ドイルの自伝と聞けば本書を未読の方は、シャーロック・ホームズ生みの親ばかりかSFなどでも名を馳せた作家だから、さぞ創作の裏話が満載だろうと期待に胸膨らませるだろう。しかし残念な事に小説家たる内面を明かしたり自作に関して回想する気持ちがドイルには非常に薄く、最も自信を持っていた歴史小説でさえあまり言及していないぐらいなので、正直、万人にオススメできるような内容ではない。ドイルの著書を完全読破したい人、あるいはドイル研究者向け。
船医として捕鯨船に乗り北極洋を航海した青年時代の話、ホームズばりに無辜の罪で逮捕されたジョージ・エダルジの冤罪を晴らした話あたりは、ホームズ本を所有している人ならばきっと一度はお読みになられた経験がある筈。それはともかく、この新潮文庫版解説末尾で訳者の延原謙はこんな感想を漏らしている。
悪口をいうつもりは毛頭ないが、ドイルには妙な癖があるようだ。高位高官の人とか、そうでなくても有名な人に会ったとか会食したとか、やたらに書く癖だ。大切な用件があっての事ならば話は分かるのだが、何の用件もないのにただ会ったということ、こういう人も知っているというだけのことなのだから、少しどうかと思う。
なるほどそんな気配も感じられなくはないけれど、この自伝を読んでいて私が飽きてしまう理由は文章が堅苦しいのと、大英帝国・愛をアピールする姿勢が少々強過ぎる気がするから。(〝ナイト〟に叙せられる人だから、当り前といえば当り前だが)
ドイルが生きた時代のイギリスはそれこそ帝国主義まっしぐら。英国人なら誰でも愛国心に染まっていただろうし、現代に見られる一部の日本人みたいに、自分の国をディスってばかりいる品性下劣な人間に比べれば、ずっとマシなのは確か。だからといって政界にまで打って出るようなドイルはあまり好きじゃないな。これぞ騎士道精神の延長なりと肯定する見方もある反面、シャーロック・ホームズは英国に忠誠を誓いつつ個人主義を貫いていた訳で、願わくばドイルもそうあってほしかったと私は考えたりする。そうそう、悪名高き心霊関係についてはしっかり発言しています。
ここに挙げた新潮文庫版ドイル自伝が完訳でない事は日本の研究者によって指摘されているわりに、商業出版として完訳版を出そうとする動きは全く見られない(私が気付いていないだけかもしれないが)。新潮文庫版における翻訳省略部分は新潮社編集部の意向ではなく、延原謙の判断によってバッサリ刈り取られてしまったという話。
何年もかけてじっくり訳してきたホームズ物語とは事情が異なり、『わが思い出と冒険』刊行の三年後に高血圧が原因で倒れた延原はその後、亡くなるまでの九年間寝たきり状態だったそうだから、本書に携わっていた頃から知らず知らずのうちにコンディションを崩しつつあった可能性もある。
延原謙の訳した古典海外ミステリに接して、読みにくいなあと感じたことは無い。とはいえ本書における文章の堅さはドイルと延原、ご両人とも高齢になった事から来ているのか、あるいは新しく翻訳し直したらもっと読み易くなるのか。もし新しく訳し直すとしても、詳細な註釈は絶対不可欠。