2024年4月30日火曜日

『悪い夢~私の好きな作家たち』久世光彦

NEW !

角川春樹事務所/紀伊國屋書店
1995年10月発売




★★    作詞も手掛けた多才な人





 女中を雇えるほど裕福な戦前の家庭に育った彼は、どう見てもいいとこのボンボンTBSのプロデューサー・演出家だけでなく、のちに作家としても名を成した久世光彦が、自分の愛する作家について雑誌などに執筆したエッセイを一冊に纏めたのが、この本。

 

 

 

亂歩に還る1991年『銀花』に発表)

悪い夢~私の乱歩1993年『鳩よ!』に発表)

明智小五郎は二人いる1995年 講談社文庫〈大衆文学館〉『明智小五郎全集』に発表)

はじめに挿絵ありき~小説誌のなかに見る乱歩1994年『小説新潮』に発表)

乱歩の洋館1994年『太陽』に発表)

異形たちの蜜月1995年『別冊太陽』に発表)

 

 

ぬばたまの丸の内~海野十三の深夜の散歩1993年『銀花』に発表)

去年の魔都 いまいずこ~久生十蘭「魔都」1995年 朝日文芸文庫『魔都』に発表)

キネオラマの幻景~稲垣足穂(1991年『太陽』に発表)

外題がよければ、それでいい~私の鏡花(1992年『鳩よ!』に発表)

半七老の語り口~岡本綺堂『半七捕物帳』(1992年『小説新潮』に発表)

鏡の中に何かいる~岸田理生(1993年 角川ホラー文庫『最後の子』に発表)

 

 

陽炎小路はどこにある~虹二(ママ/虹児の間違い)・華宵・夢二
1994年 『大正・昭和のロマン画家たち』に発表)

覗き機械、のぞいてみれば~佐伯俊男(1995年 『佐伯俊男作品集・痴虫』に発表)

 

 

不良の文学、または作家の死~伊集院静と松井邦雄
1993年 講談社文庫『乳房』に発表)

ほんとに咲いてる花よりも~山口瞳『木槿の花』
1994年 新潮文庫『木槿の花』に発表)

たぶん一度死んだ人~山本夏彦という人
1994年 中公文庫『ダメの人』に発表)

 

 

 

吾輩は『猫』を読む(1993年『ノーサイド』に発表)

漱石が笑った(1994年『プレジデント』に発表)

『吾輩は猫である』の愉しみ(199394年『ドゥマゴ通信』に発表)

 

 

隠れ太宰(1992年『週刊文春』に発表)

隠れ野菊はいまもいる~伊藤左千夫『野菊の墓』
1991年 集英社文庫『野菊の墓』に発表

人に教えたくない一冊~小島政二郎『俳句の天才-久保田万太郎』
1994年『波』に発表)

『珈琲挽き』に思うこと~小沼丹1994年『新潮』に発表)

眩しい少年たち~大江健三郎(1994年『文藝春秋』に発表)

 

 

 

書物の夢 夢の書物~その壱・その弐
1989年『SPA!』/1995年『トランヴェール』に発表)

 

 

 

ドン・ファンの末裔たち(1989年『週刊文春』に発表)

私の読書日記(1992年『オール讀物』に発表)

本の森の散策(1994年『読売新聞』に発表)

題名のはなし(1993年『新刊ニュース』に発表)

遊びをせむとや(1994年『小説新潮』に発表)

あとがき






◆ 江戸川乱歩への思い入れでは人後に落ちない久世。
彼にとっての乱歩とはあくまで初期短篇、「蜘蛛男」やら講談社系の雑誌に書くようになる前のものに限ると強調。1935年(=昭和10年)の生まれなのに、「赤い部屋」「踊る一寸法師」「鏡地獄」なんかより世代的にジャストな筈の「少年探偵団」シリーズには〝こんなものを読んでいたら、可愛らしい子供向きの夢を見てしまいそうではないか〟と、大層ひねくれた事をおっしゃる。

 

 

 

そのわりに「人間豹」「緑衣の鬼」の挿絵を描いていたのは嶺田弘なんて、挿絵画家のことも詳しい。本書の出た95年頃だと、普通の人はまだこんな初出情報を手軽に知ることはできなかった訳で、な~んだ、通俗長篇の乱歩もしっかり雑誌で読んでるじゃないスか。

久世の最も愛する乱歩本は、当時の人が読んだと一様に口にする1931年(=昭和6年)に配本が開始された『江戸川亂歩全集』ではなく、その四年前(1927年=昭和2年)同じ平凡社から出た『現代大衆文学全集第三巻/江戸川亂歩集』。さりげなく岩田準一の話を持ち出すあたり、なんちゃって乱歩ファンの有名人とは違うね。

 

 

 

◆ 上段に記した本書の目次につき、(乱歩を含め)当Blogの趣味にフィットする項は色文字にしておいたが、それ以外に探偵小説とは関係なさそうな項の中でも、渡辺温/小栗虫太郎/夢野久作/長谷部史親/ウォールポールといった名前がポンポン出てきて楽しめる。私は久世と同世代の作家はどうでもよく、中でも大江健三郎なんて死ぬまで決して読むことはないと言い切れるけれど、久世がプラトニックな想い(?)を寄せていた向田邦子を巡り山口瞳への嫉妬を綴った文章あたりはなぜだか引き込まれるし、共感が持てる。

 

 

 

小沼丹について、私に影響を与えたのも本書。
いくらミステリの角書きが付いた『黒いハンカチ』『春風コンビお手柄帳』が現行本で出たところで、「村のエトランジェ」ほどに感じるものが無いのは久世のせい。

「孤島の鬼」の挿絵画家を岩田専太郎としていたり、本書の中に些細なミスが無い訳ではない。伊集院静や山本夏彦あたりはバッサリ切り捨てて、昭和前期以前の作家に絞った内容だったら、もっとヨカッタ。このエッセイは蔵書自慢厨とは真逆の、本を読むことがなによりも好きな気持ちがストレートに伝わってくるのがいい。

 

 

 

 

(銀) 天地真理の「♪ ひとりじゃないって~ すてきなことね~」とか、
ジュリーの「♪ 足早に過ぎて行く この秋の中で~ あなたを見失いたくないのです~」の詞を手掛けているのが実は久世であることは、ペンネームを使っているのもあってか、あまり知られていない。
 
 

 

 
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2024年4月27日土曜日

『大人は怖い~ある少女の告白』松井玲子

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永和書館
194710月発売



★★   大倉燁子の娘




俗っぽい言い方をするなら、二世タレントならぬ二世作家。この本の初刊は戦前の1940年に出た大元社版になるそうで、母親である大倉燁子がまだ現役なうちから、娘の松井玲子も小説を書き始めていた。山下武『「新青年」をめぐる作家たち』によれば、1947年『アサヒグラフ』の取材にて玲子は〝目下は乱歩氏の下に探偵小説修業に通っている〟とレポートされているというけどホントかな?

 

 

 

大倉燁子・初の著書『踊る影絵』(柳香書院)は1935年、森下雨村/中村吉蔵/岡本綺堂/長谷川伸/大下宇陀児/甲賀三郎/江戸川乱歩といった豪華な面々の寄稿によって下駄を履かされ、華々しいデビューを飾った。

 

 

 

片や、玲子の永和書館版『大人は怖い』も母同様に著名人のバックアップを受けており、冒頭には「序にかえて」と題し、北村小松/川原久仁於/村岡花子/山本梅子(白百合高、今の白百合学園の当時の校長らしい)/坪田讓治/窪川稻子/石井漠ら七名の、餞の言葉が載っている。

中でも北村小松の「これはむしろ小説の形をかりた告白集」「外交官を父にもつ上流家庭に生まれながら、父母の不和がもとで、およそ精神的に恵まれて来なかったらしい」といったコメントは、本書を読み解く手助けになろう。

 

 

 

「ピアノの先生」「根ツ子大盡」「遺言狀」「卒業」

「盆栽の花」「大人の世界」「犠牲」

 

 

 

若さゆえか、1940年頃の日本を象徴する風俗や世相の描写は見当たらない。犯罪のような題材もなく、日常における少女のちょっとした心の綾を描いているため、母が大倉燁子だとか、その手の予備知識を一切知らずに読んだら、シンプルな少女小説としか映らないだろうな。でも作品の根底に流れる不穏な女性心理に母・大倉燁子との共通性を僅かでも嗅ぎ取れるのであれば、それなりに探偵小説として読める。

 

 

 

ここで松井玲子の生年に触れておこう。本日の記事を書くにあたり、最も参考にさせてもらった『「新青年」趣味』に掲載されている阿部崇【伝説・大倉燁子-奥田恵瑞氏・物集快氏が語る「物集芳子」の肖像-】では、玲子の生まれた年を1917年(大正6年)としている。一方、webサイト『夢現半球』の大倉燁子の項には、玲子の生年は1926年(大正15年=昭和元年)とあり「ハテ、どちらが正しいのかナ?」と迷ってしまった。

 

 

 

上段にて紹介した永和書館版『大人は怖い』/「序にかえて」の北村小松の寄稿をよく見ると、玲子について「今年廿歳(註/二十歳)になる年若いこの作者」と述べられている。なにげに私、昔から永和書館版『大人は怖い』は大元社版の初刊本に使われていた紙型を流用しているかも・・・とテキトーに考えていた。玲子1926年の生まれだとすれば、『大人は怖い』初刊本の大元社版が発売された1940年の時点で、まだ十四歳。いくら彼女が早熟だったとしても、これでは無理がある。

 

 

 

同じく上段にて言及した1947年の『アサヒグラフ』記事には、玲子は二十九歳だと記載されているらしい。これなら1917年生まれ説とは矛盾しないので、どうやらwebサイト『夢現半球』のほうが間違いだったみたい。ちなみに阿部崇の調査によれば、松井玲子1976年に五十九歳で亡くなったとのこと。玲子の生年が1917年だと納得できたところで、話を『大人は怖い』に戻そう。

 

 

 

永和書館版『大人は怖い』が刊行された1947年、玲子は三十歳(=丗歳)になるかならないかの年。そうすると北村小松の「今年廿歳になる年若いこの作者」という文章とは一致しなくなる。しかし永和書館版が1940年刊の大元社版の紙型を流用しているのであれば腑に落ちる。それでも1917年生まれの玲子1940年だと二十三歳なのだから、この三年の差が気になるといえば気になるけれど、このようにして永和書館版の「序にかえて」の部分は大元社の紙型を使用している可能性があるといえる。


 

 

 

(銀) 今となっては大倉燁子以上に、話題に挙がることも無い松井玲子だけれども、1951年の『関西探偵作家クラブ会報』第40号にて、同年6月の雑誌『探偵クラブ』に発表した短篇「灰色の青年」に対し「平凡なところは親譲りでしてねえ」と茶茶を入れられているのを見ると、当時の業界内では、母親とセットで気に掛けられていたようだ。

 

阿部崇の大倉燁子研究は非常に価値があり、『「新青年」趣味』だけに埋もれさせるにはあまりにもったいないから、いっそ大倉燁子・評伝でも書き上げてくれると嬉しいのだが、良い仕事をしてくれそうな人に限って腰が重かったりする。

 

Blogでは、わざわざ松井玲子単独のラベル(=タグ)を設定するまでもないので、大倉燁子のカテゴリーの中に一緒に入れておく。

 

 

 


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2024年4月25日木曜日

『私は前科者である』橘外男

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新潮社
1955年11月発売



★★★    雌伏の時代




橘外男には自伝的な作品がいくつかある。ところが、それらを付け合わせてみても、必ずどこかしらに矛盾が生じるらしく、「これぞ絶対に正しい!」と言い切れるレベルにまで彼の履歴を確定させるのはかなり難しいみたい。本日の記事を書くにあたり、本書と他の著書を見比べながら一致する部分と異なる部分を洗い出そうかとも思ったけれど、泥沼にハマりそうなので止めた。

 

 

 

公的に流布している橘外男ヒストリーみたいなものはひとまず横に置き、
ここでは本書に沿って彼の青春時代を見てゆくとしよう。
家族の中で一人だけ出来損ないだった十八歳の主人公(=橘外男)を、
昔気質で厳格な陸軍大佐の父親は見放してしまい、
鐡道管理局長の職に就いている(外男にとっての)叔父の住む札幌へと放逐、
そこで監獄にブチ込まれたところから物語は始まる。
(芸者に入れ込んで官金を横領してしまう件については、
ほんの一言二言程度しか触れられていない)

 

 

 

一年ほど〝お勤め〟を課せられたあと、
要視察人扱いながら娑婆に戻った彼(この時点では二十二歳)。
どうにかこうにか、内幸町で瑞西(スイス)人の社長が経営している「外國商館」にもぐり込むものの、〝前科あり〟の身であることが発覚。
それ以降、「淋病専門の薬屋」「傳通院の洋食屋」「待合となんら変わりない割烹旅館」「日雇い労働の土方」「書籍/雑誌・取次會社の返品部」などを転々、人並みの扱いをしてもらえず、社会の底辺を這いずるその惨状ぶりはまるで悲惨小説のよう。

 

 

 

昔を思い出しながら自分自身のことを綴ってゆく作業というのは、想像の産物である小説を創作する以上に頭に血がのぼるのか、話の視点があっち行ったりこっち行ったりしがちだし、なぜか私は『まいど!横山です ― ど根性漫才記』など、横山やすしの自伝を連想した。作家デビューに至るまでの物語だから、明治後期から大正時代なのは確かなんだが、その都度発生する出来事の年度を特定できるほど明らかな手掛かりが逐一記されておらず、その点、曖昧な感じもする。

 

 

 

獄中の顔見知りで、結果的に残虐な殺人を犯してしまう男とはいえ、
共感を抱ける相手に対しては親愛の情を示す。
外國商館・モーリエル商會にて彼のことを色眼鏡で見ずに、
唯一味方になってくれた秘書のクレール嬢、またしかり。
逆に、自分を嵌めたり貶めた者への怒りは消えることがない。

橘外男という人は常に感情表現が白黒ハッキリしているので、
仮面を被り、知らぬ存ぜぬな顔で犯行を続ける探偵小説みたいなものは書けないだろうなあと、つくづく思う。

 

 

 

モーリエル商會の社長と再会、将来の展望がようやく見えてきたところで本書は終わる。若い頃の己の最悪の時代を売りにしたいというより、過去に過ちを犯し行き場を失くしている人達にも何がしかの希望を持ってもらいたい、そんな動機でこの本は書かれているような感想を持った。

 

 

 

(銀) 今日の記事では昭和30年の初刊を用いているけれど、現在でも2010年に出た復刊本(インパクト選書3)にて入手可能。ネックなのは、その版元がインパクト出版会というマイナー出版社ゆえ、実店舗にはあまり置いてないだろうしネット上でも目立たない点。とかくAmazonに在庫が無いだけで、よく調べもせず「その本は現行で流通していない」などと早合点する人が多くて。






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2024年4月23日火曜日

『スパイは裸で死ぬ』島久平

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久保書店
1971年3月発売



★★★     人間蒸発株式会社





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チンピラ「やい、ズベ公。てめえは何者だ。」

玉子「しゃべりません。捕虜は所属官姓名を名のれば、あとは黙秘権を認められます。ジュネーブの戦争条約で決められています。」

チンピラ「なにが戦争条約や。捕虜は捕虜や。野郎ども、このアマを裸にムイてまえ」


 


チョビひげ社長「おい、処女探偵、こっちを向け。おまえ、本当に処女か」

玉子「そればっかりは堪忍して・・・・・・」

チョビひげ社長「あかん。おまえかて、どうせ一度は散る花やないか。いさぎよく覚悟さらせ」

玉子「わかりました。覚悟します・・・・おかあちゃん、許して、うちは今夜、尊い処女を失います」

 

 




 

以前の記事(☜)でも触れたように、島久平の作品の多くは関西テイストどっぷりな、品の無いエロと笑いをまぶしたハードボールドやアクションもので占められており、そこに探偵小説的な要素を求めてもしょうがない。この「スパイは裸で死ぬ」は、カマトトぶった口振りで人をおちょくり、七変化の変装術を見せる探偵社員・仁切玉子(〝ニギリ・タマコ〟と読む。この名前が何を意味しているかは、本作を読んで確かめて頂きたい)、そしてドスの利いた殺し屋お伝こと高橋伝子、この二人の美女を中心に物語は展開する。

 

 

 

最初のうちはお伝と玉子、どちらが主役なのかよくわからない。お伝の属する人間蒸発株式会社の東京支社長が暗殺され、外国資本の殺し屋連盟が日本の裏社会を狙っているなど、彼女達の身に降りかかる抗争の実情が見えてくるのは、全体の折り返し地点あたり。激しいカー・アクションがあったり潜水艦まで現れる後半よりも、お下劣な肉弾戦で笑わせる前半のほうが、ワタシ的には面白い。

 

 

 

フィクションの世界にまで各種ハラスメントやポリコレを掲げて「あれもダメ、これもダメ」とほざく現代の偽善者どもを嘲笑うかのような、昭和のやさぐれ感が爽快やねえ。この種の島久平の作品は、間違っても大手出版社から復刊されることはあるまい。本日の記事の最上段に取り上げたセリフのような、ヨゴレな趣きのエロと笑いを普通に表現できていた時代のほうが、ずっと風通しがよくて健全だったわ。 

とは言っても、毎日こういう小説ばっかり読まされた日には、すぐ厭きてしまうのも事実。たまに読むのが新鮮でイイ。

 

 

 

 

(銀) こうした島久平の作品を読んでいると、ある意味では小林信彦「唐獅子株式会社」シリーズの先駆と考えられなくもない。もちろん小林は関西人ではなく、彼の小説における関西弁は稲葉明雄らによって入念にレクチャーされたものだ。コテコテのファンキー度は根っからの関西人・島久平に及ぶべくもないし、また、ここまでお下劣な小説を書く度胸(?)を小林は持ち合わせてはいまい。







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2024年4月20日土曜日

美輪さんの横溝正史嫌いは本当だった➋

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一昨日の記事(☜)のつづき。
令和5年11月に立教大学/江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが行った美輪明宏インタビューについて、前回入りきらなかった部分をフォローする。美輪さんを含むゲスト十八組の聞き手を務めたのは、江戸川乱歩記念大衆文化研究センターの後藤隆基。

 

 

 

「横溝正史は好きではない」とおっしゃる美輪さん。
その他には、以下のような発言が私の気を引いた。

 

 

三島由紀夫が「黒蜥蜴の役を演じてほしい」と最初にオファーしてきた時、
初代・黒蜥蜴(昭和37年)を演じた水谷八重子の娘・水谷良重と交友があった美輪さんは、遠慮して一度は断っている。

 

 

黒蜥蜴の役を引き受ける前から乱歩の原作を読んでいた美輪さんの目には、三島由紀夫が脚色し水谷八重子(黒蜥蜴)/芥川比呂志(明智小五郎)が演じた舞台版の「黒蜥蜴」は、自分が頭に描いていたものとはギャップがあったらしい。

 

 

一度断られたら三島由紀夫はそれっきり話を振ってこない人なのに、美輪さんには二度三度と頼みにきたので、根負けして黒蜥蜴役を引き受けることにした。勿論この頃はまだ美輪明宏ではなく丸山明宏名義の時代であるが、便宜上ここでは通して〝美輪さん〟と呼ばせて頂く。

 

 

こうして黒蜥蜴を演じることに相成った美輪さん。初演時の相手役は天知茂。ただ美輪さんからすると明智小五郎に天知茂をキャスティングするのは反対で、満足いかなかったそうだ。以前の記事(☜)でも述べているが、なぜ天知茂が明智小五郎なのか私もしっくりこない。のちに彼はテレ朝系列のドラマ「江戸川乱歩の美女シリーズ」で明智小五郎を八年間演じるけれど、どちらかといえばA&Aプロダクションを設立する前の怪優っぷりというか、ドロリと睨みを利かせた役柄のほうが、はるかに魅力を感じる。

 

 

江戸川乱歩がこの世を去るのは昭和40年。輪さんの黒蜥蜴初演は昭和43年。
美輪さんの黒蜥蜴を観ることなく、乱歩は旅立った。

 

 

 

 

以後、美輪明宏版舞台「黒蜥蜴」の明智役が次々変わってゆくのは、美輪さんが「これぞ!」と惚れ込める男優がいなかったからっぽい。さもありなん。ちなみに初めて私が美輪さんの「黒蜥蜴」を観劇した時、明智小五郎を演じていたのは名高達男。

 

 

このインタビュー、美輪さんの言うことはどれもウンウンと頷きながら読んだ私だが、(美輪さんの求める明智の風貌は)岡譲司や上原謙みたいな整った顔だそうで、うーん、この点だけはピンと来ないな。いまBlogの記事を書きながら、ネットで岡譲司と上原謙の若い時の姿を眺めているのだけど、ご両人とも名探偵に相応しい雰囲気を持ち合わせているようには、どうしても見えない。ただ私はこの二人の全盛期をリアルタイムで体験していないし、彼らの良さを理解できないのも仕方ないかもな。上原謙の息子・加山雄三とて、私が物心ついた頃には既に中年だったのだから。

 

 

「大阪松竹少女歌劇団の出身だから黒タイツで踊ったりしたんだろうけど、黒蜥蜴はそういう女じゃないから、私は〝ああ、残念なことだな〟と思った」と、井上梅次監督による昭和37年の映画『黒蜥蜴』で主演を務めた京マチ子にも容赦なくダメ出し。このあたり、いかにも美輪さんらしい。

 

 

とはいえ、自分が主演を演じた昭和43年の映画『黒蜥蜴』の監督に深作欣二を呼んだのはいいが、美術のディティールがショボくて自分でも「失敗作だった」と認めている。

 

 

結局のところ美輪さんが舞台でいつまで「黒蜥蜴」を演じたかというと、今のところ平成27年の公演が最後。最近の美輪さんはNHK – Eテレ『愛のモヤモヤ相談室』で見かけるぐらいだが、百歳になるまで、あと十二年もある。長寿でいてもらいたい。

 

 

 

 

(銀) 一昨日の記事 (☜)の中に、たまたま加藤和彦の名前が出てきた。
ザ・フォーク・クルセイダーズ、サディスティック・ミカ・バンド、そしてソロ・・・・加藤が録音した曲の中で私のfavorite No.1は、スネークマンショー1stアルバムにドクター・ケスラーの名で収録されている美輪さんの代表曲「メケ・メケ」のカバーだ。

 

 

サディスティック・ミカ・バンドは2ndアルバム『黒船』の頃、昭和2030年代の日本の歌謡曲をカバーしたアルバム『駅前旅館』を制作しようとしていたが、曲の使用許諾問題によって実現せず。加藤和彦が美輪さんの「メケ・メケ」をカバーしたのは、『駅前旅館』でボツったアイディアに再びトライするのが目的だったとも解釈できる。







2024年4月18日木曜日

美輪さんの横溝正史嫌いは本当だった❶

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 立教大学/江戸川乱歩記念大衆文化研究センター公式HP(☜)に「江戸川乱歩生誕130年記念企画~乱歩を世界にひらく、乱歩からひらかれる世界」と題し、2022年6月から2023年11月にかけて旧乱歩邸に招いたゲスト十八組のインタビューがupされている。その顔ぶれはコチラ。
 

 

①波乃久里子(with 平井憲太郎)

TOBI

③和嶋慎治

④齋藤雅文

⑤辻真先

 

 
⑥河合雪之丞

⑦喜多村緑郎

⑧松本幸四郎

⑨市川染五郎

⑩中村雀右衛門

 
 

⑪佐野史郎

⑫安達もじり

⑬柳家喬太郎

⑭速水奨

⑮室瀬和美/室瀬智彌(with 平井憲太郎)

 
 

⑯倉持裕

美輪明宏(☜)

⑱旭堂南湖

 

 
ゲストに招かれているのは(漆芸家である室瀬和美/室瀬智彌親子を除くと)、江戸川乱歩原作を使用した演劇・映像・二次創作パフォーマンスになにがしかの関わりを持つ面々。波乃久理子の話はちょっとだけ身を入れて読んだものの、探偵小説の副産物に興味を持たぬ私にとって心惹かれる企画ではない。そんな中、要注意人物が一名いる。他でもない、我らが美輪さんだ。







 他のゲストとは比べものにならないぐらい、生前の乱歩にゆかりの深い美輪さん。このインタビュー記事に見られる、旧乱歩邸にて佇む美輪さんのフォトは九年前に撮影されたもの。最新の写真であろうとなかろうと、1934年刊の新潮社版『黒蜥蜴・妖蟲』初刊本を手元に置きポーズをとる美輪さんの姿は、私の中に熱い胸騒ぎを呼び起こす。
(本日の記事・左上の画像を見よ)

 

 

乱歩そして三島由紀夫、二人の巨人について半世紀以上、幾度となくコメントを求められてきた美輪さんゆえに、乱歩との初対面時における〝腕を切ったら七色の血が出る〟云々のやりとり然り、こちらが知り尽くしているエピソードに終始してしまうのかと思いきや、このインタビューではつい耳をそばだててしまうような事も語ってくれている。

 

 

  まず、インタビュー冒頭の次の部分だけは至極重要なので、
ここだけは原文をそのまま引用させてもらう。


美輪「探偵小説の作家では、横溝正史さんもいらっしゃるけれど、あの人の探偵は野暮ったくて、舞台も田舎の豪族の家だったり、都会的じゃないんです。だから、あまり好きじゃなくて(笑)。その点、江戸川さんのものは好きでした。退廃的でね。まさかお会いするなんて思いもしませんでしたけれど。」


Blog 2022915日の記事(☜)にて私は、かつて美輪さんが横溝正史を「肥溜めの臭いがする」と言って一刀両断にした話を取り上げている。この発言がいつ、どこの媒体で発せられたものなのか、今でも突き止めてはいないのだが、上記のコメントを読む限り、(〝肥溜め〟とかキツい物言いこそしていないけれど)横溝正史のことは好きでないとハッキリ語っているので、美輪さんの正史嫌いは決してデマではなく本当のようだ。






  要するに横溝正史の人となりがキライというより、小汚い探偵や地方旧家の土俗性が肌に合わないようで、それらの根拠がおしなべて一連の金田一長篇から来ているのは明々白々。「真珠郎」あたりは読んでないのかな~。そもそも若き日の美輪さんは、乱歩以外の日本の探偵小説にどれぐらい接してきたのだろう?それを知る手掛かりとなる資料もまた無いのだけど、美輪さんの美意識からして『新青年』がカルチャー・リーダーだった頃の戦前の探偵小説ぐらいは後追いでなにかしら読んでいるかもしれない。さりとて本格長篇だから高尚とか、そういう観点を持ちつつ探偵小説にのめり込んでいたとは到底考えにくい。




実はこれまでずっと、美輪さんの「横溝正史は肥溜めの臭いがする」発言なるものは、角川春樹のハイプなゴリ押し商法によって大衆が横溝正史ブームに踊らされていたあの年代に発せられたんじゃないかな?と勝手に推測してきた。今じゃまるで、「すべての日本人が角川~横溝ブームに熱狂した」みたいな調子で決め付けているけれど、当時「横溝正史なんてちっとも良いと思わない」「節操無さ過ぎな角川の宣伝がウザイ」「田舎臭いのがイモ」「フケをまき散らす金田一が不潔」などと冷ややかに見ていた人だって少なからず世間に存在していたのを、私はこの目で見て知っている。そんな中の一人が美輪さんではなかったか?







  のちの世になって歴史を捻じ曲げる連中こそ、実に信用ならない。そんな譬え話をしよう。『レコードコレクターズ』という斜陽音楽雑誌があるのだが、この雑誌はある時期から邦楽を扱っても大滝詠一やいわゆるはっぴいえんど人脈ばかりに偏向し、洋楽でもくだらない特集しか組まなくなったため、真っ当な読者からはクソミソに批判され続けている(加藤和彦も小田和正と対談した時、「オフコースってあれだけ実績残してきたのに、音楽雑誌に取り上げられる事って全然無いよね」と暗に日本の音楽ジャーナリズムを皮肉っていた)。




特に呆れてしまうのは、いくら『レコードコレクターズ』の編集部や音楽ライターのナイアガラ推しの度が過ぎるからって、1981年の日本の音楽シーンを語る際、「この年の頂点にあったのは大詠一の『A Long Vacation』だ」とか、臆面もなく言いまくっていることでね。


確かに『ロンバケ』は長期間に亘ってよく売れた。でもネットの普及などまだ先の話である1981年において、大衆が音楽のフレッシュな情報を得るとなると、テレビやラジオが最大のツールであったことを忘れてはいけない。大詠一一切テレビに出ない人だし、ライブ嫌いで人前に出る機会も稀、『オールナイトニッポン』のレギュラーDJをやっていた訳でもない。全国区で見れば彼の認知度はそこまで高いとは言えず、結果的に『ロンバケ』はオリコンが集計する1981年・年間アルバムチャートの二位まで行ったものの、その売れ方はカタツムリの歩みみたいな、地味~なチャート・アクションだった。




あの年の国内音楽シーンを最も席巻したのは決して大詠一ではない。中島みゆきでもなければ横浜銀蝿でもYMOでも松田聖子でもない。シングル「ルビーの指環」「シャドー・シティ」「出航 SASURAI」をチャートのTOP10に送り込み、アルバム『Reflections』が凄まじい勢いでミリオン・セラーになった寺尾聰だったよ、間違いなく。


メインが俳優業である寺尾に強い思い入れを抱いている編集者/ライターなど皆無、ただそれだけの理由で『レコードコレクターズ』は『Reflections』の特集を組もうともしないばかりか、「1981年の頂点は『ロンバケ』だ」などと、うそぶく奴が出てきたりする。誤った情報に騙されちゃいけません。







  すっかり話が脱線したが、偏った音楽ジャーナリズムのせいで1981年における日本の音楽シーンの顔が寺尾聰でなく大詠一にされてしまっているように、あの頃角川~横溝ブームを好ましく思わない人など誰もいなかったかの如く、今の現代人は思い込まされている。そうでもなかったがね、少なくとも私の周りでは。


で、美輪さんが「横溝正史は肥溜めの臭いがする」なんて発言をするとしたら、あたかも正史が乱歩を追い抜いたような風潮にあったあの時期以外に考えられない気がするのだ。徹底して〝粋〟〝洒脱〟なものを好む乱歩贔屓の美輪さんからすれば、(あくまでも推論にすぎないが)金田一耕助や「八つ墓村」みたいなのが罷り通るのは腹立たしかったんじゃなかろうか。



「横溝正史は肥溜めの臭いがする」の話題で、こんなにスペースを費やしてしまった。
残りは次回へつづく。








(銀) 立教大学/江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが行った十八組のインタビューは『乱歩を探して』という単行本に収録され、もうすぐ発売とのこと。



















美輪さんもねえ、乱歩について度々語る機会があったのだから、美輪さんフリークの編集者が一肌脱いで、乱歩や「黒蜥蜴」及びその周辺にテーマを絞り、美輪さんの過去の証言を整理した上で、一冊の書籍に纏めてコンプリートしてみる、なんてのはどうだろう?
もしくは美輪さんが元気なうちに、乱歩についての超ロング・インタビューを敢行するとか。
でも美輪さんの年齢と体力を考慮すると後者は難しそうだし、
なにより、そのような企画を引き受けてくれるかどうか・・・。