2022年3月29日火曜日

他人の小説を、テキストの最終チェックもせずに平気で売り捌く愚人達のこと②

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からつづきです。以下、参考までに色文字にはリンクを貼っている部分があります。必要に応じクリックして御覧下さい。画像も同様です。

         

 

さて、捕物出版大陸書館主宰・長瀬博之の twitterでの最近の投稿(☟)を見てもらおう。この人物が日常どのような事をSNSにて発言しているのか、全て御覧になりたければこちらを。


                       




                          


〝「誤字、送り仮名の揺れなどに神経質な方にはお勧めしません」と書誌に明記しました。数人の面倒な方々のために、余計な手間がかかります。〟だそうだ。

「どんなテキスト入力をしてどんな本であろうと、自分は正しい。何か指摘をする者がいたら、そいつら(=例えば私)は皆面倒な人間だ。」と仰せになる。このお方は大陸書館を始める時にまるで鬼の首でも取ったように〝魔子鬼一「牟家殺人事件」を収録した過去の単行本は、どれもこれも重要な登場人物名にミスがあり、それを正す為にこの作を第一弾として出すのだ〟と広言しておられた。現にいま、大陸書館の近刊をお持ちの方は巻末の既刊リストを見れば『牟家殺人事件』の紹介文にも「登場人物名の間違い云々」とアピールしているのが確認できる。大手出版社の本に比べると自分の作った本のミスの数は許容範囲だとか、他人の作った本には徹底して厳しいのに、自分の本にはひたすら甘い姿勢。なんだか我々がどこかでしょっちゅう見かける光景にも似ている。


 

                      

 


2012年に光文社文庫/ミステリー文学資料館(編)としてリリースされた『「宝石」一九五〇 牟家殺人事件』に再録された同作に対しても長瀬は「間違いを相変わらず修正してないし、著作権継承者を探しもせず印税を払っていないから、これは海賊版だ。」と twitterで息巻いていた。それを見てミステリー文学資料館名義の本に関わっていた新保博久が「海賊版はお言葉が過ぎましょう。ちゃんと光文社は印税を収めています。」と説明したにもかかわらず、長瀬から返ってきた言葉はこれ(☟)。他人から何か云われたら即「言葉の暴力だ!」などとキレるのに、新保氏や光文社への自分の言動は「言葉の暴力」には当たらないのか。











言っとくけど私は新保氏の知り合いでも味方でもない。いつの間にか長瀬はあたかも自分を被害者ぶって「私を責める人が」などと怒っているが、一方的にキレているのが長瀬のほうで、責められているのはむしろ新保氏にしか見えない。最初に〝「牟家殺人事件」の発売はよしたほうが良いでしょう〟と言ったのは新保氏だから、言われた長瀬を擁護できる点はあった。それにしたって、このあと新保氏は大人しく引き下がっているのに、ダメ押しするかのようなこの言い方(☟)はどうなのか。




 

 

 






                     



更には記事にて紹介したtwitter発言以外にも、甲賀三郎『劉夫人の腕環』に収録されている作品を、私が〝「こういうのは探偵小説ではない」と言った〟としつこく繰り返しておられる。確かに『甲賀三郎探偵小説選Ⅱ』の記事にて「もっと良い作品があるのに何故こういうセレクトを?」だとか『甲賀三郎探偵小説選Ⅳ』の記事では「みな甲賀三郎が目当てで買うのだし、彼の作品は未だに現行本に未収録の作品が沢山あるのだから、甲賀の娘さんの作品は彼女単独の著書に収録するべきでは?」等の発言なら間違いなく書いているので、どうぞ気の済むまで私を批判するなり罵って下さっても構わない。

しかし、ココの甲賀関連記事をズラッと見てもらえればわかるけれど、『劉夫人の腕環』に収録されているような甲賀の作品群を「これは探偵小説じゃないから嫌だ」なんて、いったいどこで私は発言しているのでしょう?自己反省の糧にするので、お手数ですが教えて頂けないでしょうか。むしろ「カシノの昴奮」なんかはせらび書房『外地探偵小説集』に是非選んでもらいたかったと書いているくらいなんですが。それとも誰かに吹き込まれましたか?

 

 

 

思い返してみると自分のレーベルを立ち上げた時から長瀬が執拗に「書評の類いはお断りする」と言い続けてきたのは再発する作家と作品を守るためでもなんでもなくて、ただ単に自分のミスが露顕した時、他人に指摘されるのが不服だった、そうとしか映らない。「イヤなら買うな!」「イヤなら読むな!」自分を省みる余裕の無い人間が最後に吐くセリフを遂に吐いておしまいになられた。そうこうしているうちに天の審判か大衆の審判か知らんけど、予想もしていなかった裁きが貴方に下されないといいですけどね。


 

                      

 


 古本でも新刊でも内容ではなく「この本はレアだから将来カネになる」という目的で、読みもしない本まで買い込んで整理もせず、ゴミ屋敷状態になった本の山をネットで自慢する古本狂いの拝金主義。

 

 古書の即売会が行われているデパートで、他の客を突き飛ばして会場に駆けつける事を自慢げにヘラヘラ笑っていた年寄りの書痴。

 

 日本の古本屋や即売会で仕込んだ古本を、ヤフオクで高く転売するミステリ評論家。そして、それにすぐ釣られる莫迦ども。加えて、この評論家を古本神などと崇める腰巾着。

 

 まがりなりにも本を作るのが仕事の筈なのに、他の事(twitterなど)が最優先な、別のミス テリ評論家。

 

 

こういった連中を中心に、探偵小説再発本や探偵小説関連古書の世界は回っている。あと・・・いつだったかな、平山雄一が自分で翻訳したマニアックな海外ミステリの出版をプレゼンしたらそれは拒否したくせに、後になって平山氏のアイディアだけを盗用し、別の翻訳者を使ってぬけぬけと新刊リリースしていた某出版社とか。



これだけでも十分アレなのに先日の、左川ちかの詩集刊行を企画していたらどこぞの古本屋周辺人物に妨害される被害を受けたという島田龍の報告を知った時には、流石に私も「コノ・ギョーカイ・モ、イヨイヨ・オワリダナ」と情けなくなった。今時恫喝なんて、ある元・女性タレントぐらいしかやる奴いないだろと思っていたら・・・甘かった。いや、煽り運転実行犯とか全国にいるからそうでもないか。島田氏制作中の左川ちか全集は無事リリースされそうな気配なので、それはよかったけど。                        

 

 

 

この記事をご覧になられた方のうち、お身内あるいはお知り合いの御先祖の中に、もしも小説(特に探偵/SF/時代もの)を書いていらっしゃった方があれば、どうか教えてあげて下さい。ある時、急に「そちらの〇〇さんの小説を復刊したいんですけど」などと言ってくる者がいても「ワア、本を出してもらえるんだ」と喜んですぐOKを出さず、しっかりその相手を確認してから御返事して下さい、と。

この世界に通じていないとなかなか対処しにくいとは思いますが、私のBlogもその見極めの一助になれば幸甚です。世の中には他人の書いた小説を誤字誤植だらけのまま平気で世間に売り捌いている人間が実在しているのですから。

 

 

 

そして今回の主役・長瀬博之氏へ。「自分の本について入力ミスとは絶対に認めない!感想その他一言たりともお前は口にするな!自分の本は一切買うな!」という貴方の無礼極まりない御申越し、ご希望に沿うようそのとおりに致しましょう。OCRで入力がどうとかおっしゃっていましたが、普通の口調で〝これこれこういう理由によって「わしにはよじ登る事ができね」みたいな文に変換されてしまったんだよ〟とでも仰っていれば私も「ああ、そうでしたか。これは大変ご無礼致しました」とお伝えしてましたよ。機械がどのような読み取りをしたら「輪」が「輸」になるのか、読者には想像もつきませんが。日下三蔵ともせいぜい仲良くして、全国一千万の貴方の読者のため、健康には気を付けて頑張って下さいませ。なお第二第三の私といいますか、貴方の本の愛読者がこれ以上減りませぬよう草葉の陰からお祈りしています。あらあらかしこ。



 


他人の小説を、テキストの最終チェックもせずに平気で売り捌く愚人達のこと①

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誰しも小学校の国語の時間に「作文を書いたら一度は見直してスイコーしてみましょう」と先生から教わった記憶がおありでは?大学生が自分の所属するゼミの教授へ論文を提出する際には、書き上がったらまず内容を読み返してみるのが当り前だし、企業の中でもクライアントや上司にデータや資料の作成を頼まれ、それが出来上がったなら簡単にでも最終チェックをするのがごく普通だと私は思っていた。ところが昨今のSNS社会において、当Blogで扱うジャンルに属する本を作っている一部の人間のアタマの中は「自分の刊行する本のテキストに不備がないか、などと見直す必要は無いから、何をさておいてもネットで自分のエゴサーチに専念しましょう」という常識になっているものと見ゆる。(以下、参考までに色文字にはリンクを張っている部分があります。必要に応じ、クリックしてご覧下さい)

 

                    

 

生きていると色んなことがあるもので、自分のBlogで褒めて応援していた相手からtwitterで罵倒されるというなんとも貴重な経験をさせて頂いた。昨今は東池袋での自動車暴走事故などでも、加害者はおろか被害者となられた方にまでSNSで誹謗中傷する人間が現れる時代だから、不思議でもなんでもないのかもしれない。私をご指名で罵倒して下さったのはPOD(プリント・オン・デマンド)システムでAmazon/楽天ブックス/Hontoといったネット書店で本を販売し埋もれていた旧い小説を自主レーベル捕物出版大陸書館より再発している長瀬博之という人物。曰く私に対し「他人の作った作品や本に☆の数で偉そうに批評するなど何様のつもりだ」という考えをお持ちのようだ。このレーベルには好意的な事を書いていたのだが、それもこれもひとえに私という人間の不徳の致すところか。

 

 

 

どんな人にも発言する自由はある。この方が私への憎しみを表現なされるのも結構。先日、大陸書館より刊行された甲賀三郎『劉夫人の腕環』のテキストで誤表記な箇所がある件につき、私がBlog上で指摘し「ご高齢の方のようだし老眼によるミスらしい」と書いたら「言葉の暴力だ!」とご立腹になっておられた。この人までもが杜撰な態度で本を作っているとは思いたくなかったし「老眼ゆえ、文字をつい見誤ってテキスト入力のケアレス・ミスをしたのであろう」位のフォローで書いたつもりだが、向こうが断然そうは受け取れぬというのならば、それこそ私の至らぬところに違いない。ただ、長瀬の言い分にはどうしても聞き流せぬ点がある。


 

                     

 


私がBlogで「本の刊行はゆっくりでいいから、収録テキストが出来上がってきたら時間をかけてチェックをしてみては?」と言ったのに対し、「自分には時間が残されていない。そういう余裕は無い。」との発言があった。この方がどれだけご高齢で何か病気でも抱えておられるのかどうか生憎存じ上げないけれども、例え若者だろうが年寄りだろうが健康体だろうが重病だろうが、本を販売して人様からお金を頂くのに、その本のテキストを自分の都合でチェックもろくにせず流通させたってかまわないという言い分が罷り通ると本気で思っておいでなのだろうか?

しかもだ。小説でもエッセイでも、どんな内容であれ自分名義の本を売るのであれば、どれだけ誤字誤植だらけのクソみたいな書籍になっても自分一人が責任を取ればいいけれど、長瀬が制作販売しているのは既に故人となられている様々な小説家の作品ばかり。他者の大切な小説を再び世に出すのであれば、自分名義の本以上にそのテキスト精査には注意を払って間違いの無いよう制作するのが、小説を遺した泉下の作家達に対する最低限の礼儀というものではないのか?そもそも一冊ぶん(何百頁もあるような分厚さではない)の出来上がって きたテキストをチェックするのに、いくら視力が厳しいとはいえ、そんなに手間を厭わなければならないものだろうか?

 

 

 

何年か前、高名な評論家で小説もお書きになる方が超メジャーな探偵作家の評論を上梓された。その本にはいくらかの誤った表記が目立ち、それを何人かの好事家は目ざとくtwitter上で指摘 していたが、私は「この方も年を召されて、最近はそんなミスを見逃すようになったか」程度にしか感じてなくて、その本のレビューをAmazonへ投稿した際には特段触れなかった(のちに、このBlogへ転載する時には「他の本に対してフェアじゃないかも」と思ったので、その誤りの事は追記している)。

私が本の感想を述べる時に、著者や制作者のそれまでやってこられた活動内容や普段の言動に対する自分の見方が色濃く反映しているのは事実。実際、前述した高名な評論家のそれまでの仕事ぶりからして「仮に年齢による衰えは少々あっても自著を物するのにテキトーになられた訳では決してあるまい」、そんな風に見ていたし、現にその方が次に出した新刊を読むと、誤りが目に付く事も無く同じミスは繰り返しておられなかった。ま、これが普通の良識あるパターンといえよう。


 

                      

 


私は出版関係者でもなければ、校正業の経験者でもない。ギョーカイなんて関わりがあろう筈もなく、献本をタダで頂けるような立場でもない。本はどれもちゃんと身銭を切って入手し読んでいる。但し探偵小説も読書も好きだから自然とシビアな見方にはなるし、幸か不幸か生まれつき思ってもいない〝おためごかし〟なヨイショを言う性格ではないので、良いと思ったものには手放しで激賞するけど、「これは・・・違うのでは?」と思ったものには思ったままの感想を吐露する。私の書く文章なんて書評といえる程の立派なものではない。何が言いたいかといえば、私程度の一般人でさえ読んでいてすぐ気付くような誤字誤植満載の本が増殖しているのに対し、無関心どころか喜んで許容しているこのギョーカイとオタク達の異常さを訴えているのだ。普段の生活では使わない言葉だけど「思考停止」というワードはまさしく彼らのためにある。twitterをやっている人は、長瀬が拡散した私への発言をどんな種類の人間が共有しているか、見てみると面白いだろう。そこには一定の傾向がきっと発見できるだろうから。




「☆の数で批評するなんて何様のつもりだ!」という長瀬の意見に対しては、〝不快な思いにさせてなんとも申し訳ないです。でも世の中には貴方の好き嫌いはともかく、Amazon以外の通販サイトにも、☆の点数機能を備えた投稿欄がありますね。「食べログ」という食事をする店専用のサイト、「ブクログ」という書籍専用のサイト、果ては病院や美容室の評判サイトまで、実に多様な形で ☆ の数を用いて思ったことを投稿できるwebサイトが存在しています。サッカーA代表の試合が行われれば、翌日のスポーツ紙には必ず監督+出場選手の採点表が掲載されます。                                           

もし「ブクログ」かなんかで「捕物出版/大陸書館」の本に貴方の好ましからぬ投稿が寄せられたら、私同様その人にもしつこく罵声を浴びせ続けるつもりですか?「自分への中傷はおろか、舞台の演技に関する全肯定以外の意見は許さない」とyoutubeで発言したその途端、週刊誌に 見つかって蔓延防止期間の最中にどこかの女性と外でデートしているのがバレてしまった歌舞伎 役者みたいな事になりませんかね?〟とお答えする。




へつづく。


 


2022年3月27日日曜日

田村正和の一周忌に

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● 田村正和が亡くなって、早一年が経とうとしている。                                      そのわりには〈雑誌/書籍〉の紙メディアでも〈地上波/BS〉といったテレビ・メディアでも、                            彼の役者人生の全てを偲べるような追悼企画といえるものは見当たらない。                         渥美清・高倉健が逝去した時には何かしらそれなりの追悼番組が制作されていたと思うのだが、正和氏の訃報後、目にするものといったら『古畑任三郎』の再放送ばかり。                                あとCSで『パパはニュースキャスター』とか、既にソフト化されている作品の安易なリピート。                    氏ほどの存在が世を去ったというのに、この扱いは納得がいかぬ。                             あのバンツマ(父・阪東妻三郎)の超スター性を兄弟の中で一番受け継いだ人だぞ。         

 

 

 

訃報が伝えられたのはちょうどコロナ騒ぎの真っ只中。                        最初のうちは「田村正和の亡くなった原因もコロナでは?」という勘繰りさえあったようだ。                     正和氏の追悼番組を作ろうとテレビ関係者が動かないのはコロナの影響?                  イヤ、そんな事は無いはず。では正和氏のマネージメント・サイドがそういったものを断って いるのだろうか。先日も『徹子の部屋』に弟・田村亮が出演して兄の想い出を語っていたが、                       これだけではなんとも寂しい。そんな中『ミステリマガジン』最新号の表紙を田村正和演じる 古畑の姿が飾っていた(当記事左上の画像を見よ)。                                   これとて『古畑任三郎』の特集であって、決して田村正和特集ではないのだけれど、                      俳優・田村正和の軌跡を振り返る書籍が何も制作されていない現在、                         往年の内容とはすいぶんかけ離れた方向へ行ってしまったこの雑誌ではあっても、                           今月号のちょっとした特集を眺めるだけで僅かに救われる気持ちにはなる。

 

 

 

● 久方ぶりの映画出演となった『ラストラブ』2007年)の頃から、                       正和氏は「もう店じまいしたい(=引退したいという意味)」と口にしていたし、                         その前年『古畑任三郎 THE FINALでシリーズにケリを付けたあとは、                         連ドラ出演も減ってゆき、年一回スペシャル・ドラマで顔を見せる程度の露出になっていた。                                 晩年いつも「静かにフェイドアウトしたいね」と語っているのは知っていたので、                                  テレビで正和氏の姿が見られなくなるとしても、心の準備(?)は出来ていたつもり。                         とはいえ遺作となった『眠狂四郎 The  Finalや、その後成城の街中を散歩中のところを直撃取材された時の正和氏は以前にも増して瘦身になっており、見ていてつらかったのだが。

 

 

 

氏はもともと心臓があまりよろしくなかったと聞いている。『古畑』シリーズがスタートする 四年前、日テレでやった年末のスベシャルドラマ『勝海舟』では当初主役を正和氏が務めていたのだが急病にて途中降板となり、後半部分は弟・田村亮が代役リリーフ。                                         この頃から何か体に異変が起きていたのかもしれない。                                      そういえば『古畑』の2ndシーズンと3rdシーズンの間にも「体調があまりよくない」という、        まことしやかな噂があったぐらいで。だから昨年の春「田村正和、逝く」とテレビの情報番組が騒ぎ立てた時にも、「ああ、ついにくるべき時が来てしまったか。でもコロナはもちろん、  大病で長く苦しむ事も無く、生前正和氏が望んでいたとおり静かに世を去られたのならば、                                        御本人も家族の方も良かったのではないか・・・。」と頭の中で考えていた。

 

 

 

● 話を今月号の『ミステリマガジン』に戻すと、                                          『古畑』特集のメインは番組プロデューサー石原隆×脚本担当三谷幸喜の対談。                         そして近年三谷が新聞に発表していた活字による古畑任三郎短篇「殺意の湯煙」、                           『古畑』サントラ記事、そして『古畑』シリーズ登場人物の元ネタ・チェック。                      三谷幸喜特集ではなく『古畑』の特集だから難しいかもしれないけれど、                           せっかく三谷を引っ張り出しているのでクリスティ翻案・勝呂武尊シリーズについてもしっかり頁数をとり、その魅力を解析してくれてもよかった。

 

 

 

今回『ミステリマガジン』が『古畑』特集を組んだのは、                            現在DeAGOSTINIが隔週刊で『古畑任三郎コレクション』を発売しているからかもしれない。                  私は『古畑』シリーズについてはVHSテープ時代の録画そしてDVD-BOX3rdシーズンの画質があまりよくなかった)と、あまりに何度も観過ぎて感覚が麻痺してしまっている状態。                        だから今更そんなに言いたい事もないのだけど、やはり観るに値するのは2ndシーズンまでと いうか、3rdシーズン以降は「しゃべりすぎた男」(明石家さんま)や「魔術師の選択」(山城 新伍)級の上出来なエピソード、つまり再見に耐えミステリ的な驚きを視聴者に与えられる回は残念ながら作れなかった、そんな感想を持ち続けて今日に至っている。

 

 

 

3rdシーズンのある回の中で三谷幸喜が古畑にボヤかせているように、                   日本のドラマは一時間枠ったってCM等を除けば正味たったの45分しかない。                おまけにスポンサーがうるさいから車で轢き殺すのはダメだとか、無用な縛りが多過ぎる。                      これで『刑事コロンボ』級のクオリティを求めるのは酷というものだ。                       それでも「すべて閣下の仕業」FINALには期待したんだけどね。                   (石坂浩二に心理操作をやらせるというアイディア、松嶋菜々子の二役演技は良かったけれど)                          当初三谷は古畑シリーズについて「ドイルのシャーロック・ホームズと同じ60エピソードぐらいは書いてみたい」と発言していた。                                         せめて古畑もあと1シーズン連ドラをやれていたら・・・。                          でも正和氏が「古畑は大変だし、もうやりたくない」としょっちゅう言っていたそうだから、                         スタッフは殿と三谷幸喜の両方をなだめ、その気にさせるのに大変だったろう。           

 

 

 

● 今回の『ミステリマガジン』をきっかけに、テレビでも書籍でも、                                  今からでも遅くはないから田村正和俳優人生のアーカイヴスを制作してほしい。                           CMにはよく出ていたけれど、作品以外のところでは下らないバラエティ番組に出たり普段の生活を見せたりせず、我々一般人には手の届かない特別な存在であり続けようとした氏のプロ意識が私にはとても好ましかった。                                               昔たまたま偶然に、生の正和氏をお見かけした事がある。まだ古畑が始まる前の話で、                        陽も暮れた西麻布交差点を広尾のほうへ歩いていた時だと記憶しているのだが、                     道路沿いにある一軒家の小ぶりでトラットリアみたいな感じの店の前を通ると、                          ガラス越しに店の中がよく見えて、何か内輪のパーティーかそれとも打ち上げか、                        立ったまま他の人達とにこやかに談笑している素の田村正和の姿がそこにあった。                              ケータイなんていうものが無かった時代だから、礼儀知らずな人間に外からバシャバシャ写真を撮られるのを気にする必要もなく、楽しいひとときを過ごされていたに違いない。


 

 

 

(銀) 『ミステリマガジン』の裏表紙を見るとAXYミステリーでは、                        4月3日(日)【没後1年特集 田村正和と推理作家の巨匠たち】というのをやるそうだ。                        とにかく私は『うちの子にかぎって… 』でコミカルなキャラクターとしてブレイクする前の、                       神経質で暗そうな青年時代の正和作品をひとつでも多く観たいのである。

 

 

 

大河には殆ど出ていないせいもあってNHKとは縁遠そうな正和氏なれど、                          全四十四回という一年近い連ドラの主演を務めている。1977年の『鳴門秘帖』がそれで、                           原作は吉川英治なんだけど脚本が『新八犬伝』を手掛けた石山透だし、                       なんと小林麻美も出演している。この番組もまたNHKは保存していなかったのだが、                           視聴者からの録画提供によりほぼ全話揃えられたというネット・ニュースを以前確認済み。                     地上波でもBSでもいいから早く全話放送してチョーダイ。




2022年3月24日木曜日

『聖フオリアン寺院の首吊男』ジョルジュ・シメノン/伊東鋭太郎(訳)

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春秋社 シメノン傑作集
1937年5月発売




★★★   これに比べると乱歩の「幽鬼の塔」はよく書けている




伊東鋭太郎の翻訳による春秋社版がこの作品の日本で最も旧い訳書の筈。シムノンに触発されたか、江戸川乱歩は19394月より雑誌『日の出』にて「幽鬼の塔」の連載を開始した。世間では十把一絡げに「幽鬼の塔」はシムノンの翻案だと軽く扱っているが、実際両方の作品を読み比べてみると、著作権的な検証はさておき乱歩が自作に活かしたのは〝ある一部分〟であって、筋をまるごと頂戴した訳ではないんだなとわかる(勿論「幽鬼の塔」を先に読み、慣れ親しんできたせいもあるのだけど)。光文社文庫版江戸川乱歩全集第十三巻『地獄の道化師』に収録された「幽鬼の塔」を開けば、乱歩自身〝セントラル・アイディヤを借りているが翻案というほど原作に近い筋ではないので、シムノンに断ることはしなかった。〟と自作解説で述べているのが確認できよう。


【当Blog上のラベル(タグ)管理は、一般的に呼ばれている〝ジョルジュ・シムノン〟の発音で登録するが、この記事に限っては本書中で使われている〝シメノン〟あるいは〝メーグレ警部〟表記を用いて進めさせてもらう。】

 

                    

 

主人公が不審な人物の鞄をすり替えることで事件は動き出す。メーグレ警部が鞄すり替えをやっちゃうのは、上記で紹介した光文社文庫版乱歩全集第十三巻『地獄の道化師』の解説で山前譲も指摘しているとおり、公人の行動としてはどうも不自然。これならば乱歩が設定した猟奇趣味を持つ素人青年探偵・河津三郎のほうがずっと適している。また、その他の登場人物たちも「幽鬼の塔」のほうが気狂いじみていて何をしでかすかわからないアブナさに満ちているが、「聖フオリアン寺院」の登場人物にはアタマがプッツン切れていそうな火薬の匂いがしない。

 

 

 

「幽鬼の塔」での名場面のひとつ、鉄橋を走る汽車から河津三郎(甲賀三郎と言い間違えそうな名前だ)が突き落とされてしまうシーンと比べてみよう。本書でのメーグレは不意を突かれて水力発電の為に築かれた堰堤へと落とされそうになる。しかし伊東鋭太郎訳で読むと水門から堰堤へ流れ込む渦巻がどれほど激しいものなのか読者にはあまり伝わらなくて、メーグレの身の危険がちっとも感じられん。また「幽鬼の塔」の犯罪の動機は美しいミューズの死から来ているのだけど、原作で描かれる動機とかインテリを気取った男達の秘密結社グループがシェアしている思想は読み手にもう少しイメージしやすくしたほうが共感度(?)はアップしただろうな。本書の中でメーグレに目を付けられて身辺を嗅ぎ回られるのはこの面々。

 

ルイ・ジュネエ ➤ 機械工(物語の冒頭、口中をピストルで撃ち抜き自殺)

ヨゼフ・ヴァン・ダアム ➤ 貿易商

モーリス・ベロアール ➤ 銀行監査役

ジェフ・ロンバール ➤ 石版商

ガストン・ジアナン ➤ 彫刻家 


                     

 


「聖フオリアン寺院の首吊男」は近年新しい訳書が出ていなくて、読むとすれば古書に頼らざるをえない。あまり良い訳とはいえない伊東鋭太郎の春秋社版を最初に読む人はまずいないだろうから大丈夫とは思うけど、もし原作を読むなら戦後の訳書を探して読まないとダメよ。はじめは本日の記事に水谷準訳を使うつもりだったが、どこへ行っちゃったかライブラリーで発見できず戦前の伊東訳を用いた。

 

 

 

(銀) 後出しのハンデがあるから比べちゃシムノンが可哀想だけど、日本人からすると乱歩作の「幽鬼の塔」のほうがずっと面白い。本当ならなるべくオリジナル・アイディア100%濃縮のほうが望ましいのだが、乱歩には他の日本人探偵作家にない語り口と演出の魅力があるからね。伊東鋭太郎訳は粗いので☆☆☆、「幽鬼の塔」は☆☆☆☆☆を進呈してもいい。



「幽鬼の塔」は世相の悪化で隠棲する直前の発表だから、乱歩の通俗長篇としてはこれまであまり顧みられない作品だった。大仰な仕掛けが無いぶんトリッキーな楽しみは望めないかもしれないが、明智小五郎の登場する通俗長篇のような矛盾が気にならず纏まり良く読める点は(「吸血鬼」なんかよりずっとよく出来てるし)もっと評価されてもいいのに。



乱歩の翻案ものでも鬼」はさすがに覇気が感じられないけれど「白髪鬼」「幽鬼の塔」そして「三角館の恐怖」は決して悪くないと思うのは小生だけか。なんか話がシムノンよりも乱歩中心になっちゃった。





2022年3月21日月曜日

『H大佐夫人』北川千代三

NEW !

美和書院
1956年12月発売



★★    乱歩とどのような繋がりが?




 本書、あるいは本書に収められている短篇H大佐夫人」がなぜ一部の人に知られているのかといえば、昭和21カストリ雑誌『猟奇』(戦前の雑誌『猟奇』とは別物)に発表されたこの作品が発禁処分をくらっている事、そして本書冒頭<推薦の言葉>を元・吉本興業の林弘高(彼の姉は吉本せい、兄は林正之助)と並んで、あの江戸川乱歩が書いている事から来ている。それほど長い文章でもないし、乱歩の推薦文をここ(☟)に記しておこう。 


〝北川千代三君は、私の知るT君のペンネームである。そのT君が、北川の筆名で作品集を出した。内容は、私のジャンルとする探偵小説ではない。その意味で、充分な批判はここでは避けたい。しかし、この作品の中に盛られた心理描写には、別な面を衝いている。私はその点を推す。北川ことT君よ、これを契機として、良い物を書いてほしい。〟

 

 

 

♡ このように北川千代三というのは筆名であるらしい。実は「北川千代三というのは戦前から活動している俳優・芝田新の事で、北川千代三以外に徳田純宏という筆名もある」、そんな風聞がある。芝田新のwikipediaにはそれについて何の言及もしてないし、この説が載っているという某資料を自分の目で確かめた訳でもないから、今日の記事は話半分で読んで頂きたいのを前提に進めてゆくとして__ 。昭和24年の捕物作家クラブの発足には探偵小説の大家である乱歩も深く関わっていたのだが、会員名の中にはなにげに徳田純宏の名も見つかる。もし上記のT君というのが本当に徳田純宏なら、乱歩は俳優名の芝田新ではなく徳田純宏として彼のことを認識していたのか。(芝田新の本名は川上勇之進という)

 

 

 

wikipediaを見るかぎり芝田新は昭和15年頃から昭和30年あたりまで殆ど映画に出演していないように見える。そこにはどういう理由があったのか旧い日本映画に疎い私には知る由もないが、ネットで調べてみると北川千代三名義の作品は『猟奇』以外に、『読切傑作集』『デカメロン』『花形講談』『ロマンス読物』『千夜一夜』『りべらる』といった雑誌上でも見つけることが できた。本書収録の「白日夢」に至っては探偵雑誌『妖奇』にも掲載されたようだが、あの雑誌の場合は再録も多いからすぐに初出誌と断定せずしっかり確かめたほうがいいかも。俳優としての活動をしていなかった時期(?)に、彼はどういう経緯でか、作家として怪しげな小説を書き続けた。『猟奇』では北川千代三と徳田純宏の作品が同居している号もある。             

 

 

 

♡ 本書は八つのエッチな短篇を収録。


「綺麗すぎた母」

「妖しい構図」

「白日夢」

「ガス」

「小幡小平次

「美濃屋の若寡婦」

「伊豆六の妾」

H大佐夫人」


上記に掲げた乱歩の推薦文を読んで、本書を未読の方も薄々気付かれたとは思うがこれらの短篇はどれも探偵小説でないのは勿論のこと、一小説としても弱さがある。カタストロフィはおろか話のオチというかサゲが無く、アダルト映像の無い時代だったから当時の日本人がいかがわしい目的に使うぶんにはよかったのかもしれないけれど、話の締め括りにはやっぱり何かしら一捻り欲しい。しかもこの本、作者自身の誤字なのか出版社サイドの誤植なのか、間違いが多くて若干読みにくい。 

 

 

未亡人/人妻の色香にムラムラするオトコ。男の肌と長い間ご無沙汰していたためによろめいてしまうオンナ。綺麗すぎた母」のラストにはちょっとした人情味があったり、江戸時代を舞台にした「小幡小平次」には怪談テイストがあったり、「白日夢」では食いちぎられた指をめぐる親子二代に渡る因縁が描かれていたりと、筆が上手ければもう少し出来が違ってきそうな題材もあるのに、文筆業メインではない悲しさ。




H大佐夫人」以外の本書収録短篇の正確な発表時期は把握していないが、H大佐夫人」終盤にある、〝B29が空襲にやってきそうな状況下で狭い防空壕の中で若い男を自分の泉に招き入れる美しい人妻〟というエロいシーンはよほど乱歩のお気に召したのか、これとよく似た趣向が乱歩自身の「防空壕」や「化人幻戯」に見られるのは御存知のとおり。本書の中には覗き趣味だけでなく胎内回帰願望といえそうなエロもなくはないし、う~む、これでは北川千代三は乱歩に結構影響を与えた存在となってしまうではないか。こんな結論でいいのか?

 

 

 

 

(銀) 北川千代三の正体なり作品一覧については私が不勉強なだけで、カストリ雑誌や性風俗雑誌の分野ではもっと詳しい研究と発見が既にされているのかもしれないし、乱歩と北川の交流関係もこれから少しづつ解明される可能性はあるだろう



現代の眼で見るとなんてことないマイルドな愛欲で、特段ヘンタイでも何でもないけれど、日本が戦争に負け、それまでの価値観が音を立てて崩れた直後の昭和21年発表とはいえ、「日本男児が御国のために命を懸けて戦場で戦っている時、徴兵を仮病で逃れるだけでなく、大佐の不在をいいことにその妻と乳繰り合う小説とは何事ぞ!」てな理由でH大佐夫人」は発禁にされたのかな。これはハードコアや猟奇というよりも、人間の業を描いたエロだね。




2022年3月17日木曜日

『南総里見八犬伝㊁』曲亭馬琴

NEW !

岩波書店 小池藤五郎(校訂)
1984年12月発売



★★★★    名刀村雨



 八人の犬士の中で犬塚信乃がダントツの人気を誇るのは、一番最初に登場するだけでなく、暫くの間ずっと物語の中心に置かれるのだから当然といえば当然。私は断片的にしか読んでいないが、戦前の『少年倶楽部』では佐藤紅緑が序盤の信乃パートだけを独立させた「犬塚信乃」という連載小説を執筆している。あれは一体どういう始まり方をして、どういう終わり方をしたのだろう。


第二巻の核となるのは、元来足利家に伝わる宝として大塚匠作から犬塚番作へと受け継がれ「滸我公方成氏へ献上せよ」と信乃に手渡された名刀村雨(〝村雨丸〟と表記される時もある)。NHKの連続人形劇で坂本九がいつも「抜けば玉散る氷の刃!」と口にしていたアレですな。

 

 

 

 孤児になった信乃を引き取った腹黒き蟇六・亀篠夫婦は名刀村雨を着服すべく網乾左母二郎の手を借り、ニセのなまくら刀と村雨とをまんまとすり替えたつもりだったが、一枚上手な左母二郎はこっそり村雨を横取りしてしまう。


この左母二郎だが『新八犬伝』では木枯らし紋次郎のような姿の人形が拵えられ、手に持つ瓢箪がトレードマークの〝さもしい浪人〟へとアレンジ。(玉梓や船虫がそうだったように)脚本の石山透が悪役達にも愛情を持っていたのか、原作とは違って最後まで生き残り、小悪党ながらも後半ではちょっとだけ良い人な面さえ見せた。だが馬琴の書いた左母二郎には好感を抱けるような余地は微塵も無い。

 

 

 

意外に思われるだろうが原作の左母二郎はかつて管領・扇谷定正の近習で、便佞なものだから周囲の信用が得られず追放されてしまって浪人の身にある。美男であり遊芸などにも通じているという、まあなんというか色悪でイヤな奴なのだ。その冷酷ぶりを存分に見せつけるのが本郷円塚山で自分の意のままにならない浜路を嬲り殺しにするシーンであろう。


其処に寂莫道人肩柳が現れるので少しは救いがあるものの、「南総里見八犬伝」の中では最も凄惨な一幕といえる。左母二郎の活躍(?)の場は残念ながらこの第二巻のみ。

 

 

 

 一方、なまくら刀を持たされたまま滸我の足利成氏に接見した犬塚信乃が執権・横堀在村に間諜者と曲解され芳流閣屋上に追い詰められる有名なくだりは説明の必要もあるまい。


そこから舞台は葛飾行徳へ移り、犬飼見八に次いで(見八と乳兄弟でもある)犬田小文吾登場。どの犬士も両親を失くし悲しい出自を背負っているのに、小文吾だけは父・文五兵衛が健在で、妹の沼藺が産んだ甥っ子の真平(物語の中では〝大八〟と呼ばれている)の開かなかった片方の掌からは「仁」の玉が出現、この幼子もまた犬士の一人だと判明するのだから、なぜか例外的に恵まれた境遇にある。信乃も額蔵も見八も道節も不幸な青春だもんなあ。




伏姫が亡くなり、安房を後にしてから二十余年。金碗大輔の丶大法師もようやくここで犬士たちと巡り合うことができた。破傷風で動けず滸我からの追手に苦しめられていた信乃も、山林房八と沼藺の尊い犠牲によって窮地を救われ、見八・小文吾と三人で大塚にいる犬川荘助(=額蔵)のもとへ向かう。


しかし丶大法師の指示を受けた里見家の家臣・蜑崎十一郎照文/文五兵衛/房八の母・妙真に守られて、安房へ逃げのびようとしていた大八の真平(=犬江親兵衛)は土地のならず者・暴風舵九郎一味に襲撃され絶体絶命。その時突然雷鳴が轟き、竜巻が悪党どもを吹き飛ばすが同時に大八は神隠しにあってしまい・・・といったところで第二巻は終了。




 何故「南総里見八犬伝」は最初のほうが面白いかというと、犬士達がひとり又ひとり姿を現し、色々な登場人物にも意外な繋がりがあるのが明らかになるといったドラマ性もあるけれど、如何せんまだ若い犬士達が悪の存在にネチネチ苦しめられたり、更には道節と荘助/信乃と見八のようにお互いが兄弟であることを知らず、犬士同士で戦うシーンがあったりするからじゃなかろうか。




(銀) 滸我に発つ前の晩、将来の妻となる自分に何の言葉もかけてくれない信乃に泣き崩れる浜路が痛ましい。「なんて信乃は血も涙も無い奴なんだ」と思ってしまうけれども、八犬伝研究者の高田衛によれば、女への情より立身出世をはるかに重んじるような考え方は、明治の頃までの男性は普通に持っていたそうだ。




前回(第一巻)の項で、「南総里見八犬伝」には〝文中の画、画中の文〟という楽しみがあると書いた。この第二巻のラストにも竜巻が親兵衛を攫っていく挿絵があるのだが、その挿絵には文中にまだ記されていない〝ある存在〟がハッキリと描き込まれている。ここではその正体を説明しないでおくから是非本を眺めて確かめて頂きたい。




まだ第二巻なのに、すでに六人の犬士が登場(といっても一人は幼子だが)。結構ハイペースである。





2022年3月15日火曜日

舞台のジェレミー・ブレット・ホームズ ― Jeremy Brett at London in 1989-

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♧ たった一度だがロンドンへ旅行した事がある。19892月後半、ちょうどエルヴィス・コステロがシングル「Veronica」とアルバム『Spike』をリリースしたばかりで、地下鉄駅構内のニュー・リリース広告がとても目を引いたのを鮮明に覚えている。ケンジントンの快適な宿を拠点に友人とLIVEを観に行ったり、ポートベローのマーケットで中古レコードを沢山買ったり、あの頃ザ・スミスはもう解散していたけれど音楽業界にまだギリギリ活気や面白さが残っていて、旅のメインの目的は音楽だった。




日本を発つ前からその公演の存在を知っていた訳ではなく、ロンドン市内を歩いていて偶然発見したと思うのだけれど、グラナダTVのドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』に出演していたホームズ役のジェレミー・ブレットと二代目ワトソン役エドワード・ハードウィックが二人芝居で舞台版ホームズをちょうどやっていて。件のドラマは当時日本でもNHKで放送されてたから、ジェレミー・ブレット・ホームズの魅力はあまりミステリに詳しくない人にも浸透していたぐらいだし、「これは観てみたい」と思ってチケットを購入、幸運にも彼らの生の演技を体験する事ができた。その旅行中に撮影した紙焼き写真が出てきたので、名優ジェレミー・ブレットをこの目で観たロンドンの想い出を辿ってみるとしよう。







 今この記事を書きながら、グラナダTVドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』のサウンドトラック輸入盤CDBGMとして流している(ジャケットは記事左上の画像を見よ)。このCDも聴くのはいつ以来だっけ。そういえばこのCDを買った時には M1Opening Theme(ドラマ冒頭で流れるあの短い曲)がオンエア・ヴァージョンとは微妙に違うテイクだったので物足りなく感じたもんだが、たまにこういうクラシックっぽいサントラを聴くと新鮮に聴ける。




19892月/ロンドンの風景














































ダブルデッカーにジェレミー・ブレット・ホームズの舞台の広告が・・・









  


  
  
♧ この舞台版ホームズのプログラムは持っていたのだが人に譲ってしまって、観たのはどこのホールで日付はいつだったかハッキリわからない。
ネット情報から推測するとホールはWyndham's Theatreだろうか。ジェレミーのwikipediaを見て確認したのだが、この舞台のタイトルは『The Secret of Sherlock Holmes』。演じられる内容は221Bの室内を中心としたホームズとワトソンの会話劇。劇中、ベッドで寝ているホームズがモリアーティ教授の悪夢を見るシーンもあったと記憶する。



我々はなんとなく吹き替えの露口茂の声のホームズを頭の中に思い浮かべてしまうが、ドイルの書いた原作だとホームズの声は時として甲高くもある。この頃日本では字幕/ノーカット版のグラナダTVシリーズはまだ観ることができなかったんじゃなかったっけ? 生で聞くジェレミー・ブレットの声は(あたりまえだが)露口茂のシブイ低音とは相当違ったけれども、その後改めてホームズを読み返し、声の面でもジェレミーのキャスティングは原作を正しく意識していたんだなと再確認できた。



あまり綺麗に写ってないけれど、カーテンコールのジェレミー(ホームズ)とエドワード(ワトソン)をどうぞ。舞台もいいけど、なんせヨーロッパでしか見られない円柱型の風格あるホールが美しい。


          



























86年ぐらいからジェレミーの体調は悪化する兆しがあったそうなのだが、生で見たジェレミーは発声などにも特に問題は無く、エドワードもしっかりジェレミーの熱演を受け止めていた。のちに投薬の影響で太ってしまうジェレミー。だが画像を見てもらえればわかるとおり、この時の彼はイメージどおりの比類無き名探偵だった。




♧ 安易に映像化されるミステリに対し、殆どの場合において「良い」と思えたためしが無い。シドニー・パジェット挿絵のホームズそのままに、原作に忠実であるのを厳守して始まった筈のグラナダTVシリーズでさえ、後半になるにつれてジェレミーのシルエットが持病で崩れてゆくだけでなく、脚本も原作から脱線気味になり本当に残念だった。それでもなお、良い時のジェレミーが演じるシャーロック・ホームズについてはお見事としかいいようがない。惜しくも彼は95年に亡くなってしまったが、89年のロンドンでの楽しい想い出と共に、名優の輝きは今でも色褪せる事は無い。




(銀) 機上から見下ろしたロンドンの街並み。今はどう変わっているのか知り得ないが、こうして見ると、東京と違って妙な高層ビルとかが無いぶん不思議と長閑さが感じられた。もう三十年ほども昔の話である。