熱烈な小栗虫太郎信者ほど「亜細亜の旗」を読んで、怒ったり落胆しているかもしれない。 プロットにも文章表現にも〝らしさ〟というものが微塵も感じられないからねぇ。 同じく地方新聞に連載された大下宇陀児「幽霊紳士」について、私は別の理由から「これって 誰かに書かせたんじゃないの?」と埒も無い疑問を投げかけてみた(2021年2月1日分の当blog 記事を見よ)。 横溝正史「雪割草」のように生原稿の一部が残存でもしていれば一件落着するのだけど、あんな幸運は他の探偵作家には望むべくもない。 果して「亜細亜の旗」は虫太郎本人が書いた真作なのか? それとも誰かが書いた代作なのか?
まず最初に忘れちゃならないのは、いくら虫太郎の体臭が皆無だといっても小説自体はストレス 無く読めるものであること。仮に虫太郎が叩き台だけを作ってやり、それを基に第三者が文章を考え執筆したとしても、ここまでスラスラ読める長篇をズブの素人が一から書き下ろせるとは とても考えにくい。 本書の中でも代作疑惑について触れてあって、疑わしき数人の名前が挙がっている。 上記の理由から作家でない人は外すのが妥当だとして、いくらか可能性が残っているのは二人。まず『ぷろふいる』の編集者で上京後も虫太郎が面倒をみていたという左頭弦馬。でもなあ、 数少ない短篇を読む限りではこの人の小説って稚拙だし、逆に「亜細亜の旗」レベルの長篇を 書けるのであれば虫太郎だって「キミには才能が無いから郷里に帰りなさい」とは言わんだろ。
最後に残ったのは、虫太郎の短篇を代作した事がある旨を晩年告白した九鬼紫郎。この人なら 著書の数も多いし「亜細亜の旗」を書き下ろせる筆力はあるかもしれない。可能性としては最もありえる。ただ本人が〝代作したのは短篇〟と明言している訳で、さすがに長篇と取り違えたりはしないんじゃないか? それに九鬼は甲賀三郎の門下生であって虫太郎の庇護の下にいたのではない。 彼と虫太郎との接点はこの〝短篇代作発言〟以外あまり思い当たらないから、虫太郎がわざわざ代作を頼む相手としては納得しづらいのだ。そんなこんなで強力な決定打が見つからない以上、 このまま疑い続けても不毛だから当面のところ代作説は却下しておく。
さて。 おとといの記事(①)でも例に挙げたが、虫太郎の稀少な新聞連載のひとつで1938年に『徳島 毎日新聞』に掲載された「女人果」は後発の「人外魔境シリーズ」以上に読み易くなっており、「亜細亜の旗」に近い書き方がされている。この頃から虫太郎独特の難解な表現が使われなく なっているのがハッキリ見て取れるけれど、漢字単語に彼らしい特殊なルビを振る手法はまだ 活きていた。「亜細亜の旗」ではそのルビ手法さえも姿を消してしまっている。
ここで改めて虫太郎の年表を振り返る。御承知のとおり彼は1941年(昭16)の11月になると 陸軍報道班員として南方マレーに赴き、帰朝するのは翌年末。この南方派遣の話を受諾したのがいつだったのか正確にはわからんけど、日本を離れている間は作品の執筆・発表ができなくなるのが必定。『「新青年」趣味』ⅩⅧ号/特集 小栗虫太郎の著作目録を見ても1941年11月~1942年12月の間に発表された小説は「海螺齋沿海州先占記」「南東貿易風」そして「北洋の 守り星」、この三作しかない。 これを考えると昨日の記事(②)で述べた「亜細亜の旗」の各紙連載が何度も中絶している原因には、虫太郎の南方行きも少なからず影響しているのか。
1941年の10月あたりまでは虫太郎自ら原稿を書いて渡せる事ができたかもしれないが、 11月に入りマレーへ出発してしまったら、現代のように執筆したデータファイルを離れた土地 から一瞬でメール送信、なんて事はできない。それどころかコピー機さえも無い時代だから複数の新聞社で「亜細亜の旗」を連載するには、その新聞社の数だけいちいち原稿を新たに書き起こして送り出さなければならない。妻・小栗とみが虫太郎のマレー出張中に夫の原稿を書いていたという小栗宣治の貴重な回想こそ、虫太郎の置いていったオリジナル原稿の「亜細亜の旗」を 手本にして、各新聞社へ渡す為とみ夫人がせっせと書き写す作業を行っていた、その立派な証左となる。
もう一度昨日の記事(②)を御覧頂きたい。第二の連載新聞だった『東奥日報 夕刊』は196回で連載を打ち切られたけれど、掲載最終日(1941年9月19日)には物語の結末をダイジェストにして読者に知らせたという。とするとマレー出発前、というよりも1941年9月のうちに虫太郎は「亜細亜の旗」最終回まで原稿を一旦書き終えていたとしてもおかしくはない。 本書【解題】【編集後記】によれば「亜細亜の旗」の執筆依頼の大元は当時国内のプロパガンダ機関として稼働していた同盟通信社からの斡旋があったのでは?と推理されている。戦意高揚の為に動いている同盟通信社が窓口となって「プロパガンダに反しない内容を持つ小説を複数の 新聞に連載させますから小栗先生ひとつお願いできますか?」みたいな執筆依頼がもしされて いたならば「「亜細亜の旗」はどうしてこんなにいくつものの新聞に連載されたのか?」という 疑問の答えにもなり得るのである。(本書637頁に京都日日新聞社/東奥日報社/伊予新報社/防長新聞社、これらはみな同盟社員新聞社であった事が資料より引用されている)
④につづく。