十蘭最期の様子は、癌のため「肌色の月」完成目前で斃れた夫に代わり物語を締め括ってくれた幸子夫人記すところの、なんとも身につまされる闘病記に詳しい。それを受け、中井英夫が万感の思いを込めて寄稿した中公文庫版『肌色の月』解説がまた素晴らしく、十蘭ロスの読者へ伝えなければならぬ心情をたった7頁で余すところなく表現している。評論家を名乗っているのに作品内容を咀嚼した解説が一切書けない日下三蔵。本来なら(中井の名文には遠く及ばずとも)自分自身で力のこもった文章を書くべきだろうに、くだくだ理由を付けてまたも他者の解説を流用、どこまで行っても書誌データしか書けず。
本書を読んだ人は、殺人現場での〝むせっかえるような屠殺場の匂い〟という表現があるため「金狼」の収録をやめてほしいと日下に迫った光文社の姿勢を「???」と思ったに違いない。当Blogでは言葉狩りによって作品をスポイルされた本の例を幾度も取り上げてきた。その中から光文社文庫版『江戸川乱歩全集』にて特にこの種の食肉関係団体からの抗議を恐れ、【皮屋】【屠牛】というワードがこっそり消し去られている事実を述べた記事二つ、下段に貼ったリンクより御覧頂こう。
2020年6月27日付記事/『江戸川乱歩全集第5巻 押絵と旅する男』 ☜
結果として本書(光文社文庫版『肌色の月』)は日下三蔵の編者解説とは別に、〝うちの会社は差別や人権に対し軽々しい態度で昔の小説を復刊してるんじゃありませんよ〟と宣言した《本書中の差別表現について》と題する3ページのお断りを編入し、それを事前に関係団体に見せOKをもらうことで、目を付けられていた「金狼」を含んだ形での発売が可能になったそうだ。とりあえず作品や表現が潰されなかったのは幸いだったけれど、気分は晴れない。言葉狩りや作品削除を免れたにもかかわらず良い評価にする気が起こらなかったのは、後段で述べる不快なニュースが飛び込んできたせいもある。
最近の記事で「その手の本は一切買わないようにしているからかもしれないが、言葉狩りは2010年以前に比べると少なくなってるような感じがする」と書いたのはワタシの浅はかな錯覚だったようで、20年前に同じ光文社が『山田風太郎ミステリー傑作選〈2〉』で「帰去来殺人事件」を抹殺してしまったのと同じ愚行が再び起こる可能性は今でも変わっていなかった。常々私が脅しに屈する出版社を批判しているため、もしかして出版社だけを厳しい目で見ている人がいるかもしれないけれど、元はといえば差別/人権を理由に作品削除や言葉の書き換えを求めてくる団体がいるから、このような問題はいつまで経っても無くならない。そこで出版業界事情を知りえぬシロートが思い浮かべる三つの疑問。
➊ クレームにビビって自主規制を行うのはたいてい大手出版社。そこまで大手ではない国書刊行会などで言葉狩りをしている気配は無い。もっとも三一書房やコスミック出版の本に言葉狩りはあったから、必ずしも大手以外の出版社の本が全て大丈夫とは言い切れない。クレームを言ってくる団体が標的にするのは決して大手出版社だけではない筈なのに、自主規制などせず正々堂々と本作りをしている人達はいる。大手出版社の弱みは民放テレビ局同様、クレーマーに暴れられて広告収入が得られなくなると困るから?それともポリコレ病にかかって正常な考えができなくなっているから?
何故どの会社も確固たるポリシーを持って本を作らないのだろう。前にも書いたけど同じ出版社でも、ある本では〝気違い〟というワードをそのまま通していたかと思えば別の本では言葉狩りしていたり、一貫性が無いのはどうして?結局のところ担当する編集者及びその上司がクレームを畏れてすぐ自主規制に走る人間か、あるいは徹底的にオリジナル表現を守り通そうとしてクレームに立ち向かう人間か、そのどちらに当たるかで本のテキストの信頼度も月とスッポン並みに違ってくる。
➋ 最初からクレームが来そうなことが予想できるのなら、本書『肌色の月』のように周到な〝断り書き〟を用意しておいて、その都度、本の末尾に付けておけばいいものを、それをしない出版社や編集者が多いのは、単に面倒だと軽く考えて作品に愛情を持たず本を作っているから?
❸ 本だけでなく昔のTV番組のソフト化/再放送とかにもクレームを付けてくる団体は時として暴力的に脅してくる・・・なんて話も聞く。もし今でもそんな行為が行われているのなら、寧ろそういう集団こそ逆に訴えられてしかるべきじゃないんかい?
先日ネットニュースで、欧米の出版社がアガサ・クリスティー作品に対して昨今不適切だと思われる表現部分を一斉削除、そういった流れは今後も増えていきそうだと報道していた。正にキ・チ・ガ・ヒ・ザ・タというしかない。クリスティー社だかクリスティー財団だか知らんが、彼らはこれを認可してしまったのだろうか?この暴挙が収まらないかぎり、私はもう二度と言葉狩り英文テキストを底本にしたクリスティー新訳本など、一冊たりとも買うつもりはない。