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竹書房文庫 日下三蔵(編)
2020年7月発売
★★ 異常心理に感情移入できず
「ぼくらの年代になると、鮎川(哲也)くんぐらいまでしかほんとにぴったりしないんだ。」
生前、横溝正史がこんな事を語っていた。その通りだと思う。ワタシにとって日本における探偵小説と呼べるものは、明治末~大正を経て昭和20年代までにデビューした作家が(ごくごく一部の例外を除き)昭和40年までに書いた作品ではないか、と。だから読書対象を上記の範囲に当たる作家・作品にしか手を出さないようにしているし、それ以降のものを読んだところで頭が受け付けないというか、さして感銘を受けないのだ。
小説が時代と不可分一体なのは、日本だけでなく海外も一緒。人間に貧富の差が有り過ぎず無さ過ぎずなぐらいでないと、王と大勢の家来の二種類しかいないような世界ではお話にならんし、文明の近代化がある程度なされてなければ推理も捜査も出来ない。かといって社会がデジタルになってきたらきたで人間の思考の在り方が随分変わってくる。
本書巻末にボーナス収録されている昭和52年頃の山村正夫との対談にて森村誠一曰く、
「現代に即した推理小説は、だんだん書きにくくなってきているの。例えば容疑者が浮かぶよね、(中略)コンピューターで身元を割り出せるわけね。(中略)昔はその時点で不明にしといてよかったんだけど、いまは調べる手段がいくらもあるからね。」
そういうことだ。敗戦の痕が残っていた昭和30年代迄の日本なら、まだなんとか探偵小説の舞台としてギリギリ成立するかもしれないが、高度成長と東京オリンピックを境に旧い時代の面影は一掃され、国民は一律みな中流階級者になっていくため、もうそこに探偵小説の題材は生まれ得ない。
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山村正夫は昭和24年、若干18歳でのデビュー。このスタートは上記に述べた探偵小説の時代を考慮しても遅くはない。江戸川乱歩の〈本格派〉志向グループ一員と見られがちだが、〈文学派〉の作家達とも友好な関係を保っていたのは『わが懐旧的探偵作家論』『推理文壇戦後史』から一目瞭然。本書を読むと文章的にとても上質できめ細やかに書かれているし、昭和28年頃に丹羽文雄のもとで純文学を学ぼうとした過去を鑑みても、木々高太郎率いる〈文学派〉探偵作家のひとりと呼んだって差し支えないぐらい。
ここに収録されている作品は当時の社会性をストレートに描かず、思い切り全然違う遠い古代の異国設定を持ってきたり、アプレゲールとも言えないような異常心理を扱うことで、上記に書いた時代の制約みたいなものから逃れようとはしている。
ただ、ちょいと陰鬱過ぎやしないか。本書の短篇が書かれた時期は「ノスタルジア」を除けば、みな昭和30年代。にしては、同時代の探偵作家と比べ現代(令和)の感覚で読んでも山村の文章に時代的なズレはそれほど無い。この点は〈評論家〉という肩書のオッサン達なら褒めるところかもしれないが、昭和の旧い風俗・風習を好む私には逆にそれが美点に受け取れないのだ。
探偵小説に猟奇・凄惨・変態的行為はよくある光景で、大人の御伽話でもある訳だから、例えば小酒井不木の残酷医療ミステリのような現代のリアリティから少し離れた旧い世界観の中で描かれる heaviness なら非現実エンターテイメントとして楽しめもする。
しかし本書の中での heaviness は山村の文章があまり旧さを感じさせないが故に、妙に嫌なリアル感を醸し出し物語の中に自分の気持ちが入り込む余地が無い。❛人の意識がまだのんびりしていた時代のギスギスしていない空気❜ を作中に漂わせていないと、いくら探偵小説といえども ❛悪のマインド❜ は単にエグいだけの厄介者でしかない。
(銀) 個人的な趣味でいうと全篇古代ローマ譚であるpart Ⅱより、まだpartⅠのほうがマシ。(「part Ⅱは要らん」という人は古書で安く角川文庫版『断頭台』を探した方がお得 )
そのpartⅠでも、〈「短剣」の主人公・岳夫に最終的に殺されてしまう露子〉〈他人に愛されると窒息してキレる「暗い独房」の紘一少年〉〈聖女のような心と躰を持つ月姓聖名子を惨殺する犯人〉、どいつもこいつも理解の範疇の外にある異常行動が、我々の生きる社会で実際に発生している狂気の事件と地続きに思えるほど現実的で、よく書けてはいるんだけど自分の趣味には合わなかった。
バブル以降に生まれた若い世代の読者からしたら、本書なんかより横溝正史「本陣殺人事件」の犯行動機のほうがずっと異常な心理に思うんだろうな。
強いて言えば「女雛」にだけは日本的なロマンティシズムがあるけれど、いくら昔の高知の漁村の話ったって、若い娘に立ったまま小便をさせるのには萎える。あ、でも本書の装幀仕事は悪くない。