探偵小説の歴史における密室トリックの萌芽に該当するものを思い浮かべると、だいたいこんな感じになるかな。
1841年 エドガー・アラン・ポオ「モルグ街の殺人」(短篇)
1891年 イズレイル・ザングウィル「ビッグ・ボウの殺人」(長篇)
1905年 ジャック・フットレル「十三号独房の問題」(短篇)
1908年 ガストン・ルルー「黄色い部屋の謎」(長篇)
そう、密室を売りにした長篇として「ビッグ・ボウの殺人」はパイオニアの誉れ高い作品なのである。けれども上記四名の中で頭一つ抜けてイズレイル・ザングウィルはマイナーな作家だし、本作を未読の方は意外とおられるかもしれない。細々とだがハヤカワ・ミステリ文庫版は今でも流通がある。イズレイル・ザングウィルって憶えにくい名前だけど、一度は読まなきゃ損。
☽ 凍えるような十二月のロンドン。ボウ地区でドラブダンプ夫人が経営する下宿の二階を借りて住んでいるアーサー・コンスタントは文学士であり、また労働運動の旗振り役でもある。ドラブダンプ夫人はコンスタントに朝起こしてほしいと頼まれていたので、(三十分ほど寝坊したとはいえ)部屋のドアを叩いて何度も声を掛けたのだが、一向に起きてくる気配なし。異変を感じた夫人はすぐ、近所付き合いの元刑事グロドマンを呼び、完全にロックされているコンスタントの部屋のドアをぶち破ってもらい、中に入った。
ディクスン・カーや江戸川乱歩が喜びそうな、けれども本格物を煙たがるリアリズム派には馬鹿馬鹿しいと苦笑されそうな、ペテンチックな不可能犯罪。要するに〝読み手の盲点を突く〟ってやつだ。プロパーなミステリ作家ではないからか、ザングウィルのストーリー運びは読みにくいとは言わないまでも若干クセがある。Chapter5からしばらく、デンジル・キャンタコットやピーター・クラウルらのやりとりが中心となるあたりは、なんとなくモタついているのが瑕瑾。
密室のからくりは犯人の動機にも繋がってくる。とにかくカーのトリック・メイカーぶりが好きなら本作は満足できるし、そうでなければ単に人をおちょくった小説でしかないだろう。繰り返すが、カーほど上手い具合に物語を転がしてゆくSmooth Operatorではないので、たどたどしいところが少々目に付く。密室トリック長篇の先駆けだし本当は満点にしたいけど、★4つ。