この『幽霊薬局』は長篇(◇)一作と短篇(◆)二作を収録している。
◇「幽霊薬局」
昭和の時代、住む人が誰もいなくなって立ち腐れたような家を見つけると子供達は「お化け屋敷だ、ユーレイ屋敷だ」と恐がった。ここに題された〝幽霊薬局〟という作品名はそんな意味合いに近く、他にもっとピッタリなタイトルがあるように思えなくもない。青年画家・汐見史郎と若く美しい人妻・比企栄子は謎の人物の手引きによって邂逅。栄子には無理矢理嫁がされた唾棄すべき年上の夫がいるのだが、偶然にも似通った点が史郎と栄子にはあって互いに惹かれ合うようになる。彼らにはどのような生い立ちが隠されているのか?
多くの大下宇陀児長篇に通底するラブロマンス・サスペンス。主人公汐見史郎&比企栄子の立場からしたら純愛なのだけど、ちょっと見方を変えてみれば栄子は不倫している立場でもある。「幽霊薬局」は1938年(昭和13年)に連載されており、作家が自由に小説を書きづらくなってくる年代だけど、時期的にギリギリ「不倫なんて書いてはいかん!」とお上に警告されずに済んだのだろうか。不倫という観点からすると、本作のラストはドイルのある短篇の殺人方法を想起させる。総じて特に優れた長篇ともいえないけれど、宇陀児のストーリーテリングのうまさでスイスイ読んでしまう。
◆「脫獄囚」
今日の記事のメインディッシュ。近年になって、ようやく宇陀児作品には改稿ヴァリアントがある事がちょくちょく語られるようになってきた。「脱獄囚」は何年も前に、私が初めて宇陀児の作品改稿を意識するきっかけになった短篇。この作品がどのような変遷を辿っているか、記してみよう。
A 雑誌『キング』掲載「脫獄囚」
1936年11月臨時増刊号 初出誌
これは持ってないので未見。初出誌を入手しテキストを検証してからこの記事を書こうと考えていたが、入手する前にupしてしまった。読者諒セヨ。
B 『幽霊薬局』収録「脫獄囚」
1939年1月発行 八紘社大陸版(本書) 単行本初収録
上記の『キング』を見ていないから断定はできないけれど、おそらく初出誌と同じテキストではないかと想像する。
C 『緑の奇蹟』収録「巡業劇團」
1942年5月発行 大都書房
ここでタイトルが「脫獄囚」から「巡業劇團」へと変更。いつもの如く、お上のプレッシャーによるものであろう事は想像に難くない。小見出しを比較してみる。
『幽霊薬局』「脫獄囚」 → 『緑の奇蹟』「巡業劇團」
巡業劇團 一、困つた少年
意外な贈物 二、意外な贈物
峠越え 三、峠越え
惡鬼 四、惡鬼
屍衣を着る 五、不幸な着物
エピローグ 六、結び
『緑の奇蹟』が発売された昭和17年の日本は軍事統制下にあり、『幽霊薬局』収録の「脫獄囚」にはなかった〝軍人〟だとか〝産業戦士〟という単語が目に付くようになるばかりでなく、削除され新たに書き加えられた文章もある。
D 『烙印』収録「巡業劇團」
1949年10月発行 岩谷選書 3
〝戰時中(「脫獄囚」を再び)單行本に入れることになり、内容を少し變更した。〟
〝女優に戀する少年が時局上そのままではお叱りを受ける恐れがあり、一部書き直したり題名も「巡業劇團」に改めた。こっちの題のほうがよいと思う。〟
〝内容は(この岩谷選書版では)發表當時の状態に戻した。そのうち、また書き改めたい。〟
と宇陀児は述べているが、岩谷選書「巡業劇團」の最初の小見出しは初刊時の〈巡業劇團〉ではなく〈少年と女優〉となっていたりして、そっくりそのまま元に戻っている訳ではない。
このように戦前の作品の中で、どのテキストがどのように変化しているか、探してみるのも楽しいと思う。
◆ 「殺人病患者」
宇陀児作品の中では猟奇性の濃い一品。
(銀) 当Blog における2021年11月25日付の記事にて取り上げた「街の毒草」と今日の記事の「脫獄囚」は、大人の世界をまだ知らない少年の年上の女性への思慕を描いている点で、姉妹編みたいな感じも受けますな。