その男は避暑地の温泉宿で見知った、お高くとまっている令嬢の存在が気になっている。男は腹を下してしまい宿の便所に駆け込んだところ、件の令嬢が先に入っており扉の鍵が壊れていたため、彼女はあられもない姿をモロに男に見られてしまった。どうにかして男は詫びようとするのだが、プライドが二本足で歩いているような令嬢が示すのはにべもない対応ばかり。逆ギレした男は令嬢にとって最も屈辱的な罰を与えるべく奇天烈な罠を仕掛ける。
これだけでもよくよく考えたら十分滑稽な導入である上、フツーの人からしてみれば令嬢が見事に嵌まるあの罠というのは往年のたけしやとんねるずの番組でお笑いタレントがよくやらされていたシーンそっくりだし、令嬢の末路を知って爆笑してもおかしくない。つまり笑いを誘発するほど極端な要素で構築されていたから「天狗」は珍妙な傑作になり得たのだ。
本書収録作品はこのとおり。括弧内の数字は創元推理文庫『大坪砂男全集』全四巻のうち、本書の各短篇が収められた巻を示している。
「閑雅な殺人」(➋)
「白い文化住宅」(➋)
「虛影」(➋)
「花束」(➋)
「逃避行」(➋)
「検事調書」(➊)
「蟋蟀の歌」(❹)
「黒子」(➊)
「雨男・雪女」(➋)
「初恋」(❸)
「零人」(❹)
「賓客皆秀才」(❹)
「天狗」(➋)
「外套」(❸)
「胡蝶の行方」(➊)
澁澤龍彦や都筑道夫ら大坪贔屓がどれだけ下駄を履かせようとも、本書のようなラインナップで彼の作品を読むと、研ぎ澄まされているのはやっぱり初期のごく一部分だけであって、それ以外のものには空虚な感じさえ漂う。「白い文化住宅」あたりは若妻・亜子の白骨を消失させる理化学ネタが添え物になるぐらい仁科達郎と青年とのネチネチした対決が見ものだけれど、大坪本人のねじくれた資質を受け入れられぬ読み手には、いちいち持って回った語り口が癇に障るかもしれない。
「零人」も代表作のひとつながら、植物を自分の妻だとのたまう園芸家の思考を読者がどれだけ消化できるか、其処にかかっている。文中に「いや、あなたこそ気違いだ!」と園芸家が指をさされる場面があり、いみじくもこのセリフが象徴するように、他の日本人探偵作家の奇想と比べてもかなりタガが外れている大坪砂男の本質はそう簡単に理解できる類のものに非ず。
「天狗」クラスの出来ならそれなりにキャッチーだし、探偵小説中毒者以外の人々にも受け入れられるポテンシャルはあるとは思うが、大坪の場合、自身の素行が原因で作家人生を自滅させてしまった情報が流布しているため、小説そのものだけで貴乃花光司みたく妙に偏屈な人、あるいはそれ以上に(ちょっとアタマがおかしいという意味での)異端の人だと思われかねない危うい線上を死後も浮遊している。