へ逃げ帰っていた。川島家の主である夏代は地下室へ君子を押し込み、例によって狂ったように折檻していたところ、あまりに度が過ぎ君子を殺してしまう。それはあらゆる状況から鑑みて、4月の話であるのは間違いない。これらの事も物語後半における金田一耕助の裏付けがあり、動かしようがない確かな事実である。

 

ここまで見てきて「ん?変だな」と思いませんか?だって君子は4月に死んだことが明らかにされるんですよ。じゃあ10月に夏代と里枝が窓越しに見た君子はいったい何だったのか?まさか幽霊ってことはあるまい。この件に関し、里枝自身の発言(5758頁)以外に第三者の立証が無く、頼みの金田一、そして作者・横溝正史も説明しないまま、ウヤムヤに話は終了。勿論シンプルに里枝の偽証だと考えるのが一番自然なんだが、やっぱり据わりが悪い。

 

 

 学園創始者・川島春子の胸像が建設中であることを利用し、川島夏代は殺してしまった君子の亡骸を隠密に胸像台のコンクリート内部へと埋めてしまう。

 

 

 これもまた、単独で実行するには相当無理がある。夏代の女手ひとつで川島家の地下室から胸像の設置場所まで、誰にも見咎められずに屍を運んでいける訳が無い。いくら深夜とはいえ、寄宿舎にて寝起きしている女学生達に気付かれぬとも限らないのだから。

 

 

 

ざっくり以上の点が、「死仮面」に対する私の不満である。本作が連載された『物語』は名古屋ローカルの雑誌ゆえ、その読者は「本陣殺人事件」や「獄門島」を発表した探偵小説の専門誌『宝石』ほどディティールに厳しくはなかったろう。だから「死仮面」はそれまでの金田一長篇に比べて、ルーズな出来になってしまったのかもしれない。のちに正史は、「内容が陰惨だからリアルタイムで単行本にしなかった」と語っているけど、それだけが理由ではない筈だ。





野口慎吾の屍姦などは、六年後に書かれるエログロ金田一もののプレリュードとも言える訳で、「夜歩く」~「犬神家の一族」の狭間に位置する長篇として見たら正直物足りない。しかし出来はともかく、四度目のリリースにしてやっと本来あるべきテキストで読めるようになったことは喜ばしい。内容的に高く評価したい作品ではないが、誤字まみれのテキストになるような不手際は回避できているので★4つ。

 

 

 

(銀) 前々回記事にした同じ春陽文庫の新刊『盲目の目撃者』(甲賀三郎)に比べると、テキストの入力ミスは日下三蔵の解題だけにしか見つからず、「死仮面」「黄金の花びら」では誤字などに気付くことも無かった。なんで『盲目の目撃者』のほうばかりテキスト・チェックが甘いのか?「責任者出てこい!」と言いたい。






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2024年5月19日日曜日

『横溝正史「獄門島」草稿(二松学舎大学所蔵)翻刻』石川詩織/近藤弘子/品田亜美/山口直孝(編)

NEW !

二松学舎大学山口直孝研究室 解纜ブックレット〇〇Ⅳ
2024年5月頒布



★★★   花子殺しのあたりで執筆逡巡?




 今回の解纜ブックレットのテーマは「獄門島」。小冊子76ページ。
かつて横溝家に残存、今は二松学舎大学が所蔵している「獄門島」関連の草稿のうち、
次のものが翻刻されている。

 

 

第六章     錦蛇のやうに/一枚

第七章     てにをはの問題/六八枚

第八章     今晩のプログラム/一四枚

第十章     待てば来る来る/四枚(両面使用)

第十六章        お小夜聖天/四枚(両面使用)

第二十一章     忠臣蔵二段返し/八枚(両面使用)

 

 

山口直孝研究室によると、これらの草稿を見る限り(即断はできないが)
特に第七章あたりで横溝正史は執筆に手古摺っていた・・・そんな風に考えているらしい。


  
 

 

 「気違いじゃが仕方がない」の名文句で終わった第六章。次の第七章を始める草稿の一行目から、金田一耕助を二度も金田耕助と書き間違えている正史。全体の論理的展開にひとつの矛盾も無いよう没入していただけかもしれないが、(起用してまだ二作目とはいえ)大切な探偵役の名前を失念することもあるんだな。

 

 

最初の段階では第七章のタイトルを「文法の問題」としていたり、「アメリカのカレッヂに居た時分、金田一耕助は看護夫見習いのようなことをやっていたので、医学の心得が少々あった」旨の説明を、本章の冒頭に置こうとした様子が見て取れる。金田一に医学の心得がある説明は完成形テキストでは第八章、すなわち、頼りない医者の幸庵が花子の死体を梅の木から下ろし、動揺しながらも死亡推定時刻を確かめるシーンの後ろへと移された。


 

 

 あの戦争でイヤというほど人間の亡骸を間近に体験してきた金田一には、花子の屍を見ても大仰に驚きを見せぬ〝免疫〟があることについて、「数年間の前線生活だ/そこでは人のいのちが、腐つた魚みたいに安つぽくあつかわれた」と語るくだりを何度もブラッシュアップ。兵隊に駆り出されて皮肉にも無残な光景にいささ神経が麻痺してしまっている哀しい性(サガ)を、オブラートに包まず濃厚に示しているところなど、初期の金田一にしか見られない陰影が私は好き。

 

 

映画版『犬神家の一族』の中で、菊人形・笠原淡海の頭が犬神佐武の生首だとわかった時、石坂浩二演じる金田一耕助は一瞬腰を抜かすほど驚愕する。しかし現作におけるその場面では、本書の草稿翻刻にもあるように、戦地で人間らしさを失った光景を散々見てきているため、金田一はどんなに悪夢のような死体を目の当たりにしようとも、映画のように慌てふためく反応は見せない。石坂浩二のああいう演技は、どこまでもオーバーアクション気味に作りたがる映像分野ならではのもの。 

 

 

 裏面を利用している草稿もあって、そこには人形佐七捕物帳の「石見銀山」「狸ばやし」「緋鹿の子娘」、そして長篇「雪割草」の文章が書き込まれている。さらに野本瑠美のエッセイ「『獄門島』と枕屏風」」も収録。「獄門島」には特別の思いがあったのだろう、正史の死後、孝子夫人は味わい深い枕屏風を自分の手で制作し、健在だった頃は大切にしていたのだが、色々あって知らぬ間に破棄されてしまったそうだ。







(銀) 千光寺の古木に吊るされた花子を描写するのに、比喩として美しく怪奇な錦蛇のようだと表現した正史のセンスはお見事。鬱蒼とした木々の枝や幹にヌルヌル絡まっているニシキヘビがどんなにいやらしく無気味なものか、スマホ世代の方々は御存知?




この錦蛇に喩えたヴィジュアルなんてのは、昔の日本の話であっても、都会が舞台では成立させられない。やっぱどうしたって獄門島みたいに世俗から切り離された離島が舞台でないと、せっかくのギミックも空々しく映る。巧妙に組み立てたロジックのみならず、記憶に残る名場面の数々が「獄門島」の魅力を二倍にも三倍にも膨らませてくれるのである。








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2024年4月18日木曜日

美輪さんの横溝正史嫌いは本当だった➊

NEW !

   



 立教大学/江戸川乱歩記念大衆文化研究センター公式HP(☜)に「江戸川乱歩生誕130年記念企画~乱歩を世界にひらく、乱歩からひらかれる世界」と題し、2022年6月から2023年11月にかけて旧乱歩邸に招いたゲスト十八組のインタビューがupされている。その顔ぶれはコチラ。
 

 

①波乃久里子(with 平井憲太郎)

TOBI

③和嶋慎治

④齋藤雅文

⑤辻真先

 

 
⑥河合雪之丞

⑦喜多村緑郎

⑧松本幸四郎

⑨市川染五郎

⑩中村雀右衛門

 
 

⑪佐野史郎

⑫安達もじり

⑬柳家喬太郎

⑭速水奨

⑮室瀬和美/室瀬智彌(with 平井憲太郎)

 
 

⑯倉持裕

美輪明宏(☜)

⑱旭堂南湖

 

 
ゲストに招かれているのは(漆芸家である室瀬和美/室瀬智彌親子を除くと)、江戸川乱歩原作を使用した演劇・映像・二次創作パフォーマンスになにがしかの関わりを持つ面々。波乃久理子の話はちょっとだけ身を入れて読んだものの、探偵小説の副産物に興味を持たぬ私にとって心惹かれる企画ではない。そんな中、要注意人物が一名いる。他でもない、我らが美輪さんだ。







 他のゲストとは比べものにならないぐらい、生前の乱歩にゆかりの深い美輪さん。このインタビュー記事に見られる、旧乱歩邸にて佇む美輪さんのフォトは九年前に撮影されたもの。最新の写真であろうとなかろうと、1934年刊の新潮社版『黒蜥蜴・妖蟲』初刊本を手元に置きポーズをとる美輪さんの姿は、私の中に熱い胸騒ぎを呼び起こす。
(本日の記事・左上の画像を見よ)

 

 

乱歩そして三島由紀夫、二人の巨人について半世紀以上、幾度となくコメントを求められてきた美輪さんゆえに、乱歩との初対面時における〝腕を切ったら七色の血が出る〟云々のやりとり然り、こちらが知り尽くしているエピソードに終始してしまうのかと思いきや、このインタビューではつい耳をそばだててしまうような事も語ってくれている。

 

 

  まず、インタビュー冒頭の次の部分だけは至極重要なので、
ここだけは原文をそのまま引用させてもらう。


美輪「探偵小説の作家では、横溝正史さんもいらっしゃるけれど、あの人の探偵は野暮ったくて、舞台も田舎の豪族の家だったり、都会的じゃないんです。だから、あまり好きじゃなくて(笑)。その点、江戸川さんのものは好きでした。退廃的でね。まさかお会いするなんて思いもしませんでしたけれど。」


Blog 2022915日の記事(☜)にて私は、かつて美輪さんが横溝正史を「肥溜めの臭いがする」と言って一刀両断にした話を取り上げている。この発言がいつ、どこの媒体で発せられたものなのか、今でも突き止めてはいないのだが、上記のコメントを読む限り、(〝肥溜め〟とかキツい物言いこそしていないけれど)横溝正史のことは好きでないとハッキリ語っているので、美輪さんの正史嫌いは決してデマではなく本当のようだ。






  要するに横溝正史の人となりがキライというより、小汚い探偵や地方旧家の土俗性が肌に合わないようで、それらの根拠がおしなべて一連の金田一長篇から来ているのは明々白々。「真珠郎」あたりは読んでないのかな~。そもそも若き日の美輪さんは、乱歩以外の日本の探偵小説にどれぐらい接してきたのだろう?それを知る手掛かりとなる資料もまた無いのだけど、美輪さんの美意識からして『新青年』がカルチャー・リーダーだった頃の戦前の探偵小説ぐらいは後追いでなにかしら読んでいるかもしれない。さりとて本格長篇だから高尚とか、そういう観点を持ちつつ探偵小説にのめり込んでいたとは到底考えにくい。




実はこれまでずっと、美輪さんの「横溝正史は肥溜めの臭いがする」発言なるものは、角川春樹のハイプなゴリ押し商法によって大衆が横溝正史ブームに踊らされていたあの年代に発せられたんじゃないかな?と勝手に推測してきた。今じゃまるで、「すべての日本人が角川~横溝ブームに熱狂した」みたいな調子で決め付けているけれど、当時「横溝正史なんてちっとも良いと思わない」「節操無さ過ぎな角川の宣伝がウザイ」「田舎臭いのがイモ」「フケをまき散らす金田一が不潔」などと冷ややかに見ていた人だって少なからず世間に存在していたのを、私はこの目で見て知っている。そんな中の一人が美輪さんではなかったか?







  のちの世になって歴史を捻じ曲げる連中こそ、実に信用ならない。そんな譬え話をしよう。『レコードコレクターズ』という斜陽音楽雑誌があるのだが、この雑誌はある時期から邦楽を扱っても大滝詠一やいわゆるはっぴいえんど人脈ばかりに偏向し、洋楽でもくだらない特集しか組まなくなったため、真っ当な読者からはクソミソに批判され続けている(加藤和彦も小田和正と対談した時、「オフコースってあれだけ実績残してきたのに、音楽雑誌に取り上げられる事って全然無いよね」と暗に日本の音楽ジャーナリズムを皮肉っていた)。




特に呆れてしまうのは、いくら『レコードコレクターズ』の編集部や音楽ライターのナイアガラ推しの度が過ぎるからって、1981年の日本の音楽シーンを語る際、「この年の頂点にあったのは大詠一の『A Long Vacation』だ」とか、臆面もなく言いまくっていることでね。


確かに『ロンバケ』は長期間に亘ってよく売れた。でもネットの普及などまだ先の話である1981年において、大衆が音楽のフレッシュな情報を得るとなると、テレビやラジオが最大のツールであったことを忘れてはいけない。大詠一一切テレビに出ない人だし、ライブ嫌いで人前に出る機会も稀、『オールナイトニッポン』のレギュラーDJをやっていた訳でもない。全国区で見れば彼の認知度はそこまで高いとは言えず、結果的に『ロンバケ』はオリコンが集計する1981年・年間アルバムチャートの二位まで行ったものの、その売れ方はカタツムリの歩みみたいな、地味~なチャート・アクションだった。




あの年の国内音楽シーンを最も席巻したのは決して大詠一ではない。中島みゆきでもなければ横浜銀蝿でもYMOでも松田聖子でもない。シングル「ルビーの指環」「シャドー・シティ」「出航 SASURAI」をチャートのTOP10に送り込み、アルバム『Reflections』が凄まじい勢いでミリオン・セラーになった寺尾聰だったよ、間違いなく。


メインが俳優業である寺尾に強い思い入れを抱いている編集者/ライターなど皆無、ただそれだけの理由で『レコードコレクターズ』は『Reflections』の特集を組もうともしないばかりか、「1981年の頂点は『ロンバケ』だ」などと、うそぶく奴が出てきたりする。誤った情報に騙されちゃいけません。







  すっかり話が脱線したが、偏った音楽ジャーナリズムのせいで1981年における日本の音楽シーンの顔が寺尾聰でなく大詠一にされてしまっているように、あの頃角川~横溝ブームを好ましく思わない人など誰もいなかったかの如く、今の現代人は思い込まされている。そうでもなかったがね、少なくとも私の周りでは。


で、美輪さんが「横溝正史は肥溜めの臭いがする」なんて発言をするとしたら、あたかも正史が乱歩を追い抜いたような風潮にあったあの時期以外に考えられない気がするのだ。徹底して〝粋〟〝洒脱〟なものを好む乱歩贔屓の美輪さんからすれば、(あくまでも推論にすぎないが)金田一耕助や「八つ墓村」みたいなのが罷り通るのは腹立たしかったんじゃなかろうか。



「横溝正史は肥溜めの臭いがする」の話題で、こんなにスペースを費やしてしまった。
残りは次回へつづく。








(銀) 立教大学/江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが行った十八組のインタビューは『乱歩を探して』という単行本に収録され、もうすぐ発売とのこと。



















美輪さんもねえ、乱歩について度々語る機会があったのだから、美輪さんフリークの編集者が一肌脱いで、乱歩や「黒蜥蜴」及びその周辺にテーマを絞り、美輪さんの過去の証言を整理した上で、一冊の書籍に纏めてコンプリートしてみる、なんてのはどうだろう?
もしくは美輪さんが元気なうちに、乱歩についての超ロング・インタビューを敢行するとか。
でも美輪さんの年齢と体力を考慮すると後者は難しそうだし、
なにより、そのような企画を引き受けてくれるかどうか・・・。






2024年1月22日月曜日

合作探偵小説コレクション⑤『覆面の佳人/吉祥天女の像』

NEW !

春陽堂書店  日下三蔵(編)
2023年12月発売



★★     鬼っ子




この巻は結果的に、横溝正史の参加した合作/連作/リレー小説が並ぶ構成になった。

 

「吉祥天女の像」 甲賀三郎 → 牧逸馬 → 横溝正史 → 高田義一郎 → 岡田三郎 → 小酒井不木

昭和2年発表。作品名にもなっているアイコン〝吉祥天女の像〟が第一話から早速ストーリーの中に放り込まれ、その像にはどうも人に害を与えそうな何かが備わっているらしい。一話ごとに担当する作家がそのまま実名で登場してくるので、各人のキャラがどれぐらい投影されているのか気に留めながら読むと楽しい。

 

〝吉祥天女の像〟の秘密には甲賀十八番の理化学トリックが隠されているのかな?と期待させてもくれるし、登場人物としての〝甲賀三郎〟が電車の中で気になった令嬢を尾行してゆく導入部からして掴みは悪くないのだけど、そこはそれリレー小説だから全体がガタピシしてしまって、こういう企画になるとアンカーを押し付けられがちな小酒井不木はクロージングに四苦八苦。

 

第一話の甲賀篇で彼らしい滑り出しを見せてくれるぶん、「江川蘭子」「畸形の天女」を全て江戸川乱歩の筆で読みたかったように、これも連作ではなく甲賀三郎単独作品として書いてほしかった、とも一寸思った。

  

 

 

「越中島運転手殺し」 大下宇陀児 → 横溝正史 → 甲賀三郎 → 濱尾四郎

昭和6年発表。本作の二年前、雑誌『朝日』昭和410月号に濱尾四郎の「富士妙子の死」という陪審小説が掲載されている。これは当時の日常に起こりそうな一つの事件を濱尾がお題として提示し、それを読んだ読者はどのような判決を下すのか、編集部が誌上陪審を募集する企画であった。

 

「越中島運転手殺し」の掲載は女性誌『婦人サロン』。こちらは実際の事件を叩き台にした企画なので、「富士妙子の死」の読者陪審募集とは少し異なり、タクシー運転手殺人事件を編集部がお題として提示。読者ではなく大下宇陀児/横溝正史/甲賀三郎がこの事件に関わる三名の男性の行動をアダプトして描写、締めを受け持つのは検事でもあった濱尾四郎。犯罪実話ものの趣きなのでリレー小説のようなデコボコは無い代わりに、それぞれの個性の見せ場も少ない。





対談「探偵作家はアマノジャク・・・探偵小説50年を語る」
山田風太郎/高木彬光/横溝正/横溝孝子

昭和52年発表。本書の中で、私は一番面白かった。
なぜ探偵作家の座談・鼎談・対談ばかりを集めた本を、誰も作らないのだろう?

 

 

 

〈六大都市小説集〉

東京「手紙」(国枝史郎)/大阪「角男」(江戸川乱歩)/京都「都おどりの夜」(渡辺均)/横浜「異人屋往来」(長谷川伸)/名古屋「ういろう」(小酒井不木)/神戸「劉夫人の腕環」(横溝正史)

昭和3年発表。
「手紙」「角男」「劉夫人の腕環」以外のものを読めるのが今回のセールス・ポイント。
「角男」が横溝正史による代作である内情以外、特記すべき事は無い。 

 

「一九三二年」北村小松 → 佐左木俊郎 → 中村正常 → 岩藤雪夫 → 舟橋聖一 → 平林たい子 → 水谷準 → 横溝正史 → ささきふさ → 里村欣三 → 尾崎士郎

昭和7年発表。戦前に発売されていた日記本の中の読み物。
参加しているのは殆ど非探偵作家だし、
一作家あたりの(本書における)分量は1+1/4ページ。
こちらも軽めの紹介で十分だと思う。

 

 

 

 

横溝正史の参加した合作/連作/リレー小説を集めた単行本は一向に出される気運が無かったので、今回まとめて読めるようになったのは良い事だが、タイミングとしてはやや遅きに失した感がある。さて、最後に残った問題だらけの新聞小説「覆面の佳人」(江戸川乱歩/横溝正史、この長篇については前々回/前回の記事を費やしたから、そこで書けなかった事のみ触れておく。

 

 『覆面の佳人-或は「女妖」-』江戸川乱歩/横溝正史

もともと駄作ではあったが、この酷評は春陽文庫の校訂・校正方針に対してのもの  (☜)


「覆面の佳人(=「女妖)」(江戸川乱歩/横溝正史)のテキストは今度こそ信用できるものなのか?① (☜)

「覆面の佳人(=「女妖)」(江戸川乱歩/横溝正史)のテキストは今度こそ信用できるものなのか?② 

 


上記のリンクを張っている記事①②では、本書『覆面の佳人/吉祥天女の像』に収録されている「覆面の佳人」のテキスト(Ⓐ)に対して、このBlogにて二年前に行った【春陽文庫版『覆面の佳人ー或は「女妖」ー』、及びその異題同一作品である『九州日報』連載「女妖」との対比に基づく明らかなテキスト異同一覧(Ⓑ)】とのチェックを再度敢行した。

そこで『九州日報』のテキストと一致しない箇所を拾い出したものの、
せっかく春陽文庫版の時には正しく表記されていながら、
本書(Ⓐ)でまた新たに、間違えて校訂・校正されている箇所が発生。
もうこれまでのようにズラズラ書き並べるのはしんどいので、
一例を挙げるとすればコチラ(☟)。

 
本書(Ⓐ)20

このシーンでは蛭田紫影検事と予審判事が一緒に登場しているのだが、〝蛭田検事〟と表記すべきところを〝蛭田判事〟にしてしまっている誤りが数ヶ所あり。

 

 

 

思えば本書は、日下三蔵の都合によって編集から発売までスケジュールが遅延してしまったそうなので、校正担当者:浜田知明と佐藤健太は春陽堂の編集部からタイトな日程を組まれてせっつかれ、十分にテキストを確認する時間をかなり削られてしまったのかもしれない。であれば上段のようなミスが起きるのは気の毒というか同情したくもなる。

 

 

日下三蔵は評論家を名乗りながら評論というものが一切書けない男ゆえ、今回の「覆面の佳人」も岡戸武平/山前譲/浜田知明らが過去に記した推論以上のネタを掴むための調査はしてないだろうし、横溝正史執筆の背景だけでなく内容に至るまで、この長篇がどれだけ混乱を来しているか等、【編者解説】欄で言及することはまず無かろうなと予想してはいたが、現在判明済みの「覆面の佳人」を掲載した新聞のうち『満洲日報』を抜かしてしまっているのは、書誌データにのみ執着する日下にしては手落ちじゃないか。 

 

 

江戸川乱歩サイドと横溝正史サイド、その両方から継子扱いされてきた「覆面の佳人」(=「女妖」)。何度も言うけどストーリーは支離滅裂だし、その成り立ちがどういうものだったかさえハッキリしない鬼っ子のような作品である。今回二度目の単行本になったが、どうやっても本作はこのような煮え切らない復刊になる運命を背負っているのかもしれない。それだけにプロフェッショナルの仕事人/中相作や『新青年』研究会のベテラン・メンバーがファイナル・アンサー~本作の最終形と呼べそうな本を作るべく正面から取り組んでくれればなあと思うが、如何ともしがたいこの作品内容では所詮夢物語かな。

 

 

 

 

(銀) 【合作探偵小説コレクション】の真のヤマ場は、これ以降の第68巻。
果してどうなることやら。
 
 

 

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