2023年6月7日水曜日

『聖惡魔』渡邊啓助

NEW !

春秋社
1937年6月発売



★★★★   三十代半ばながら、まだまだ若書きの感




 前回に引き続き今回も渡辺啓助。春秋社版『聖惡魔』は二冊目の著書。この頃長篇「鮮血の洋燈」を書き上げるつもりでいたそうだが結局完成に至らず、同作が「鮮血洋燈」として発表されるのは昭和31年まで待たなければならない。教職がまだ本業の時期であり、啓助は昭和11年に福岡県八女から茨城県龍ケ崎の女学校へと転任している。福岡にて数年過ごしていたのだから、もしも夢野久作と頻繁に交流していれば、お互いの創作へプラスになる何らかの影響を与え合う可能性もあったのではないか。

 

 

 冒頭を飾るのは〝ですます調〟で語られる「血のロビンソン」。『血ぬられたる花』と刻印されし一冊の寫眞帖が、市俄古(シカゴ)の古物商が所有する長椅子の中に詰め込まれてあったところから始まり、日本娘を含む各国の美女殺害を記録したこの寫眞帖の制作者である西洋人・ロビンソンのアイロニカルな最期で結末を迎えるのだけれども、物語の軸となる寫眞帖が太平洋を渡って遠い日本にいるロビンソンのもとへ辿り着く展開は若干都合が良すぎるというか、短篇にしては舞台を移動しすぎじゃない?

 

 

次の「幽靈莊に來た女」もおどろおどろしい出だしで煙幕を張っておいて、女性への憧憬に着地するオチのパターンは変わらず。「聖惡魔」でも聖職たる牧師でいながら、現実の場で信者に接する態度とは真逆の不幸を悦ぶ『悪魔日記』をつける行為に主人公は快感を得ている。これまた前述の美女殺害を記録した寫眞帖と共通する妄想の産物。『新青年』は昭和121月号掲載の「聖魔」を皮切りに、嘱望する新人に連続して短篇を発表させる企画を渡辺啓助にも課したのであった。

 

 

「血蝙蝠」に登場する玉之助少年は生い立ちが不幸なばかりか〝めっかち〟というハンデを背負っている。この短篇を読むたび思うのだが、玉之助は十分過ぎるほど幸福に縁が無く、わざわざ〝めっかち〟にまで設定する必然性が私には感じられない。渡辺啓助自身、幼い時分顔に火傷を負ったつらい過去があり、それが一生拭い去れぬコンプレックスとして彼を苦しめたに違いない。玉之助だけでなく、啓助の作品にはそういったキャラクターが時々描かれる。炭鉱爆発事故で顔を焼かれ、繃帯無しでは夫人と共に生活できぬ境遇にある「屍くづれ」の鳥栖十吉などまさにそうで、啓助の心の奥底にあるコールタールのような愁嘆が反映した造形と見るのは穿ち過ぎだろうか?




かと思えば「タンタラスの呪ひ皿」の怨み重なる相手を白磁の皿の中に閉じ込める趣向なんてのは江戸川乱歩某短篇の影響あり。連続短篇も五作目「決鬪記」となるとそれまでとは趣きを変え【成績は優秀だがひねくれ者で、腕っぷしゼロの諸井蒼十郎】と【国粋派でジャイアン・タイプの安達玄】、このふたりの大学生を対立(?)させる。この両者ともウザいキャラゆえ、読み終わってスッキリしない。たった一滴で人を殺せる〝殺人液〟、そして家賃を納めない大学生との間で煩悶する家主・お牧の騒動を描く「殺人液の話」。ここまでの六作で連続短篇企画は終了。





耳へのフェティシズムをテーマにした「紅耳」。これも啓助独特の女性憧憬の表われの一種なのかもしれないがグロ味もたっぷり。切り落とされた妖しく美しい耳に対し〝何かマヨネーズでもかけてペロリと食べて仕舞ひたい〟って、いったいどんな趣味よ?。「死の日曜日」はその内容以上に、戦前ながら〝ギャグ〟や〝タイアップ〟といったワードが使われていて少々ビックリ。小林信彦がたしか自著の中で「日本人が〝ギャグ〟という言葉を意識し出したのは戦後になってから」みたいな事を書いてたようにずっと思い込んできたけど、それって私の勘違い?

 

 

「悪魔の指」は昭和24年に単行本の表題作にもなっている。哲學者・玉井有隆は生前、フランクフルトに留学していた時代の事だけは周囲の仲間にも話そうとしなかった。しかも獨逸から帰国した時、彼の片手の中指は無くなっていた。一見、日本男児と欧州女性のロマンス風に見せかけてはいるが、その実態は不義。本書収録作のうち最も発表が早い昭和10年の暮に発表されたからまだよかったものの、もし昭和13年以降だったら「日本の男が毛唐の女と密通するなんて絶対許さん!」って規制されていただろうね。巻末の「ニセモノもまた愉し」はエッセイ。各作品解説ではない。

 

 

 

(銀) 渡辺啓助という作家は、頭の中に浮かんでくるイメージの断片をパッチワークして小説を組み立てているような印象が私の中にあり、決してストーリーテリングに長けた作家ではない気がする。長篇に良いものがなかなか見つからないのも、そこらあたりから来ているのではないか。