2021年12月30日木曜日

『トレント自身の事件』E・C・ベントレイ/露下弴(訳)

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春秋社
1937年2月発売



★★★   シャンパンのコルクを調べるシーンが好き



【ストーリー】

金持ちで手広い慈善家として知られるジェームス・ランドルフ翁。本編の主人公、素人探偵でもあり画家のフィリップ・トレントはある用事でランドルフ翁と接見したばかりだった。普段から召使いを殆ど置かず邸内には他に誰もいないという状況で、ランドルフ翁がニューベリー・プレイスの邸の室内にて背後からピストルで撃たれ即死しているのを外出から帰ってきた従僕のロオトが発見する。

 

 

遺体周辺には剃刀の刃などおかしな形跡はあるものの、物取りの犯行には見えない。ロオトには前科があり只の忠実な従僕とは思えないし、また老主人には女性関係で怪しむべき点も無くはない。秘書のヴァーニーによればランドルフ翁には親類がおらず、一人息子がいたのだが十六歳の時に家出したっきり行方不明、遺書も残していないというのだ。事件現場に荷札が落ちていた事からトレントの旧友ブライアン・フェアマンに強力な容疑がかけられるが、事件が明るみになる直前トレントは一瞬だがブライアンと偶然にもヴィクトリア駅で出くわしていた。ブライアンは海を隔てたフランスのディエップへ渡り謎の行動を取るも、投身自殺を図って警察に連行。トレントは友の濡れ衣を晴らすべく調査を始めた。

 

 

 

【原 作】

いまだ戦前に出た古色蒼然たる春秋社版しか日本語訳が存在していない本作だが、そこまでダメ出しされるほどつまらない凡作でもない。「トレント最後の事件」を持ち上げて、こちらをすごく悪しざまに扱っているミステリ・オタがいるって聞くけど、そうかな?実際に読んでないか、あるいは年取って頭ボケてるだけでは?なにかしらのオリジナリティーで歴史に名を残す逸品ではないが、人並みの読解力さえあればストーリー的にはスラスラ読める。悪くはない。

 

 

ジェームス・ランドルフ翁は発泡酒を嗜まない人なのに、ヴィンテージ・シャンパンのコルクが遺体のポケットから出てきたので、その意味を知るためにトレントは酒商を訪れてワイン問答を交わす。私は葡萄の酒が好きなもんで、この第十三章のやりとりがなんとも楽しい。トレントの妻であるあの人や子供が出てくるシーンについては、ん~、どうかな。探偵が家庭の内情を見せ過ぎるのはあんまり好まないけど。

 

 

 

【翻 訳】

春秋社版の致命的欠陥はどうしても訳。露下弴というのは悪名高き戦前の翻訳家・伴大矩のペンネームのひとつと云われている。伴大矩と同一人物であろうとなかろうと、私のようなトーシロにでさえ他の人間に訳の下請けをさせてるのが読んでバレバレ。本書の中でいつもフィリップ・トレントは自分の事を〝僕〟と呼んでいるのに、ある章では突然たいした意味もなく〝わし〟と言い続けるので気持ちが萎える。



これも近頃私が再三怒っている杜撰なテキスト入力新刊本と同じで、仮に第三者に部分部分をアウトソーシングしていたとしても、一通り訳し終わったあと責任者(=露下弴)がゆっくり目を通し、全体に齟齬が無いようチェックして、ミスを見つけたら手直しさえすればいいだけの話なのだ。それを面倒臭がっているのか読者をなめてるのか知らんが、こんな仕事をしているものだから、その本は末代までの恥になりにけり。

 

 

 

【総 評】

「トレント自身の事件」はEC・ベントリーとH・ワーナー・アレンの共作なのに、この春秋社版にはH・ワーナー・アレンのクレジットは無い。訳者の仕事はとても褒められたものではないが原作自体には好感が持てるし、なんといっても本書の装幀者は吉田貫三郎だから、なんだかんだの大甘評価で☆3つ。しかし450ページ近くもあるせいか、この本は束(つか)がたっぷりあるな~。どういう理由でどこの版元も「トレント自身の事件」の新訳を出そうとしないのだろう?

 

 

 

(銀) この作者はEC・ベントリーと書くのが通常であるが、春秋社版では〝EC・ベントレイ〟と表記されているので、記事のトップの書名欄だけ〝ベントレイ〟とし、各記事の一番下、そして当Blogの右側に並んでいるラベル(タグのこと)欄では〝ベントリー〟と記した。





2021年12月27日月曜日

日本探偵小説の再発好況期は過ぎ去った

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今年=2021年は国内における紙書籍の売上が15年ぶりに僅かながらプラスとなりそうな見込みだそうで。そのわりには皮肉にも、私のBlogで取り上げるべき日本探偵小説の再発/評論書籍は今迄に無いほど新刊の数が落ち込んだ感がある。このBlogを始めた当初の予定では既存の古書はたまにしか扱わないつもりだったのに、今年記事にした本は古書ばっかりだったからなあ。もっとも私が積極的に買わないたぐいのミステリ系新刊のリリース数なら、それほど減少はしてないように見えるけれど。

 

                   

 

江戸川乱歩/横溝正史/夢野久作以外で、一般的にはそれほど存在を知られていない日本探偵作家の単独著書が新刊として発売されるようになったのは、記事の中で度々語ってきたとおり、90年代に刊行された国書刊行会《探偵クラブ》シリーズ全15巻のおかげである。その後を引き継ぐように2003年スタートした論創社の《論創ミステリ叢書》はコンスタントに巻数を重ねてゆき、ありえないようなマイナー作家でさえも、書店のミステリ・コーナーに並ぶようになった。そうなると他の出版社もほっとかない筈がなく、真似をしてニッチな企画を通すようになり、一方では同人出版で本を作る人も現れてきたり、今世紀に入ってからというもの日本探偵小説に関する新刊書籍は毎年右肩上がりの実り多き状況が続いてきた。

 

 

だが物事にはすべからく衰退の時が訪れる。二十年も上向きの好況が続いてきたのだから、探偵小説の再発にもそろそろ冬の時代がやってくるのかもしれない。


                    

 

《論創ミステリ叢書》も100巻を超え、横井司が叢書監修の立場を外れてからクオリティの低下を感じていたが、姉妹企画である《論創ミステリ・ライブラリ》の方針にも疑問はつのるばかりで、論創社にはすっかり信用が置けなくなっていた。その直後(2020年)コロナウィルスの急速なる蔓延で社会生活の在り様も一変、本の制作に携わる人達/出版社/印刷・製本業者もろとも少なからぬ煽りを受け、業務に支障を来したに違いない。何にせよ日本探偵小説の新刊数がガックリ減少したように感じられる大きな要因には、論創社が急に日本探偵小説の本を出さなくなった事が挙げられる。 

 

 

日本探偵小説関連の書籍こそリリースしなくなったものの、論創社はミステリ以外のジャンルの本や《論創海外ミステリ》については何の滞りも無く刊行を続けている。論創社編集部の黒田明は『CriticaVol.16の中で、日本探偵小説関連書籍が出ない理由として「図書館などの、文献を所蔵している施設の利用がコロナによって非常に制限されるようになったため」と述べていた。でも『西田政治探偵小説選』『乾信一郎探偵小説選』なんてパンデミックが起こる何年も前から「出す出す」って twitterで言ってたよな?コロナや図書館のせいにしているけれども、それならこれまで放言していた刊行予定書籍はどれも底本が全然揃っていなかったのかい? 

 

 

肝心な業務に関わる面々がコロナに罹ってしまったのいうのならば同情もしよう。しかしいくら日本探偵小説の書籍制作だと(海外の翻訳物と違って)底本となる文献もしくはそのコピーを各種入手する必要があるとはいえ、図書館の利用制限ばかりが新刊を出せない理由にはならない。だって盛林堂書房も捕物出版(=大陸書館)も、彼らは商業出版社じゃないけれど、事前に「こういうのを出したい」と拡散してきたものは着実にリリースしている。彼らと違って論創社は刊行の目処も立ってないのに早々と「あれ出しますこれ出します」と煽り、結局入手できない文献があったりするもんだから、その都度行き詰っているのではないか?こういうのを〝無計画〟と呼ぶ。そんなんじゃローン組もうにも銀行は金貸してくれないぞ。

 

                     

 

論創社みたいな無計画っぷりも問題だけど、私が買うような探偵小説本の制作者に限って、テキストを正確に入力できてなかったり、その上 校正という作業をなおざりにしているのは一体どういうつもりなのか?

 

1                                                  いくらテキスト入力にミスをやらかそうとも買い手が何も言わぬおめでたい読者ばかりだから。読んでも間違いがある事すら気付けない、いやそれ以前に買って積んだまま少しも読んでいない人ばかりだから。

 

2.                                                                 作り手側は雑誌『幻影城』のリアルタイム世代が多く、衰えも著しい中高年になってしまって、視力・集中力・思考力、そのいずれも低下してボケているから。

 

こんなカンジだからかねえ。(これでも随分言葉を選んで発言している)


                      

 

この二十年で再発すべきネタはだいぶ汲み取られたとはいえ、井戸が完全に涸れた訳じゃない。だが探偵小説のギョーカイは制作者側の高齢化が止まらず、人材難は解消せず、日本探偵小説の復刊本のリリースについては、2020年代もこれまでの二十年のように順調に進むなんて楽観視はしないほうがいいだろう。好況期はもう過ぎ去ってしまっているのだから。高齢化なのはユーザー側も一緒で、初版本書痴の老人が認知症になってしまい、今まで集めてきた古書をズタズタにしてしまったなんていう噂話も聞く。可哀そうにね。いや、人じゃなくて本が。

 

 

 

(銀) 読む価値のある新刊が出ないと寂しくはあるが、Blogのネタとしてはいいかげんな本を出されてその都度苦言を呈するよりは、古い本について書いているほうが精神的に良いのかも。本をライブラリーから出してきて頁をペラペラ捲り、以前読んだ内容を思い出す作業は面倒だけどさ。なにせ私の理解の外にある事が多すぎる探偵小説の世界。このBlogを書き続ける興味が失せる危うさのほうがネックだったりして。



上記に述べたような状態が続いているにもかかわらず、論創社は2022年に「論創ミステリ大賞」と冠した書下ろし長篇ミステリ小説を募集する企画をおっ始め、忙しい横井司を選考委員長にすると言っている。筋違いな愚かさもここに極まれり。




2021年12月24日金曜日

『永瀬三吾大陸作品集/売国奴』永瀬三吾

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大陸書館(楽天ブックス POD)
2021年12月発売




★★★   春陽堂版の「売国奴」とは収録内容が異なる



✭ 永瀬三吾の現役中に春陽堂書店が刊行した『売国奴』は春陽文庫と探偵双書の二種が存在、                いずれも(おそらく)同一の紙型が使われており、                                      表題作「売国奴」の他には桂井助教授探偵日記(全五話)が併録されていた。                                   今回の大陸書館版は書名こそ同じ『売国奴』と題し、同作を巻頭に置いてはいるけれども、                     それ以外の収録作品は全く違っている。私が馴染んできた『売国奴』は探偵双書のものなので                  今回本書(大陸書館版)と春陽堂版とを比較するのに、その本を書棚から引っ張り出してきた。                      探偵双書というシリーズはおしなべて奥付に発行日が記載されておらず、                       どの巻も昭和30年代前半に出されたのだろうという曖昧な共通認識がなされている。

 

 

 

〈大陸作品集〉と副題を付け、日本が中国大陸に侵攻していた時代を描く内容のものをセレクトしており戦争の色は濃い。「売国奴」は昭和天皇を奪取擁立して紫禁城に移らせる計画だとか、                                三種の神器のひとつマガタマ(=八尺瓊勾玉)が盗み出されて取引されたりとか、                       それだけ聞けば壮大なイメージを持つかもしれないけれど、戦時中永瀬が見聞した日本軍の国策光景を戦後になってシニカルな目で振り返りつつ書いたんだろうな、という気配が漂っている。                          夢野久作「氷の涯」の上村作次郎/ニーナと、本作における里宮良介/チェリー、                                  それぞれの行末の違いに思いを巡らせるのも一興なり。

 

 

 

✭ 本書収録作はみな初出誌を底本にしているが、「売国奴」だけは昭和36年に東都書房から出された日本推理小説大系(本書は〝体系〟とタイプしているが違うぞ)第九巻『昭和後期集』のテキストを使っているようで。これがまた、春陽堂の探偵双書とは微妙にテキストに違いが あって気にかかるし、それぞれの「売国奴」オープニング部分だけでもご覧頂こうか。                               下記の本書テキストに含まれている赤文字は探偵双書には存在していない語句だ。 

 

(本書=東都書房『昭和後期集』テキスト)                                               私は終戦後、大陸から追い帰されたところの、いわゆる引揚者で、                              その頃の知人達もみんなもちろん私どうように引揚げてきた。                                だが、そうなるべき友人の中で二人だけいまだに帰ってこない、                             行方不明になったままの者がいる。 

 

(春陽堂/探偵双書テキスト)                                         私は終戦後、大陸から追い帰された、いわゆる引揚者で、                                 その頃の知人達もみんなもちろん引揚げてきた。                                   だが、そうした友人の中で二人だけいまだに帰ってこない、                                   行方不明になったままの者がいる。

 

 

 

✭ 「長城に殺される」は映画界での男女のもつれに端を発する怪談。                                      登場人物・月代の名前が間違って〝月夜〟と入力されている箇所あり。                             「発狂者」では中国の新聞社・社長だった永瀬の職業が設定に活かされている。                          「人間丸太部隊」は囚人を〝マルタ〟と呼んで人間を化学実験の材料に使った旧七三一部隊を                       モデルにした社会的な意味での問題作。旧七三一部隊といったら何はなくともベストセラーに                なった森村誠一「悪魔の飽食」シリーズが思い浮かぶ。                          あれが最初に日本共産党の『赤旗』に連載されたのが昭和50年代であるのを考えると、永瀬が                四半世紀も早くこのテーマを取り上げていたのは、彼が生粋のジャーナリストだったからか。

 

 

 

✭ 「あざらし親子」はタイトルどおり動物の話。                                                                その他には随筆二点。ひとつは「心のふるさとへ」。中国大陸には温泉が殆ど無く、                      「中国人は一生に三度しか風呂へ入らない」なんて云われていたそうだ。                            確かに日本人は風呂好きだもんな。                                                もうひとつの随筆「天津の憶い出 国旗をめぐってなど」には、このような一文がある。 

 

〝日の丸は軍閥の表徴でも侵略の合言葉でもなかったのに、敗戦ときまった途端に、                     人々はさも汚物でもあるかのように抛り捨てた。                                       昨日まであんなに感激し尊敬した物がどうしてああ一朝にして憎しみに変えられるものかと                         不思議なほどだった。掲揚は禁じられたが溝へ捨てろとは命ぜられなかったのに、                             人々は卑屈だった。〟 

 

怒りをぶつけるなら、日の丸国旗じゃなくて必死で戦争を止めようとしなかった裕仁天皇だろ?                と私は滑稽に思ったし、これと似た行為を現代でも目にする事がある。                                                 全然レベルの違うテレビの話題ではあるが、「笑っていいとも!」の末期にネット民は                   「マンネリだ!何年ダラダラやってるんだ!とっとと止めろ!」なんて好き放題言ってたし、                               「いいとも!」の終了と入れ替わるようにバラエティ番組で売れっ子になった坂上忍にしても、                               最初のうちは歯に衣着せぬ彼の毒舌にウケてたよな、あいつら。                             それが「バイキング」を数年間やってるうち、いつの間にか今度は坂上叩きに変って、                                 結局あの番組は終わる事になった。あれだけタモリや「いいとも!」をこき下ろしていた連中が                      手のひら返しで今度は「早くバイキング打ち切れ、いいとも!を復活させろ」だってさ。                      タモリにも坂上忍にもシンパシーこそ無いけれど、世に風見鶏の種は尽きまじ。                            口先だけのネット民とは一生関わり合いたくない。                                     

 

 

 

(銀) 本書には巻末に「永瀬三吾小伝」というページが附録として載っていて、                     それは論創社の編集者である黒田明の執筆によるもの。                                     自分とこの出版社で日本探偵小説に関連する新刊だけはリリースが一切STOPしているというのに                        よその版元へ寄稿するヒマはあるんだな。




2021年12月22日水曜日

公開講演会「『新青年』研究後悔記」

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立教大学イベント映像
2021年12月公開



★★    またも立教大学から妙な珍説が・・・



◓ 『新青年』研究会主要メンバーで、今年の前半に神奈川近代文学館にて開催された企画展「永遠に『新青年』なるもの」に尽力した成蹊大学文学部の浜田雄介教授を迎えて講演を収録、Youtubeにて配信されたその映像を観る。立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターの現センター長/石川巧が聞き手、センター助教/丹羽みさとが司会を務める。公開期間は20222月いっぱいの予定。

 

 

 

第一部のテーマは『新青年』研究会の軌跡(約46分)。1970年代の探偵小説リバイバルに始まって、『新青年』研究会発足に至るまでの丁寧な状況説明を冒頭に据え、浜田の個人的な想い出も交えながら話は進められる。そうそう最初の頃は『「新青年」研究』という月報みたいな薄い冊子がプレ機関誌だったんだよねえ。三十五年も前、浜田に「新青年」研究会の存続を申し付けた川崎賢子は改めてエライ。更にいうなら遥か昔、「新青年」研究会のような活動の元祖ともいうべき大衆文学の研究を普及させた尾崎秀樹は(この講演で触れられている訳ではないが)もっと偉かった。

 

 

 

第二部のテーマは神奈川近代文学館企画展「永遠に『新青年』なるもの」の裏話(約58分)。世田谷文学館企画展「横溝正史と『新青年』の作家たち」を皮切りに、それから現在まで各地で開催されてきた探偵小説企画展の主なるものをひとつひとつ振り返りながら、今年の「永遠に『新青年』なるもの」展の話題へと繋げてゆく。その「永遠に『新青年』なるもの」展の実際に展示された方向性に落ち着くまでの途中で、勘案されてはいたけれど結局ボツになったテーマもチラリと披露。

 

 

 

◓ 浜田がほぼ一人で話し、第一部/第二部の終わりのほう十数分で聞き手が加わって質疑応答といった構成。話し慣れない人が長時間ずっと喋り続けるのは結構大変だし、浜田教授さぞお疲れだったろう。その聞き手の石川巧が第一部の終わりで「自分(石川)は森下雨村~江戸川乱歩往復書簡を読んだが、双方の間に親密な空気が全く感じられない。江戸川乱歩が『新青年』から離れていったのは、昭和四年の「悪夢」(芋虫)を書いた時、編集部に大量に伏字にされたり、タイトルを変えられたからではないのか?」という質問を発射。この珍説に対し、浜田は若干呆気にとられつつも相手を傷つけないよう、やんわりと否定する。なんだかなあ。石川巧がこんな拍子抜けする持論を言い出すなんて思ってもいなかったぜよ。

 

 

 

雨村~乱歩書簡に何が書いてあるかはともかく、「悪夢」(芋虫)が『新青年』に掲載された時の編集長は延原謙であって雨村ではないし、浜田も講演の中で諭している如く博文館の編集局長だった雨村が『新青年』に収録する作品の表現のヤバさをいちいち気にして延原編集長へ伏字にするよう指示したとはまず考えにくい。頭のカタい延原謙の保守的な考えによるものだろ。それに乱歩が『新青年』に書かなくなってゆくと言ったって、それは乱歩の原稿料高騰だったり作家としての乱歩自身の変化であって、もし石川の云うように「悪夢」(芋虫)の伏字や改題で乱歩が『新青年』に不信感を持ったというのなら、(連作や随筆しかり)その後も博文館の雑誌に発表された「押絵と旅する男」「猟奇の果」「目羅博士」「盲獣」はどう説明するのか?こんな珍説を開陳するなら、それなりに納得できるエビデンスを見つけてきた上でやらないと。

 

 

 

◓ 唯でさえ今年は『乱歩とモダン東京』『江戸川乱歩大事典』といった乱歩研究のお膝元・立教大学の人間が中心となって制作された本がなんともズサンな内容で、こちとら辟易させられたというのにさあ。藤井淑禎が去ったあとの現センター長がまたこんな不勉強な持論を口にするようでは江戸川乱歩センターは今後も先が思いやられる。何故いっそのこと(先に名前を挙げた)川崎賢子をセンター長にしなかったのだろう?おまけに浜田雄介までもが、この講演の中で藤井淑禎をヨイショしてたりして、ホントに日本人は明らかに違うものに対してはっきり「違う」と言えない国民だ。

 

 

 

それと第一部では企画展「永遠に『新青年』なるもの」のタイアップで浜田や『新青年』研究会が編纂したちくま文庫『「新青年」名作コレクション』の話もしていて、しょうもないAmazonレビューでの極端な賛否についてまで言及。『新青年』研究会には過剰に世評を気になさる方がおられ浜田もそのひとりみたいなんだけど、Amazonのレビューなんて公衆トイレの落書き以下のものなんじゃないんですかね、浜田教授?そういうのは銀髪伯爵とかいう輩の噂を耳にされて既に学習済みだと思ってたんですが。冗談はともかく、ユーザーの意見を重んじる態度に敬意は表しますが今回の講演でこの部分は100%不要だと思いましたヨ。

 

 

 

(銀) 講演の中で浜田は「もう一線から身を引いて好きな事に専念したい」というような意味の発言もしていた。仰せのとおり、新しい人若い人が後を継いでゆくのが理想的ではある。でもねえ、以前の記事でも書いたけど『新青年』研究会の最近のニューフェイスって大学に所属する人ばかりでしょ? そしてそれが原因なのかわからんけど、大学では論文を発表しなければならないせいか、下手すると斬新な発見を一発かまして評価を求めるあまり、噴飯物な説が多い気がして。その極端な例こそが前・江戸川乱歩センター長だった藤井淑禎の「旧乱歩邸土蔵名称=幻影城」であり、上記の石川巧な訳で。このままだと立教の乱歩研究は二松学舎大学の横溝正史研究の後塵を拝してしまうぞ。

 

 

落語や歌舞伎の世界で芸を極めた人が語っていた言葉にこういうのがある。「新しいことにチャレンジするには、基礎がしっかり出来ていないとダメだ。」まさにこの言葉のとおりだと思う。他のジャンルの事は知るよしもないけれど、少なくとも私のBlogで取り上げているような小説の研究に関わる分野は若いとか高齢とか新しいとか古株に関わらず、残念ながら信用に足る人材は涸れ果てようとしている。


 


2021年12月19日日曜日

『資料・下山事件』下山事件研究会/編

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みすず書房
1969年8月発売




★★★★   下山事件のヴィジュアル・アーカイブ本も欲しい




♣ Blog 令和3年(2021年)719日にて、昭和247月に日本中を震撼せしめた未解決事件「国鉄総裁下山定則氏の失踪と轢死の謎」を知るにあたり読んでおくべき書籍はどれなのか言及したが、もう少し補足しておきたいなと思ったので今回はこの『資料・下山事件』を用いてフォローしていきたい。書名のとおり、本書は下山事件に関する重要なデータや当時の関係者証言のアーカイヴのみに絞った内容で、個人あるいは複数人数の立場から成る「私はこう考える」的な見方や推理は提示されていない。


 

下山事件研究会(以下、【研究会】と略)というのは、下山事件の時効が成立した昭和39年の夏に各界の識者が自主的に結成したグループで、その代表は(事件発生当時)東大の総長であった南原繁。【研究会】のメンバーは10人ほどいるが、南原以外では『日本の黒い霧』の作者でありGHQの謀略を主張した松本清張、そして【研究会】事務局を担当していたが後に退会、『下山事件全研究』を上梓して〈自殺説〉派の筆頭となっていった佐藤一、とりあえずこの二名さえ押さえておけばいいと思う。(本書の中で事務局=佐藤一であるクレジットは無い) 

                        


『資料・下山事件』の編集方針は〈自殺説〉〈他殺説〉そのどちらにも偏重しないよう、イーブンに推理や判断に必要なデータのみ提供するのを第一義としているものの、松本清張の存在しかり、また下山総裁の屍体を司法解剖した古畑種基教授と桑島直樹講師は当時南原がトップとして君臨していた東大の所属だった人達ゆえ、ついつい読み手が〈他殺説〉の方へ傾きがちな事情を孕んでいるのは注意しておいたほうがいいかもしれない。



あ、そうだ。前回の記事でも触れたけど清張が『日本の黒い霧』の中でこだわっていた日暮里駅で発見されたという「5.19下山缶」の落書きについては、本書では一切ノータッチ。つまり誰も事件の証拠として重要視してはいなかったみたい。ジャンジャン。

 

 

 

♣ 注目すべきは【研究会】メンバーによる事件に関わった人々からの聴き取り。
証言協力者は古畑種基/桑島直樹/平正一(当時の毎日新聞記者、『生体れき断』著者)/
関口由三(当時の特別捜査本部捜査主任)/
矢田喜美雄(当時の朝日新聞記者、『謀殺・下山事件』著者)/
塚元久雄(当時の東大裁判化学教室助教授)/加賀山之雄(当時の国鉄副総裁)/
下山常夫(下山総裁実弟)/宮下勝義(当時、米軍情報部員として活動)。

 

 

彼らの証言のうち他の文献へ部分的に引用されているものもあるけれど、それぞれの口から語られる肉声はリアルさを伴っており面白い。本書には古畑/桑島両氏の見解に噛付いた〈自殺説〉派の意見も勿論載っていて、新日本医師協会と中舘久平(慶応大学教授)の言がそれだったりするのだが、この人達の言い方がやけに感情的なのはあまり感心しない。

世間では〈他殺説〉を信じる人のほうが圧倒的に多かったから熱くなる気持ちは解らんでもないけれど、人の名前をイニシャル表記でごまかしつつ食って掛かるような物言いをしたんじゃ、(喩えが悪くて恐縮だが)自民党のする事なら箸が転んでも難癖付けて批判さえしておけばいいとでも思い込んでいる野党みたいで、これでは他者を納得させにくいし自ら損している。同じ〈自殺説〉派でも平正一のように、他人の揚げ足取りではなく淡々と見解を述べるほうが読み手は受け入れやすい。中舘教授は残念ながら遺体や遺留品を直接見ていないのも弱みかな。

 

 

下山家唯一のスポークスマンだった下山常夫が「自殺だとは、とても考えられない」とハッキリ言い切っているのを読めるのは本書ならでは。それに比べて、宮下勝義は戦前特務部にいて戦争犯罪人扱いだったところを米軍側から力を貸してほしいと云われて情報部員になったというが、貝谷なる人物が事件当日、総裁と三越で会う約束をしていたなんて語っているけど、ホントか?この種の話はどうも疑わしくて。

 

 

 

♣ 読みどころは他にも。いわゆる〔白書〕と呼ばれる「下山国鉄総裁事件捜査報告」。
例えば三越付近及び五反野付近といった重要ポイントにおける警察サイドの聞き込み情報が時間軸に沿って細かく一覧表にされているんだけど、私は総裁が姿を消した日本橋三越付近よりも、屍体の発見された五反野付近での目撃情報のほうに断然重きを置いている。

 

 

推理の手掛かりのひとつが、総裁の使っていたメガネ
他殺であれ自殺であれ、実際メガネは轢断現場から発見されていない。
(野良犬がどこか遠くへメガネを咥えていってしまった? そんなもん、咥えていくか?)

下山氏はかなり視力が悪くて、メガネをしていないと、どうしようもない程だったという。
本書に収録されている下田光造の論文のとおり、仮に総裁が初老期欝憂症だったとしよう。
第三者の関与なんて無く、完全な〝自己彷徨〟の果てに常磐線のレールの上へ自分の首と両足首を切断してくれとでもいわんばかりに、(レールに対し)キレイな垂直状態となって横たわるには、死亡推定時刻だと既に辺りはもう真っ暗になっている筈だし、もし総裁が死ぬ前にメガネをどこかで落っことしていたのなら、どうやって土手の上の線路まで首尾よく辿り着いたというのだろう?〈自殺説〉を信じようとすれば結局いつもそういう点が引っかかってしまう訳よ。                                      

                        

 

  

♣ 轢断されるよりも前の時間帯、つまり7月5日の夕刻以降、道端や常磐線路上や畑の中を下山総裁らしき人物が一人でウロウロしている様子が何人もの地元の人に目撃されている。裕福な紳士が住んだり通りかかることもない、寂しい場末の土地だった現場付近において、背広を着てガタイのいい上品な男性を見かけたら相当目立つので見間違えようもないし、警察がなにかの意図をもって地元住民にありもしない嘘を証言させるといった、探偵小説でもありえんようなスペクタクルな暗躍でもしていない限り、五反野付近で総裁本人もしくはそれらしき替玉の男がうろついていたのは動かし難い事実。



全くの誤認も含め、様々な目撃談が時系列に表記してあるけれど、
人間というものは服や靴の色なんて、それほど正確には覚えていられないと私は思う。
ただ、彼らが目撃したのが上品そうな恰幅のいい中年男性であったこと、
(そしてココが一番重要なのだが)その人物がメガネをかけていたかどうか、
この二点に限っては見間違えたり誤って記憶する可能性はかなり少ないんじゃなかろうか。

 

 

五反野付近での目撃談の殆どは総裁らしき人物が末広旅館を立ち去った後のもので、7月5日という夏の夜7時前後の現場周辺はまだ明るかったのか、あるいは暗くなっていたのか、それも微妙。「遠くから見かけたので顔は正面からちゃんと見えなかった」とか、「よく見てなくて覚えてもいない」っていうのならOKだけど、「その人はメガネをかけていなかった」なんて証言が混在しているのが困るンだよな。初老期欝憂症でモーローとして自殺する直前の総裁はメガネをかけたりはずしたりしていたのか(替玉ならそんな小細工をする必要は無いのだ)、 疑問は深まるばかり。

メガネの話からつい長くなってしまったけれど、〔白書〕を読んでいて事件現場近くをうろついていた男が本人だったのか替玉だったのか言及されている箇所は特に熟読してしまうのだった。

 

 

 

♣ その他、「新聞報道からみた下山事件」では事件発生から一ヶ月にわたる『朝日』『毎日』『読売』の報道内容を集成。昭和24年「衆議院法務委員会議録」では参考人として召喚された中舘/古畑、そして小宮喬介名古屋大学教授(〈自殺説〉派)/田中栄一警視総監/坂本智元刑事部長の肉声が読めるが、発言の土俵が公(おおやけ)過ぎるのもあってか、国会答弁そのまんまな感じがして、読んでてもどかしさも感じた。

 

 

本書制作時に判明していた下山事件参考文献の一覧もあったり、総合的には満足。
本書は活字中心の資料アーカイヴだが、できることなら当時の写真をガッツリ網羅した下山事件のヴィジュアル・アーカイヴ本が欲しいな、と思う。これだけの大事件だし、あの頃撮影された写真はかなりの数になると想像されるものの、いろいろ権利問題がうるさくなって今ではそんなものを刊行するのはムリなんだろうか。資料的意義があってマネーにもなると思うんだが。


 

 

 

(銀) 私個人の話をすると、五反野方面には友人知人もなく、足を運ぶ機会はまず無かった。下山事件の時代にはまだ影も形もなかった首都高を車で走りつつ小菅JCTを通り過ぎるくらい。たった一度だけど90年代の終わり頃、受付の派遣で私の仕事場へ来ていた女性のアパートに一晩泊めてもらう機会があり、その人の住まいがあのあたりだった。


 

彼女は明るい性格で実家は藤沢のほうだと云う。特に勤務先が東京の東側でもないのに、なんであの辺に住んだのか少し不思議だったけれど、その理由を問うた記憶もない。ただあのあたりは下町とはいえ、なんとなく物寂しい雰囲気がしたのは確かに覚えている。昔と今とでは東京も大きく変貌したけれど、小菅刑務所は今でも東京拘置所として同じ場所に立地しているし、若いOLが一人で住むには適していないのでは、とも思った。でもそれは自分があの辺のことをよく知らないからそんな印象を受けたのかもしれない。彼女は元気にしているかな?


 


2021年12月14日火曜日

『白百合の君』西條八十

NEW !

東光出版社
1949年5月発売



★★★★   少女探偵小説と呼べるかどうか




若い世代にはピンとこないかもしれないけれども、二十年前だとジュブナイル探偵小説への関心はよほど稀少な古書でもない限り、そこまで鵜の目鷹の目でもなかったし、日本人作家によるジュブナイル探偵小説の古書価が乱暴に高騰してしまった今と違って、平成の前半あたりまでは、実に長閑な扱いだった記憶がある。

 

 

西條八十。流行歌から童謡・軍歌まで、作詞家として名高き才人。彼には少女を対象とした児童小説が多数存在する。90年代の終わりぐらいだったろうか、ネット上で日本のジュブナイル探偵小説に注目し、知られざる作品を掘り起こす書誌的活動が見られるようになった。それがきっかけで、西條八十のジュブナイル探偵小説も徐々に一部の人々の蒐集(いや転売か)対象となってゆき、『人食いバラ』など復刊にまで漕ぎ付けられた作品も出てきた。

 

 

大人向け子供向け問わず、探偵作家とは称されていない作家の書いた作品の中にも、ミステリ色を内包し探偵小説として読めるものがあったりする。しかし、そういったものは得てして探偵役が出てこなかったり、ややもすると警察の捜査さえ描かれないストーリーだったりで、探偵趣味ってどういう事かをよく理解している人ならともかくも、そうでない読者は「これって〈探偵小説〉とも書いてないし、どこにミステリ色があるの?」と疑問を持ったりするだろう。どのような内容であれば探偵小説と見做してもいいのか、その境界線は人の感性にもよるし曖昧でわかりにくいから、私の拙い文章をもって説明したところで尚更心許無い。


 

 

書影をご覧頂きたいが、本日のネタである西條八十『白百合の君』は〝長篇純情少女小説〟と題され、カバー絵の表紙しかりパッと見た目には探偵小説の雰囲気など一切感じられない。だが、目次を見ると〝脱獄囚〟〝怪盗〟〝隠れ家〟といった、それらしき単語が混じっている。
では大雑把に本作のあらすじを紹介していこう。

 

 

♡ 美少女・瀧百合子は伯母の政子とたった二人、日光でつつましく暮している。その町には遠浦公威伯爵の別荘があり、一人息子・綾彦は遠浦家の跡継ぎなのだが、戦争に負けて世の中が変わった今でも彼らは在りし日の栄光を引き摺っており、執事の足立が忠告してもなかなか浪費を止められない。

 

 

♡ 百合子のもとに東京の弁護士・古橋哲郎から突然手紙が来て、アメリカに渡ったまま向こうで亡くなった百合子の父が残した八億にもなる巨額の遺産が相続されるという。田舎の学校教師でしかなかった百合子は戸惑いながらも一躍裕福な身となって東京に住まいを構える事に。
だが伯母の政子は喜ぶどころかずっと暗い顔をしていた。

 

 

♡ 遠浦綾彦青年は日光で怪しい賊に襲われた折、危ないところを百合子に救ってもらい、その日以来彼女の事をずっと忘れられずにいたのだが、運命の再会を果たし、身分の差を乗り越えて百合子にプロポーズする。左前になっている遠浦家の財政を百合子の莫大な財産が救ってくれる裏事情もあって、遠浦の人々もこの結婚を歓迎していたのだが、運命はそう簡単に百合子に微笑んではくれなかった・・・。

 

 

これだけの概況だと少女小説のおセンチな特徴だけで肝心な部分を伝えきれてはいないが、百合子の運命を狂わせる悪の存在の伏線は序盤から張ってあり、要するに物語は悪の存在によって引き起こされる〝アイデンティティーの崩壊〟を描いているのであります。少女小説には少女小説の定型があるし、日本人女性が好むその手のメロドラマ感を私は持て余したりもするのだけど、終章での意外なる秘密が発覚する演出とか、広く受け止められる心さえあれば、本作も〝探偵趣味を持つ少女小説〟として見做す事ができるんじゃないでしょうか?

少なくとも、盛林堂書房がこの数年同人出版で再発してきた「あらしの白鳩」シリーズのドタバタ・アクション(あれこそ探偵小説扱いしていいのかね?)よりは、ずっとまともだし。
(★の数は四つだけど、本作に対する評価は実質★3.5)

 

 

 

(銀) 私が情弱なだけかもしらんけどさ、西條八十のジュブナイル探偵小説って一時期、他の人(弟子?)が代作してるって噂が流れてなかったっけ。この件に関して、いつの間にか誰も問わなくなったよね。結局真実は?

 

 

00年代に国書刊行会版『西條八十全集』を制作した人達は八十のジュブナイル探偵小説のことを無視したようだけど、そこから発生したデマだったのかな?あるいは今もその真相は解明されず放置されてるだけ?自分で読んだ感じでは、彼の他のジュブナイル探偵小説よりも、詩人・西條八十らしい言葉遣いが『白百合の君』の文章には見られた気がするし、ハッキリした根拠は無いが、この作に限っていえば第三者が書いているとは考えにくかった。




2021年12月12日日曜日

『能面殺人事件』高木彬光

NEW !

春陽文庫
1952年9月発売




★★★★★   密室トリック以外の部分が良かったりする




この作品に使われている或る殺人方法と同様の手口を使って、人を殺めた女が逮捕されたというニュースが数日前からテレビで流れている。「能面殺人事件」の内容をよく御存知の方なら余計な説明をせずとも、「ああ、あの事件ね」とすぐに気付いてくれるだろう。


本作を発表した当時、高木彬光は「この手口が捜査側にバレない筈がない」とさんざん突っ込まれたらしく、初刊にあたる岩谷選書版『能面殺人事件』のあとがきで自ら反論、みたいな後日談もある。現実社会の中で実行されたこの殺人がどういうものなのか、種明かしなんて勿論しないけれど、タイムリーだなと思ったので今回は若き高木彬光がハングリーな熱い気持ちでガツガツしながら書き上げた第二長篇の話をしたい。

 

 

 

♠ 「もしも彼が生きていて研究の為の施設/資金/資材が十全に與えられていたら、日本は米国より先に原子爆弾を開発できていたかもしれない」と作者が紹介するほどの、放射能化学分野における権威だった千鶴井壮一郎博士は、実験中に器具が爆発して負傷し、心臓麻痺によって落命。そのショックによるものか博士の妻・香代子は以来精神病院に入院したっきり。そして十年の年月のうちに、日本人は未曾有の戦争によって何もかも失うことになった。

 

                   *

 

 昭和21年夏、神奈川県三浦半島H町。名門・千鶴井の本家には、東京で焼け出された壮一郎の弟・千鶴井泰次郎たちが移り住んでいる。彼を筆頭に、その長男・麟太郎/次男・洋二郎と、いずれも蝮のような者ばかり。娘の佐和子だけが唯一常識を持ち合わせた存在で、


壮一郎と泰次郎の母・園枝(中風で体が不自由)
壮一郎の娘・緋紗子
(女学生の頃より美人でピアノ演奏にも優れていたのに戦時中発狂、そのまま現在に至る)
壮一郎の息子・賢吉(小学六年生/心臓弁膜症を病み、先は長くない)


この三人は泰次郎一家に面倒を見てもらっている状態。そして、本作メインキャストのひとりである柳光一は以前緋紗子の家庭教師を受け持っていた縁もあり、復員後は千鶴井家に住まわせてもらっている。

 

 

 

 柳光一は偶然にも父の親友・石狩弘之(現在、神奈川地方次席検事)と再会。彼らは千鶴井邸の窓に、狂女緋紗子の奏でるピアノの旋律をBGMにして鬼女の如く邪気を放つ、般若の面を被った何者かの姿を目撃する。それがあたかも呪いの序曲だったかのごとく、泰次郎を皮切りに、千鶴井家の人間が一人ずつ始末されてゆく連続殺人の幕が上がった。柳光一は旧友の高木彬光(作者本人!)に助力を求める。

 

 

 

海外古典ミステリのネタを無防備に割っているとかトリックが二番煎じっぽいだとか、世間ではなんだかんだ批判も多いと聞く。私は別に評論家じゃないし、そこまで悪い印象はないけどな。自分的にはむしろ、処女作「刺青殺人事件」のほうが若干拒否反応があるかも(だって〝刺青〟って、ちっとも美しくないじゃん、タトゥーを入れる人の気持がさっぱりわからん)。


探偵作家として世に出てまだ間もないし、文章に向上すべき点は確かにあるものの、感情をむき出しにした筆の若さには、幾つかの欠点をも蹴散らしてしまう怒濤の勢いがある。もしかしたら彬光作品の中で、なにげに一番好きかも。法で裁けない罪に対し、取らざるをえなかった行動、人間の業に揺れるクライマックス。理化学トリック(?)まで盛り込んであるのだから、つまらなくなりようがない。

 

 

 

〝感情むき出し〟と書いたけれど、不思議なもので今回紹介している昭和27年の春陽文庫版(初刊から数えて三番目の単行本)しかり、当時の旧仮名のテキストで本作を読み返していると、戦争を引き起こした日本国家に対する、言い知れぬ彬光の怒りが行間から滲み出てくる気がして、探偵作家なだけではない一人の日本人・高木彬光の深層心理さえも改めて見えてくる。


本格ものがいろいろ手厳しく粗探しされるのは昔も今も一緒。途中ダレることなく終盤で犯人の正体が暴露されたと思いきや、そこからまた急転回、登場人物たちはそれぞれの宿命に抗う事ができない。なぜ名探偵神津恭介が起用されなかったのか?なぜ物語の途中で高木彬光は退場してしまうのか?そこにこそ本作の醍醐味がある。  




(銀) まごうことなき本格探偵小説なんだけど、密室状態にするトリックの解明よりも、千鶴井香代子が呟いた謎の言葉「八十二の中の八十八」の意味が明らかになる場面のほうが、私には面白かった。

  

 

「能面殺人事件」の最も直近の版といったら、おそらく2006年に出た光文社文庫版「高木彬光コレクション」になると思うのだが、今回の記事に使用している1952年刊春陽文庫版と比べて異同が見られる。


光文社文庫版は冒頭の章題が「プロローグ」となっていて〝昭和二十一年、終戦の翌年の夏、〟で始まる。ところが春陽文庫の最も古い版である本書では「プロローグ」なんて章はなく、普通に「序章 月明の夜の怪異」としてスタートしている。本文も〝終戦の翌年の夏、〟から始まって〝昭和二十一年、〟の部分は存在しない。更に、上記にて述べたとおり冒頭で柳が石狩検事と再会して近況を語る会話の中で、春陽文庫版では賢吉少年が小学校の六年生だとハッキリ書いてあるのに、光文社文庫版ではその設定表記が無かったりする。



また、春陽文庫版の最後の章は「終章 千鶴井家の崩壊」とされているのに、光文社文庫版だと「高木彬光君、僕は君に柳君の手記とともに、僕の告白を託する。」以降の数ページ分が「密封されていた石狩弘之の手紙」という新たな章扱いになっている。

 


その上、光文社文庫版の各章題の末尾を見ると、柳光一が書いた手記にあたるそれぞれの章には〈柳光一の手記〉、石狩検事が書いた手記の章には〈石狩弘之の手記〉と記されている。ただでさえ忙しいこの年末に、面倒臭いテキスト異同チェックなんかしたくないからここまでで止めておくが、ただ昭和27年時点での春陽文庫は、見苦しく漢字を開くといった意味不明な悪しきテキストいじりはまだやり始めていないように思えた。


 


2021年12月8日水曜日

平凡社版『江戸川亂歩全集』内容見本のこと

NEW !

      
〈A〉                   〈B〉




「昔の出版人は同一の本なのにどうして装幀をコロコロ変えたりしたのだろう?」という素朴な疑問を先日の記事にて発した。そのクエスチョンは本以外のアイテムにもあてはまったりする。


      


江戸川乱歩初の全集は昭和65月より平凡社によって配本が開始された。ふつう全集というものが刊行される際には、収録を予定している内容を世間にお知らせするため、〈内容見本〉が版元より配布される。今回の題材である平凡社版『江戸川亂歩全集』にも当然〈内容見本〉は存在していて乱歩の著書でも触れられているように、そこに寄稿された「江戸川亂歩氏の探偵小説は阿片の妖氣である。一度これを呼吸したが最後、生涯治癒する事なき亂歩患者になってしまふ。」てな調子で始まる横溝正史入魂の文章は、つとに有名。





『貼雑年譜』にもスクラップされており、一般的に知られている平凡社版『江戸川亂歩全集』の〈内容見本〉は、今ご覧の記事上部にUPしている左側の画像(黒地のもの)がそれだ。表紙絵は岩田専太郎の仕事であることが『貼雑年譜』内に乱歩自らの手で書き込まれている。この〈内容見本〉ノーマル・ヴァージョン(?)のほうを便宜上〈A〉と呼ばせてもらう。



それとは異なる装幀を施された〈内容見本〉が平凡社版『江戸川亂歩全集』には存在する。同じく岩田専太郎による表紙絵なのだが、平凡社版『亂歩全集』に附録として封入された小冊子『探偵趣味』の第一號をまんま流用したデザインで、江戸川亂歩全集附録『探偵趣味』別冊と題しながら中身は〈内容見本〉なのだから実にまぎらわしい。やはり上部にUPした右側の画像、こちらの異装〈内容見本〉は〈B〉と呼ぼう。
参考までに〈B〉に流用された『探偵趣味』第一號の表紙はこれ ☟) 



          『探偵趣味』第一號表紙も岩田専太郎画伯の仕事



所詮は〈内容見本〉だし、〈A〉〈B〉とで中身が大きく異なる訳ではないけれど、〈B〉に掲載されている内容を記しておく。


 

 懸賞犯人探し

『探偵趣味』に毎回連載される長篇「地獄風景」犯人当てについての応募要項。
『探偵趣味』に載っていた文章の流用だが、応募宛先が〈B〉では記されていない。




 上記で述べた横溝正史による全集の総覧並びに各巻表題作についての売り文句、加えて各巻収録予定作品紹介。〈A〉とは文章の組み方が違っているので、
(☟ )に見られる〈B〉の中身と〈A〉をスクラップした『貼雑年譜』とを見比べられたし。



 










 「地獄風景」連載第一回のサンプル/一頁相当

〝「サア、用意は出来て?飛込むわよ。」〟から〝岸には見物の男女が、
これも裸體の肩を組み、手を握り合って、笑ひ興じながらこの有様を眺めてゐる。〟
までの部分が載っている。これも上の画像を見よ。


 

 世界探偵小説傑作選集 盲點 (佛)ルヴエル原作

やはり『探偵趣味』第一号からそのまんま転載。四頁相当。




 全集附録『探偵趣味』の紹介

 第一回配本『魔術師』(第八巻)の紹介



●  全集の編輯について  亂歩/一頁相当

全集刊行について乱歩からのコメント。これまた『探偵趣味』第一号から転載。




●  江戸川亂歩全集を推奨す 刑事犯罪學の立場から  前警視總監 丸山鶴吉
●  掌篇探偵小説 + 読者欄投稿募集要項






(銀) 同じ岩田専太郎の描く黄金仮面(?)であっても、その表情をよくよく見ると、ノーマル・ヴァージョン〈内容見本〉の〈A〉と『探偵趣味』第一號表紙及び〈B〉に描かれたものとではそれぞれ微妙に異なっていて、別々の絵である事がわかる。『探偵趣味』編集担当は井上勝喜だったから、〈内容見本〉の制作も彼が手掛けた可能性は高い。




本にしろ内容見本にしろ、同じものを平気で異装にしてしまう出版社の姿勢は「なんだがアバウトで一貫性がないなァ」とも受け取れるけれども、その反面「昔の社会はのんびりしてて豊かだったんだな」と羨ましくも感じる。





2021年12月2日木曜日

『科学小説』創刊号

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おめがクラブ
1957年11月発売




★★★    二号までしか発行されなかった伝説のSF同人誌



(今回取り上げる『科学小説』の裏表紙には〝おめがくらぶ〟と表記してあるのだが、                    世間一般では〝おめがクラブ〟と書く場合が殆どなので、後者に準拠する。)

渡辺啓助・今日泊亜蘭・矢野徹が主要メンバーとなり、                              日本でもかなり早い時期に結成されたSF同人グループが〝おめがクラブ〟。                  彼らが発行した同人誌がこの『科学小説』で、創刊号は250部発行。                            第二号まで出したものの、1960年代に入ると〝おめがクラブ〟は解散してしまう。

 

 

渡辺啓助邸は〝おめがクラブ〟の梁山泊状態だったらしく、天瀬裕康/渡辺玲子による啓助評伝『カラスなぜ啼く、なぜ集う』を読んでみると、出入りしていたのは今日泊亜蘭・矢野徹の他に                     渡辺剣次/阿部主計/大坪砂男/都筑道夫/宇野利泰/日影丈吉/夢野海二といった探偵小説界               の面々、SFサイドでは星新一/柴野拓美らがいたそうな。                          『科学小説』創刊号のクレジットに目を向ければ、事務所には調布嶺町の渡辺邸住所が記され、                           カットを担当しているのは啓助の娘・渡辺東。                                          編集委員には主要メンバー三人 夢座海二/丘美丈二郎/潮寒二の名がある。

 

 

本誌について「これは新型式の展示誌である」と提起しているのが面白い。                               要するに、日本国内でもっとSFを普及させるため「ここに掲載した小説(or アイディア)を                 もしよかったら一般商業雑誌・演劇・映画・ラジオ・テレビ等で是非購入しませんか?」                 と言っているのだ。実際、いくつかは狙いどおり商業媒体から引き合いがあったのだから、                    〝おめがクラブ〟自体は短命でも、それなりの成果はあったと言えよう。

 

 

創刊号に掲載されている作品はこんな感じ。

「ミイラは逃走する」渡辺啓助

「誘導弾X5号と二匹の小猿」矢野徹

「完全な侵略」今日泊亜蘭

「〝ホモ・ハイメノプテラ〟」潮寒二

「電波公聴器」丘美丈二郎

「人工子宮(原名「母」)アルフレッド・コッペル/永谷近夫(訳)

「科学随筆 万が一の脅迫」浅見哲夫

「惑星一一四号」夢座海二

 

 

ついでに参考まで、創刊号で予告されている第二号の内容はこちら。

― スリラー特集 ―

「自殺用ベッドは月賦で」渡辺啓助

「空中屍体置場」夢座海二

「テレビは七円五十銭」矢野徹

「怪 物」今日泊亜蘭

「廻転木馬の眼」潮寒二

「北海の涯で」埴輪史郎

(その他、丘美丈二郎・川野京輔・柴野拓美の諸作品を予定)

 

 

 

(銀) 掲載されているSF作品がそれほど私の好みでもなく、高評価にはしなかったけれど               戦後になって日本でも探偵小説という大木の幹から新たなジャンル〈SF〉の枝がすくすくと             育ちつつある状況を確認する事ができる貴重なドキュメントがここにはある。 



〝おめがクラブ〟については『「新青年」趣味ⅩⅦ  特集  大下宇陀児』にて浜田雄介が          「渡辺啓助追跡(3)」の中で、渡辺家に遺されていた〝おめがクラブ〟の日誌ノート                 「Tagebuch」の中身を紹介しているので、これも要注意。                           またネット上では〝おめがクラブ〟の Wikipedia も存在しているようだが、                     書き手は峯島正行『評伝・SFの先駆者 今日泊亜蘭』を参考にしているみたい。