2022年9月26日月曜日

『川野京輔探偵小説選Ⅲ』川野京輔

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論創ミステリ叢書 第128巻
2022年9月発売





★★   まがりなりにも出版人の端くれならば
            校正ぐらいちゃんとしろ論創社編集部





本巻278頁に載っているエッセイ「放送局と私」の中で川野京輔は、                    〝世間によく、ブンヤ物と称する新聞記者物があるように、ラジオ、TVを舞台にした放送局物と云うジャンルを作り上げたいという野心も持っている〟(ママ)                                と書いており私は苦笑した。この人の探偵小説はそういった設定で書かれているものがあまりに多く、ちょっとカンベンしてほしいぐらいなのだが、御本人がそれほど意識的であったのなら、もう諦めるしかない。

 

 

 

また、SFSMというエッセイでは〝昭和二〇年代後半の風俗雑誌「奇譚クラブ」「裏窓」「風俗草紙」「風俗科学」などに掲載されたSM小説の中には探偵小説と呼べるようなものが多くあった。変態性慾は犯罪か、あるいはそれに極めて近い距離にあり、それをテーマにすれば、 それだけで探偵小説といってもいいだろう。少なくとも戦前ならそうである。〟とも語る。  失礼を承知でいうと川野の作るものには(小説だけじゃなくラジオドラマでも)❛オンナ好き❜ な性分が滲み出ていて、こういう人のほうが私は親しみを感じるし、                      逆に恋愛ひとつしようともしない令和の日本人のほうが間違いなく病んでいる。                            学生時代の投稿癖が抜けないまま、社会人となってからも楽しみつつペンを握り続けた人。                    そんな川野京輔は永遠のアマチュア作家といっても過言ではない。

 

 

 

本巻に収められた創作探偵小説はこちら。                                   「暴風雨の夜」「コンクール殺人事件」「犬神の村」(中篇)「手くせの悪い夫」                  「二等寝台殺人事件」「そこに大豆が生えていた」「御機嫌な夜」「警報機が鳴っている!!」「愛妻」「公開放送殺人事件 ~一枚の写真~」(未発表中篇) 

 

その他に、単行本一冊分満たすには数が足りなかったのか非探偵小説な読物が十三篇。              但し「剃刀と美女」はエロネタ探偵小説として扱ってもよかろう。                     こういった作品で穴埋めする事を読者は喜んでいるのかどうか私にはわからない。本巻をはじめ『川野京輔探偵小説選 Ⅰ/Ⅱ』を読むと、探偵小説以外のジャンルにても著作を様々残しているのが確認できる。川野にとって本業はNHK、執筆は副業だったから、興味の対象をあちこちに 向けて(筆で生活費を稼ぐというのではなく)趣味として書きまくった。

 

 

 

だが探偵小説の出来を求めた場合、どうなのか?                           彼の作品はどれも『宝石』のような探偵小説の主戦場でガチに戦えるほどアイディアも文章力も優れてはおらず、重篤な探偵小説読者以外の人々へうったえる訴求力は乏しい。上に挙げた本巻収録の創作探偵小説にしても、危惧していたほど放送局ものばかりでなく川野なりのヴァリエーションがあるのはよかったのだが「犬神の村」は単に長篇「猿神の呪い」のプロトタイプでしかなかったりする。昔、中国地方の山村にはびこっていた憑霊を原因とする差別=村八分に関心を向けさせるのはいいとしても、作ごとに何かしら変化は欲しい。

 

 

 

過去の記事に書いてきたように、やっぱり川野京輔にとって誇るべき作品は決して小説ではなくラジオドラマだ。エッセイ「ラジオドラマをアーカイブスへ」を読むと、本名の上野友夫名義で演出しNHKに残したラジオドラマ436本の音源はNHKアーカイブスに寄贈したそうで。                              それは大変嬉しい話だけれども、肝心のNHKがそれらの作品をWEBでストリーミングできるようにするとかNHKラジオの中で再放送するとか動いてくれない事には、宝の持ち腐れでしかない。そのNHKも、無駄なBSKチャンネルは残すくせに、現在二つあるBSチャンネルは一つに削減し地上波のEテレもやめてしまうなど縮小路線へと傾いているのだから、我々が上野友夫演出作品を 聴けるようになるのは果していつになるのやら。

 

 

 

 

(銀) 誰も何も言わないのをいいことに濫造しまくりの論創海外ミステリとは対照的に、  テキストの雑さを銀髪伯爵に突っつかれるものだからすっかり年二冊程度しか出なくなった論創ミステリ叢書。本巻も今年の二月に出た『飛鳥高探偵小説選Ⅵ』以来な訳で、一冊出すのにこれだけ時間を取っているのだから、少しは真面目にテキスト校正に取り組んでいるのかと思ったがやはりダメだった。

 

 

 

奥付クレジットを見ると本巻の本編校正は横井司が担当していて、その部分はいいのだけれど、             横井の担当ではないと思しき【解題】は相変わらずテキストの打ち間違いが多い。                           今回【解題】欄の正誤表を本の中に挟み込んだり論創社の公式HPにupしてはいるが、                   たかだか15頁程度のテキストにて九箇所も間違いが生じているのだから、                  横井司以外の論創社編集部の人間がやっている仕事はやっぱり酷いと言わざるをえない。                   『川野京輔探偵小説選Ⅰ』の【解題】担当となっていた小谷さえり同様、今回も河瀬唯衣などという聞いた事の無い女性の名前がクレジットされていて、論創社編集部/黒田明のペンネームである事は見え見えのバレバレ。




当Blogでも以前取り上げたことがある論創社の刊行物『近代出版史探索』(小田光雄)における校正の問題を、先日SNS上で指摘している方があった。























そのツイートに対する黒田明らしき論創社からの返答がコレ。














「誤植や誤情報につきましては読者様からご指摘を受ける事もございますので参考とさせて  いただいております。」って、まるっきり自覚の無い他人事みたいな物言いだな。この論創社のツイートを見て、数日前に会見を開いた旧統一教会の勅使河原秀行本部長と福本修也弁護士の白々しさそっくりじゃん、と私は思った。あのさあ~「一箇所たりともミスすんな」なんて無茶は言わんから、せめて私の気付かないようなところでミスするとか、一冊の本で五箇所以内の ミスに収める位の仕事はできんものかね?論創社の本造りの粗さに気が付いている人はただ沈黙しているだけで、上段にて紹介したazzurroさん以外にもきっといる筈だぞ。





2022年9月20日火曜日

『影なき女』大倉燁子

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春日書房
1954年12月発売



★★★    四つのタイトルを持つ長篇





大倉燁子のキャリア初期に(おそらく書下ろしで)発表されたこの長篇は、なんだかもう復刊はされなさそうな雰囲気だから、本当に探偵小説が好きな人の為に、ここに書き留めておきたい。タイトルが変更された日本探偵小説の長篇というのは他にも例はあるが、この長篇の改題は実に三度にも及んでいる。時系列に並べてみよう。





A 『殺人流線型』(柳香書院 昭和107月発行)

 

B 『復讐鬼綺譚』(柳香書院 昭和1211月発行)

 

C 『女の秘密』(永和書館 昭和2212月発行)

 

D 『影なき女』(春日書房 昭和2912月発行)→ 本書

 



初刊時に付けられた「殺人流線型」Aというタイトルだが、主人公が物語の中で次々に起こる連続殺人を「まるで、殺人流線型ですよ」と形容するシーンがあるだけで、どうも意味がわかりにくい。この〝流線型〟というのは当時流行った言葉ではないのかと思ってネットで調べてみると、構造化知識研究センター・昭和世相研究所がupしている「昭和の流行語ランキング」というwebサイト上で、昭和5年の流行語の第四位に「流線型」が入っていた。

また別のどなたかのブログには「流線」「流線型」のワードを冠したレコードが昭和10年に多数発売されていた事が記されている。後述するが、大倉燁子のこの長篇は数年かけてじっくり練り込んだ内容とはとても思えなくて、おそらく昭和10年に流行った言葉から手軽に付けられたタイトルっぽい。

 

 

 

二つめのタイトル「復讐鬼綺譚」Bは同じ版元の柳香書院から、本の装幀もガラリと変えてAの二年後に再発。ここまでは函入りの立派な本だったが戦争で日本は負けてしまって、戦後最初の再発「女の秘密」Cは仙花紙本の粗末な作りに。

国内の情勢も落ち着いてきた頃に出た本書「影なき女」Dは、ハードカバー仕様には戻ったものの、これは貸本屋向けとしてのリリースだったようだ。作品の改題というのは殆どの場合、出版社サイドの意向であると思うのだが、この長篇はどうだったのだろう?それはともかくA)~(Dのどのタイトルにしたところで、プロットの芯が明確になっておらず、どれもみなしっくりこないのが問題でしてね。

 

 

 

映画会社東洋活動の社長・團野求馬の妻・寵子は、宛先も署名も無く復讐を宣言するのみの文言が書かれたハンカチを拾って不安を覚える。團野求馬は以前、印度の宗教団体・紫魂團に救われて加入、東洋活動を立て直す経済的な援助を受けていたにもかかわらず彼らを裏切ったため紫魂團は壊滅し、教祖・薊罌粟子は日本国内で獄中の人となっていた。

紫魂團一味の仕業を疑う求馬は伴捜査課長に相談するも、罌粟子は一週間前に獄中で全身が紫色になって苦悶の末、中毒死したという。黒幕は何者かわからぬまま團野寵子が誘拐され、東洋活動の関係者が罌粟子同様に突然紫色になって突然死する怪事が次々と発生。伴捜査課長の甥であり、映画業界で働いている主人公・細谷健一は謎の解明に乗り出す。

 

 

 

戦前にありがちな活劇スリラー。活動写真(映画)を意識した展開にしたかったんだろうけど、メインとなる謎の設定の詰めが甘いし、各場面における状況描写も雑だったり、数行先/数ページ先まで伏せておくべき事柄をポロッと漏らしていたりするので、御都合主義といえどもテンションが続かない。

紫色になってバタバタ犠牲者が出る殺人方法(?)も予想どおり、その原因となるものが現場で見つからないのがあまりにも不自然だったりで、昭和初期の日本の探偵作家が長篇を書くのが如何に下手だったかを露呈する結果に終わっているのが痛い。例えば紫魂團の巨悪ぶりなり、薊罌粟子の怨念の深さなりがじわじわ読者へ伝わるよう書けていたら、もう少し褒めるところも見つけられたんだが。

 

 

 

Aと本書Dには二短篇を併録。
『大倉燁子探偵小説選』に収録されていた「むかでの跫音」は、寺の住職が割腹自殺する、いわゆる霊媒もの。もうひとつの嗤ふ悪魔」はずっと年下の若妻の浮気に悩まされる博士と、博士から逃れたい若妻、その夫婦のエグい結末に至るまでを描く。大倉燁子の長篇は「殺人流線型」一作しかなさそうだが、やっぱりこの人は短篇で読んでいるほうが楽しめる。

 

 

 

(銀) ただでさえ少ない女流探偵作家、その上、戦前から活動していて長篇創作探偵小説を発表している女性は貴重なんで、その点は評価したいのだけど、「殺人流線型」の出来はどうにもいただけない。でも二短編はそれほど疵瑕を感じず読むことができるので相殺してようやく★3つといったところ。





2022年9月19日月曜日

書店では売られてこなかった三上於菟吉の研究文献

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三上於菟吉は埼玉県の中葛飾郡桜井村、今でいう春日部の出身。
大正から昭和初期にかけて第一線で活躍した大衆作家にもかかわらず、今では「雪之丞変化」の作者、あるいは長谷川時雨のパートナーぐらいにしか認知されていない。作品群の全体像を知ろうにも手引きとなるリファレンス・ブックがないばかりか、著書さえ二十年以上復刊されていないのが現状。

そんな於菟吉、まんざら探偵小説と無関係という訳でもなく、当Blogでは彼の短篇「嬲られる」を収録したアンソロジー『挿絵叢書 竹中英太郎(三)エロ・グロ・ナンセンス』や、長田幹彦『蒼き死の腕環』の項などで触れている。世間では於菟吉のことを気にする人は誰もいないのかといえば、さにあらず。ヒラヤマ探偵文庫『謎の無線電信』セクストン・ブレイク/森下雨村(訳)の裏表紙には、湯浅篤志が『三上於菟吉探偵小説集』なる本を準備している旨の近刊予告が載っていた。その本が於菟吉久方ぶりの新刊として無事リリースされるよう、今回は三上於菟吉をプッシュ。

 

 

 

え? さっき「三上於菟吉を知る為の手引きとなる本は無いって言ったばかりじゃん」って?いやいや、それは一般商業書籍の話であって、過去には於菟吉の故郷・埼玉県春日部方面から有志たちによる四冊の資料が世に放たれているのだ。


 

 

   『三上於菟吉讀本 生涯編/作品編』 春日部高 文學部/庄和高 地理歴史部 

 


バブル時代の1990年秋に発行されたこの二冊は、奥付に〈庄和高校地理歴史研究部 年報第四~五号〉とクレジットされている。そう、なんと高校の先生と生徒によって作られた本で、素人らしい手作り感があふれてはいるが、ペラペラのプリント用紙をホッチキスでまとめたような簡素なものではなく、ちゃんと印刷業者によって製本された、一冊あたり200ページ前後のしっかりした同人誌なり。

 

 

ただ単純に原稿を書いているだけではなく、於菟吉著書の書影/於菟吉作品の挿絵/当時の関連記事など図版がたくさん転載されていて参考になるし、さすがに30年前のアマチュアの手になるものだからプロの編集技術には及ばないけれど、材料を収集する手掛かりも少なかったろうに、よくここまでの本を作り上げたものだと感心する。情報量だけでいうなら、この二冊を超える三上於菟吉研究文献はいまだ世に出ていない。価格が書いてないところを見ると、図書館や文学館や学校へ配布する目的で作られた非売品らしく、古書として入手するのは大変そうだから、埼玉エリアの図書館蔵書を探して読むほうが早いかもしれない。

 

 

 

   『図録 三上於菟吉と長谷川時雨』 埼玉県庄和町教育委員会 


 











一方こちらは199912月から20001月にかけて、埼玉県春日部市の大凧会館にて開催された企画展「三上於菟吉と長谷川時雨」の販促物。価格は500円。庄和町は現在春日部市の一部として編入されている。30ページ強のいかにも企画展パンフレットといった内容で、庄和町いや春日部市には彼の著書や作品発表雑誌が沢山所蔵されているようだ。

 

 

 

   『生誕一三〇周年記念誌 三上於菟吉再発見』 三上於菟吉顕彰会 













そしてこれが昨年発行された最新の於菟吉研究本。136ページ。頒価1,000円と謳ってはいるが発行部数はあまり多くなさそうなので、在庫があるうちに購入しておきたい。講演録及び9つの論考、於菟吉の随筆「原稿贋札説」そして「雪之丞変化」後日譚にあたる短篇「雪之丞後日」を再録している。

 

 

 


といった具合に、この作家の研究文献は皆無ではなく、春日部の人々がなんとかして三上於菟吉を忘れないよう尽力しているのが泣かせるじゃないの。でも残念ながら於菟吉が探偵小説に関係している部分については①~のどれも抜けがあるのは惜しい。例えば①の『作品編』には多くの於菟吉作品がずらっと紹介されているのだけど、探偵小説として雑誌『キング』に連載された「幽霊賊」は漏れている。この長篇、戦前の初刊は大人ものとして、戦後はジュブナイル扱いとして単行本化されているが、両方ともレアでなかなか見つからないから仕方ないんだけどね。

 

 

 

その「幽霊賊」が③では「幽霊城」とされていたり、また探偵小説読者の間では江戸川乱歩/直木三十五ら大物作家の翻訳は名義貸しだと認識されている平凡社版「世界探偵小説全集」のドイル/三上於菟吉(訳)『シャーロック・ホームズの帰還』(1929年)『シャーロック・ホームズの記憶』(1930年)も、やはり於菟吉自身の訳ではなく代訳である可能性が大なのだが、③にて堂々と「見事な翻訳」などと書いているのはどんなもんか。もっとも、本当に於菟吉本人がドイルを翻訳したという証拠を掴んだ上で発言しているのであれば、私のほうが詫びなければならないが。

 

 

 

③の冒頭には於菟吉と同じ高校卒業生というので北村薫が「三上於菟吉先輩のこと」という短文を寄せており、その中で長年伝えられてきた某於菟吉作品の粉本がサッカレー「双生児の復讐」だと放言するのは恥ずかしい間違いだと指摘してくれている。①~③の中で、ある程度以上探偵小説に詳しい書き手は北村薫ただひとりだし、少なくとも③全体の監修も北村に頼んでおけば、いくつかのミスも避けられたのに。いずれにしても、そんな探偵小説に関する不備を解消するような三上於菟吉研究本が(できれば一般商業書籍の形で)いつの日か作られるといいけど、力量と熱意を持った適任者が果して存在するかどうか・・・。

 

 

 

(銀) 三上於菟吉の作品で探偵小説の角書きが付いた中長篇と言ったら、上記に挙げた「幽霊賊」以外に「銀座事件」がある。あと探偵小説とはいえないかもしれないが『日本幻想文学大全Ⅲ 日本幻想文学事典』(ちくま文庫)の三上於菟吉の項にて東雅夫が紹介していた「黒髪」、ミステリ専門古書店落穂舎の古書目録『落穂拾い通信』にて巻頭のカラー・ページ上に掲載されていた「美女地獄」など、探偵小説のテイストに近い作品が存在する。湯浅篤志が『三上於菟吉探偵小説集』にどんな作品を収録するつもりなのか楽しみだ。



江戸川乱歩「魔術師」に登場する〝音吉(オトキチ)じいや〟、漢字こそ違えど同じ読みのこのキャラクターのネーミング、乱歩は三上於菟吉から採ったものではないかと私はニラんでいる。




2022年9月15日木曜日

『松本清張推理評論集1957-1988』松本清張

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中央公論新社
2022年7月発売




★★★★★   清張は好きじゃなくても
                 この本は読む価値がある




❆ 私のBlogで扱っているような探偵小説、そして私のBlogではまず扱わない社会派推理小説、この二つのビミョーな関係について松本清張が大なり小なり言及している評論/エッセイの類いを一冊に纏めた、今迄ありそうでなかった単行本が上梓された。私のように清張/社会派推理小説が全く好きではない人間にも改めて発見を与えてくれるし、これを読んだからって清張派に乗り替える・・・なんてことはまず無いにせよ、中央公論新社のGoodな企画には拍手を送りたい。

 

 

 

❆ ミステリに必要な要素としてつねづね清張が口にするのは〝人間描写〟〝犯罪動機の追求〟〝現実感〟〝社会性〟なのだが、「荒唐無稽でリアリティの無い作品はお呼びではないけれども自分だってトリックをないがしろにしている訳ではない」と言わんばかりに幾つかのトリッキーな自作のアイディア(もちろん作品名は伏せてある)を披露したりもしている。それらのトリックは(当り前だが)探偵小説でも十分活かせるものだ。


江戸川乱歩、はたまた恩人である木々高太郎に敬意を払っているのは想定内ながら、決して文章が上手いタイプとはいえず、清張にとっては批判の対象だとばかり思っていた甲賀三郎の短篇を「ある意味では好きだった」と述べているのは意外。我々は清張がなんでもかんでも日本探偵小説を否定的な目で見ているように捉えがちだけど、ミステリに対して彼なりに真っ当な事を考えていたのは、本書を読めばよくわかる。

 

 

 

❆ もっとも、清張と社会派推理小説がシーンの中心に祭り上げられた1950年代の後半頃には、横溝正史の存在を無視しているとかなんとか、荒正人にケンカを売られていたりもしていて。


私は清張の書いたものを逐一細かく読み知ってはいないから、この本へ拾い上げるべき内容の清張評論に取りこぼしがないか断言はできないが、本書を読む限り横溝正史の名はわずかに出てはきても、その頻度は他の戦前探偵作家に比べるとかなり少なく、うがった見方をすれば正史を認める言動といったものは、あまり存在してなさそうな気配が漂う。
(ここにはよく知られたる、清張がそれまでの探偵小説を「お化け屋敷」と揶揄したエッセイは収録されていない)
はてさて実際のところ、清張は正史のことをどう見ていたのだろう?

 

 

 

清張は北九州の出身(広島生まれ説もある)。貧しい育ちにコンプレックスを持っていたのか、自分を〝田舎者〟だと語っている。40歳を過ぎて作家デビュー、先輩にあたる国内探偵作家達に比べたらかなりの遅咲きであり、まさしく絵に描いたような苦労人といっていい。作家になってからは「もう東京都内にしか住みたくない」とも述べる。


地方出身の人には、その田舎臭さが嫌で嫌で一度そこから抜け出したらもう二度と戻りたくないと思う人も少なからず存在する。金田一耕助長篇で描かれる鬱陶しい田舎の因習に搦め捕られた世界観が、例の日本刀や釣鐘を使う作り物めいたトリック以上に肌に合わなかったのか、単純に清張からすると正史は所詮乱歩の二番煎じとしか受け取れなかったのか、あるいはそれ以外に何か特別な理由があって正史には触れることをしなかったのか、つい下衆の勘繰りをしたくなるワタクシ。

この両名には不思議な共通項があって、正史は友人こそ多いけれど病気持ちゆえに外出できる機会がかなり制限され、一方の清張は宿痾みたいなハンデは無かったが、下戸だし友人と呼べる人もいなかった。状況こそ違えど、余計な人付き合いをしなくていいぶん、二人は創作に専念する事ができたのだ。

 

 

 

❆ 本書は清張に対する偏見をなにかと矯正してくれるものの、私が一番共感を覚えたのは「日本の創作推理小説を不振にしたのは、皮肉にもこの小説の熱心な支持者である〈鬼〉に一半の原因があると思っている」という一文である。


このBlogでもたまに使う表現だけど、探偵小説に取り憑かれた人々のことを昔から〝探偵小説の鬼〟と呼んだりする。(この場合の鬼とは作品を執筆する側の探偵作家を示しもするし、読者を示したりもする)清張が〝探偵小説の鬼〟たちの何がいったい日本のミステリをダメにしたと思っていたかは本書をゆっくり読んで頂くとして、読者側の〝探偵小説の鬼〟たちが持つ或る種の幼児性というものは時代が下るにつれ益々悪い方向に増長し、90年代の後半に発生してきた所謂モノマニア的な、その本がいずれ市場から無くなった時の値上がりを期待して探偵小説本を買い込むといった、なんとも心根の腐った連中ばかりに成り下がってしまった。


こんな輩は清張のファン層には全く見られない訳で、それを思うと私は清張ファンが少し羨ましくなる時がある。(清張研究家の郷原宏や藤井淑禎にはシンパシーの欠片も湧かないけど)

 

 

 

 

(銀) 21世紀になって22年経つが、探偵小説と違って松本清張や社会派推理小説の好きな人々によるマニアックな蠢動がいまだ一向に表面化してこないのは何故だろう。私はそれでも別に困りはしないけれど、そんなものなのかな。まあ世の中には清張の熱心なファンはきっと存在していると思うが、みうらじゅんがその片鱗をチラ見せする程度で、社会派推理小説というジャンルが再び注目されることはまだしばらくの間は無いような気がする。


でも、探偵小説オタクみたいな卑しい人種が発生するぐらいなら、今の状態のほうが健全でいいのかもしれない。なんたって探偵小説のギョーカイはどんだけテキストが誤字脱字だらけでも、作り手も買い手も一向に危機感を抱かない老害ばかりだからね。




❛ 清張は横溝正史を全く認めていなかったのか疑惑 ❜について少々触れてみたが、そういえば美輪明宏がかつて「横溝正史は肥溜めの臭いがするから嫌い」てな発言をしたという話がある。この発言は放送メディア上で発せられたものなのか、あるいは活字メディア上で発せられたのか、不勉強にて私は知らない。美輪さんがどうしてそんな正史批判をしたかについても私なりに推論は持っているけれど、この発言がなされたメディアが特定できた時にまた改めて書きたいと思っている。


 


2022年9月10日土曜日

『悪男悪女』渡辺啓助

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桃源社 推理小説名作文庫
1958年10月発売



★★★★    戦前作家の悲哀




ここに収められている五短篇はいずれも戦後に書かれ発表されたもの。本書における収録順ではなく、初出誌発表順に見ていくとしよう。

 

 

 

 「盲目人魚」     『宝石』昭和211011月号掲載

敗戦にて悲惨な傷を負わされた者達がひっそり湯治している人里離れた奥上州温泉の風情がよく伝わってくる(もう長いこと行ってないけど、温泉はイイよね~)。

なにげに鉱毒に関する記述があって、浜田雄介は「盲目人魚」を再録した『渡辺啓助探偵小説選Ⅰ』解題の中で遠慮気味に本作を「社会派の先駆け?」と評しているが、その部分は単なる枝葉にすぎない。話の後半になると、主人公は本所向島という東京都内でも(昔は)ガラのよろしくなかった地区に探りを入れるため足を運びもするが、この作品はシンプルに〈温泉ミステリ〉と捉えて差し支えないと思う。

初出誌からテキストを起こした『渡辺啓助探偵小説選Ⅰ』では「インテリの刺青」までを前篇、「矢毒とイマジネエション」以降を後篇と銘打っているが、この『悪男悪女』では前篇後篇表記は省かれている。本作が『悪男悪女』の前にも単行本に三度収録されている点は注目していい。

 

 

 

 「ミイラつき貸家」     『宝石』昭和2478月号掲載

このタイトルを見て読者は「ハハ~ン、取り憑かれてミイラを自分で製造する奇人の話か」と想像されることであろう。なんだろうなあ、〈ミイラ製造の狂気〉それと〈美しきファム・ファタールへの執着〉、このふたつの素材は実に魅力的ながら、偏愛対象を二代にしてしまったせいで彼女たちの妖しい美のアピールが片手落ちになっていたり、芦名邸の同居人・瀬渡桂彦の動かし方がいまひとつだったりで、残念ながら満腹感は得にくい。本作は戦時下~戦後の渡辺啓助作品から良作を選りすぐったという平成13年の単行本『ネ・メ・ク・モ・ア』(東京創元社)に再録されたけれども褒め称えるにはもう一息。

 

 

 

 「黒い扇を持つ女」     『宝石』昭和2412月号掲載

自分の保身のため恋仲になった女を実に酷い目に遭わせる教師時代の千崎仙助はサイテーな男。しかも片輪になるぐらいの被害を受ける女性というのが、外見は美しく資産家の娘でありながら特殊部落出身の一家という理由で、周りから差別的な目で見られている不幸な娘。文中に何度か出てくる〝ちょうりんぼ〟という言葉は長吏(ちょうり)、つまり賤民を意味する。

 

 

書き方によっては前述の「盲目人魚」よりもむしろこちらのほうが社会派というか問題提起作になりそうな気がするが、渡辺啓助の美意識はそのようなシリアスなテーマをプロットの軸に選ぶことを良しとはせず、黒い扇を持つ女/女スパイ・陳萬珠の登場(?)によって話がちとゴチャゴチャしてしまった感あり。全体を俯瞰すると決して成功しているとは言えぬ内容なのに、メインキャラ千崎仙助と納戸まさ子の二人が読者に残す印象はなかなかに鮮烈で、下段にて紹介する昭和30年代の渡辺啓助作品よりもずっと心に残る。『渡辺啓助探偵小説選Ⅱ』に再録。

 

 

 

 「素人でも殺せます」     『新生』昭和3378月号掲載

2022年初夏に皆進社から発売された『空気男爵』(渡辺啓助)に再録。この新刊に収録されていた啓助作品は連作長篇「空気男爵」をはじめ殆どのものが〈コメディ〉と呼ぶレベルではないにせよ明るめの演出が施され、「盲目人魚」のようにネットリとした感触のアトモスフィアーは避け、作者自身とは年齢が離れた(1950年代以降当時の)現代的な若者(特に女性)を題材の中心にしている印象を受けた。

 

 

よくこのBlogで指摘している事だが、戦前に青春時代を送った作家からしたら(仮にその人の作家デビューが戦後であったにせよ)彼らが若さを謳歌していた時期というのは、どう足掻いても戦前という過ぎ去りし昔の話で。敗戦の混乱が徐々に落ち着き、国内の世情が明るさを取り戻してきていたとしても、戦前世代の作家達が小説の中で描く戦後の若者像には、中高年が無理して若者の素振りを真似ているようなズレが生じてしまうのが哀しい。本作を書いた昭和33年、啓助は既に58歳。昭和の58歳は令和の58歳と違ってはるかに老齢である。「ハイティーン」と書くべきところ本作で「ハイテーン」と表記しているのを見たら、昭和30年代であっても当時のティーンはやっぱり年寄り臭く感じたのではないかな。




 

 









今年に入って皆進社が刊行した水谷準の『薔薇仮面』、そして渡辺啓助『空気男爵』に共通して言えるのは、この二つの表題作長篇の初刊本が大変レアな為、なかなか読む事がかなわなかったという点。それは見方を変えれば、出来がよろしくないから再発される機会が全く巡ってこなかった、とも言えよう。どう出来が良くないかといえば、気の利いたトリックも無いし通俗作品として見てもアイディア/プロット共に弱く、よく評論家が「その時の最新風俗を前面に出して書けば書くほど、時代が変わればそれは古臭いものになってしまう」と指摘していて、確かにそれもあるだろう。

でもさ、戦前の探偵小説でその時代の最新風俗を描いていても、それらはモダニズムだのエロ・グロ・ナンセンスだのと云われて持て囃されるでしょ?大っぴらに日中戦争を始めるまでの戦前日本の風俗はわりとシャレたものだと受け取られるのに、戦争でボロ負けしたのもあって、戦後の風俗について人はどうしても麗しいノスタルジーの対象にはしたがらない傾向にあるようだ。

 

 

国破れ灰燼と化すという、それまでの歴史上前例の無い悲劇が日本に降りかかってきて、昭和20815日の前と後では凄まじい程の文化の分断が生まれた。敗戦前に十代~二十代を送ってきた作家が敗戦後に青春期を迎える若者像をビビッドに描こうとしたところで、そこにはPC/携帯の出現以前に青春期を迎えた今の中高年に対するどっぷりスマホに洗脳された若者世代以上の、どうにも埋め難いジェネレーション・ギャップがあったに違いないのだ。だってそれまで学校で〝白〟だと教えてきたものを、戦争に負けて天皇が玉音放送を流した途端に手のひら返しで〝黒〟だと教えるんだもの。そりゃショックで日本人の人間性も変わるわな。

 

 

戦前探偵作家が戦後に書いた作品の問題点について取り留めもなく書き連ねてしまったが、渡辺啓助だけでなくほぼ全ての戦前探偵作家にとっては1950年代から、江戸川乱歩逝去後やっと社会派ミステリが飽きられ、ディスカヴァー・ジャパンの波に乗って乱歩・横溝正史・夢野久作のリバイバルが台頭してくる1960年代半ばまでの数年間というのは、どんなカードを切ってもうまくいかない不幸な時代であり、「素人でも殺せます」のような作品もそんな時代の産物だという事を私は述べたかったのである。

 

 

 

 「一日だけの悪魔」     『大衆読物』昭和3310月号掲載

この作品、『悪男悪女』以降の単行本には再録されたことがないのでは?(違ってたらゴメン)某新聞にて「身の上相談」欄を担当している宇原清志のもとに、直接対面で「意見を伺いたい」と妙な男がやってきて、その男が語る強盗事件にいつのまにか宇原が巻き込まれてしまうというストーリー。『宝石』とは異なり『大衆読物』という雑誌はチープなカストリ・マガジンらしく上品ではないエロ・テイストがあり、事件発覚のオチもあるものの特段付け加えることは無い。

 

 

 

 

(銀) 皆進社版の水谷準『薔薇仮面』しかり次に出た渡辺啓助『空気男爵』も、誰でも気軽に読めるようになった事は素晴らしいが内容的には褒めたい箇所が見つからず、『空気男爵』収録作と発表時期が近いものが半分を占めているこの『悪男悪女』を取り上げた。〝悪男悪女〟というのはあくまで書名であって「悪男悪女」という作品がこの本に入っている訳ではない。ここで『悪男悪女』を★4つにしたのは矢張「盲目人魚」と「黒い扇を持つ女」が載っているからかな。

 

 

 

渡辺啓助は2002年永眠、101歳。もともと戦後の啓助は若い世代と接する機会が多く、「新青年」研究会の古いメンバーなどは啓助と親しい交流があった。戦前から活動していた探偵作家と会うことができたのだから、既に亡くなってしまっていた他の探偵作家に比べて、自然に彼らは啓助への親愛の情を深めたことだろう。そういう理由もあり「新青年」研究会において渡辺啓助(そして弟の渡辺温)は、他の探偵作家よりも幾分か贔屓の度合が強いような気がする。若く新しい読者はこの辺の内部事情を押さえた上で日本探偵小説の世界に踏み込んでいった方がいい。