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2024年11月22日金曜日

『久生十蘭玲瓏無惨傑作小説集/アヴオグルの夢』久生十蘭

NEW !

小鳥遊書房  長山靖生(編)
2010年10月発売



★★   この版元の本で読むメリットがないと厳しい




久生十蘭のことを探偵作家とは思っていない。本書にピックアップされた短篇を探偵趣味の鋳型に当て嵌めて鑑賞しても肩透かしを食うだけ。悪辣/卑賤/強欲/執着/姑息・・・・帯の惹句そのままに、人という不完全な生き物が織り成す一個の万華鏡として接するこそよけれ。〝玲瓏無惨〟とはそういう意味合いじゃないかな。

 

 

「アヴオグルの夢」(『函館新聞』昭和2年2月28日発表)

「典雅なる自殺者」(『函館新聞』昭和2年3月7日発表)

「つめる」(『新青年』昭和9年9月号発表)

「黒い手帳」(『新青年』昭和12年1月号発表)

「黄泉から」(『オール読物』昭和21年12月号発表)

 


「西林図」(『オール読物』昭和22年7月号発表)

「予言」(『苦楽』昭和22年8月号発表)

「骨仏」(『小説と読物』昭和23年2月号発表)

「手紙」(『小説と読物』昭和24年1月号発表)

「女の四季」(『小説の泉』昭和25年8月号発表)

 


「無月物語」(『オール読物』昭和2510月号発表)

「人魚」(『花椿』昭和29年3~8月号発表)

「母子像」(『読売新聞』昭和2932628日発表)

「雲の小径」(『別冊小説新潮』昭和31年1月号発表)

「無惨やな」(『オール読物』昭和31年2月号発表)

 


「川波」(『別冊文藝春秋』昭和31年4月号発表)

「一の倉沢」(『文藝春秋』昭和31年8月号発表)

 



初出年度と掲載媒体の傾向を見てもらうべく、ここでは発表順に並べ替えているけれど、実際の収録順は若干異なるので一応お伝えしておく。

 

 

主人公や主要登場人物の場合、掴みとして最低限のバックグラウンドは解り易く示すのが小説の定石だが、十蘭はその手続きをすっ飛ばして物語が進む。「骨仏」みたいに実質4ページしかない掌編のみならず、冬木と冬亭/文女と文子など紛らわしい名前のキャラが出てくる「西林図」のような話であっても、個々の詳しいプロフィールをいちいち織り込んだりしない。

 

 

事の輪郭をはっきりさせない手法はプロットにも顕著だ。「川波」のエンディングで倫子は結局溺れ死んだのか否か断言できないし、また「一の倉沢」にしても、谷川岳で遭難した菱刈安一郎と大須賀利男の二人は本当に命を落としてしまったのか確実な情報は無く、ファジーなまま幕が下りる。どう受け取るかは読み手次第。





十蘭の文体は小説通のプライドを擽ってやまぬ敷居の高さがあるから、一見の読者にはなかなか手強い。「予言」の中に〝姉の勢以子は外御門へ命婦に行き〟というくだりがあって、耳慣れぬ言葉なれど、日本の探偵小説を読んでいても〝外御門(そとみかど)〟や〝命婦(みょうぶ)〟といった雅な表現に出くわす機会は稀。

「黄泉から」をはじめ、幾つかの作品に見られる〝おフランス趣味〟は私には邪魔っ気だが、「西林図」における「花というものは、花を見ているあいだは、ほかに、なにもいらないような気持ちにさせますのね」と呟く文女のセリフなど、往年の久世光彦が喜びそうな古き良き日本人の佇まいを淡々と描いてみせるあたり、〝小説の魔術師〟の名に恥じぬ腕前。

 

 

「無月物語」なんて導入部分に特段吸引力があるとも思えないのに、ページを捲るたび惹き込まれてゆく。江戸川乱歩は物語の導入に長けた人で、乱歩作品がキャッチーな要因の一つは其処に起因しているけれども、十蘭のぶっきらぼうさは乱歩と対照的。

しかし「無月物語」を読むたび、「これ、長い尺で書かれていたら、もっとトンデモナイ大作になったのかなア」「いや、やっぱり短篇サイズだからイイのかな?」などと逡巡してしまう自分がいる。中納言・藤原泰文のタチの悪さをNHKが正常だった頃の大河ドラマで映像化したなら、さぞかし面白かったろう。(こんなモンを毎週放送したら、気の弱い視聴者から非難轟々だろうがね)





(銀) 本書の底本には国書刊行会版『定本久生十蘭全集』を使用。あちらのテキストは旧字/旧仮名遣いだったのに対し、本書は新字/現代仮名遣いに改めている。長山靖生が編纂するこの版元のシリーズは太宰治/江戸川乱歩(×2)/坂口安吾/牧野信一/泉鏡花と来て本書に至る訳だが、それぞれ大仰な副題を付けても、既発書籍で手軽に読める作家と作品をわざわざこのシリーズでまた読む人はごく一部だろうし、ここでしか得られない何らかのメリットが求められる。






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2023年4月3日月曜日

『肌色の月』久生十蘭

NEW !

光文社文庫 探偵くらぶ 日下三蔵(編)
2023年3月発売



★★★   狂えるポリコレ信者ども、
             お前らの盲信を他人に押し付けるな




中篇というか短めの三長篇「金狼」(昭和11年)「妖術」(昭和13年)「肌色の月」(昭和32年)、そして五短篇「妖翳記」(昭和14年)「酒の害悪を繞つて」(昭和15年)「白豹」(昭和15年)「予言」(昭和22年)「母子像」(昭和29年)が収録されている。この文庫の中では、久生十蘭が愛着を示した「予言」「母子像」よりも戦前作品のほうが私の趣味に合う。病床での仕事ゆえ「肌色の月」はあるキャラの造形に若干ふらつきも見られるのだが、連載時のコンディションを考慮しても健闘したスリラーであると言えよう。




十蘭最期の様子は、癌のため「肌色の月」完成目前で斃れた夫に代わり物語を締め括ってくれた幸子夫人記すところの、なんとも身につまされる闘病記に詳しい。それを受け、中井英夫が万感の思いを込めて寄稿した中公文庫版『肌色の月』解説がまた素晴らしく、十蘭ロスの読者へ伝えなければならぬ心情をたった7頁で余すところなく表現している。評論家を名乗っているのに作品内容を咀嚼した解説が一切書けない日下三蔵。本来なら(中井の名文には遠く及ばずとも)自分自身で力のこもった文章を書くべきだろうに、くだくだ理由を付けてまたも他者の解説を流用、どこまで行っても書誌データしか書けず。


 

 


本書を読んだ人は、殺人現場での〝むせっかえるような屠殺場の匂い〟という表現があるため「金狼」の収録をやめてほしいと日下に迫った光文社の姿勢を「???」と思ったに違いない。当Blogでは言葉狩りによって作品をスポイルされた本の例を幾度も取り上げてきた。その中から光文社文庫版『江戸川乱歩全集』にて特にこの種の食肉関係団体からの抗議を恐れ、【皮屋】【屠牛】というワードがこっそり消し去られている事実を述べた記事二つ、下段に貼ったリンクより御覧頂こう。

 

2023120日付記事/『空中紳士』耽綺社 

2020627日付記事/『江戸川乱歩全集第5巻 押絵と旅する男』 

 

結果として本書(光文社文庫版『肌色の月』)は日下三蔵の編者解説とは別に、〝うちの会社は差別や人権に対し軽々しい態度で昔の小説を復刊してるんじゃありませんよ〟と宣言した《本書中の差別表現について》と題する3ページのお断りを編入し、それを事前に関係団体に見せOKをもらうことで、目を付けられていた「金狼」を含んだ形での発売が可能になったそうだ。とりあえず作品や表現が潰されなかったのは幸いだったけれど、気分は晴れない。言葉狩りや作品削除を免れたにもかかわらず良い評価にする気が起こらなかったのは、後段で述べる不快なニュースが飛び込んできたせいもある。



 

 

最近の記事で「その手の本は一切買わないようにしているからかもしれないが、言葉狩りは2010年以前に比べると少なくなってるような感じがする」と書いたのはワタシの浅はかな錯覚だったようで、20年前に同じ光文社が『山田風太郎ミステリー傑作選〈2〉』で「帰去来殺人事件」を抹殺してしまったのと同じ愚行が再び起こる可能性は今でも変わっていなかった。常々私が脅しに屈する出版社を批判しているため、もしかして出版社だけを厳しい目で見ている人がいるかもしれないけれど、元はといえば差別/人権を理由に作品削除や言葉の書き換えを求めてくる団体がいるから、このような問題はいつまで経っても無くならない。そこで出版業界事情を知りえぬシロートが思い浮かべる三つの疑問。

 

➊ クレームにビビって自主規制を行うのはたいてい大手出版社。そこまで大手ではない国書刊行会などで言葉狩りをしている気配は無い。もっとも三一書房やコスミック出版の本に言葉狩りはあったから、必ずしも大手以外の出版社の本が全て大丈夫とは言い切れない。クレームを言ってくる団体が標的にするのは決して大手出版社だけではない筈なのに、自主規制などせず正々堂々と本作りをしている人達はいる。大手出版社の弱みは民放テレビ局同様、クレーマーに暴れられて広告収入が得られなくなると困るから?それともポリコレ病にかかって正常な考えができなくなっているから?

 

何故どの会社も確固たるポリシーを持って本を作らないのだろう。前にも書いたけど同じ出版社でも、ある本では〝気違い〟というワードをそのまま通していたかと思えば別の本では言葉狩りしていたり、一貫性が無いのはどうして?結局のところ担当する編集者及びその上司がクレームを畏れてすぐ自主規制に走る人間か、あるいは徹底的にオリジナル表現を守り通そうとしてクレームに立ち向かう人間か、そのどちらに当たるかで本のテキストの信頼度も月とスッポン並みに違ってくる。

 

 

➋ 最初からクレームが来そうなことが予想できるのなら、本書『肌色の月』のように周到な〝断り書き〟を用意しておいて、その都度、本の末尾に付けておけばいいものを、それをしない出版社や編集者が多いのは、単に面倒だと軽く考えて作品に愛情を持たず本を作っているから?



❸ 本だけでなく昔のTV番組のソフト化/再放送とかにもクレームを付けてくる団体は時として暴力的に脅してくる・・・なんて話も聞く。もし今でもそんな行為が行われているのなら、寧ろそういう集団こそ逆に訴えられてしかるべきじゃないんかい?

 

 

 


先日ネットニュースで、欧米の出版社がアガサ・クリスティー作品に対して昨今不適切だと思われる表現部分を一斉削除、そういった流れは今後も増えていきそうだと報道していた。正にキ・チ・ガ・ヒ・ザ・タというしかない。クリスティー社だかクリスティー財団だか知らんが、彼らはこれを認可してしまったのだろうか?この暴挙が収まらないかぎり、私はもう二度と言葉狩り英文テキストを底本にしたクリスティー新訳本なんか一冊たりとも買うつもりはない。



(銀) クリスティー作品蹂躙のニュースを知り、今回取り上げた光文社に改めて不信感を抱いた。まあ良い子の久生十蘭ファンはみな国書刊行会の『定本久生十蘭全集』で読んでいるだろうから、こんな光文社の文庫など買わないだろうけども、国書の全集は定価が高いから揃えられんと言う方はさしあたり 1、3、9、11巻あたりをつまみ食いするのもひとつの手である。

とにかく、不幸な歴史を背負った食肉関係の仕事に携わる方々には理解を示したいが、だからといって過ぎた昔の表現をいちいち闇に葬る事が建設的だとは全然思えない。それよりも許し難いのはポリティカル・コレクトネスですっかり頭が狂ってしまったり、それを手段として甘いシルを吸おうと企んでいる奴らだ。



話がポリコレ方面に行き過ぎて「妖術」の面白さを語り損ねてしまった。今回の文庫の収録作品は奇しくもマインド・コントロールを描いているかのごときものがいくつかあって、そういった点は興味深い。