☪ オールドスクールな海洋探検小説にして、ポオ唯一の長篇。ヴェルヌやウェルズより先にSFの分野をシレッと開拓していたとは、この人の先駆者ぶりも神懸かってますな。ポオの短篇から窺える神経質なレトリックは、詩的で濃密。仮にストーリーの情景描写を映像のカメラワークに喩えてみると、(同じ海を舞台にした内容でも)渦巻に呑み込まれる卑小な人間の恐怖をスローモーかつ雄大なヴィジュアルで捉えた「メエルストロウム」に比べ、人の動きの多さなども考慮してか、本作は短篇の時より若干カジュアルなフレームでもって活写。
本書に没入していると、或る特徴に気付く。(最初の数章こそ僅かにあるにせよ)登場人物同士の会話というものが全体を通して、まったく鍵括弧(「○○○○」)で表現されていないのだ。これはポオが能動的にそうしたのか、あるいは自然とそういう風に落ち着いていったのか、推測するしかないとはいえ、(オーギュスト・デュパンの登場する)論理的作品で会話の応酬を重んじているのと異なり、「メエルストロウム」や「陥穽と振子」など恐怖小説の場合、一人称の語りが優れた効果を生み出すことを偉大なるポオは実践してみせてるんだな~と、私は勝手に感心するばかり。
前半のハイライトは、咽喉の渇きや空腹によって極限状態に追い込まれた人間がケダモノと化すカニバリズム(!)の場面。とはいっても、19世紀の小説だから目を背けたくなるほど煽情的ではないが。嵐に襲われグラムプス號は崩壊、理性を失ったも同然のピムたちが死と隣り合わせの状態で漂流し続けるくだりをクライマックスに位置付け、この流れのまま幕を下ろすのも一つの選択だったかもしれないけれど、話はまだ終わらない。
(銀) 本書の訳者・岩田壽(=岩田寿)だが、ネットで調べてみても、他にどんな訳業があるのか見つけられなかった。岩田寿の訳による「ゴルドン・ピムの物語」は2006年にゆまに書房が発売した『昭和初期 世界名作翻訳全集』のうちの第二期第69巻(本体価格4,300円)として復刊されているようだが、オンデマンドなんで、おそらくそこにも彼のキャリアに言及した解説は載っていない気がする。そもそもこのオンデマンド版、今でも売ってるのかな?
巻末に付された「譯者の言葉」を読むと、以前からすでに「ゴルドン・ピム物語」は訳していたらしく、この春陽堂世界名作文庫に入ることが決まって、訳し直そうとしたのだが実行できなかったという。「ついては将来もっと良心的な改訂をしたい」と述べているが、少なくとも岩田寿名義ではそのような改訂はなされていない。
翻訳者としてどれぐらいスキルがある人なのか皆目見当もつかないけれど、戦前の翻訳レベルを鑑みても、精度がもうちょい高かったらな~、と思った。本音を言えば、渡辺啓助・渡辺温兄弟の訳で本作を読めたなら、それこそ至福だったろう。