井上勝喜。二十代の江戸川乱歩、いや平井太郎が鳥羽造船所に勤めていた時、職場で出会った旧い友人。「二人の探偵小説家」など勝喜をイメージして書かれた作品が存在するぐらい、青年期の乱歩を語る際に欠かすことのできぬ人物だ。彼らの交流は平凡社版『江戸川亂歩全集』の配本が完結する昭和7年あたりまで確認できるのだが、そのあと勝喜の消息がプッツリ途絶えてしまうため、この男の情報をもっと得たいと私は常々洩らしてきた。
そこへ今回の『大衆文化』第三十一号に掲載された宮本和歌子の投稿【昭和二年(一九二七)の江戸川乱歩 ― 最初の休筆と放浪について ― 】が飛び込んできた。タイトルどおり、この論考の主役は決して勝喜ではない。けれども高知新聞記者としてのキャリアだとか、初めて知る情報が多分に含まれていて、これを見逃す手は無い。よって記事一回分を費やしてでも井上勝喜のことを書き留めておこうと思ったのである。
まずは『江戸川乱歩年譜集成』『江戸川乱歩推理文庫 第64巻 書簡対談座談』『子不語の夢』『貼雑年譜 完全復刻版』『探偵小説四十年』より江戸川乱歩と井上勝喜の動きを抽出、二人の年表みたいなものを作り、そこへ宮本和歌子投稿に記されている井上勝喜の新情報を加え、果たして齟齬が無いか検証してみたい(こういう作業は結構嫌いじゃない)。支那ソバ屋の商売や智的小説刊行会の募集など、煩雑になる細かな事柄は省略した。ちなみに『大衆文化』第三十一号にて宮本和歌子が引用している文献に基づく部分には◆マークを付けたり色文字で表記する。
◆1 = 高知新聞社史編纂委員会編『高知新聞五十年史』
昭和29年(1954年) 高知新聞社
◆2 = 高知新聞社文化事業局出版部編『高知年鑑 昭和36年版(1961年)』
昭和35年(1960年) 高知新聞社
◆3 = 内田福作編『高知年鑑 昭和31年版(1956)』
昭和30年(1955年) 高知新聞社
明治26年(1893年)
12月14日 井上勝喜、高知にて誕生。 ◆2
乱歩は勝喜のことを年下だと記述してきたが、「この生年月日が正しければ井上のほうが一歳上になる」と宮本和歌子は言う。
井上勝喜は高知県立第一中学出身とのこと。 ◆1
また関西大学卒業。 ◆2
大正6年(1917年)
11月
乱歩(平井太郎)、三重県志摩郡鳥羽町の鳥羽造船所に就職。
12月
佐藤紅録劇団「日本座」が高知を訪れた折、紅録の野球チームと対戦したのが井上勝喜を中心とする地元のチーム・黒潮倶楽部。 ◆1
関西大学を卒業した井上勝喜だが、この年の暮までは高知に居住していたと思われ、鳥羽造船所に就職して乱歩と知り合うのは翌大正7年の話か?
大正8年(1919年)
1月
乱歩、鳥羽造船所を辞めて上京。
2月
乱歩、弟二人と団子坂上にて古本屋「三人書房」を開業。
4月
井上勝喜も鳥羽造船所を辞めて上京、「三人書房」の乱歩の住まいに同居。
このあとしばらく乱歩と勝喜の共同生活は続く。
11月
乱歩、村山隆子と結婚。
大正9年(1920年)
1月
井上勝喜、監督として少年野球チーム・白洋倶楽部を率い、徳島に遠征。 ◆3
なぜこの時期、東京にいる筈の勝喜が四国で野球チームの監督をしているのか?
8月
乱歩と井上勝喜、レコード音楽会を開催。
10月
乱歩、大阪時事新報社の編集記者になるため「三人書房」を廃業して大阪へ。
大正10年(1921年)
3月
乱歩、日本工人倶楽部の書記長にならないかと誘われ、再び上京。
4月
「三人書房」廃業後も東京に残っていた井上勝喜、日本工人倶楽部の事務員に。
早稲田鶴巻の乱歩の家に勝喜も時々居候。
大正11年(1922年)
2月
乱歩、日本工人倶楽部書記長を辞任。
7月
乱歩失業。大阪守口町に住む父・繁男の家に身を寄せる。
夏以降、いよいよ探偵小説を執筆。書き上げた原稿を森下雨村へ送る。
12月
乱歩書簡控えによると、この頃、井上勝喜は支那・青島にいる。
翌大正12年2月、勝喜から乱歩へ届いた返信によって、青島で興信所の編輯長をしていたところ横痃(梅毒のような性病の一種)を患い馘になり、金が無く藪医者に治療してもらったのが裏目に出て、青島病院に長期入院中だということが判明。5月位までは動きが取れない様子。
大正12年(1923年)
3月
乱歩、作家デビュー。「二銭銅貨」が『新青年』に掲載される。
7月
乱歩、大阪毎日新聞社広告部に入社。
11月
井上勝喜は郷里の高知市に戻っており、乱歩が勝喜へ手紙を書く。
広告の仕事で香川や愛媛に行く予定はあるが、高知までは行く余裕が無いとグチる乱歩。
昭和10年の項で後述する『杉指月集』への寄稿より、勝喜が高知新聞社へ入るのはこの年の後半から翌年にかけてのことだと思われる。
大正13年(1924年)
11月
乱歩、大阪毎日新聞社を辞め、文筆一本の生活を決意。
大正14年(1925年)
この年刊行された日本電報通信社編『大正十四年 新聞総覧』(日本電報通信社)に、
高知新聞社編集部員として井上勝喜の名前があると宮本和歌子は言う。
4月
乱歩・西田政治・横溝正史・井上勝喜ほか、関西方面在住の者九名で「探偵趣味の会」を結成。勝喜も高知新聞社入社時は地元高知の勤務だったようだが、この頃には同社大阪支局へ異動している模様。
5月
大阪で探偵趣味の会・第二回の集まり。乱歩・井上勝喜、出席。
大正15年(1926年)
1月
乱歩、東京に転宅(牛込区築土八幡町)。
6月
乱歩、ラジオ出演のため来阪。それに伴い、井上勝喜と一緒に神戸の横溝正史を訪ねる。
昭和2年(1927年)
乱歩、3月より一年間ほど休筆して日本各地を放浪。
秋から冬にかけて関西に滞在。大阪に住む井上勝喜を訪ね、文楽などを楽しむ。
昭和3年(1928年)
3~4月
乱歩一家、戸塚町に仮住まい。上京した井上勝喜がこの家に暫く滞在する。
昭和4年(1929年)
5月(『貼雑年譜』鳥瞰図を参照)
乱歩、平凡社版『世界探偵小説全集』にて翻訳者を江戸川乱歩名義で刊行するコナン・ドイルの巻を代訳してもらうため、井上勝喜を大阪から呼び寄せる。
高知新聞創設者の一人である富田幸次郎が明治41年(1908年)衆議院議員に当選した際、その時の東京の住居を高知新聞の東京支局として開設したとの情報(☜)がある。であれば、昭和4年の段階で高知新聞東京支局はそれなりの人員を抱えて稼働している筈。
勝喜は乱歩の要請を受けて、大阪支局から東京支局へと転勤させてもらったのか、あるいは大阪支局の仕事をこなしながら度々上京していたのか、それとも一度高知新聞社を辞めて無職の身で東京にやってきたのか、断定できる資料は無い。昭和4~7年の間、勝喜は乱歩の助手的な仕事を継続的に請け負っており、東京~大阪間で離れてそのようなことを続けるのは些か無理がある。
昭和6年に『江戸川亂歩全集』の仕事を手伝う際、勝喜は平凡社から月給を得ている。高知新聞社から給料をもらいつつ、一方で平凡社より月給を出してもらったら、二重給与になってこれまた問題がありそう。乱歩が勝喜の実入りを気にしている点から考えても、勝喜は一旦高知新聞社を辞めたと考えるのが一番自然に思える。ともあれ勝喜が大阪から東京へ移住したのは間違いないだろう。
8月
乱歩、自分名義の短篇「渦巻」を井上勝喜に代筆させる。
昭和6年までの間、博文館の雑誌『朝日』『文藝倶楽部』『講談雑誌』には井上勝喜が創作したと思われる髷物小説がいくつか存在する。勝喜は作家を志したらしいが、自分の力だけではとても生活できない。しかし平凡社版『世界探偵小説全集』におけるドイル/江戸川亂歩(訳)の巻を代訳したことにより、勝喜は一年暮らせるぐらいの収入を得た。
この夏、乱歩一家は避暑目的で鎌倉に家を借りて過ごし、そこに勝喜も来訪。
昭和5年(1930年)
8月
乱歩、昔からの旧友である二山久を助手に雇う。平井家に住み込みで月給五十圓。
しかし、翌年1月に口論となって決裂。
では井上勝喜はどの程度の助手だったのか?
『貼雑年譜』のスクラップ記事によれば、のちに二山は報知新聞の記者になっている。
11月
乱歩名義の天人社版『世界犯罪叢書 第二巻 変態殺人篇』が刊行。
これも井上勝喜の代作と云われている。
昭和6年(1931年)
年初
乱歩、平凡社から『江戸川亂歩全集』の企画を持ち込まれ承諾。
井上勝喜を附録雑誌『探偵趣味』の編集者に推薦。
十三ヶ月の間、平凡社から勝喜に支払われた月給は七十圓。
5月
井上勝喜、結婚。この時の費用は全て乱歩が負担。
昭和7年(1932年)
2月
森下雨村の博文館退社に際し、東京にて「森下雨村氏の会」開催。乱歩、井上勝喜出席。
3月
乱歩、全ての連載が終了したのを機に休筆宣言。
5月
平凡社版『江戸川亂歩全集』完結。この時点で乱歩の周辺から井上勝喜の情報が無くなる。
昭和8年(1933年)
4月
乱歩、博文館を辞め無職となった山本直一を12月まで助手に雇用。
(任意勤めで月給五十圓)
もうこの頃には、井上勝喜との繋がりは完全に消滅してしまっているようだ。
宮本和歌子によれば、この年刊行された『ディスク年鑑』(グラモヒル社)にレコード愛好家として井上勝喜の名前が載っているそうだが、この文献を自分の目で確認しなければ勝喜が高知に帰っているのか否か判断できない。
昭和10年(1935年)
この年に刊行された杉指月著・中島成功編『杉指月集』に井上勝喜の寄稿文「杉さんの横顔」があって、その中に「僕が高知新聞社へ入社してから既に十年以上になる」という発言が見つかると宮本和歌子は言う。
昭和16年(1941年)
高知新聞社と土陽新聞社の合併話が持ち上がり、合併協定に際して作成された人事案大綱に体育部長として井上勝喜の名があるとのこと。 ◆1
昭和38年(1963年)
この年刊行された『高新シリーズ7 土佐人物山脈』には、高知市錦川町在住/元高知新聞記者/井上勝喜(当時六十八歳)の談話が掲載されていると宮本和歌子は言う。
宮本和歌子が今回引用している一連の高知ローカル文献など、よく見つけ出したなと思う。とはいえ、こういう風に一覧にして、乱歩が書き残した井上勝喜の足跡に宮本の新発見情報をひとつひとつ当て嵌めてゆくと、しっくりこない点が多くて頭が痛い。実はワタシ、井上勝喜とは全然関係無く、明治生まれのある人物のちょっとした年表を以前作成したことがあるのだが、様々な資料に点在するデータを拾い上げて年代順に並べてゆくと、どうにも矛盾する箇所が出てくる事を思い出した。昔の人の記憶に頼った発言は必ずしも正しいとは言えないから、ひょっとすると宮本が発見した文献もそうなのかもしれない。
とにかくこれだけ近しい間柄だった乱歩が、自分と勝喜のどっちが年上かを間違えるだろうか?また団子坂で金に困りながら乱歩と同居している筈の勝喜が、同じ時期に四国で少年野球チームの監督をしているとは思えない。文献◆3は、本来大正6年だったものを大正9年と誤記してしまっていると私は推測する。
更に高知新聞大阪支局勤めをしていた勝喜が、乱歩に呼ばれて三年ほど東京で本職を持たぬ生活を送っていたようだが、一方では昭和10年の文献にて「僕が高知新聞社へ入社してから既に十年以上になる」と書いており、これも辻褄が合わない。あの頃の高知新聞社に三年もの休職制度があったとは考えられないし、仮に昭和4年の段階で一度新聞社を辞めたとして、三年後そう簡単に復職できるかなあ?
という訳で、納得のゆかぬところは多いけれども、とりあえず井上勝喜が高知の生まれであり、高知新聞社員として勤め上げ、音楽・スポーツを好む人物であったことは素直に受け取っておくとしよう。
(銀) 話は『大衆文化』第三十一号に戻るが、今回の内容は楽しめた。このところの研究センターは著名人と乱歩を絡めた企画が目立つけれど、そういうのは要らない。芦辺拓の講演会などやるヒマがあったら、中相作の作る乱歩本に匹敵するレベルの書籍を一冊でも作って頂きたい。
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