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2024年7月20日土曜日

『悪魔のひじの家』ジョン・ディクスン・カー/白須清美(訳)

NEW !

創元推理文庫
2024年6月発売



★★★   こっちのフェイは・・・ウーン・・・




本格ミステリを読んでいると、この世にいる筈の無い不可解な幽霊が現れたりもします。そんな時は、「幽霊を見た」と証言しているのがどういう人物か、注意を払いつつ先に進むことが肝要です。もちろん目撃者は一人の場合もあれば、複数存在する場合だってあります。何人かが見ているのであれば、その面々に共通する事柄は何なのか、それを手繰ってゆくと見えなかったものが見えてくるかもしれません。

十八世紀半ば、イングランド南東部。〈悪魔のひじ〉と呼ばれる土地に屋敷を建てた高等法院のワイルドフェア判事が非業の死を遂げたのち、バークリー家がその屋敷・緑樹館を買い受けた。晩年、厄介な暴君となっていった当主クローヴィス・バークリーには三人の子供達(ニコラス〈長男〉/ペニントン〈次男〉/エステル〈長女〉)がいるが、とても仲睦まじい家族とは言えない。だがクローヴィス老も病には勝てず、逝去。新たに見つかった彼の遺言状によれば、遺産相続人にはニコラスの息子(愛称ニック)が指名されている。ところがニックには、そのつもりは毛頭無い。

 

 

これは「雷鳴の中でも」以来五年ぶり、1965年に発表されたフェル博士シリーズものである。

バークリー家には多々内紛があるのだが、くだくだしくなるので省略。屋敷内に出没する幽霊、二度に亘るペニントン・バークリーへの銃撃、密室・・・おなじみのエレメントながら、カーの原文がそういうテンションなのか、それぞれの翻訳者が手掛けた訳文の違いなのか、作者の加齢を隠せなかった「雷鳴の中でも」より本作のほうが、不思議と若々しく感じられる。

 

 

緑樹館へ乗り込み断固相続を辞退するべく、ニックは気のおけない友人ガレット・アンダースンを同行させる。そのガレットはというと、一年前パリ行きの飛行機で知り合ったフェイ・ウォーダーのことで頭がいっぱい。そう、フェイという名の女性キャラクターといえば、「囁く影」の中心人物だったフェイ・シートンはカー作品の中で(個人的に)三本の指に入る良いオンナでしたな





控えめな性格かと思いきやベッドの中では情熱的だったんで、フェイ・ウォーダーにすっかり夢中になってしまったガレット。それに対して勿体ぶった素振りを見せるフェイ。いつの世も男はこういう女性を夢想しがち。作者であるカーも例外ではない。こっちのフェイも本書50ページ辺りまでは良い感じで来ていたのに、話が進むにつれヒステリックな言動が多くなってきて、フェイ・シートンみたいなFoxy Lady像から離れていってしまう。しかもガレックはてっきり彼女を21~22歳の若さだと思い込んでいたら、実は32なのね(ちなみにガレットは40歳)。

 

 

犯人の意外性は合格。あとは上段にて述べたとおり、先行作品で使われていたような設定だから新鮮味が無いと取るか、もしくは revisited trick ゆえに詰めの部分が丁寧に仕上げられていると好意的に取るかで、本作の評価は別れるだろう。江戸川乱歩に喩えるなら、同じ方向性を持つ先行作品「二廃人」に対し、後発の「柘榴」を好きになれるかどうか。「蜘蛛男」「魔術師」より先に読んでいれば、〝「悪魔の紋章」ってなかなか面白いじゃん〟と言う人が居てもおかしくはない。

ちょっとした疑問。フェル博士の名前の発音が、本書は【ギディオン・フェル】になっている。ジョン・H・ワトソン博士も本によって表記がワトスン or ワトソンだったりするから、ありがちなことといえばそうなのだけど、翻訳者がその時々で変わっているとはいえ、創元推理文庫内でフェル博士シリーズとして扱っているのであれば、【ギデオン・フェル】に統一しておくほうが混乱を招かずに済むと思うのだが。

 

 

 

(銀) 本書の訳者・白須清美だけでなく、例えば昔の訳でも、1981年に同じ創元推理文庫からリリースされた『猫と鼠の殺人』において、厚木淳も【ギディオン・フェル】と表記している。東京創元社の編集部はその辺、おのおのの訳者に任せているのだろうか。






■ ギデオン・フェル博士事件簿 関連記事 ■






















2023年12月17日日曜日

『髑髏城』ディクスン・カー/宇野利泰(訳)

NEW !

創元推理文庫
1959年7月発売



★★★★   翻訳に省略箇所があっても、
               私は旧訳のほうがいい




本作の中に「アンタは才能が無いし、この稼業向いてないから辞めたほうがいい」という意味の発言をする或る登場人物がいまして。今のご時世、このような言葉を他人に投げつけるのは❛まごうことなきハラスメント❜だ!なんて事になるのでしょうが、実際そのとおりなのだから言われても仕方のない事例のほうが多いに違いないと私は思います。例えばこのBlogでしばしば話題に挙がる頭の悪くて本作りに対しても無責任な、ミステリ業界にしつこく寄生している一部の年寄りとか・・・。
 

 

ミステリ・マニアが「秘密の通路はお約束」などと言って肯定意見(?)を吐いているのをよく見かける。読者からするとたいした手掛かりもなく、大詰めになって探偵が喝破する秘密の通路の存在・・・みたいな真相を許容できるかどうかは場合によりけりなんだろうけど、たとえゴシック色の濃い本作であっても、私はそれなりの必然性を求めてしまう。

 

 

これまで記事にしてきたアンリ・バンコラン・シリーズ『絞首台の謎』『蠟人形館の殺人』『四つの凶器』に比べたら、挿絵が無くともストーリーの中の情景はイメージしやすいし、フランス人バンコランの旧いライバルにして今回の事件で推理を戦わせるベルリン警察主任警部フォン・アルンハイム男爵や(仏蘭西/独逸二国間対立の歴史を頭に浮かべて読むと、この二人の関係をより深く味わえる)、髑髏城の先住人・怪魔術師メイルジャアなど、キャラ立ちの良い顔ぶれが用意されており、そういった要素が小説を読む勢いを促進してくれる。

 

 

髑髏城とライン川の名状しがたいムードも、火だるまになって城壁から墜落するマイロン・アリソンの異様な光景も、悪夢のように終始読み手に突き付けられるけれど、二人の髑髏城・城主の秘密が論理的に解明されるので大きな不満は無い。惜しむらくは本日の記事に引用している宇野利泰の旧訳には省かれている箇所があることで、話のタネに該当部分を挙げておこう。比較対象に使うのは最新の和爾桃子訳。サンプルにしているのは第11章(「ビールと魔」宇野利泰訳「ビールと魔術」和爾桃子訳)の文章。

 

 

◆ 宇野利泰訳 本書171ページ


「男爵。良い天気で楽しいですな。ひとつ、歌ってさしあげたいのですが、いかがです。わたしはこれでも、若い時分から、すばらしい低音だとほめられておるんです」


「きみのきげんがよいのは、お天気のせいばかりじゃあるまい。昨夜の件は、わしだって知っておりますぞ」


「ミス・レインのことをおっしゃるのですか?」

 

 

◆ 和爾桃子訳 創元推理文庫2015年版『髑髏城』151ページ


「これでも若い頃には、男爵、すばらしいバスの美声だと言われたものですよ。ですから、こんな朝には私の歌でもいかがですかな。そう、思い出しますよ。ニューヨーク殺人課のフリン、オショーネシー、ムグーガンといったいずれ劣らぬ強面のめんめんと五番街へ繰り出し、ライリー主任警視の蒸気オルガンで一同そろって『ミンストレル楽団 英国王を歌う』を合唱した時のことを。警察が浮かれ騒ぐ時はね、男爵、市民の身の安全など、あってなきが如しですよ


「そういえば」フォン・アルンハイムが評した。「昨夜は警察が浮かれ騒いでおったね」


「ミス・レイニー相手に演出したささやかな芝居をさして、そうおっしゃる?」

 


これ以外にも旧訳と新訳の異同はありそう。上記における和爾訳での白文字部分を宇野利泰が訳さなかったのは何故か?この比較だけだと新訳のほうが漏れなく処理しているように見えるが、和爾桃子の訳する日本語がどうにも読めたものではないのは、これまで度々指摘したとおりだ。それゆえこの記事には旧ヴァージョンの宇野利泰訳を使わせてもらった。訳者のみの問題で★の数を大きく減らしてたらバンコランとジェフ・マールがかわいそうでさ。

 

 

 

 

(銀) 旧訳『髑髏城』の翻訳テキストに省略されている箇所がある事は『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』の「ジョン・ディクスン・カー書誌」3ページに記載してある。それならそれで省略せずに訳したのなら創元推理文庫新訳版は解説にでも、旧訳で省かれてしまった箇所を全てリストアップして見せるぐらいのサービスがあってもよかったのに。




■ アンリ・バンコラン事件簿 関連記事 ■

















2023年7月1日土曜日

『五つの箱の死』カーター・ディクスン/白須清美(訳)

NEW !

国書刊行会 <奇想天外の本棚>
2023年6月発売



★★★    新訳でも低評価に変わりは無し




犯罪捜査における鑑識学の祖ハンス・グロス曰く「もっとも優れたスリには体の一部に或る特徴が見られる」、と本書211ページにあります。スリの知り合いがいないからか、私は実際そんな人を一度も見たことがありません。或る特徴とは?それを知りたければ本書をお読み下さい。

現在リリースが続いている<奇想天外の本棚>シリーズ。監修者・山口雅也によれば【読書通人のための「都市伝説的」作品 ― 噂には聞くが、様々な理由で、通人でも読んでいる人が少ない作品、あるいは本邦未紹介作品の数々(中略)、ミステリの各サブ・ジャンル、SF、ホラーから普通文学、児童文学、戯曲に犯罪実話まで(中略)、奇想天外な話ならなんでも出す】、そんな方針だという。要するに戎光祥出版が以前やっていた<ミステリ珍本全集>のコンセプトを海外作品に求め、その範囲も、より節操なく広げたセレクションといったところか。ニッチな企画であるのを強調したいんだろうけど、やたら通(つう)向けを連呼するのは品が無い。

西田政治の訳で昭和30年代にポケミスとして刊行されたっきりだった本作。現代の訳だとどんな変化が見られるのか期待されたのだが、長年放置されていたのもむべなるかなと言わざるをえない感想に変わりはなかった。投資仲介人フェリックス・ヘイのフラットで、ヘイだけが背中から仕込み杖のような刃物で刺し殺され、ボニータ・シンクレア(美術評論家)/デニス・ブライストン卿(外科医)/バーナード・シューマン(イギリス=エジプト輸入商会経営者)の三人は蝋人形のような意識不明状態で発見される。この部屋に居た彼らはどのようにして何者に一服盛られたのか、その辺のトリックは悪くはない。

 

 

本作の主人公はジョン・サンダース医師だが、全編通して彼目線で話が進む訳ではなく、そうでない箇所も一部あり。この流れでは、そうしないと収まりがつかないのは察しが付く。とにかく上に挙げた五名、そしてブライストン卿の娘・マーシャ・ブライストン、これらを除く登場人物の絡め方が上手いとはいえず、全体を通して何が起きているのか読者に伝わりにくいきらいがある。ネタバレさせたくないので犯人に関して最低限のことしか言えないが、真相発覚に至っても衝撃を受けないし、謎と伏線以外にもドラマツルギーがどうも拙く、(初読の方など特に)読み終わっても満足感を得にくいと思う。

 

 

もしかすると本作で一番印象に残るのはH・Mの登場、つまり手押し車にわんさかフルーツを載せ坂道の真ん中を歩いているバスローブ姿のヘンリー・メリヴェール卿をハンフリー・マスターズ警部の運転する車があわや轢きそうになってしまうユルい爆笑シーンになってしまうのかもしれない。いくらカー・マニア中高年や評論家たちが本作に対しそれらしい持ち上げ方をしたって、つまらんものはつまらんのであった。

 

 

 

(銀) 褒めるべきポイントが少ない本作だけども新刊で読めるようになったのは良い事だし、創元推理文庫バンコラン・シリーズ和爾桃子訳みたいな不快感は無いと一応フォローしておく。例えばS・T・ジョシ『ジョン・ディクスン・カーの世界』だと〝実はメリヴェール作品は、かなり早い時期に、それも確実に下降を始めていた。〟と本作を挙げつつ、厳しい目で批評していた。さすがに私は〝下降〟とまでは言わないけれど、それまでのH・Mの事件に比べ読後の快感に浸るのが難しいのは否定できない。


 

 

   ヘンリー・メリヴェール卿事件簿 関連記事 ■

 

『黒死荘の殺人』カーター・ディクスン/南條竹則・高沢治(訳)

★★★★★  例えばHM全集とか、名探偵ごとに作品を集成したものが欲しい  (☜)

 

『白い僧院の殺人』カーター・ディクスン/高沢治(訳)

★★★★  〈白い僧院〉の見取図が付された新訳版  (☜)

 

『赤後家の殺人』カーター・ディクスン/宇野利泰(訳)

★★★★★  たったひとりでいると毒死する部屋の謎  (☜)

 

『孔雀の羽根』カーター・ディクスン/厚木淳(訳)

★★★★  他の作家ならともかく、カーゆえに厳しめの評価  (☜)

 

『九人と死で十人だ』カーター・ディクスン/駒月雅子(訳)

★★★★★  【戦時下サスペンス航海小説】の仮面を被った本格もの  (☜)

 

『貴婦人として死す』カーター・ディクスン/高沢治(訳)





2021年7月9日金曜日

『緑のカプセルの謎』ジョン・ディクスン・カー/三角和代(訳)

NEW !

創元推理文庫
2016年10月発売



★★★★★   地味だからこそカーのテクニックが光る



本作には〝およそ五千六百個の桃の種をつぶして茹でれば致死量となりうる青酸が抽出できる〟という意味の一節があります(122頁を見よ)。非科学的で未熟な昔の見識なんだろうなと思いがちですが、ネットで調べると満更間違いでもないようで、桃・ビワ・梅・アーモンドといったバラ科に属する植物の未成熟期の種にはシアン化合物という青酸の元となる成分が確かに含まれているそうです。種さえ大量に食べなきゃ問題は無く、またこれを知ったからといって謎の真相には全然直結しません。だから安心してここに書いている訳でして・・・。

60年前、1871年のブライトン。毒入りチョコを子供に持たせて、買った店で別のチョコと返品交換してもらう事でこっそり店頭商品の中に混入、気付かぬままそれを他の客が口にするというクリスティアナ・エドマンズの非道な事件は誰でも知っているほど有名だった。

 

 

それと全く同じ出来事が四ヶ月前ソドベリー・クロスで起きる。ミセス・テリーのよく繁盛している雑貨屋で売っているチョコレート・ボンボンを食べて死者が出たのだ。マージョリー・ウィルズ嬢は周辺の住民から毒を仕込んだ犯人だと思われ、不穏な状況にある。この事件捜査のため本作の狂言回し・エリオット警部がスコットランド・ヤードから村へ派遣されてきた。

 

 

一方、マージョリーの住むベルガード館。彼女の叔父マーカス・チェズニーは桃栽培の実業家で心理学の研究にもうるさい。この当主マーカスが「人の観察はいかにあてにならないか」を実証する寸劇仕立ての実験を行うと言い出す。寸劇鑑賞者はマーカスの友人であるイングラム博士、マージョリー、そして彼女のフィアンセ/ジョージ・ハーディング。ハーディングにはこの寸劇をシネカメラで映像撮影する役目も。夜も更けて邸内の一室で寸劇が始まると、シルクハットに長いレインコートそして黒サングラスとマフラーで身を包んだ誰だかわからぬ第二の演者が現れマーカスに無理やり緑色のカプセルを呑ませてしまった。

 

 

短い寸劇が終わり桃果樹園の責任者ウィルバー・エメットが第二の演者としてマーカスのヘルプをしていると思いきや一同は彼が窓の外で殴打され倒れているのを発見。その直後苦しみ出したマーカスは死亡、案の定カプセルには毒物が入っていた。外出先から急いで帰ってきたマーカスの弟ジョセフ・チェズニー医師も含めベルガード館の人間には皆アリバイがあり、小煩いクロウ本部長らを指揮しなければならない若きエリオット警部は頭を抱えてしまう。

大がかりな因縁や飛び道具も無く一見地味に受け取られそうな作品だが、寸劇に際しマーカスが用意していた十の質問の矛盾点や、ミセス・テリーの店で毒物混入が行われた本当の理由など、どれもごまかし無く説明がなされるから読み終わってスッキリする。大広間ほどに広くない暗闇の部屋で、傍にいる者に動きがあったかどうかそんなに解らないものかな?というちょっとした疑問。それと、246頁でジョセフがリボルバーを発射してしまうシーン。銃口を他人のうなじに押し当てて発射したら軽傷では済まないと思うんだが。注文を付けるとすればそのふたつ。




訳文の中で読み手が首を傾げそうな単語がある。それは筥崎丸(23頁)と早生銀(24頁)。前者は当時の日本の欧州航路客船。カーにも認知されているほどメジャーな船だったのかな。後者はマーカスが栽培している桃のうち、早めに収穫できる品種のことを言っているのでは?どちらも原文ではどう表現されているのか気になる。

 

 

ロマンスや派手な演出にあまり寄りかからず、細かい謎の論理を積み重ねて物語を面白く成立 させるワザは(残念ながら)日本の探偵小説には見られないものだ。なんで作者はわざわざマーカスに十の質問を拵えさせたり寸劇を撮影させたのか?物事には必ず意味がある。初めて読む方はタイトルになっている〝カプセル〟ばかり気を取られぬように。        

 

 

 

(銀) 事件と片想いと。エリオット警部が悩みを打ち明けるシーンでのギデオン・フェル博士のリアクションには温かみがある。これがH・Mだったらボロクソに皮肉を言われてエリオットは相談どころではなかったに違いない。



本書の帯には「名探偵フェル博士 vs ❛ 透明人間 ❜の毒殺者」と書いてあり誤解を生みそう。本作でいう透明人間というのは寸劇中にマーカスを毒殺した第二の演者の姿がまるで「H・G・ウェルズの描いた(服を着ている時の)透明人間のようだ」と譬えられている処から来ているのであってInvisible Man の姿なき殺人者がフェル博士と対決する訳ではない。


 


2021年6月21日月曜日

『盲目の理髪師』ジョン・ディクスン・カー/三角和代(訳)

NEW !

創元推理文庫
2018年5月発売



★★★★ 「びっくり箱殺人事件」よりこっちのほうがずっとマシ



え~、赤の他人に成りすます人物といったら、我々はすぐにアルセーヌ・ルパンや怪人二十面相を思い浮かべます。あのふたりほどワンアンドオンリーの超人的七変化ではありませんが、カー作品の中にも身近な人間に見破られないぐらい変装の上手い犯罪者が果しているのやら・・・。

ファースな探偵小説は肌に合わないと自分でも自覚している。横溝正史の場合だと「びっくり箱殺人事件」。あれは正史の長篇ワースト3に入るほどくだらないと思っていて、考え方次第では小林信彦の(時代をパロディ化する)諧謔小説の元祖と呼べる部分もあるのだけど、「びっくり箱」の何がイヤって灰屋銅堂(若い人は「ハイシドードー」ってどういう意味かわかるかな?)とか登場人物のネーミングの際立つダサさに加え、物語の中に差し込まれるギャグがどれもこれも古くて黴臭いのだ。

 

 

夜遊びに忙しかった博文館時代の正史なら、自らの若さに世の中の華やかさが味方して、もっと モダンというかマシな ❛笑いの探偵小説❜ を書けたかもしれない。けれども病を持ち、外出を禁じられ、田舎に疎開していたのもあって、戦争が終わるといつの間にか老け込んでしまっていた。だから世間の流行に便乗した笑いを取ろうとしても、オヤジギャグ的というか年寄り臭さが漂ってしまう。戦後の作品はその年寄り臭くなったところがしょっちゅう露呈していてツライから、その点では戦前の正史のほうがいい。老化を問うなら乱歩も同じなんだけどね。閑話休題。

 

 

 

「盲目の理髪師」正史「びっくり箱殺人事件」を書く時に参考にしたと云うけれども、同じファースでもこちらのほうは、意外と初読時から退屈して眠りに落ちるようなことも無く受け入れられた。たぶんその理由は、読むのが恥ずかしくなるような死語(例えば今「チョベリグ」なんて口にしたらどんだけ白い目で見られることか)などを小手先で使って笑わそうとしていないからじゃないかな。レストレードやグレグスンといったホームズ物語の警部達を ❛無能さ❜ の引き合いに出す場面なんかは毎回吹き出しそうになる。

 

 

この長篇が地面の上のありきたりなシチュエーションなら評価はもっとガタ落ちしたと思うが、洋上を航行する豪華客船という限定された空間が全編のムード作りに一役買っている。

本作の芯になる謎は三つ。〝国際問題になりそうなプライベート・フィルムの盗難〟〝盗まれた筈だったのにスタートン子爵のもとへなぜか戻っていたエメラルド〟〝船室に倒れていた素性がわからぬ女の消失〟だが、呆気にとられるようなトリックは残念ながら無いので、ガチャガチャした騒ぎの中で伏線隠しとその回収がどう行われているか、そこが注意点。

ミステリ作家のヘンリー・モーガン君は前作「剣の八」に続いて本作にも登場するが、そこまで強く記憶に残るキャラでもないし、彼の連投を気に留める読者はどの程度いるかな?ギデオン・フェル博士は客船には乗っておらず、船が英国に到着後助けを乞うて来たモーガンの話を一通り聞いた上で推理を組み立てる。ドタバタ続きの流れから一転してラストに背筋も凍る真相と結末を持ってきたなら、 ❛陽❜ から ❛陰❜ への物凄いコントラストを付ける事ができるし、それはそれで別の意味でもっと笑えたような気もするけれど、なにしろカーの作品としてはトリックの見せ場が弱い。

 

 

 

(銀) 「ファースは好かん!」と言いながら、そこまで大嫌いな作品でもないので☆4つ。他のカーの高評価作品みたいに、ブツブツ言いたくなりながらもアッと驚かされるようなショックな要素がひとつでも備わってたら血迷って☆5つにしてたりして。

 

「盲目の理髪師」をウザいと感じる読者は「くだらんドタバタは前半だけにしときゃいいものを後半までやってるから疲れる」といった感想を見かける。ん~、むしろ見事なトリックを含んでいても「序盤~中盤で全く動きが無い本格には退屈する」という人には、本作は常に動きがあるのでその点はいいのかも。




2021年5月22日土曜日

『孔雀の羽根』カーター・ディクスン/厚木淳(訳)

NEW !

創元推理文庫
1980年12月発売



★★★★  他の作家ならともかく、カーゆえに厳しめの評価



例えば今、雑居ビルの1Fの室内にひとりの元高校球児がいます。雑居ビルの目の前には小学校のプールの横幅より少し短い位の道路が通っています。そこでTVのリモコンを彼に投げてもらい、雑居ビルの道路の真向かいに立っているコンビニ(駐車スペースは無し)の入口ガラス上半分の範囲に限定して、命中させてもらう実験をやってもらいましょう。たった一度限りのチャンスで見事に命中できるとあなたは思いますか?それとも「野球のボールならともかく、リモコンじゃ無理だろ」と思いますか?謎の核心のうち真犯人などには触れておりませんが、『孔雀の羽根』のストーリーを御存知無い方は本日の記事は読まないほうが無難かもしれません。

二年前「ロンドンのある番地に十組のティー・カップが出現するから監視せよ」という意味不明な警告が警察に送られてきた。その手紙に書かれていた空家でダートリーという男性が被弾して死亡、ハンフリー・マスターズ警部はその事件を解決する事ができなかった。再び、同じような文言の手紙が警察に届く。指定されたその日、マスターズ警部は問題の家の周りに人員配置していたが、不審者の誰ひとり出入りの無い状況下、ダートリーと同じように室内でヴァンス・キーティング青年もまた被弾して命を落としたのであった。

 

 

自殺であるならば死者による二発目の銃弾発射はありえないような死に方なのに、なぜか二発目の弾痕が残っているところから不可能犯罪の疑惑が強まる。ただ一発目のからくりは納得できるとしても、二発目におけるカーの創意は如何なものだろう?〝保護色の目眩まし〟〝物の移動〟といったトリックは実に面白いけれど、実際にバレるかバレないかといったら、張り込み中の警察もしくは通行人の誰かにどうやっても〝保護色〟の点はバレるだろうし、一方〝物の移動〟にしたって「そりゃ無理だわ」・・・と私は本書を読みながら思ってしまった。

せめてドイルの「ソア橋」みたいに紐みたいな物がないとこのやり方では確実に遂行できそうにない。終盤に至って家具のトリックがよかっただけに、あと少しリアリティをどうにかしてほしかった。

 

 

それだけの齟齬ならまだ★5つにしてもよかったけれど、タイトルにもなっている〝孔雀の羽根〟の意味はあって無いようなものだし、なによりも十組のティー・カップ=秘密結社の暗躍の気配を振り撒いといて、これまた揺るぎない必然性が無いのが物足りない。

私はカー作品に対し常にオカルトとロマンスが必須だとは思っていないから、このふたつの要素が本作になくてもそんなに問題ではない。印象としては、H・Mの傍若無人さで笑わせる演出を控えめにしているぶん、苦戦するマスターズ警部のしんどさが物語全体の起伏を幾分か固いものにしている気がする。警部の部下であるポラード刑事にもっと活躍の場を与えてやってもよかったのではないか。

物語の起伏の固さというのは中盤の動きの無さから来ているのだけれども、その辺の問題は良い翻訳者の新訳でリニューアルされれば、もしかしたらすごく改善される可能性だってありうる。そんな再発を期待してこの旧訳版は満点ではなく★4つに留めたものの、実質的には評価の低い★5つのカー作品とほとんど差は無い。


 

 

(銀) 会話の中で『赤後家の殺人』事件に言及されているので、現実の執筆順に沿い、作中の時間軸の中でもこれはマントリング家事件後の話と見て間違いない。本作は1937年発表。翌年には『ユダの窓』が書かれるのだから、時期的に不調な訳では決してない。H・Mの謎解きにて〝32個〟にも及ぶ手掛かりを(伏線が張られていたのがどのページだったか)わざわざ並べて示しているのも、カーのテンションが高い証拠。

とはいえ毎回大傑作が生まれるとは限らず、翌1938年に文句なしのマスターピース『曲がった蝶番』があるかと思えば、あまり評価できぬ『死者はよみがえる』があったりもする。


 


2021年2月22日月曜日

『剣の八』ジョン・ディクスン・カー/加賀山卓朗(訳)

NEW !

ハヤカワ・ミステリ文庫
2006年3月発売



★★★   アイディアが醗酵する前に書き上げてしまったか




日本には年少者が罪を犯しても罰せられない〝少年法〟があります(この先どう変わるかわかりませんが)。この時代の英国では重い罪でも ✖ は死刑にはしないという暗黙の了解ができていたそうで、『剣の八』を読むと ✖ に入る文字が何なのかギデオン・フェル博士が教えてくれます。

本作の事件は至ってシンプル。スタンディッシュ大佐のゲストハウスに逗留していたデッピングという裕福でやもめの老人が頭部を撃ち抜かれて死んでいる。死体の傍に落ちていた「剣の八」のカードの意味は・・・?

 

 

フェル博士シリーズ第三長篇、1934年の作ながら、準レギュラーのハドリー警部は退職まであと一か月の身。せっせと回顧録を執筆する日々を送っており冒頭でフェル博士と再会を果たし事件の導入役として顔を見せるだけ。ハドリー警部は本作以降に発表された長篇では現場にて働いているから、フェル博士シリーズの時間軸における事件発生順は作品発表順と同じではない?

 

 

【 Bad 

スタンディッシュ大佐の屋敷で休暇をすごしているが突然階段の手すりをすべり下りたり、犯罪研究者ながら奇行の人として描かれるドノヴァン主教。一時的に笑いをとりたいだけなのかその奇行癖が物語が進むにつれ活きてくるのかその顛末はここでは書かないが、奇行の部分はスベってるし邪魔。ポルターガイスト現象も、わざわざその言葉を使うほど読者の興味を牽引するものとは言い難い。

 

 

主教の息子ドノヴァン青年を中心に、作家ヘンリー・モーガンやマーチ警部達がお互いの推理をぶつけ合う中盤の章は会話劇があまり上手く機能できてないのでもう少し練り直しが必要。似たような不満は最後の謎解きパートにも当てはまり、フェル博士は読者の知りたかった秘密を話してくれてはいるが、その見せ方というか演出の仕方は良い時のカー作品に備わっている謎の収束の快感に欠ける。

 

 

【 Good 

事件の根幹に恐喝がある場合、それが金や財産であれ異性関係であれ、ゆすられていた方がゆすっていた方を始末するのがありがちな設定だが、本作ではそれをひねって複雑な相関図を拵えている。本作の犯人の隠し方は悪くない。

死体現場に残されていた食事の跡から犯人の手掛かりを掴もうとするのもいいんだけど無理やり結論付けちゃってるわなあ。デッピングのグルメぶりなど食ネタを掘り下げて、読み手をあっといわせるエビデンスが用意されていればいたく感心したのに。



この作品をラーメンに例えると、旨いスープを作る為にいろんな具材を鍋にブチ込んだが、グツグツ十分煮込めてないのか具材の選び方に問題があったのか、渾然一体とした旨みになり損ねて具材がバラバラに主張してしまっている感じ。

 

 

 

(銀) 読むに堪えないレベルと宣告するほどの駄作でもないから評価は★4つでもいいのだが、加賀山卓朗の訳がフェル博士の口調を「ですます」調に塗り固めているのが気にくわない。それに加えて霞流一の解説。「♪ ぼ、ぼ、ぼくらは本格探偵団!」とか「探偵5レンジャー」とか、書いてて自分で恥ずかしくならないのか。


 


2020年10月31日土曜日

『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』ダグラス・G・グリーン

NEW !

国書刊行会  森英俊・高田朔・西村真裕美(訳)
1996年11月発売



★★★★   今では入手難かもしれないが、
       これを読まずにカーの研究は先へと進めない



古本乞食の森英俊さえ関わっていなければ5つ以上の★を献上したいぐらいファンにとっては必携のダグラス・G・グリーンによる評伝。何が良いといって作家のヒストリーを語るのみに偏らず発表された作品が時代ごとに丁寧に分析されているのでカーの上級者でなくとも読み易い。矢張探偵小説家の評伝ならば、その作家の書いた数々の小説がどんな風に受け止められ、どのように論じられているかを味読できるのはなによりも楽しい。

 

                    🚬


江戸川乱歩【カー問答】を始めとする、かつて日本人の提言してきた「カーならこれを読め」的な作品論にはいまひとつ納得のいくものが無かった。それに比べると本書で述べられている論考には思いのほか自分の読後感と一致するところが多く、自然に受け入れられる。ちなみにこんな一節があるので紹介しよう。

 

「この時期(注:一九四〇~一九四三年)の著書のなかには、カーの最高傑作に匹敵するもの(あるいは、それに近いもの)がいくつかあった。『連続殺人事件』、『九人と死人で十人だ』(注:『別冊宝石』にて初翻訳時のタイトル)それに『貴婦人として死す』である。読者をペテンにかけているものでさえ、しばしば人間的な感情を揺さぶらずにはおかない。」〖☞本書281頁を見よ〗

 

カーに限らず他の探偵作家の場合でもそうなのだが私は世間というか他人がどういう評価をしているんだろうかなんてさして気に留めない性格なもので、単に情弱で知らなかっただけかもしれないが、『貴婦人として死す』はまだしも『九人と死で十人だ』は戦後『別冊宝石』に掲載されただけで単行本の流通が無かったというハンデがあるにせよ、日本で絶賛されている感覚がちっともなかったから「へえ~、欧米の識者にはちゃんと評価されてるんだな」と再認識したことであった。

 

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この本の巻末には【ジョン・ディクスン・カー書誌】というパートがあり、名義ごとに分類した著書やラジオ台本などの各種リスト、さらに日本国内で発売されたミステリ書籍でカーについて言及したパートのあるもの、カーを特集した国内雑誌も紹介されているので至極便利。

 

 

ただ惜しむらくは本書が出たのが1996年、『ジョン・ディクスン・カーの世界』(ST・ジョシ/平野義久〈訳〉)の出たのが2005年、そして今ではこの二冊とも現行本の扱いが無くなっているため、新しい読者がこれらを入手しようにもムダに高額な古書を買わなければならないのは気の毒。そろそろブランニューなカーの評論書が日本人の手で制作され、日本におけるカー作品の輸入のされ方と現在まで引きずっているその影響というか弊害を若い人にも伝わるよう書いてもらいたいな。




(銀) 全く根拠の無い私個人の体感だが、近年国内で発売される探偵小説関連の新刊のうち、小説を収録した本の数で比べると海外ミステリのほうが勝っており、本書のような評論になると逆に日本の探偵作家のもののほうが多く出版されているような気がする。とはいっても作家別に見たら江戸川乱歩とコナン・ドイルが突出して他を引き離しているのだろうが。



ただでさえ、こういうマニアックな本を出してくれる出版社は限られているというのに、政府が2021年4月から出版物総額表示(本体価格+税ではなく税込総額で表示しろということ)を義務化する予定という血迷った方針を進めているため、潰れる出版社がドンドン出てきても不思議ではないと云われていて。むしろ総額表示を強制させなくちゃならんのはこれから出される出版物ではなく、森英俊ともズブズブの関係であり、オークションに入札するのに参加費などと言ってわざわざ別料金を搾取しているまんだらけのようなインチキ業者の通販サイトじゃないのか。




2020年10月30日金曜日

『雷鳴の中でも』ジョン・ディクスン・カー/永来重明(訳)

NEW !

ハヤカワ・ミステリ文庫
1979年12月発売



★★★★★   彼らを転落死させたものは何か




車を運転していたら知らぬ間になにか地面にポタポタ垂れていた、なんて事がありますね。車のボディーにはいろんな液体が装備されていますが、さすがに私もそのすべては把握しきれてないのが実情です・・・。

1939年】

絶景の地として知られるベルヒテスガーデンには総統アドルフ・ヒットラーの所有する山荘〈鷲の巣荘〉がある。人気絶頂のハリウッド映画女優イブ・イーデンはナチスの賛美者。イブは総統に表敬訪問を申し出、運良く許可が下りたので彼女の婚約者ヘクター・マシューズと共に山荘を訪れる。総統との午餐に際し、イブは美術館長ジェラルド・ハサウェイ卿を招待していた。

 

 

そして総統が到着するのを待っている間にイブはマシューズを眺めの良いテラスへと連れ出し、二人は低い手摺のそばに。この時、ハサウェイ卿ともうひとりの部外者である若き女性ジャーナリスト/ポーラ・キャトフォードはテラス続きの部屋の中にいた。山荘の警護隊は次の瞬間、何者かの悲鳴を耳にする。調べるとマシューズがテラスから30m下へ墜落し死んでいるのを発見。しかし何故マシューズが高台のテラスから落ちたのか、誰にも理由がわからなかった。

 

                    


1956年】

戦争が終わり、イブはハリウッドへは帰らなかった。彼女は、昔花形だった老俳優デズモンド・フェリアーと結婚。デズモンドには前妻との間に生まれた息子フィリップ・フェリアーがいる。

 

 

本作の主人公ブライアン・イネスは旧友ド・フォレスト・ページから、娘のオードリーがスイス/シャンベリーの別荘へ行くのをなんとかして止めてくれと懇願される。その別荘へオードリーを招待したのは他ならぬイブ。ド・フォレストは1939年のマシューズの謎の死からイブのことを危険視していた。

 

 

にもかかわらずオードリーは山荘へやって来た。当時と同じようにハサウェイ卿とポーラ・キャトフォードも呼ばれている。それとは別にイブの夫デズモンドによって招かれていたギデオン・フェル博士の姿も。この別荘にも〈鷲の巣荘〉と同様に高台のバルコニーがある。ブライアン・イネスが不穏な様子に気付くと、イブとオードリーが口論している。この時も二人のそばに居た者はいない。一閃の稲妻が光った時、イブは両腕を空中に伸ばし、バルコニー下の樹海へと転落していった。似たような状況での、このふたつの死にはどんな意味があるのか?

ちなみにマシューズもイブも、遠くから銃で狙撃されたり変な光線を喰らって落っこちた訳ではないので念の為。墜落死の謎にばかり目が行きそうだが、この物語の中で起きている男女の仲にはそれなりの意味がある。しかしナチスやヒットラーという存在は、別になければならぬ必要も無く、只のお飾りなのでちょっと残念。カー作品ではよく事件発生時に雷が落ちるのが常だし、ここではタイトルにも ❛ 雷鳴 ❜ と入っているからてっきり感電か何かの気象トリックが関係するのかと思って読むと、これまた無関係でうっちゃりを喰らう。

 

 

本作を紹介する際に〈フェル博士対ジェラルド・ハサウェイ卿〉の推理合戦が見所、みたいな事を言う人がいるが、そこまでの魅力と存在感をハサウェイ卿は持ち合わせていないし、なによりフェル博士も(作者カーと足並みを揃えて)年をとってしまったからか、ハサウェイ卿に好きなように言われっぱなしだったりして、どことなく威圧感に欠ける。それでも解決篇において全てのパズルのピースが収まるべき処に収まるのが快感だったので、どうにかこうにか★5つとした。ラストの謎解きまでモタモタしていたならもっとマイナス評価にしただろう。


                     

 


(銀) まったく同じ素材のままで、本作がもし1940年代のうちに書かれていたら、解決篇に至る迄の会話ひとつひとつのメリハリといい、登場人物のどれもハッキリしない態度といい、より高いテンションで引き締められたのではなかろうか。でもまあ、カーが亡くなる17年前の作品にしてはよく頑張ったということで、ここは前向きにねぎらいたい。

 

 

『囁く影』でフェル博士もメンバーの一人だと言及されていた、実際の殺人事件について研究するサークル〈殺人クラブ〉がここでも登場。一方、これまでフェル博士と共に捜査に当たってきたハドリー警視は引退していると語られており、作品世界の中でも時の流れを感じさせる。





2020年10月29日木曜日

『曲がった蝶番』ジョン・ディクスン・カー/三角和代(訳)

2020年2月29日 Amazonカスタマー・レビューへ投稿

創元推理文庫
2012年12月発売



★★★★★   フリーキーな真相に対する可否さえ押し倒す
             巻を措く能わざる面白さ



変装・・・同じ変装とは言っても何かを着たり付けたり被ったりする〝足し算の変装〟だけではなく〝引き算の変装〟というのもあって・・・。

この物語が日本で単行本になる際にかなりの頻度で表紙画に描かれる、何百年も前の機械仕掛けの自動人形。悪魔信仰サバトの象徴として〈金髪の魔女〉と呼ばれる、動く筈の無いこの人形がギデオン・フェル博士めがけて火車砲のように突進する・・・そして〝曲がった蝶番〟とは何の事なのか?
 

                    



少年期から米国の親類筋に預けられていたジョン・ファーンリーだが、英国へ戻って爵位と財産を 継ぐ事になった。そんなある日「昔、客船タイタニック号の沈没時に一人の少年と身分の入れ替わりをしてしまったが、自分こそ本物のジョン・ファーンリーだ」と言って相続権を主張するパトリック・ゴアという名の男が突然やって来た。ふたりのジョン・ファーンリーによるイヤ~な感じの対決。どちらの言っていることが真実?

 

 

と聞けば日本人はすぐ「犬神家の一族」の佐清を持ち出したがる。横溝正史は海外ミステリだけでなく、日本の戦前探偵作家が書いたネタさえも巧妙に自作に利用したが(他人の作品名を長篇の小見出しにパクっている場合もあり)、正史には本作『曲がった蝶番』よりも前に書いた「鬼火」というものがあるため、いくらカーを礼賛したといっても正史が本作を一本釣りで「犬神家の一族」のトレースにしたとは言い難い。

 

 

日本では江戸川乱歩が「パノラマ島綺譚」「猟奇の果」で〝なりすまし〟というテーマを用いた作品を1938年発表の本作よりも前に書いていた訳だが、普通ならば〝なりすまし〟の素材だけで長篇一本成立するところなのに、カーの凄いのは更にフリーキーで複雑な殺害トリックをもぶちこんでくる貪欲さ。極上のステーキだけで腹いっぱいなのにトリュフまで添えてあるみたいな。

 

                     



ここでの殺人は一応〈衆人環視〉のクローズドな状況ではあるが、視力の悪い目撃者がいるのはまあいいとして夜の闇でハッキリしないから明快な〈密室〉状態というには少し苦しい。それと本作を読んでいつも思うのだが、読者への挑戦を煽るのであれば、たとえ簡素でもジョン・ファーンリーがバッタリ倒れこんだ池を囲む屋敷の図があったほうがフェアな気がする。

犯人の現実離れした手口には「特撮じゃあるまいし、そんなこと可能なのか」と言う人もいそうだし「この結末で終わっていいの?」と言う人もいるだろう。私は私で今回の新訳によるラスト第四部で、ある人物の「×× ね」「×× ですよね」と変に馴れ馴れしい口調の翻訳には違和感があったけど、カーがただのトリック・メーカーでは終わらない〝物語の名手〟であるのを証明する代表作のひとつなのは間違いない。


 

 

(銀) 本作を読んでグッとくるものが何も無かったら、その人はカーのどの探偵小説にトライしてみてもきっとダメだろう。それぐらい人気も認知度も高い傑作。絶頂期のカーは多少綻びがあってもストーリーテリングの上手さでねじ伏せてしまう力強さを備えている。昨日取り上げた同じ年に発表した前作『死者はよみがえる』と比べてもプロットに無駄が無いし、実際にはありえないロジックもついつい納得させられてしまう点でこちらのほうがはるかに出来が良い。ただ脂が乗っているうちはいいが後年になるとその辺の衰えが顕著になってくる訳で、それについては次の記事で語ることにしよう。




2020年10月28日水曜日

『死者はよみがえる』ジョン・ディクスン・カー/三角和代(訳)

NEW !

創元推理文庫 名作ミステリ新訳プロジェクト
2020年10月発売



★★★  こんなアンフェアは楽しめない




「偶然や第六感で事件を解決してはならない」

「読者に提示していない手掛かりを用いて解決してはならない」

1928年にロナルド・ノックスは探偵小説の創作に臨んで作家が守らなければならない十の指針を提言しました。中にはこんな条項もあります。曰く、「犯行の現場に秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない」・・・・・・・・・。二つどころか一つでもあったらそれはアンフェアなのではないでしょうか。

私のBlogでは露骨なネタバレが無いように配慮して書いていますが、この『死者はよみがえる』の場合はどうしても黙認できない箇所があり、その部分を語る為には謎の核心に触れざるをえません。犯人の名前は書きませんがそれでもやはりネタバレにはなるので、本作の真相をちょっとでも知りたくなければこの記事はお読みにならないで下さい。

 

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友人の実業家ダニエル・リーパーから「体一つのNo Moneyで、ヨハネスブルグ(南アフリカ)からロンドン(イギリス)まで、その間労働で金を稼ぐかヒッチハイクで旅をやり遂げろ、約束の日に指定したホテルのスイートで落ち合えたなら千ポンド出そう」という馬鹿馬鹿しい賭けを受けたクリストファー(クリス)・ケント。空腹でフラフラになりながらもクリスは約束の前日に無一文でそのホテルへ辿り着いた。既にチェックインしている客のふりをして無銭飲食をしてしまった彼は思いもよらぬトラブルに巻き込まれてしまう。

 

 

ホテルのポーターはクリスを707号室の客だと思い込む。ポーターは直前に707号室に泊まっていた米国婦人から「室内に忘れたブレスレットを取ってきてほしい」と要請されていたのだが、部屋のドアノブに〝Do Not Disturb〟札が下がったままになっているため婦人の次の泊まり客の許可無くして勝手に入室できない、それゆえ抽斗の中を見てきてほしいとクリスに伝えたのだ。

 

 

正式な客でない事がバレるとまずいクリスは覚悟を決め707号室に入ると、部屋の奥に置かれた衣装トランクに叩きつぶされた顔を突っ込んだ状態で、横向きになって死んでいる女性が。後で読者にも知らされるのだが、被害者はダニエルの政治秘書でクリスの従兄弟でもあるロドニー・ケントの妻ジョセフィーンだった。更にこの事件の数週間前には、ダニエルの友人ジャイルズ・ゲイ卿の屋敷にてロドニー・ケントが絞殺され、そこでホテルマンのような制服を着た人物の姿を見たという報告が上がっていた。

 

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こういう出だしだと主人公に降りかかる容疑を名探偵が晴らすみたいな話になりそうだが、上記の707号室からポーターにバレずに脱出したクリスが十五分後にはもうギデオン・フェル博士のもとを訪ね、そこにハドリー警視も居合わせていたおかげで早々にクリスは〈シロ〉と見做され疑われる心配がなくなるという、序盤からなんとなく安直なこの展開が気にくわない。

 

 

好みの作品ではないので軽めに流して説明すると犯人は実に意外な人物だった。しかしその犯人が殺人現場へ侵入するのに実は〈秘密の出入口〉があったというズルいオチがあって、我が国の荒唐無稽な通俗長篇ならともかく、カーがこういうチープな手段を使っちゃいかんだろ。本作を褒める人は「〈秘密の出入口〉が作られていてもおかしくはない」という意味の伏線は一応あるというが、そんなものが作られている可能性を前半で示唆していたからといって「ウンそれならOK」みたいな考えに私はなれない。

数年後に書かれた「獄門島」とも共通する ❛ ある趣向 ❜ については悪くない(横溝正史にパクられた?)。それとは別にホテルと警察の制服が見間違うほど似ているなんて我々には想像もつかないもんなあ。〈秘密の出入口〉〈二種の制服〉問題の他にも納得がいかぬ点が多いので大きく減点。但し和爾桃子の訳がひどい最近の創元推理文庫のバンコランもの(特に『絞首台の謎』)でさえ★3つにしてしまったんで、本作をそれ以下の★2つにまで貶めるのは忍びなかった。






(銀) 原題「To Wake The Dead」。延原謙による旧訳時代のタイトルは「死人を起こす」。どっちにしろ探偵小説のタイトルとしては申し分ない。然は然り乍ら、ヨハネスブルグからロンドンまで旅をさせるという賭けそのものがストーリーの中でたいして意味を成していないというその点もガッカリなんだよなあ。



本作は江戸川乱歩からお褒めの言葉があり、それを鵜呑みにした戦後の読者がその評価をずっと継承してきたのかもしれないが、その乱歩の感想に関しては江戸川乱歩推理文庫第64巻『書簡 対談 座談』の中の乱歩と井上良夫の手紙のやりとりで構成された【探偵小説論争】や、光文社文庫江戸川乱歩全集第26巻『幻影城』123頁【ジョン・ディクソン・カー】の部分を参考にするとよかろう。【カー問答】はここでは触れないでおく。



者の『幻影城』で乱歩は本作について、こう述べている。「横溝正史君がカーの最傑作とするもの。故井上良夫君もこの作を推奨していて、私は二度読んだが、飛切り面白いくせに、合理性に於てどこか満足しない所があった。しかも、それがどの点にあるのか、二度読んでもハッキリ指摘できなかった。」



とすると過大評価の元は、洋書で読んだ正史が「こりゃ凄いでっせ、乱歩さん」と騒ぎ立てたかどうかはしらんけど、乱歩もそれに乗っかって自分の随筆の中で「死者はよみがえる」を高評価だと思わせるような文章を書いちゃったのかもしれない。その後あたかも乱歩の言葉だけが一人歩きしているが、実際に「死者はよみがえる」の殺人手段を自作に流用している位だし過大評価の原因は正史にもあるのではないか。