2023年7月6日木曜日

『奇子』手塚治虫

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大都社 Hard Comics
1974年1月発売(上巻「深淵の章」/下巻「奔流の章」)




★★★★★   探偵小説が好きな人こそ読んでみて




 私にとっての手塚治虫といったら「アドルフに告ぐ」もしくは「奇子」、この二択になる。手塚の描く絵のタッチは丸っこくてラブリーゆえ、明るいパブリック・イメージを持たれがち。絶対的知名度のわりに、たいして彼の漫画を読んだことのない一般層からは、今でも「鉄腕アトム」風の未来派作品が多くを占めると思われているのなら、それは嘆かわしい誤解。

 

 

「奇子」についてネットで検索してみると、陰惨/横溝正史や松本清張っぽい/エロティック/トラウマになる等のコメントが見られ、そんな感想の全てが間違ってるとは言わない。けれども口当たりのよくない題材を扱った手塚作品は他にいくつも存在してるし、「奇子」を読んだ大のオトナが「ショッキングすぎて子供に読ませられない」なんてガクブルするのは、日本人の幼児化が甚だしい証拠。こういうのこそ〝巻を措く能わず〟なストーリー漫画なんだがなあ。何よりもまず、「奇子」が発表された時代背景を簡単に説明しておく必要がありそうだ。

 

 

 今とは比べもんにならないぐらい表現が暗く、エロもありありな成人向け漫画雑誌だった昭和47年の『ビッグコミック』に「奇子」は一年半連載された。あさま山荘事件の年といえば想像し易いかな。まだ「のたり松太郎」(ちばてつや)さえ始まっておらず、私の脳裏に残っているのは「さそり」(篠原とおる)と、ルーツ編第一作「日本人・東研作」が描かれたあたりの「ゴルゴ13」なぜか連載時の「奇子」の記憶は欠落していて、禁断の香りを放つこのマンガに惹かれるようになるのは数年後。流行り出したラブコメが私の趣味に合う筈もなく、読みがいのあるマンガを渇望していた頃、大都社Hard Comics版単行本で再び奇子」に出会っている。

 

 

子供の喜ぶ明るさ/わかりやすさとは真逆なベクトルの劇画が占めていた『ビッグコミック』に連載するのだから、「奇子」のような作風に手塚がチャレンジを試みたのは冷静に考えればそれほど驚くことでもない。当時の私はちっともわかっていなかったが、ちょうど彼はヒット作を生み出せず雌伏の時期でもあった。逆風を受けていた手塚の負のマグマが噴出し、ずっしり手応えのある「奇子」みたいな作品が誕生したのだから、なんとも痛快じゃないの。

 

 

 「アドルフに告ぐ」も「奇子」も純粋なミステリではない。然は然り乍ら、日本の探偵小説が好きなら必ず楽しめる要素がこの二作にはたっぷり詰まっている。もし「アドルフに告ぐ」が全編海外を舞台にした物語だったら、私はそこまで入れ込まなかったかもしれない。あれは手塚治少年が実体験した戦前日本(特に関西)の情景が丁寧に描き込まれているから素晴らしいのである。「奇子」のプロットは青森の大地主・天外一族が長きに亘って膿んできた病巣を描くものだが、天外家の人々が口にする血の通った東北弁や、並の漫画家なら描かずにすませるであろう幼い奇子の排尿/初潮シーンをてらいもなく描いてしまうところなど、半端ないリアリティの実践に唸らされるばかり。

 

 

その上、あの〝下山事件〟までもがストーリーの重要な鍵になっている。どうやら手塚は下山総裁他殺説を信じていたようだ。仮に東京オリンピック前の昭和を〈旧・昭和〉、それよりあとの昭和を〈新・昭和〉と呼ぶならば、私は〈旧・昭和〉の日本を描く手塚作品に最も中毒性を感じる。他人の作った筋書きを手塚がコミカライズしたものってひとつも思い浮かばないから、あくまで自分が考えたプロットでないと納得しなかったのかもしれないけれど、「アドルフに告ぐ」そして「奇子」を読むと、日本の探偵小説を忠実にコミカライズした長篇漫画を一作ぐらい手掛けてほしかった思いに駆られる。手塚だったら日本人が忘れてしまった昔の風景・昔の身なり・昔の言葉遣いをきっちり再現してくれそうな気がして。

 

 

 

(銀) 〝半端ないリアリティ〟と書いたが「奇子」の中で一箇所だけ文句を言いたいところがあって、それは天外仁朗が自分の車で下田警部を送る途中、横付けしてきた車に乗っていた殺し屋に銃撃され重傷を負うシーン。天外仁朗は暗黒街のボスだから運転席後部の右座席に乗るのは当然で、下田警部は後部左座席に乗っている。後方から近付いてきた殺し屋は天外仁朗の車の左側に停車して銃撃するため、殺し屋の車に近い下田警部のほうが被弾する確率は高い筈なのに、彼は軽傷。天外仁朗は十二発も喰らってしまう。日本は右ハンドルかつ道路左側通行ゆえ、そう描かざるをえなかったのかもしれないが、この不自然さはなんとかしてほしかった。

 

 

『火の鳥(オリジナル版)/04鳳凰編』で予告していたとおり、復刊ドットコムより復刊された手塚作品の言葉狩り問題を検証してみなければならない。ここまで結構長くなってしまったため次回に先送りとする。

『奇子〈オリジナル版〉』(☜)へつづく。