当初ちくま文庫〈怪奇探偵小説名作選〉の中で小栗虫太郎を出す予定はなく、社会思想社が倒産したことで現代教養文庫「小栗虫太郎傑作選」全5巻の流通が無くなってしまうのを懸念して急遽ラインナップに加えたそうで。2002年事業停止というと今世紀に入ってのことだから、そんなに昔の話でもないんだな。
2000年から2020年現在まで何種類も虫太郎の文庫は出ているが、そのうち収録作が自分の理想に近いものとなると本書か。シリーズ・キャラの法水麟太郎と折竹孫七、彼らが登場する作品がひとつも無いのに本書はベリー・ベスト・オブ・オグリとして成立している。
●冒頭、記念すべきデビュー作「完全犯罪」にはこういうセリフがある。
「ヤンシンの寝衣は、細太で荒目の白い縞物なんだぜ」
「黴臭い探偵小説の技巧だけれども、鎧扉の水平になった桟が、太い縞と一致するような場合もあるだろう」
「D坂の殺人事件」の或る創意を彷彿とさせるシーンで「江戸川乱歩、何するものぞ」とさりげなく挑発しているところに新進・虫太郎の意欲が見て取れる。
●もしかしたら彼の小説の中で一番好きかもしれない「白蟻」。乱歩の「芋虫」にもある悲惨小説テイスト一筋ではなく、宗教・レズ・悪病・奇形といった要素も重層的に織り込み、加えてその昔斬首され地中に埋められた屍どもの怨念と野生の草木が名状しがたきケミストリーを起こし〝腐〟の樹林と化した北関東の奥地・弾左谿が騎西家の流刑地となってしまうという、この禍々しい舞台設定の物凄さ。静寂を破り御霊所の朝の太鼓がドドンと一つ鳴ったあとの余韻嫋々たるラスト・シーンにも心酔わされてしまう。
●「海峡天地会」は現代教養文庫に初出ヴァージョンが収録されていたので、本書では戦後の改稿ヴァージョンを採用したとのこと。タイトルも改稿時「海象に舌なきや」と改題されたから、改稿ヴァージョンを収録する際には「海峡天地会」ではなく「海象に舌なきや」のタイトルにすべきなのに、桃源社版といい本書といい何故そうしていないのか? それが気になったので☆1つマイナス。松山俊太郎は初出のほうが格調が高いと言う。この作品の改稿前・改稿後の良し悪しを明確に論ずることができる人は本物の虫太郎読者なのだろう。私なんて現代教養文庫版を読めば「やっぱ初出のほうがいいな」と思うし、本書で読めば「改稿ヴァージョンも悪くはないな」と思うし、所詮その程度の理解度しかないみたいで。
●残りは駆け足で記すが、ベーリングの人魚をめぐる黄金郷譚「紅毛傾城」も愛着のある作品。曲馬団ものの「倶利伽羅信号」では、〝どうして戦前の人はこうも暹羅兄弟ネタを使うのか〟とついつい考え・・・いやここでは兄弟ではなく姉妹なのだが。「源内焼六術和尚」と「月と陽と暗い星」は時代ものの設定だが、時代ものではない「地虫」にもミステリ的趣向を全てとっぱらってしまうと、残った部分になぜか近松あたりの江戸文学にも似た風流を覚える。
●「屍体七十五歩にて死す」にも「白蟻」ほどじゃないとはいえ検閲による削除・伏字が多いなあ。消された部分を戦後虫太郎に埋めてほしかったけれど、敗戦の半年後に彼はこの世を去るので、それは叶わぬ望みとなる。それに対し「片子と末起」は女と女のメルヘンを描いて彼らしい晦渋さの無いぶん、そこはかとないエロスが。昭和13年という、日本がキナ臭くなってきた年の執筆でも削除・伏字を喰らわず、短いながら謎の提示まで書き切ったのはGood。