2021年9月29日水曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

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九州日報
1930年8月4日~8月14日掲載



⑰ 「剥がれた假面」(1)~(10/最終回)




【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。

 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「剥がれた假面」(1)~(10

 

狂える千家篤麿は強い酒を呷りつつ、蛭田紫影検事によって木澤由良子の魔手から救われた筈の春日花子を捕らえ、自分の言いなりになるよう脅迫していた。どうしても「Yes」と言わない花子に痺れを切らした篤麿は、奇妙な寝台の上に身動きできぬよう縛り付けられている成瀬珊瑚子爵の息の根を止めるべく、スイッチを押す。

天井から徐々に徐々に下りてくる巨大な樫の天蓋・・・その天蓋が寝台をすっかり覆い隠してしまう時、横たわっている者には窒息という死が訪れるのだ。この凄惨な状況に耐えかねて、花子はとうとう篤麿に屈服してしまう。


                        

 

以下は剥がれた假面」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A   黄昏の色が深く濃く  (春)  4814行目

   黄昏の色が、深く濃ゆく(九)

 

 

B     まったく度外れて不調和な立派なもの(春)  48110行目

     全く度外れて不調和に立派なもの  (九)

 

 

C   横になっているなどという暢気な光景ではない。  (春)  4821行目

       横になつてゐるなどといふ暢氣な光景ではないのだ。(九)

 

 

D     まるで狂ったような、物凄い輝きがめらめらと (春)  4828行目

         まるで氣違ひのやうな、物凄い輝きがヂロヂロと(九)

 

 

E   千家篤麿は自棄にぐいと酒を呷った。(春)  48214行目

   千家篤麿はやけにぐいと酒を呷つた。(九)

   〝やけに〟→〝自棄に〟と受け取っていいのか微妙。


                      

  

F       わたくしはもう死にそうです。(春)  48412行目

   あたしはもう死にさうだ。  (九)

   上品で育ちの良い花子は〝死にさうだ〟なんて言わなそうだけど、

  このまま採用するほうがいいのか、書き換えるほうがいいのか微妙。

 

 

G   花子の絶望が合図ででもあったかのように     (春)  48515行目

       花子の絶望の聲がそれの合圖ででもあつたかのやうに(九)

     

 

H     篤麿はさも残忍な微笑を洩らすのであった。    (春)  4865行目

       篤麿はギロリとさも殘忍な微笑を漏らすのであつた。(九)

 

 

I    片っ端から撃ち殺してやろうというように身構えた。(春)  4882行目

         片つ端から撃殺してやらうと言ふやうに身構へした。(九)

 

 

J    そう言うと、彼はピストルを左に持ち替え  (春)  48917行目

         さう言うと彼は、ピストルを左の手に持ち換え(九)


                      

   

K   花子はもはや、辺りを構う心の余裕さえなかった。(春)  4917行目

   花子は最早あたりを構ふ心の餘裕もなかつた。  (九)

   

 

L       勇気ある方はついてきてくださいよ(春)  49213行目

   勇氣のある方はついて来て下さいよ(九)

 

 

M   二、三の警官がその後ろから入っていった(中略)

     それに、いつ千家篤麿が逃げ帰ってくるかもしれないというので(春) 4936行目

       二三の刑事がその後から入つて行つた(中略)

     それに何時千家篤麿が逃げて歸つて来るかも知れぬといふので (九)

 

 

N   定まらぬ足取りでこちらへ近づいてくる    (春)  49317行目

     定まらぬ足どりで、此處(ここ)へ近づいて来る(九)

 

 

O   近づきつつあることを示していた。(春)  4945行目

         近づきつゝあることを示してゐる。(九)


                       

 

P    ひと塊の人びとの前を、何も気づかぬように (春)  49411行目

    一かたまりの人々の前をも、何も氣づかぬげに(九)    

 

 

Q     蒼白な顔にはばらばらと頭髪が乱れ(春)  49510行目

         蒼白な頭にはバラバラと頭髪が亂れ(九)

         あの横溝正史が〝頭にはバラバラと頭髪が亂れ〟などという、

         素人みたいな文章を書くものだろうか?

 

 

R   ぼくは一人ではありませんよ(春)  4961行目

     僕一人ではありませんよ  (九)

       春陽文庫が〝ぼく〟の後に〝は〟を付ける意味がわからん。

 

 

S   おれもあいつのために酷い目に遭わされて(春)  4967行目

     俺もあいつの為にはひどい目に遭はされて(九)

 

 

T   充分枝道に気をつけてきたのですが・・・(春)  49612行目

   充分枝道を氣をつけて来たのですが・・・(九)


                        

 

U       まだまだ人の知らない抜け道が(春)  4979行目

         まだまだ人の知らぬ抜道が  (九)

      

 

V   千家篤麿はもはや逃げたり隠れたりは決していたしませんわ(春)  4995行目

   千家篤麿は最早逃げたり隠れたり決して致しませんわ   (九)

      

 

W   いや、彼も口が利けない。  (春)  5012行目

    いや、彼も口がきけないのだ。(九)

    この後『九州日報』では〝意外な言葉であるためであらうか。〟の次に、

    〝それとも、浪子の言葉が眞實であるためだろうか。〟と続くのだが、

    この一行を春陽文庫は抜かしてしまっている。

 

 

X    あの人に何が言えますものか。(春)  5018行目

      あの人は何が言へますものか。(九)


  

Y    人びとはどよめきながら    (春)  5021行目

    人々はざわざわとどよめきながら(九)


                      

 

Z1   浪子はその結果いかにとばかり (春)  5051行目

     浪子はその結果を如何にとばかり(九)

 

 

Z2   やがてそれが蝗(いなご、とルビあり)のように (春)  5058行目

     やがて、それが蝗(ばつた、とルビあり)のやうに(九)

       〝バッタ〟を漢字で書くと〝飛蝗〟。

 

 

Z3    言うまでもなく成瀬子爵と春日花子  (春)  5067行目

    言ふ迄もなくそれは成瀬子爵と春日花子(九)

 

 

Z4    いっそう彼ら二人を疲れさせたのだった。(春)  50610行目

    一層彼等二人をつからせたのだつた。  (九)

 

 

Z5    いや子爵ばかりではなかった。(春)  50712行目

    いや子爵ばかりではない。  (九)

    本来なら〝子爵〟ではなく〝蛭田〟とするべきところを間違えてしまったため、

    その後に続く文章とは意味が通じなくなってしまった。



                        

   


当時の連載媒体である『九州日報』も、初めて本作を書籍化した春陽文庫も、最終章に至るまでテキストが安定して一致する事はなく、全ての章ごとにおこなってきたテキスト比較も AZ26項目に収まるよう削ぎ落せる異同は削ぎ落してきたつもりだったが、ラストとなる今回の記事では4項目も超過してしまった。


 

 

 千家篤麿の正体についてはかなり早い段階からバレ気味であったが(いまさら伏せる必要もないだろうけど、一応ここでは千家篤麿の名で呼ばせてもらう)、最終章を迎え、遂に化けの皮が剥がされる。

彼もまた河内兵部の血族のひとりで、春巣街の死美人を殺したのは遺産相続の邪魔になるからだと綾小路浪子に喝破されるのだが、証拠立てて追い詰められるでもなく、かといって本人がすべて自白する訳でもなく、180回近くも連載しながら、完結して読者がハッキリ納得できた篤麿の企みといったら、かつて求愛を拒絶され逆恨みもしたけれどやっぱり春日花子のことがLOVE♡、そして自分から花子を奪った成瀬子爵だけは絶対許せん、というその二点しかない。                             

 

 


 これまで誰の仕業だったのか不明だったいくつかの謎でさえも、
最終回に至って、取って付けたように作者が事後報告するだけ。そりゃないぜよ。 


安藤婆さん殺しは白根辯造の、白根辯造殺しは木澤由良子の手によるものだったと作者は云う。だが、そもそも白根辯造はどのようなバックボーンを持つ人物だったのか、春日龍三を強請る場面の他には、辯造というキャラについて描かれている箇所が全然無いから安藤婆さんを殺害する目的がさっぱりわからないし(当時は牛松が犯人だと疑われていた)、由良子が辯造を殺す動機も曖昧。

龍三氏を人殺しの罪に陥れて苦しめるのが目的だったのなら、もっと後の場面で、綾小路浪子に春日家へ連れてこられて父と娘としてやっと対面できたのに、愛情のある態度を示してくれなかった龍三氏を由良子は怒りに任せてその晩暗殺してるじゃん。結局龍三氏を殺してしまうのだったら、なにも罪を着せてわざわざ龍三氏を苦しめるために、恨みの対象ではない白根辯造を殺す必要は無かったんじゃないの?


 

 

 なんと、瀬子爵が貧民窟である春巣街まで出向いていった理由までもが矛盾していた。
①「雪中の惨劇」③「古びたる肖像畫」⑬「奔 馬」の章を、もう一度見て頂きたい。



③「古びたる肖像畫」の章で綾小路浪子がホテルの一室を訪ねた時、
名越梨庵伯爵に扮していた成瀬子爵はイライラした調子でこう洩らしている。

「それはいままでたびたび言っているじゃないか。あの晩、倶楽部から帰ろうとすると、
見知らぬ無頼漢のような男が来て・・・」

この発言は①「雪中の惨劇」の章での子爵のセリフとも一致する。
「ぜひ会って話したい事がある」という死美人からの手紙を渡されたから __ だった 。ただ、その見知らぬ無頼漢というのは子爵の味方である浪子に信用されている牛松であって、彼は子爵を罠に嵌めて殺人犯に仕立てたい千家篤麿の手先では決してない。篤麿が死美人を殺して、その罪を成瀬子爵になすり付けるのであれば、子爵を春巣街へ誘い出す人間が牛松だと筋が通らなくなる。



さらに⑬「奔 馬」の章になると、
成瀬子爵が春巣街へ行った理由について今度は綾小路浪子が木澤由良子に対し、こんな事を口にする。

「子爵にお訊ねしても、本当のことをおっしゃいません。しかしその様子を見ると
(中略)やはり花子さんのためだったのです。」

え? それって龍三氏と花子の為に子爵が死美人に会って説得しようとしたっていう意味?
春日龍三って舞踏会の日に白根辯造に強請られるまでは、自分の先妻である死美人が実は生きていたなんてちっとも知らなかった筈なのに、死美人がカネ目当てで龍三氏とヨリを戻そうとしてフランスに帰ってきたことをどうして龍三氏よりも早く成瀬子爵が知っているのか、まるであべこべ。 



いわゆる朝令暮改じゃないけれども、作者・横溝正史のアタマの中では、
あらゆる設定が日に日に変わっていってしまったらしい。



(銀) 最終回、綾小路浪子と成瀬子爵の妙な雰囲気は何なんだ?
もしかして浪子は、春日花子と付き合う前の成瀬子爵の元カノだったのか。


以上で、全17章の検証完了。
残るは春陽文庫版『覆面の佳人』の評価をはじめとする本作の総括をしたい。
次回につづく。                     




2021年9月25日土曜日

図録『ミステリーの系譜』

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山梨県立文学館
2021年9月発売




★★★★   各探偵作家から木々高太郎へ送られた書簡の数々




 相変わらずコロナの沈静化にはまだまだ遠そうな毎日が続いているし、                      新しく企画展を開催したところで従来のような集客は難しそうだから、                   各地の文学館も慎重にならざるをえないんだろうなあと思っていたら意外にそうでもないのか、              山梨県立文学館は令和3918日から企画展『ミステリーの系譜』をスタートさせた。                 同年1121日までの予定。

 

 

展示内容は江戸川乱歩/横溝正史/木々高太郎を中心とする日本探偵小説の総論的な構成。                   わけても木々高太郎は地元山梨出身の探偵作家だし、甲府には竹中英太郎記念館もあるので、             英太郎挿絵原画も多数展示されている。ついこの前まで神奈川近代文学館の『永遠に「新青年」なるもの』展にも英太郎の原画は貸し出されていたし、各方面からの協力依頼が多くて、                   英太郎記念館は竹中家の個人経営ながら大忙しだ。

 

 

❂ 企画展の図録、といったらやっぱり華やかな図版が見どころ。                            今回の図録では探偵作家の書簡や生原稿が目立つ。旧いものでは(探偵作家ではないが)大正期芥川龍之介がポオについて講演を行った時に使用したメモがあったり、木々高太郎宛へ送られた  甲賀三郎/海野十三/小栗虫太郎/夢野久作/大下宇陀児/松本清張らの書簡が並んでいて。  乱歩・正史以外の作家の書き文字というのは普段あまり目にする機会がないので、                                        おのおのの書き文字の個性が楽しめる。

 

 

自分的には晩年の竹中英太郎が創元推理文庫『日本探偵小説全集〈1〉黒岩涙香 小酒井不木  甲賀三郎集』へ寄稿したエッセイ【横溝さんと「陰獣」】の生原稿に興味を引かれた。                   英太郎の原画は各種何度も見させてもらう機会があったが、ペン書きの文字というのは珍しい。              こういう字を書いたんだなア。湯村の英太郎記念館を訪れた時この原稿は飾ってなかった記憶があって、今回よく見るとキャプションには個人蔵と記されていた。                             英太郎記念館の所蔵ではなくて残念なり。

 

 

❂ 山梨は文学館も県立図書館も対応は親切だし、文学館は甲府駅から離れているのが難点だが               行ける方は生の展示物をぜひ見てほしい。どうしても行けないという方は今回紹介した図録を 通販で購入する事ができる。「数が限定だから図録は来場者にしか売らない」だとか、    さいたま文学館のようなイジワルな事を山梨の人は言わないから積極的に利用されたし。

 

 


(銀) 山梨だと、木々高太郎と竹中英太郎の組み合わせで企画展をやりたいのかもしれない けれど、皮肉にも木々が世に出てくるのと入れ違いに英太郎は挿絵の仕事から離れていったから木々の小説に英太郎が挿絵を提供する機会は無かったんじゃなかったっけ。

 

 

そんな山梨ゆかりの二人が戦後になってニアミスした事がある(ニアミスって程でもないか)。             昭和27年に山梨県内で『講和記念 山梨を動かす百人集』という本が刊行され、山梨の名士達100人が一筆寄稿しているのだが、そこに木々と英太郎の文章が顔写真入りで載っているのだ。                        木々の肩書は【慶大教授 医博】、英太郎の肩書は【山梨県労働組合民主化同盟 幹事長】と されていて、英太郎はもう中央の画壇で筆を取らなくなっていたからまだ理解できるけれど、                木々の肩書は作家じゃダメだったんかい?

 

 

「視野を世界的に」という題で、木々は甲府時代の想い出→甲州人の性質→敗戦国日本における甲州人のあり方を述べている。編集者の書く紹介文が作家としての木々をごく簡単にフォロー。  一方の英太郎も当然だが画家的なコメントは一切無く社会運動についてだけしか語っていない。   編集者の紹介文も画家としての栄光については、英太郎本人の指示なのかスルー。

 

 

講和条約締結による新生日本がテーマなのだから仕方がないといえばそれまでだが、               探偵作家や挿絵画家の業績が軽視されてしまう理解なき時代だったんでしょう。



今日の「女妖」はお休み。




2021年9月22日水曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

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九州日報
1930年7月24日~8月3日掲載



⑯ 「袋の鼠」(1)~(10)




【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。

 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「袋の鼠」(1)~(10

 

馬車暴走事故の影響から気持ちも沈みがちになり、自宅で静養していた綾小路浪子のもとへ、胸から腹にかけてどす黒い血で汚れ、徒ならぬ様相の木澤由良子が帰ってきた。何かと目をかけてくれた浪子にそれまで自分のやってきた悪業の数々をぶちまけ、罪の代償として思いもよらぬ天罰が下った事を告白する由良子。だが毒を呷っていたこの女には、断末魔の瞬間がすぐそこまで迫っていた。数枚の紙片を浪子に手渡し、畢竟若き女妖は己の命を絶ったのである。

 

 

由良子の最期の伝言によって、浪子は再び動き出す。
彼女は検事局へ赴くと、蛭田紫影の同僚である刈谷という若い検事に、春巣街殺人事件の犯人を引き渡すからと申し出て警察を手配させ、千家篤麿の潜んでいる大場のヤサへ馬車を走らせた。たった二人で踏み込んだその家の中にはお兼の屍が残されているばかりで、成瀬珊瑚子爵と牛松そして蛭田検事の姿は見当たらない。浪子は刈谷検事と共に、由良子に教わった抜け穴の先へと一歩一歩進んでゆく・・・。


                        

 

以下は袋の鼠」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A  『九州日報』マイクロフィルムは(5)=第161回/1930728日該当部分の

     上段左端一行が欠落している。

 

 

B   春めいた陽気がしっとりと街の上に降りてきて  (春)  4551行目 

   春めいた氣持ちが、しつとりと街の上に降りて来て(九)

 

 

C   しかも自分はその中心にいたのだ   (春)  4554行目

       然(しか)も自分はその中心にゐるのだ(九)

 

 

D     由良子さん ――(春)  45613行目

       由良さん ―― (九)

 『九州日報』はこの後も浪子の呼びかけが「由良さん」になっている箇所が多い。

 一方、由良子からの呼びかけは全て「浪子さま」になっているけれども、

 ⑬「奔馬」の章では「浪子さま」と「浪子さん」が混在していた。

 春陽文庫は「浪子さん」で統一、「あなた様」の〝様〟を削ってしまっているが、

 個人的には、由良子は貧しい身分で浪子はセレブという立場の違いがあるし、

 由良子の呼びかけは「浪子さま」で統一すべきだと思う。

 

 

E      浪子は思わず声をかけた  (春)  4572行目

    浪子は思はずさう聲をかけた(九)


                        

 

F    数々の恐ろしいことができたでしょう!(春)  45817行目

    數々の恐ろしい事が出来たのでせう! (九)

 

 

G   放っておいてください。(春)  4614行目

         放つておいて下さいよ、(九)

     

 

H   あたしは花子さんまでも殺そうとした(春)  4618行目

         あたしは花子さんまで殺さうとした (九)

 

 

I    あたし、そうしなければいられなかったのです(春)  4625行目

         あたしはさうしなければゐられなかつたのです(九)

 

 

J    河内家の遺産というのが欲しくなったのですわ(春)  4626行目

         河内家の遺産といふのが欲しかつたのですわ (九)

         由良子は春巣街死美人の娘だから、河内兵部の血族の一人になりうる。

         だが、孤児として育ってきた彼女は河内兵部の遺産の存在など知る機会がなく、

         それに気付くきっかけがあって初めて遺産を狙う殺人の動機も生まれるのに、

         作者はそのあたりをごっそり書き漏らしてしまっている。


                       

  

K     殺したとき手に入れた河内家のこの謄本(春)  46511行目

     殺した時、手に入れた河内家のこの系圖(九)

       作者の描く設定が支離滅裂ゆえ、

       春陽文庫が〝系圖〟をおしなべて〝謄本〟へ書き換えたところで、

     この困った矛盾は修正できなくなってしまった。どういう事か説明しよう。

 

 

       ⑩「過去の影」の章では作者の語る地の文の中で、村役場の謄本を破り取ったのは、

         千家篤麿だとハッキリ書かれている。この設定をキープしておけばよかったのだ。

         なぜなら村役場に最初に到着した(ロシア人=つまり外人である)篤麿に

         謄本の肝心なページを持って行かれたせいで、

         二番目にやってきた(外人ではない、若い紳士に変装した)由良子は謄本とは別に

         河内家の系図を持っているお利枝婆さんを殺して系図を奪い取る理由が成り立つし、

         その結果、奪った系図を本章で由良子が持っていても齟齬にはならない。

 

 

   ところが⑮「疑問の家」の章になって作者が謄本を破り取った張本人の千家篤麿に、

  「(若い青年が)戸籍謄本の中から一部分を抜き取った」などと云わせるものだから、

   物語の終盤に来ていつの間にか村役場の謄本から肝心なページを破り取ったのは、

   篤麿ではなく由良子の仕業にすり変わってしまった。致命的なミス。

   若い青年紳士とは言うまでもなく由良子の変装である。 

 

 

L        憎むべき悪魔の最期 (春)  46613行目

      憎むべき惡魔の最後だ(九)

 

 

M    この女を憎むことができない (春)  46614行目

          この女を憎む事が出来なかつた(九)

 

 

N    綾小路浪子は仕度を整えると、

    とりあえず由良子の身体を寝台の上に載せた(春)  4674行目

          綾小路浪子は身仕度をとゝのへると、

          取敢ず由良子の體を寢臺の上にのつけた  (九)

 

 

O    彼女は馬車を使ってまっすぐに検事局へ走った    (春)  46711行目

          彼女は馬車をかつて眞直(まっすぐ)に検事局へ走つた(九)

     『九州日報』の〝かつて〟は〝駈って〟の意味であって、

   〝使って〟じゃないだろ。


                        

 

P    生憎蛭田検事がまだお見えになりませんので(春)  4685行目

    生憎蛭田君がまだお見ゑになりませんので (九)    

    元の原稿にはどう書かれていたのか分らんけど、

    物語も大詰めに来ているというのに、

    年下である刈谷検事に蛭田検事のことを「蛭田君」と言わせていたり、

    最後まで杜撰な小説で疲れる。


 

Q    用心にしくはないでしょうね        (春)  47110行目

          用人(ようじん)に若(し)くはないでせうね(九)

 

 

R      ひらりと自分から先に飛び降りた(春)  47115行目

          ひらり自分から先に飛び下りた (九)

 

 

S        一刻を争う場合ですから   (春)  4723行目

          我々は一刻を爭ふ場合ですから(九)

 

 

T     気をつけてくださいよ(春)  4728行目

     氣をつけなさいよ  (九)


                    

 

U   その静かなのがいっそう不安を募らせた。(中略)若い検事が(春) 47212行目

     その静かなのがいつそ不安を募らせた。(中略)若い検事は (九)

      

 

V   手に鉄棒のようなものを持ってきた(春)  4735行目

   手に鐵のやうなものを持つて来た (九)

   


W  なにせ、お兼が殺されているので(春)  47910行目

     何!お兼が殺されてゐるので  (九)

    〝何!〟じゃなくて〝なに、お兼が・・・〟とでもすべきでは?

 

 

X   その逃げ道も絶たれてしまった (春)  48015行目

   その逃げ道も絶たれて了つてゐる(九)


                        


前回の記事(⑮)では、春日龍三殺しの下手人の矛盾という本作のイタすぎる欠点を指摘した。あれに匹敵する作者の大失敗、つまり河内荘村役場の謄本を破いて盗んだ犯人問題というのが、上記のテキスト比較一覧の K にて詳しく述べた事項である。この二つほど酷くはなくとも、詰めの甘い(上記 のようなレベルの)問題はいくつも存在する。


  


 毎日読者をハラハラさせたいがため、本作は気を持たせるような幕切れでその章が終わり、次の章は直前の回までの流れなど無かったかの如く、新たなエピソードがスタートするという場当たり的展開を繰り返して、結果しっかり書いておくべき部分が省略されてしまい、後から取って付けたような説明がされるため、話の流れにギクシャクした印象を与えがちだ。例えば馬車の暴走によって小夏は死んでいた事が本章の地の文にてやっとハッキリするのだが、これなどまさに浪子が小夏の死を知らされる場面はあってしかるべきだった。 

             


 本来なら木澤由良子の怒りの矛先は、母を死に追いやった者だけに向けられていた筈。

本章の中で、由良子が自分の手で葬った人間(未遂も含む)を浪子に語る場面がある。父・春日龍三と腹違いの妹・花子が憎しみの対象になるのはわかるとしても、お利枝婆さんと小夏を殺めた動機は、千家篤麿に拉致された時に偶然河内兵部の遺産の存在を知ったからという苦しい弁明が前章(⑮)冒頭に由良子自身ではなく篤麿によってされるのみで、急に河内兵部の遺産が欲しくなった(納得のいく)理由は由良子の口から何も語られない。〝母である春巣街の死美人から受け継いだ悪の血がそうさせたから〟と言われても、犯罪の動機としては説得力に欠けるのよ。



 毎度の事だけど、由良子はどうやって篤麿の隠れ家である大場のヤサを知りえたのか?もともと由良子にはお兼を殺す理由が無い。部屋が暗いのでてっきり花子だと思い込み、間違えて縛られていたお兼を刺してしまったとしても、そのあたりの状況がいまわの際の由良子の口から語られなかったので、実にモヤモヤする。


 



(銀) 前回に続いて、第三次『大衆文藝』池内祥三追悼記事に関する話題を。
寄稿しているのは白井喬二/土師清二/棟田博/鹿島孝二の四名で、探偵作家からのコメントはなかった。第三次の『大衆文藝』に探偵作家が一人でも深く関わっていれば、私の欲しい情報がもっと得られたかもしれない。残念。



文芸通信社「大系社」の業態について、土師清二は次のように語っている。

〝作家に執筆を依頼して地方の新聞と契約して、主に小説を提供する。一流作家、流行作家の小説を掲載したいが、地方紙として負担が重すぎるといったような場合、通信社は発行されているそれぞれの新聞の勢力分布を考え、同じ小説が載っている新聞がカチ合わないように考えて小説を提供する。掲載紙が多ければ多いほど、作家、画家の稿料の分担は逓減する。〟

大系社が仲介配信した全ての作家/作品さえわかれば、昭和四年当時、横溝正史単独の名義だと大手中央新聞ならともかく、地方紙の連載でさえ本当にネームバリューがいまいち弱かったのか判断することもできるのだが・・・。




次はいよいよ最終章。⑰へつづく。

                          



2021年9月19日日曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

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九州日報
1930年7月13日~7月23日掲載



⑮ 「疑問の家」(1)~(10)




【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。

 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「疑問の家」(1)~(10

 

春日花子とお兼が姿を消したのは又しても千家篤麿の仕業かと案じる成瀬珊瑚子爵と牛松だが、自分達が警察に追われている立場であるのも忘れて巴里市中を探し回り、篤麿の腹心である大場のヤサを牛松が突き止める。以前、庄司三平に夜の運河へ投げ込まれた牛松を救った密輸入船の親分がかくいう大場で、そのまま旧篤麿邸の使用人に牛松をあてがったのも大場だった。

日が暮れて、家の二階の窓に一人の男と二人の女の影が映る。二人の女のうち、一人はお兼だと牛松は確信。子供に呼びにやらせた成瀬子爵が到着するまで身を潜めていると、庭の隅に黒装束の怪しの者が侵入している事に気付き、牛松は一抹の不安を覚える。

 

 

成瀬子爵がようやく到着した時、窓の明かりが消え女の絶叫が響き渡った。敵の動きが何も無いのを確認して、家の中へ踏み込む子爵と牛松。すると先程絶叫が聞こえた二階の部屋の中では、お兼が革椅子に縄でキリキリ縛りあげられた挙句、短刀で心臓を刺されて死んでおり、春日花子の姿は其処になかった。一度はお兼を殺めようと過ちを犯しそうになった牛松だが、彼女の無惨な最期を見て号泣。その場に姿を現した蛭田紫影検事はとうとう仇敵の成瀬子爵を見つけて薄笑いを洩らす。


                        

 

以下は疑問の家」の章にて、春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A  『九州日報』マイクロフィルムは(4)=第150回/昭和5717日分が欠号。

    (8)=第154回/同年721日分は本作該当部分が破損して複写不可との事。

    (10)=第156回/同年723日分では二段組になっている該当部分の上段左端一行が

      欠落している。

 

 

B   パリ郊外の空き邸(やしき、とルビあり)で(春)  42611行目

       巴里郊外の空屋敷で           (九)

 

 

C   過ぐる日の(春)  4274行目

     過ぎる日の(九)

 

 

D   そう弱音を吐くようじゃ頼もしくありませんぜ(春)  4279行目

         さう弱音を吹く様ぢや頼もしくありませんぜ (九)

 

 

E     いすか(傍点あり)の嘴(はし、とルビあり)

              と食い違うんじゃな(春)  42712行目

       いすか(傍点あり)の嘴(くちばし、とルビあり)

                と喰違ふんぢやね (九)


                       


F    へえ、いったいだれですかねえ(春)  4287行目

    へゑ、一體誰ですねゑ。   (九)

 

 

G     あまりに意外過ぎるようである (春)  42913行目

         あまりに意外に過ぎるやうである(九)

     

 

H   しかしその娘というのはすでに、

              だれかに殺されてしまっている。(春)  43011行目

         然しその娘といふのは春巣街で誰かに殺されて了つた事は、

              君も知つての通りである。   (九)

 

 

I    陰へ回っては恐ろしい悪巧みをしていることなど(春)  4314行目

       影へ廻っては恐ろしい悪企みをしてゐる事など (九)

 

 

J      一種の偏執狂 ― そうだ、あの女は一種のパラノイアだ。

    世の中にまたこれほど恐ろしいものはないからね(春)  4321行目


    一種の氣違ひ ― さうだ、あの女は一種の氣違ひだ。

    世の中に又、氣違ひ程恐ろしいものはないからね(九)

    言葉狩りするにしたって、春陽文庫もよくここまで言葉をでっちあげられるもんだ。


                      

    

K    手分けして二人の行方を              (春)  43310行目

      手別して(〝手〟→〝て〟のみルビあり)二人の行衛を(九)

   

 

L        お兼は何も関係ないじゃありませんか  (春)  43314行目

      お兼は何も関係はないぢやありませんか。(九)



M    彼ら自身が警察から捜索されている(春)  4349行目

          彼自身が警察から捜索されてゐる (九)

          子爵と牛松ふたりの事だから、これは春陽文庫が正しい。

 

 

N    目の当たりに見てよく知っている(春)  43815行目

        目のあたり見てよく知つてゐる (九)

        この次の行で、牛松が忍び込んでいる家を〝千家篤麿の邸内〟だと書いているが、

          表面上ここは大場の家じゃなかったっけ?

 

 

O    彼はひらりと身軽に庭へ飛び下りる (春)  43917行目

          彼等はヒラリと身輕に庭へ飛び下りる(九)

          これも 同様、『九州日報』のほうが間違っている。


                      

 

P    ふむ、じゃ、いよいよここは千家篤麿の隠れ家(春)  4407行目

    ムフ、ぢや、いよいよ此處は千家篤麿の隠れ家(九)    

 

 

Q   聴き耳を立てていたが(中略)いっそう二人を不安にした(春)  44112行目

         聽き耳たてゝゐたが(中略)いつそ二人を不安にした  (九)

 

 

R   辺りは闃(げき)として生物のいる気配さえない        (春) 4425行目

     邊(あたり)は げき(傍点あり)として生物のゐる氣配さへない(九)

     闃(げき)とは、静まりかえったさまを表す漢字。

 

 

S   眠ってでもいるのだろう (春)  44410行目

     眠つてゞもゐるのだらうか(九)

 

 

T   その人間は身動きもしないで(春)  44412行目

   その人形は身動きもしないで(九)


                       

 

U   だれか ― だれかそこにいるんです(春)  44415行目

       誰が ― 誰が何處に居るんです。 (九)

      

 

V   身動きできぬように椅子に縛りつけて(春)  44610行目

   身動きも出来ぬ様に椅子に縛りつけて(九)

   

 

W      ノブに手をかけたとみえる            (春)  4515行目

       把手(はんどる、とルビあり)に手をかけたと見える(九)

 

 

X   春巣街の噂も、あなたはあくまでも知らぬ存ぜぬと(春)  45314行目

   春巣街の噂もあなたは、あくまでも知らぬ存ぜぬと(九)

   前後の文脈からして〝春巣街の噂も〟とするのはちょっと変。

   作者が原稿を書いた時には〝春巣街の時も〟と書かれていたのではなかろうか。

 

 

Y   偶然とは思われなくなりますよ(春)  4544行目

   偶然と思はれなくなりますよ (九)


                        


本日の記事にupした挿絵は、腕を包帯で吊っている千家篤麿の仏頂面。彼はロシアの貴族という設定なので、髭をたっぷり蓄えていらっしゃる。前章までの内容をしっかり把握しておられる方にはわざわざ詳しく説明をする必要も無いし、篤麿が腕を吊っていない描写よりは吊っている描写のほうがフェアと言えばフェアなんだが、最後まで引っ張るべき謎に対してヒントを与え過ぎの感あり。


                       

                     

この章に出てくる千家篤麿の手下・大場は、⑦「犯人は?」の章にちょっと出て来た大場仙吉とおそらく同一人物の筈。仙吉という下の名前を、作者は忘れてしまったとみえる。その大場の初登場シーンをもう一度プレイバックしてみると、報告のため篤麿邸にやってきた乞食姿の大場を召使いの黒人・安公(実は成瀬子爵の変装)が出迎える場面では、互いに「仙吉兄貴」「禿鷹の安」と呼び合うほどあたかもつきあいが長そうな書き方がされていて。



⑫「恐怖の別荘」の記事で指摘したとおり、成瀬子爵が安公として篤麿の邸に雇ってもらってから日数がまだ殆ど経っていない筈なのに、⑦「犯人は?」(3)における大場と子爵扮する安公の、お互い昔からよく知っているような会話は不自然。もうねえ、横溝正史がキャラクターの相関関係をしっかり固めておかずに書き飛ばすから、こんな事になってるんだよ。そしてそれ以上に、ありえない最大のミスを正史は本章の中でやらかしてしまう。


                      


虫も殺さぬ木澤由良子が裏でやってきた悪事を千家篤麿が大場に話して聞かせる本章の冒頭で、春日龍三の下手人は由良子である事が(とても雑に)読者に知らされるのだが、ここで今一度、⑩「過去の影」の章(9)をよ~く読み返して頂きたい。作者の筆のみならず⑪「打續く惨劇」の記事にupした挿絵でさえ、龍三氏の部屋の窓から逃走してゆく曲者の姿が本来の下手人・由良子に目撃されている様子を露骨に描写してしまっているではないか!これはアカンやろ。



さらに、篤麿邸に春日花子ともう一人拉致されていた女性が由良子だった事も明らかになるのは大変結構なんだけどさ、花子の場合はあれだけ篤麿も厳重に監禁していたのに、なんで女ルパンでもない由良子がやすやすと逃げ出せたのか?ハンパなくあっちこっちで破綻してますなあ。





(銀) 本作を各地方新聞へ売り込んだ池内祥三に関して、戦後の第三次『大衆文芸』バック・ナンバーに池内の追悼特集を載せている号が見つかったので、少し情報を得る事ができた。この人は明治29年生まれだそうだから江戸川乱歩より二歳年下、横溝正史より六歳年上。昭和45年に亡くなっている。



昭和2年夏、池内が編集担当していた(第一次)『大衆文藝』が終刊。そこで彼は連載小説を地方新聞へ配信する文芸通信社「大系社」を立ち上げる。大系社は戦前だと昭和19年まで継続していて、正史の「雪割草」小栗虫太郎「亜細亜の旗」の他にも国枝史郎「犯罪列車」甲賀三郎「怪奇連判状」etc、多方面に池内が関わっている可能性が非常に高くなった。大系社は敗戦で一旦休止するがすぐ再興。池内の晩年まで存続したと云う。


⑯へつづく。