2023年10月21日土曜日

『營ロ號事件』矢留節夫

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大東亞出
1943年10月発売



★★    大東亞出版社の単行本




本書のクレジットは矢留節夫になっているが、この人の筆名は十種以上にも及び、扱いに困る。その件はまた最後に追記するけれども、さしあたり耶止説夫と呼ばせてもらおう。

 

 

ここに収められた創作八篇、その殆どにおいて探偵趣味は存在しない。冒頭の「營ロ號事件」は哈爾浜行きの定期船・營ロ號が匪賊に襲撃されるストーリーだが、これを探偵小説と呼ぶのにはいささか抵抗がある。同様に「ガラパンの街」「別離」「酋長譚」「苦しみと云へど」「霧の焦點」も、かつて日本が統治していた南洋諸島/満洲/上海租界における現地の風習を軸に据えた外地小説で、描かれているのは日本人雄飛のもたらすロマンだけども、徒(いたずら)に読者を高揚させるのではなく異国で発生するシリアスな問題を教示しているような趣き。それに対し、「春日町附近」「瞑る肢體」の二篇にはやや異なるテイストが。

 

 

満洲初夏の物語「春日町附近」は旧知の娘と再会する男性主人公の苗字が耶止になっているばかりか、彼の出身校がN大とされているので、耶止説夫が実際に卒業した日本大学とも合致する。若狭邦男は『探偵作家尋訪』で〝耶止が満洲の地で運営していた出版社・大東亞出版社は春日の浪速通りと春日町が交差するところにあった〟と書いていて、これも本作のタイトルに取り入れられている町名と合致。いつも言っているとおり、若狭の言うことを100%信用するのは非常に危険なれど、この町名の件が真実なら、幾分かのフィクションが含まれているかもしれないとはいえ「春日町附近」は作者自身の私小説の可能性アリ?

 

 

そして、自殺を図った女・ソノの体が施療病院に運ばれてくる「瞑る肢體」。これだけは内地が舞台なだけでなく本書中唯一、探偵小説の範疇に入れてもよさそうな要素を孕んでいる。そんなこんなで本書は(特に探偵趣味を望む人には)強くリコメンドできる内容ではない。むしろ気になるのは巻末に載っているこの本の版元・大東亞出版社の刊行物リスト(全ての本がちゃんと刊行されたかどうかまでは確認していない)。

 

 

『安永密訴狀』久生十蘭/『左膳捕物帖』耶止說夫/『江戸天下祭』久生十蘭

 

『都會の奇蹟』土屋光司譯/『日東選手』HWベレツト作/『靑春赤道祭』耶止說夫

 

『男の世界』耶止說夫/『南方探偵局』耶止說夫/『南の誘惑』耶止說夫

 

『香水夫人』大坂圭吉/『人間燈台』大坂圭吉/『幽靈遠島船』久生十蘭

 

『靑春遺書』矢留節夫/『靑春日記』早乙女秀/『阿呆浪士』三好季雄

 

『吉野朝殉忠記』松浦泉三郎/『異變潮流』耶止說夫

 

 


大東亞出版社の刊行物のうち、次の本だけは書名だけでなく内容紹介文も転載しておこう。 

◆ 報知新聞に連載中は帝都七百萬の市民を昂奮の坩堝に湧かせた問題の防諜探偵小説

『スパイ劇場』南澤十七

怖しいスパイの毒手は延びて不幸な女性達が次々とその犠牲となつて行く不可解な謎

B6判美裝價一圓九〇錢廿錢  

南澤十七は2000年以降の復刊ムーブメントからすっかり取りこぼされた作家。「蛭」「氷人」といった大人向け探偵小説の短篇、そしてこの「スパイ劇場」を併せて新刊で出せばいいのにね。報知新聞に連載されたという初出情報もわかっているのだから。


 

 

 (銀) この作家の筆名は多過ぎて当Blogでのラベル(=タグ)表記をどうするか躊躇ったが、探偵小説の分野で一番多く見かけるのはやはり耶止説夫名義だと思うので、その名前で登録しておいた。





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