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新潮文庫
1960年8月発売
★★★★ 延原謙→松本恵子→長沼弘毅に次ぐ四人目の訳者
いくつかの訳書が存在している海外ミステリ作品に言及する場合、刊本として引用される実例が多いのはやはり東京創元社の創元推理文庫、次いで早川書房のハヤカワ文庫/ポケミスだろう。昔からこの二社はミステリに関して専門性が高く、一種の指標に定められようとも何ら問題は無いのだが、他の出版社だって少なからず訳書を刊行してるんだし、それらが無碍に扱われるのは忍びない気もする。
なので今後、当Blogにてクラシックな海外ミステリを取り上げる際、東京創元社・早川書房以外のあまり顧みられないマイナーな訳書でも折良く私が所有しているものがあれば、ちょくちょくそれを使って紹介していこうと思っている。本日は説明不要なアガサ・クリスティ超有名作品、度々映像化もされている あの長篇を取り上げたい。
昭和35年に刊行された新潮文庫版『オリエント急行の殺人』。翻訳者は蕗沢忠枝。原書は英国版『Murder on the Orient Express』ではなく、米国版『Murder
in the Calais Coach』を使用しているとのこと。書影をお見せしている新潮文庫の初版はまだカバーが付いてない時代のものだが、しばらく経ってアルバート・フィニーが名探偵を演じた映画「オリエント急行殺人事件」の公開に伴い、映画のワンシーンを用いたカバーが掛けられ、改版が昭和50年に出ている。タイアップ・カバーは角川文庫だけのお家芸ではなく、意外と新潮文庫もそういう商売をやっているのである。
〝赤誠〟や〝錠がかる〟など、現代人が使わなくなった言葉も時折混じっているが、万人向けのやさしい訳文なので、読みにくいということはまずあるまい。蕗沢訳は名探偵の名前をエルキュール・ポワロ(ポアロではない)と発音させ、彼の一人称を〝ぼく〟と云わせている。それが気になる人もいるかもしれないけど、私はno problem。
では本書・新潮文庫版の目次、出だしから五章分の章題を御覧頂こうか。
第一部 犯行
1【著名な乗客】
2【トカトリアン・ホテル】
3【ポワロ断わる】
4【深夜の悲鳴】
5【犯罪】
本書と同じく昭和30年代に刊行された文庫には、長沼弘毅(訳)の『オリエント急行の殺人』(創元推理文庫)と古賀照一(訳)の『オリエント急行殺人事件』(角川文庫)があり、それらの目次内容を国立国会図書館サーチで見てみたら、第一部/第二部/第三部構成といい、各章の表記といい、蕗沢忠枝(訳)とほぼ同じだった。
また昭和31年には、大日本雄弁会講談社よりクリスチー探偵小説集/ポアロ探偵シリーズの一冊として松本恵子(訳)『オリエント・エキスプレス』も出ているが、これは文庫ではない。松本恵子は戦前からクリスティの翻訳を手掛けているとはいえ、戦後になり新しく本が出るにつけ、クリスティ作品の訳文をその都度アップデートさせているかどうかまで私は把握できていない。
日本で最初に本作の訳書を世に送り出したのは延原謙。昭和10年に出た柳香書院版の函入単行本『十二の刺傷』がそれだ。小序によれば延原は英国版原書『Murder on the Orient Express』を使用しているように受け取れる。
英国版『Murder on the Orient Express』と米国版『Murder in the Calais Coach』にはなんらかのテキスト異同があるんだろうか?ま、それはここでは詮索せず、『十二の刺傷』の出だし五章分における章題も見てみると、どうも原文を直訳せず、訳者の感覚で付けているようなものがある。
【気になる男女】
【野獸性の老紳士】
【ポワロ斷る】
【深夜のうめき】
【變事起る】
『十二の刺傷』は第一部/第二部/第三部構成になっていない。各章題だけを追うと、端折っているところは無さそうに思えるが、新潮文庫版で言う第二部 証言 15【乗客の荷物検査】の章、エルキュール・ポワロがグレタ・オルソン嬢の荷物を調べる間、彼女をハッバード夫人の傍へ行かせるシーンで、まだ新潮文庫版ではその章が終わっていないのに『十二の刺傷』では新たにそこから【赤いキモノ】という章題が立てられ、Mr. Pが「ふむ、こんなところに!挑戰だな。よろしい、大いに應じてやらう。」と呟いて、ようやくその章(要するに新潮文庫版の第二部)は終る。
さすがに蕗沢忠枝の訳は昭和35年の仕事だし、省略されている箇所はあるまい。それに対して、最も旧い延原謙(訳)の『十二の刺傷』は、どこかのブロックまるごとすっ飛ばすような事こそしていないものの、既に記したとおり章題を原文とは変えていたり、【赤いキモノ】という章を別途拵えたり、あるいは部分部分で細かなところを刈り取っているように見受けられた。ちなみに延原謙の訳は昭和29年『オリエント急行の殺人』へと解題の上、ポケミスに編入されている。コレ私は持っていないが、ネットで目次内容を見ると『十二の刺傷』と全く同じなので、訳文もそのまま流用しているのだろうか?
(銀) 本日の記事は近年の訳書をオールスルーしているばかりか、昭和53年の中村能三(訳)ハヤカワ・ミステリ文庫版でさえ触れてないのだから、旧訳を好まぬ方には何の役にも立たないだろう。申し訳ない。
各種日本語訳はともかく、「オリエント急行」という作品自体についての私的感想だが、最初に読んだ時はナチュラルに面白かった。でも私が年を取ったせいか今再読してみても、犯人の隠し方以外に改めて感心できる要素を見つけ出せるかどうか、心許ない。あまりにこの作品が大衆に消費され過ぎていることも影響しているのかな。