2024年5月31日金曜日

『安吾探偵事件帖-事件と探偵小説』坂口安吾

NEW !

中公文庫
2024年5月発売



★★★  『日本の黒い霧』と安吾の時評は全然別個のもの





❆ 金閣寺放火事件/日大ギャング事件/築地八宝亭事件/チャタレイ事件・・・占領下の日本で喧しく騒ぎになったトピックに物申す時評が多くを占め、その中には当Blogでもおなじみ帝銀事件/下山事件も含まれる。

 

 

帯の惹句がまぎらわしいのだが、帝銀事件/下山事件を取り上げているからといって、『日本の黒い霧』の中で松本清張が闇深い怪事件を相手取り、材料を集め推理を組み立ててイデオロギー的にすべて米国の仕業だと結論付けたような、一方向に固定したアティテュードはこの時評には見られない。

坂口安吾は根無し草の風来坊気質。自分を探偵小説家だとは1ミリも思っていないだろうし、あるのは無頼な文士としてのプライドのみ。権威主義もきっと小馬鹿にしていたに違いない。

 

 

帝銀事件や金閣寺の放火をおひゃらかすように受け流したかと思えば、孤立殺人事件と題された老夫婦坂本威郎・為子殺し(195167日に発生した犯罪らしいが、生憎一度も耳にしたことがない)に対して素人探偵よろしく知見を述べたり。困窮する事件の謎を推理する安吾よりも、一個の人間を見つめる彼の視線のほうに私は興味が湧く。こちら ☟ を御覧頂こう。 


 
以下、本文からそのまま引用するのではなく、要旨をエディットさせてもらった。
 
〝よく事件が起こると、警察の調べに対して民衆は、自分の記憶にある疑わしい人物の身なりを事細かに申し立てる。それはいいのだけど、ホンの数分遭遇しただけの見知らぬ誰かの外見を、我々はそこまで正確に記憶していられるものだろうか?〟 ~「切捨御免」より

本当にそう思う。例えばアナタは、通販サイトで買ったものを昨日自分の家に届けに来てくれた配達員の風貌をどこか一箇所でも覚えていますか?私なんて何ひとつ覚えてないな。また前日、道ですれ違った未知の人物があったとしよう。誰が見ても優れたルックスだったり自分好みの異性(同性愛の人ならば同性)だったり、あるいは相当物騒な雰囲気を醸し出してるヤバそうな奴とか、そういうケースなら脳のセンサーが発動して例外的に記憶しているかもしれないけども、大抵すっかり忘却してしまうのが普通じゃありませんか?そんな風に人間の記憶なんてアヤフヤで頼りなく、過度に信じるのは危険だという話。 

 

 
 
〝人は極度の孤独感に苛まれた時、最も好色になる(SEXを求める)。〟
~「孤独と好色」より

轢死の数時間前、五反野をフラフラしていた下山総裁が替玉ではなく本人だった場合を想定しての発言だが、これも卓見。自分がパンパンを買い漁った実体験を引き合いに出し、下山総裁の立場を慮る安吾の人間観察は、NHK『未解決事件』file.10 「下山事件」よりずっと説得力がある。家庭や仕事のがんじがらめな足枷、どうすることもできない孤独、そういったものに追い詰められた時、なぜか人肌恋しくなる衝動に心当たりのある人は少なくない筈。

余談だが、三越で行方不明になる以前にも下山総裁には三国人に睾丸を蹴られる騒動があったことを安吾は書き残している。『日本の黒い霧』や『謀殺・下山事件』に載っていなくて人の記憶から消えていった出来事は沢山あるんだろうな・・・と、つくづく思った。







❆ 時評以外には、探偵小説に関するエッセイを数本収録。
【矛盾だらけの「下山事件」】【『資料・下山事件』】の記事にて、下山総裁自殺説を強硬プッシュしたグループの一人として紹介した中舘久平、そして江戸川乱歩と安吾、この三人の鼎談も読める。日本の探偵作家で安吾が褒めているのは戦後の横溝正史、初期短篇の江戸川乱歩。高木彬光にも僅かながらの期待が見られる。「蝶々殺人事件」は高評価作品にもかかわらず、「推理小説について」の中で〝なぞのために人間性を不当にゆがめている〟と言って角田喜久雄「高木家の惨劇」と共に苦言を呈す。とりわけ小栗虫太郎の衒学まみれは腹に据えかねるご様子。




海外ミステリだとクイーンとクリスティは立派だが、カーは〝意外を狙いすぎて不合理が多すぎる〟と、バッサリ。どんなに驚天動地のトリックでも、あまりに作り物めいて現実味の無いものはダメみたい。そして最後には「感想家の生まれ出るために」という文章があり、こんな事を安吾は述べている。

〝批評家なんてものじゃなく、感想家というものは有ってもよいと私は思う。
感想家は、文学者、作家じゃない。思想家でもない。つまり読者の代表だ。大読者とでも言ってよかろう。
(中略)
感想家、大読書家は当然ひとり楽しむ世界だから、これ又、一人一党、ただ自らの感想があるべきのみで、党派的読書家などというものは有り得ない。〟




私なんてまさに感想家の末端だし、安吾の言は特段変わったことでもない。しかしながら、ネット上で私が読んだ本に対して何か感想を書けば「悪意がある」だの「銀髪伯爵は自分のアンチ」だのキャンキャン「X」で吠えたてるザコがいて、中には「お前が本を作ってみろ」と絡んできたのもいる。どういう連中か知りたい方は私の名前を検索してネットで探してみて下さい。

こちとら自腹で版元と著者が希望する価格を正しく支払って本を読んでいる。片やこういう手合いは持ってる本を一切読みもしないのに、わざわざ私が本を作ってやる必要がどこにあるのか、知りたいものだ。

世の中にはミステリも含め、あらゆる趣味のジャンルで(たとえ否定的な意見であれ)自分の思ったことをネットに上げる一般人はゴマンと存在する。多くの人の目にふれるAmazonのレビュー欄へも今は投稿していないし、「X」で更新をいちいち宣伝することもない。そんな場末の私的なBlogにおける私の発言がどんだけ気になってしょうがないのかねぇ、探偵小説・古本界隈でトチ狂ってるあの一部の連中は? ていうか、一体いつから私はインフルエンサーにされてしまったのでしょう?



ミステリ業界の見苦しい馴れ合いなど、まさしく安吾の批判そのまま。転売すればカネになると思って読みもしない本を買い込み、社会に対応できないので他人の持っていない本の所有でマウントを取ることしか生きがいが無いオヤジども。あいつらがもし、本書を買って(繰り返すが、彼らは本を買っても読みやしないのだ)、坂口安吾について知ったような事をホザいているのを見かけたら、ぜひとも侮蔑の眼差しで嘲笑ってやって下さいね。







(銀) 上段でも触れたとおり、この春放送された『未解決事件』シリーズ file.10「下山事件」はドラマ篇で主役の布施検事を演じた森山未來の存在感以外、失望しかなかった。最初は一回分の記事を使って感想を述べるつもりだったが、只のピエロにすぎない韓国人・李中煥を9時のニュースを使ってまで重要視したり、あまりのズレっぷりに記事を書く気も失せたよ。観た方、いますか?







■ 下山事件/帝銀事件 関連記事 ■

































2024年5月27日月曜日

『新訳サロメ』オスカー・ワイルド/河合祥一郎(訳)

NEW !

角川文庫
2024年5月発売



★★★★   知られざる「サロメ」の秘密




ふと私は、招魂社の雜木越しに、その雲を見たのである。

(中略)

それはちやうど、人間の首とそつくり同じ恰好をしていた。横向きになつた鼻の高い、そして長く伸した髪の毛を、首のあたりで縮らせた、さういふ恰好の雲が、黑い雜木林のうへに、西日をうけて眞紅に、それこそ血が垂れさうなほど眞紅に燃えてゐるのである。しかもその首の切目にあたるところに、横に一文字に、別の雲が棚引いてゐるのが、ちやうど一枚の盆か皿のやうに見えるのだ。つまりその雲は、盆の上にのせて、サロメの前に差出された、ヨカナーンの首と、そつくり同じ恰好をしてゐるのだつた。

横溝正史『眞珠郞』より

 

 

 

「サロメ」に興味を抱いたのは、言わずもがな「真珠郎」経由。
誰の訳だったか忘れたけど若い時分に初めて読んだっきり丁寧に再読することもせず、この戯曲について踏み込んだ知識はゼロに等しい。ストーリーそのものは短く、今回の新訳版文庫143頁の中で、本編の占めるスペースは90頁弱。その分、私の知らなかったことを河合祥一郎が「訳者あとがき」の中で惜しみなく教えてくれる。河合は角川文庫でポオの翻訳も行っており、そちらの仕事で彼のことを認識している方もおられるだろう。



 

 

もともと「サロメ」は仏語で書かれ、パリで出版。それをオスカー・ワイルドの彼氏・アルフレッド・ダグラスが英訳したのだが、好ましからぬ問題点も生じてしまい、その英訳をワイルドは認めていないそうだ。

本書にもたっぷり収録されている、「サロメ」の象徴でもあるオーブリー・ビアズリーの美麗な挿絵が初めて付されたのが実は問題アリの英訳版「サロメ」のほうで、ビアズリーまでが〝「サロメ」を英訳させてくれ〟と申し出るもワイルドは却下したというから、話は実にややこしい。今回、河合祥一郎はそういった二つの言語に跨るテキストの課題をしっかり踏まえた上で、仏語テキストを使って新しく翻訳し直している。参考までに、ワイルドはダブリン出身。フランス語ネイティブではない。

 

 

クライマックスの生首が鮮烈で、ヨカナーンサロメにばかり目が行ってしまいがちだけども、エロド王エロディア王妃など、サロメを取り巻く登場人物の思惑を見落としてしまっては片手落ち。仏語テキストの細かいニュアンスを紐解く河合祥一郎の解説は、私のようなフランス語の読み書きができない人間にも、水が掌へ流れ落ちるようにすんなり趣旨が伝わるから嬉しい。

 

 

アカデミックな自分をアピールしたい人間の書く文章によくある傾向で、小難しい物言いばかりされてもちっとも伝わらないし、だいいち頭に入ってこない(ワタシの不味い文章など、まさにそうだ)。それとは対照的に河合の解説は、(立ち読みして字面だけ眺めると難しそうに感じるかもしれないが)読んでみたら意外と解りやすい。

 

 

角川文庫大好き横溝クラスタの皆さんが「サロメ」やワイルドに関心を持つことはまず無いだろうが、シュオッブやポオを好きな人ならゼッタイ読んだほうがいい。同じワイルド作品でも童話としてよく知られている「幸福な王子」に比べると物凄いギャップ(残虐美)があり、血の滴るヨカナーンの生首にキスして陶酔するサロメは結局どうなってしまうのか、それを知るのも楽しみのひとつである。

 

 

 

 

(銀) 本書そのものは満点。唯一の汚点、角川本の帯のダサさはいつものとおり。ロバート・キャンベルが嫌いな訳じゃないけど、オスカー・ワイルドが同性愛者だからってキャンベル先生をいちいち引っ張り出してくるこの貧乏臭さがとことん恥ずかしい。

 

 

書籍にレコード、CDに映像ソフト・・・日本のオビ文化は悪いものじゃないさ。でも、本の帯にかなりの確率で載っている著名人の推薦文、こんなんが本当に売り上げアップに影響するのか?私などめったに角川の本など買わないのに、たまに買った本に限って超ダサい帯だったりする。





■ 海外幻想小説 関連記事 ■























2024年5月24日金曜日

『シシリアの貴族』バロネス・エムムスカ・オルチイ/上塚貞雄(譯)

NEW !

博文館文庫
1939年8月発売



★★     ホームズ時代の徒花




大英帝国を代表する名探偵シャーロック・ホームズの尋常でない人気を受け、雑誌の編集者から「ホームズみたいなのを書いてみない?」と勧められてバロネス・オルツィが着手したのが隅の老人シリーズ。ドイルの作家活動期間とオルツィ夫人のそれとは、六歳年長のドイルが若干先行しているとはいえ、ほぼ重なり合う。

 

 

弁護士パトリツク・マリガンそして物語の語り手でもある相棒のマツギンスをメインに据えた十の事件簿は、隅の老人シリーズより後に発表されたもの。パトリツク・マリガンの綽名を上塚貞雄(=乾信一郎)危機一髪君と翻訳していてコメディー・タッチのミステリに間違われそうな呼び名だが、笑いの要素は無い。


「サルタシ森の殺人」

「シシリアの貴族」

「ダフイルド家爵位事件」

「カザン眞珠」

「ギブスン少佐事件」 

 

「倒の〝五〟」

「土耳古石のボタン」

「モメリイ家相續事件」

「マートン・ブレビイの慘劇」

「ノリス夫人事件」


そして本書のどん尻には隅の老人シリーズから一篇、「地下鐵の怪事件」が中途半端なオマケのように入っている。この文庫のアーリー・ヴァージョンにあたる博文館版世界探偵小説全集21『オルチイ集』には上記の十一篇に加え、隅の老人シリーズもの「バーミンガムの殺人」「エリオツト孃事件」「老孃殺し」「ノヴエルテイ劇場事件」「トレマーン事件」「行方不明」の六篇が収録されていた。

 

 

昔の旧訳は大好きなクチなんだけど、パトリツク・マリガンとマツギンスのコンビはホームズ&ワトソンのジェネリックにしか見えず、どうもそれが気になって困る。ある事件では二人が乞食に化けるのだが、まるっきりそっくりなシーンに描かれている訳でもないのに、ホームズ物語の影がぼんやり透けて見えてしょうがない。おまけに、この上塚貞雄訳危機一髪君シリーズは抄訳らしく、その刈り込みが作品をスポイルしているのかな?

 

 

マリガンのもとに持ち込まれる犯罪まで全部が全部安直だとは言わないけど、主役二人のキャラ付けと動かし方にはひと工夫欲しいね。オルツィ夫人=「隅の老人」、そんなイメージの定着は確かにある。でも古めかしい冒険ロマン長篇「紅はこべ」でさえ戦後復刊されているのに、危機一髪君短篇集が置いてけぼりなのは、このシリーズが「紅はこべ」以下の評価しかされていない証拠だとしたら、少々複雑な気分。 

 

 

 

(銀) なんだろう、皮肉にもホームズ物語がいかに再読に耐えうる上質な小説であるか、そっちのほうが際立ってしまうんだよな。ホームズの時代に世に出た探偵たちは〝ホームズのライバル〟と呼ばれたりもするけれど、パトリツク・マリガン&マツギンスでは残念ながらホームズ&ワトソンの引き立て役に見えてしまって、隅の老人より見劣りがする。





■ 『新青年』歴代編集長 関連記事 ■




































2024年5月22日水曜日

『あぶない刑事インタビューズ「核心」』高鳥都

NEW !

立東舎
2024年5月発売



★★★★★   最初のTVシリーズ全51話は、今観ても面白い





 本日の隠れテーマ。
〝立東舎/リットーミュージックの出す本には、あなどれないものが多い〟
それはさておき、このところ映画『帰ってきた あぶない刑事』のプロモーションを目にする機会が多い。家の近所を歩いてたら、警察の防犯ポスターにまでタカとユージのツーショットが使われてるし、公開日5月24日の『オールナイトニッポンGOLD』には舘ひろしと柴田恭兵がフル出演するっていうけど、マジか?あの二人、七十代やぞ。

 

 

198610月から19879月までオンエアされた「あぶない刑事」の最初のTVシリーズだけは、LDBOX買って何度も観たぐらいだから、結構好きだったんだな~(未だBDに買い替えることもなく、LD所有のまま)。

でも後続の『あぶない刑事』(映画)→『またまたあぶない刑事』(映画)→『もっとあぶない刑事』(TV2ndシリーズ)→『もっともあぶない刑事』(映画)になると、〝シリアスさ〟〝サスペンス〟の邪魔にならない程度にやるべきだった〝おフザケ〟の部分が制御不能に陥り、絶妙なバランスでコンパクトにまとまっていたTV1stシリーズの良さはごっそり失われてしまう。私にとって「あぶ刑事」とは、毎週日曜夜9時に放送されていたドラマ全51話以上でも以下でもない。

 

 

『もっともあぶない刑事』のあと、ちゃんと観たのは1998年の『あぶない刑事フォーエヴァー』(TV+映画)だけか。どう足掻いたところでTV・1stシリーズの完成度を再現するのは不可能。ロングスパンな間隔を置き、その都度映画の新作が作られても「あ~、またやってるんだ」程度にしか思わない。いまさら「あぶ刑事」復活させてどうすんの?・・・・それが『あぶない刑事リターンズ』(映画)以降ずっと抱き続けてきた、偽らざる私の本音である。

ところが、何がきっかけで興味が再燃するか、わからないものだ。先月偶然見かけた新刊情報によると、舘ひろし/柴田恭兵ら出演者だけでなく、長きに亘って「あぶ刑事」を支えてきたスタッフの貴重な証言を集成した『あぶない刑事インタビューズ「核心」』という本が出るらしく、発売される前からネット上では「初期のあぶ刑事ファンこそ、これは絶対読むべき」みたいな期待感が漂っているではないか。ウーム・・・さすがに『帰ってきた あぶない刑事』を観る気にはなれんけど、この本はちょっと読んでみたい・・・。

 

 

♠ 版元の立東舎というかリットーミュージックは、2010年代に入って『ミック・カーン自伝』のような採算度外視の良い本をちょくちょく刊行してくれたり、最近では手塚治虫漫画の復刻もやっているので、チェックを怠ってはいけない出版社だ。また『あぶない刑事インタビューズ「核心」』の著者・高鳥都は1980年生まれ。TV・1stシリーズの頃はまだ幼い年齢だから、当時の雰囲気をどの程度把握しているのか微妙だったけれど、「必殺シリーズ」のマニアックなインタビュー本を立東舎か三冊出し、それらの評判は良いらしい。この出版社と著者の組み合わせでなかったら、本書を買ってみる気にはならなかったかもしれない。




♠ そんなこんなでTOWER RECORD ONLINEに予約注文しておいた本書が到着。結論から言うと、買ってよかった。スタッフ・サイドが全面協力していて、ここまで力の入った本はめったにお目にかかれないんじゃないの?あまりの面白さに一息入れる間も無く、むさぼるように一気に読み終えた。


 

再放送その他で幾度となく「あぶ刑事」を観てきた人であっても、セントラル・アーツをはじめ黒澤満/志熊研三/大川俊道といったスタッフ・クレジットに対し、何がしかの見覚えはおありだろうか?彼らの名前にビビッと反応する人でなければ、この本はディープ過ぎて咀嚼するのが少々大変かもしれない。それぐらい専門的で奥深い内容だと申し上げておく。

「あぶ刑事」立ち上げ時のスタッフにはハードボイルド・アクション時代の日活関係者が多い。それゆえ、彼らの証言を読んでいると「あぶ刑事」は日活アクションの最期の末裔だったことがよくわかる。つまりこれは「あぶ刑事」に対する検証であるのと同時に、今やその灯が消えようとしている日本産のアクション映画の検証でもあり、本書の内容を〝奥深い〟と表現したのは、そういった二重の側面を持ち合わせているからだ。






(銀) 世の中には批判する人もいるが、大川俊道が脚本を手掛けたTV・1stシリーズ第51話「悪夢」は、あれ以外には考えられない見事な最終回だと私は絶賛している。そ大川のX での最近の投稿が、本書ともリンクする興味深い内容で、X嫌いのくせに、ついついそちらも読みふけってしまった。

彼の脚本が「あぶ刑事」TV・1stシリーズにもたらしたものは、他のどの脚本家よりも大きい。大川俊道個人でも「あぶ刑事」の裏側を語り尽くした本を出してみたらどう?


 

 


2024年5月19日日曜日

『横溝正史「獄門島」草稿(二松学舎大学所蔵)翻刻』石川詩織/近藤弘子/品田亜美/山口直孝(編)

NEW !

二松学舎大学山口直孝研究室 解纜ブックレット〇〇Ⅳ
2024年5月頒布



★★★   花子殺しのあたりで執筆逡巡?




 今回の解纜ブックレットのテーマは「獄門島」。小冊子76ページ。
かつて横溝家に残存、今は二松学舎大学が所蔵している「獄門島」関連の草稿のうち、
次のものが翻刻されている。

 

 

第六章     錦蛇のやうに/一枚

第七章     てにをはの問題/六八枚

第八章     今晩のプログラム/一四枚

第十章     待てば来る来る/四枚(両面使用)

第十六章        お小夜聖天/四枚(両面使用)

第二十一章     忠臣蔵二段返し/八枚(両面使用)

 

 

山口直孝研究室によると、これらの草稿を見る限り(即断はできないが)
特に第七章あたりで横溝正史は執筆に手古摺っていた・・・そんな風に考えているらしい。


  
 

 

 「気違いじゃが仕方がない」の名文句で終わった第六章。次の第七章を始める草稿の一行目から、金田一耕助を二度も金田耕助と書き間違えている正史。全体の論理的展開にひとつの矛盾も無いよう没入していただけかもしれないが、(起用してまだ二作目とはいえ)大切な探偵役の名前を失念することもあるんだな。

 

 

最初の段階では第七章のタイトルを「文法の問題」としていたり、「アメリカのカレッヂに居た時分、金田一耕助は看護夫見習いのようなことをやっていたので、医学の心得が少々あった」旨の説明を、本章の冒頭に置こうとした様子が見て取れる。金田一に医学の心得がある説明は完成形テキストでは第八章、すなわち、頼りない医者の幸庵が花子の死体を梅の木から下ろし、動揺しながらも死亡推定時刻を確かめるシーンの後ろへと移された。


 

 

 あの戦争でイヤというほど人間の亡骸を間近に体験してきた金田一には、花子の屍を見ても大仰に驚きを見せぬ〝免疫〟があることについて、「数年間の前線生活だ/そこでは人のいのちが、腐つた魚みたいに安つぽくあつかわれた」と語るくだりを何度もブラッシュアップ。兵隊に駆り出されて皮肉にも無残な光景にいささ神経が麻痺してしまっている哀しい性(サガ)を、オブラートに包まず濃厚に示しているところなど、初期の金田一にしか見られない陰影が私は好き。

 

 

映画版『犬神家の一族』の中で、菊人形・笠原淡海の頭が犬神佐武の生首だとわかった時、石坂浩二演じる金田一耕助は一瞬腰を抜かすほど驚愕する。しかし現作におけるその場面では、本書の草稿翻刻にもあるように、戦地で人間らしさを失った光景を散々見てきているため、金田一はどんなに悪夢のような死体を目の当たりにしようとも、映画のように慌てふためく反応は見せない。石坂浩二のああいう演技は、どこまでもオーバーアクション気味に作りたがる映像分野ならではのもの。 

 

 

 裏面を利用している草稿もあって、そこには人形佐七捕物帳の「石見銀山」「狸ばやし」「緋鹿の子娘」、そして長篇「雪割草」の文章が書き込まれている。さらに野本瑠美のエッセイ「『獄門島』と枕屏風」」も収録。「獄門島」には特別の思いがあったのだろう、正史の死後、孝子夫人は味わい深い枕屏風を自分の手で制作し、健在だった頃は大切にしていたのだが、色々あって知らぬ間に破棄されてしまったそうだ。







(銀) 千光寺の古木に吊るされた花子を描写するのに、比喩として美しく怪奇な錦蛇のようだと表現した正史のセンスはお見事。鬱蒼とした木々の枝や幹にヌルヌル絡まっているニシキヘビがどんなにいやらしく無気味なものか、スマホ世代の方々は御存知?




この錦蛇に喩えたヴィジュアルなんてのは、昔の日本の話であっても、都会が舞台では成立させられない。やっぱどうしたって獄門島みたいに世俗から切り離された離島が舞台でないと、せっかくのギミックも空々しく映る。巧妙に組み立てたロジックのみならず、記憶に残る名場面の数々が「獄門島」の魅力を二倍にも三倍にも膨らませてくれるのである。








■ 横溝正史 関連記事 ■

































2024年5月14日火曜日

『放火地帯』大下宇陀児

NEW !

東方社
1955年11月発売



★★★★   宇陀児の手癖も見えてくる



〝新作探偵小説〟と謳っていても、単行本初収録はごく一部の作のみ。
結果、戦前のものから昭和30年の最新作まで幅広くフォローする内容になっている。
この年「殺人病患者」「愛慾禍」「魔法街」の三篇は雑誌に再録される機会があったため、本書にも入れられた可能性あり。以下、括弧内は初出年度と雑誌を示す。





「放火地帯」(『オール読物』昭和309月号)

本書リリースの直前に発表された短篇。四十件以上発生し続けている放火騒ぎ、加えて潔癖過ぎる少女・相原桂子が立腐れ同然の空家で首を絞められ殺されていた事件、この二つの要素を複雑にグリグリ絡ませ、クライマックスへともっていく手腕は宇陀児ならではの見事な名人芸だが、新機軸に欠ける食い足りなさも。

 

 

 

「花の店」(初出誌不明)

犯人当て小説。被害者が剣山(ケンザン)で顔を潰されているため、「おっ、顔の無い死体路線か?」と思ったりもするが、そこはまあ本格嫌いの宇陀児なんで・・・。本書の最後に二頁ぶんの「花の店」解答篇が短く載っている。

 

 

 

「綠の奇蹟」(『オール読物』昭和136月号)

難産の末に長沼康子が産み落とした赤子・喬一郎の瞳は、まるで翡翠のような緑色をしていた。その事が原因で仏蘭西人ヂョルヂュ・マルセルとの不義を疑われ、康子は一方的に長沼家から離縁されてしまう。身に覚えのない誤解を解くためには友人の加奈子そしてマルセルの証言が必要なのだが、材木座にあるマルセルの別荘で彼らは殺されていた・・・。

 

前にも紹介したように、宇陀児の戦前作品には単行本によってテキスト異同が生じているものがある。本書収録作品の中では「綠の奇蹟」に最も多く同が見られるので、戦前の単行本と比較し、特に目立つ箇所を記しておく。

)=『甲賀・大下・木々傑作選集/第一巻/惡女』(昭和13年/春陽堂書店)

)=『綠の奇蹟』(昭和17年/大都書房)


 ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬

 

良人は長沼喬助といつて遞信省の技師である。 )(

良人は長沼喬助といつて郵政省の技師である。 (本書793行目)

 

 

「あたしね、體はまだ何ともないわ。そこまではまだ行かないの。
だけど、ベエゼだけ・・・・」(


「あたしね、體はまだ何ともないわ。そこまではまだ行かないの。
だけど、あの人だつてあたしをとてもとても好きだといつたし・・・・」(


「あたしね、体はまだ何ともないわ。そこまではまだ行かないの。
だけど、ベエゼだけ・・・・」(本書8915行目)

 

 

接吻まで許してゐたとしたら(

ここまでお互の話が進んでゐたとしたならば(

接吻まで許していたとしたら (本書903行目)

 

 

鎌倉署と、神奈川縣刑事部の係官とは、(惡)(綠)

鎌倉市署と、国警神奈川県本部の係官とは、 (本書961行目)

 

 

全く、スパイつて奴は、殊にG・P・Uの派遣してゐる奴は、(

全く、スパイつて奴は、殊に某国の派遣してゐる奴は、 (本書10812行目)


 ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬


 

 

「怪異の変装者」(『講談倶楽部』昭和151月号)

夜店で古い紙幣・軍票・切手等を売って生活している畠山輝介に、自分の夫の身代わりになってほしいと頼み込む色っぽい婦人の目的は?そこまで重く血腥いストーリーでもないにせよ、こんな悪巧みを働く日本人の話を、昭和15年の世情でよく発表させてもらえたな、と思う。それだけに悪人どもの足取りがバレる手掛かりになる死体遺棄場所の発覚には、もう一捻り論理的な根拠が欲しかった。本作にも、時代の変化に対応した表現の異同あり。



)=『亞細亞の鬼』(昭和16年/八紘社杉山書店)
 

 

四谷區と麹町區との境界みたいなものになつてゐて(

四谷と麹町との境界みたいなものになつていて  (本書1494行目)


 
 

 

「殺人病患者」(『キング』昭和128月増刊号)

女の肌を見ると発作的に殺してしまいたくなる精神病の持主・鉄村由吉が、看護婦の咽喉に噛み付いて精神病院から脱走。これとてパニック・ホラーで押し切っても十分イケるのに、入り組んだ設定を拵え、いつもの宇陀児調探偵小説に仕上げてしまうのだから、苦笑しつつも感心。

 

 

 

「恋愛工場」(『新青年』昭和146月号)

恋人など居やしないのに、「いる」と見栄を張った挙句、墓穴を掘るパターンはよくある。ここではそんな人間の機微を逆手に取り、謎に繋げてはいるものの、小品の域を出ていない。

 

 

 

「愛慾禍」(『週刊朝日』昭和1061日初夏特別号)

自分より二十以上年下の、妖しい肢体を持つエロい未亡人を時間を掛けて口説き落とし、やっと結婚にまで漕ぎ着けた元・代議士の高見沢浩。悲しい哉、オイシイ話には裏があり・・・。

 

 

 

「魔法街」(『改造』昭和71月号)

宇陀児の傑作短篇ベスト20を選ぶとなると、かなりの確率でセレクトされそうな代表作。都市のアンバランス・ゾーンを描く本作の視点はどこか海野十三とも共通していて、発表の場が『新青年』ではなく『改造』というのもなかなか興味深い。

たしか戦時下の単行本には収録されていない筈だし、テキストの変動など無さそうな「魔法街」だが、ここでも微妙に違いは存在する。


(魔)=『魔人』(昭和7年/博文館)


▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬ 

 

一九――年の冬Mの市に起つた事件、といふことにして置かう。(魔)

たいへん古い事件だ。一九――年の冬、M市に起つた事件、といふことにしておこう。
(本書2661行目)

 

 

某活動俳優、アメリカ領事館付某武官など(魔)

某映画俳優、某省事務官など(本書2737行目)

 

 

筆者はも早、これ以上何も贅言を加へる必要がないと思ふ。惡夢の如きM市の怪事件は、これでもつて奇體に終りを告げたのであつた。(魔)

筆者はも早、これ以上何も贅言を加える必要がないと思う。魔法博士ゲイエルマッハは、爾来この地球上のどこへも姿を現わしたことがないと伝えられる。しかしながら、悪夢の如きM市の怪事件は、これでもつて奇体に終りを告げたのであつた。(本書3094行目)


▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬  ▬

 

 

 

 

(銀) 「放火地帯」の他に、「の奇蹟」「恋愛工場」も一度は宇陀児著書の表題作になっている短篇なんだが、そのわりに本書は(「魔法街」を除くと)Aランク級とは言い難い地味なものがコンパイルされている印象を与える。もとより宇陀児作品の中で、探偵役の比重はちっとも重くない上、本書において、事件を解決へ導く登場人物の存在感となると尚更希薄。

 

 

そこまで一見地味な作品ばかりだからこそ、良い所も悪い所も含めて宇陀児の手癖みたいなものが見えてくる。上段でも述べたように、「殺人病患者」なんて鉄村由吉をひたすら悪鬼と化して暴れ回らせ、余韻嫋嫋たる結末を迎えさえすれば、ホラー・エンターテイメントとして成立する筈なのだ。だけど人情派の宇陀児はホラーではなく探偵小説的展開にこだわり、エンディングでは、鉄村に咽喉を噛まれて普通だったら恐怖と怯えしかないはずの看護婦・篠山あさ子に、狂人に対しての憐れみを抱かせている。こういう点など〝良くも悪くも〟宇陀児らしい。







■ 大下宇陀児 関連記事 ■







































2024年5月9日木曜日

映画『散歩する霊柩車』(1964)

NEW !

日本映画専門チャンネル
2019年12月放送



★★    いわゆるひとつのB級ミステリ映画





樹下太郎が雑誌『宝石』へ発表した小説「散歩する霊柩車」を、1964年に映画化したもの。
今でもソフト化はされていない様子。

さえないタクシー運転手の麻見(西村晃)は、女房のすぎ江(春川ますみ)が複数の男と不貞を重ねている事実を知り、彼女を絞殺。自殺したテイにサクっと偽装した上で、すぎ江の浮気相手の男達から金を巻き上げるべく行動を開始する。コンゲームとは違うけど、騙したかと思えば騙されていたり、ブラック・コメディ色を纏ったミステリ映画だ。

 

 

 

西村晃は昔から好きな役者で、本作のセコい小悪党のみならず、どんな悪役/怪人を演じても、クリストファー・リーばりの風貌と、あの美声に得難いものを感じるね。声優として彼をマモー(映画『ルパン三世~ルパンvs複製人間』)にキャスティングした人は具眼の士といえるし、逆に黄門様なんぞやらせた奴は万死に値する。

 

 

 

出番はそう多くないとはいえ、西村晃と並んで目を引くのは、
まだ中堅クラスで藻掻いていた時代の渥美清
彼の演じる霊柩車運転手・毛利は最初と最後しか出てこないわりに抑えた演技が効いていて、
イヤ~な目付きと滲み出る胡散臭さが強烈な印象。

この頃の渥美は映画『拝啓天皇陛下様』でスマッシュ・ヒットを放ち、本作もトメ扱い(キャスト・クレジットで一番最後に表示される出演者のこと)なのだが、小林信彦の評伝『おかしな男 渥美清』の中で『散歩する霊柩車』は注目すべき作品扱いをされておらず、フジテレビのドラマでテキ屋の寅として大ブレイクのきっかけを掴むまで、あと四年待たなければならない。

 

 

 

麻見(西村晃)の女房・すぎ江は毛利(渥美清)よりずっと重要な役柄で、男好きのする肉感的なキャラクターの筈なんだが、どうも川ますみだと胸焼けがして困る。

いやブラックとはいえ、笑わせる要素も必要なストーリーだけに、変に整った女優だとコメディな部分が引き出せなくなるのは解るけど、ひたすら田舎臭く、でっぷりしたこの人の感じは申し訳ないけど私にはムリだな~。そこそこ許せる範囲の女優がすぎ江の役を演じていたなら、映画自体の評価もグッと上がったんだが、たった一人の配役が私には受け付けなかった。春川ますみって結局、1970年代以降の『江戸を斬る』での口うるさい女将のイメージが付き纏ってしまうね。菊池俊輔の音楽は ◯。

 

 

 

(銀) 考えてみると、声だけの演技のマモー役と同じぐらい俳優・西村晃の魅力を引き出している映画やドラマって、どれぐらいあるのだろう?怪奇キャラなんか結構ノリノリでやっていたらしく、日本にもハマー・フィルム・プロダクションのような会社があったら、西村はその道でなお一層、成功を収めていたに違いない。