2021年7月3日土曜日

『折蘆』木々高太郎

NEW !

春秋社
1937年11月発売



★★★      評価に困る代表作




木々高太郎の書く小説の一面として(作者はそんなつもりじゃないのかもしれないが)登場人物は誰もみな emotional さがダイレクトには伝わってこず、あたかも能面のようにヒンヤリとした表情の演者達が織り成す舞台劇のような手触りがする。冷たい炎とも呼べぬ本作の空気感など、傑作か否かはさておき正に木々ワールドの好サンプル。

 

 

〝折蘆〟とは、パスカルの言葉を引用して登場人物の有り様を形容したタイトル。他にも作中にチュッチェフだとかストリンドベルヒとか出てきて、理論武装ならぬ知性武装をしてしまうのもこの人の特徴。90年代に再結成したYMOが『テクノドン』を制作した時坂本龍一がウィリアム・バロウズやウィリアム・ギブスンを参加させた例がそうだったように、ユーザー(YMOにとってのリスナー/木々にとっての読者)からすると、たいして必要の無い作意だと捉えられがちではあるが。

 

 

これは天下の『報知新聞』に半年間連載した、比較的初期の意欲作。ということは『新青年』のように探偵小説に好意的な読み手ばかりではない大舞台で勝負しなければならなかった長篇でもある。上り坂にある探偵作家はそのような場合、持ち駒の飛車角つまり最も売り出したい自分の探偵キャラを惜しげもなく投入して読者を獲得しようと目論んでも不思議ではない。ところが、この長篇では志賀司馬三郎を一歩引かせた位置に置いて事件を担当させず、大心池章次も一瞬名前が出てくるだけというキャスティングからして非常に変わっている。


 

                   



東儀四方之助は大学卒業後も研究室で愚図愚図していられるような生活が許された恵まれた環境にあり、嘉子という女と結婚はしたが独立もせず親の家に同居したまま。嘉子がどうにも気が利かない妻ゆえ、いつも東儀はムスッとしている。怠惰な日常から脱するため東儀は私立探偵事務所の開設を考える。最初の相談者が訪れるのだが長くなるんでそこは省略。友人の岡田警部から声を掛けられ、彼は新たな殺人事件の捜査に参加する仕儀に。

 

 

銀行家・永瀬貞吉が針金か何かで首を絞められ身体中を刀傷だらけにされて自宅の一室で死んでおり、軒下の土の上には誰かが小便をした跡が残っていた。永瀬家には脳溢血で会話もままならない貞吉の父、肺病で死期が近そうな貞吉の弟、運転手の牧山をはじめとする使用人らがおり、弟の友人など第三者の出入りもある。東儀を戸惑わせたのは自分が昔つきあっていた節子という女性が現在は貞吉の妻になっていることだった。


 

                    



この東儀が実に木々作品らしいのだけど頭でっかち気質で好感度に欠け、物語冒頭から志賀博士の紹介で自分を頼ってきた相談者に対し〝上から目線〟で接しているように映る。更にその相談者・福山みち子がまたハッキリしなくてモゴモゴモゴモゴしているものだから〝いらち〟な読者は「はよテキパキ喋れよ」とジリジリしそうな滑り出しだ。

 

 

さて改めて申すまでもなく木々は本格派の作家ではない。一見なんとなく本格っぽく大きな動きも作らず事件の経過を描いてはいるが、手掛かりや伏線を提示して読み手に謎解きの挑戦を仕掛けるような fairness は望むべくもない。もっとも最初から最後まで内向きにモゴモゴしている訳ではなく、警察と東儀が寝たきりの永瀬の父を聴取をする際節子が通訳として仲介になるシーンでの、会話ができぬ老人の真に伝えたい事を節子は果たして包み隠さず通訳しているのかという心理的疑惑が渦巻くサスペンスはなかなかの名場面。

 

 

そして本格ミステリらしい手順を踏まず一旦事件は解決したかに思えたのだが、皮肉などんでん返しがあり東儀は探偵としてだけでなくひとりの男としても一敗地に塗れ、普通の探偵小説には見られぬ恥ずかしい結末に終わる。私は最初からこの主人公・儀四方之助がいけ好かなかったから、このエンディングは快哉を呼ぶもの(?)だったけれども、世の読者はどのように感じただろうか。



 

            
       「折蘆」も収録されているベリー・ベスト・オブ・木々高太郎




芸術的表現というよりもインテリ臭が鼻に付く問題点はどうやっても拭い去れず高評価は難しいけれど、上に述べたサスペンス及びどんでん返しの結末、この二点は認めたいので★3つあたりが妥当かな。それでも木々の良いものを集約した『日本探偵小説全集 〈7〉 木々高太郎集』 (創元推理文庫)には本作が選ばれているのだから考えさせられることは多い。でも、この文庫の「折蘆」以外の収録作の殆どはどれをとっても名作ばかりだし、逆の言い方をすれば「折蘆」をスンナリ受け入れられるのなら、その読み手は木々作品全体にアレルギーを感じず没入できるのではないか。


 

 

 

(銀) とどのつまり読み終わった後で木々が一番書きたいのは何だったのか、その解りにくさが厳然として残る。もしも本作の主題が東儀四方之助の挫折だったとすれば探偵小説にする必然性はあっただろうか?いや、無い。「人間を描きたい」と口にする探偵作家は木々の他にも確かに居た。思いっきりpositiveに解釈するなら、小栗虫太郎や夢野久作のように木々高太郎もまたオルタナティヴ探偵小説の担い手だったと評価もできようが、日本探偵小説に通常使われる演出やストーリーテリングと比較してしまうと相当違和感を抱く作品であるのは言を俟たない。

 

 

本日の記事の書影に使っている初刊本は木々が自ら装幀しているみたいで、函から出したハードカバー本体の〈表1〉にはご丁寧にも「私もまた、物思ふ蘆でございました。しかも、その蘆は、折れ葉となつて了つてから、初めて物思ふやうになつたのでございます(四七八頁)」とクライマックスの一行が刻印がされている凝り具合で、こんな所にも芸術性のアピールが見られる。



どんなに解りにくい作品であろうとも、日本人はエライ人の言うことに流されやすいから、戦後虫太郎と久作が再評価されたように、木々にもしつこく支持するキュレーターがいたなら、もう少し歴史は変わっていたのかもしれない。度々書いているが今木々の新刊が出そうな気運が無いのは残念だ。「折蘆」みたいなのもあるけど木々にも面白い作品はあるんだって。『「新青年」趣味』の木々特集を後押しするような記事を書くつもりが、それに見合う内容にはならなかったけれど、横井司ら数少ない木々研究者の動きは今後も見守っていくつもり。