2024年5月19日日曜日

『横溝正史「獄門島」草稿(二松学舎大学所蔵)翻刻』石川詩織/近藤弘子/品田亜美/山口直孝(編)

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二松学舎大学山口直孝研究室 解纜ブックレット〇〇Ⅳ
2024年5月頒布



★★★   花子殺しのあたりで執筆逡巡?




 今回の解纜ブックレットのテーマは「獄門島」。小冊子76ページ。
かつて横溝家に残存、今は二松学舎大学が所蔵している「獄門島」関連の草稿のうち、
次のものが翻刻されている。

 

 

第六章     錦蛇のやうに/一枚

第七章     てにをはの問題/六八枚

第八章     今晩のプログラム/一四枚

第十章     待てば来る来る/四枚(両面使用)

第十六章        お小夜聖天/四枚(両面使用)

第二十一章     忠臣蔵二段返し/八枚(両面使用)

 

 

山口直孝研究室によると、これらの草稿を見る限り(即断はできないが)
特に第七章あたりで横溝正史は執筆に手古摺っていた・・・そんな風に考えているらしい。


  

 

 

 「気違いじゃが仕方がない」の名文句で終わった第六章。次の第七章を始める草稿の一行目から、金田一耕助を二度も金田耕助と書き間違えている正史。全体の論理的展開にひとつの矛盾も無いよう没入していただけかもしれないが、(起用してまだ二作目とはいえ)大切な探偵役の名前を失念することもあるんだな。

 

 

最初の段階では第七章のタイトルを「文法の問題」としていたり、「アメリカのカレッヂに居た時分、金田一耕助は看護夫見習いのようなことをやっていたので、医学の心得が少々あった」旨の説明を、本章の冒頭に置こうとした様子が見て取れる。金田一に医学の心得がある説明は完成形テキストでは第八章、すなわち、頼りない医者の幸庵が花子の死体を梅の木から下ろし、動揺しながらも死亡推定時刻を確かめるシーンの後ろへと移された。


 

 

 あの戦争でイヤというほど人間の亡骸を間近に体験してきた金田一には、花子の屍を見ても大仰に驚きを見せぬ〝免疫〟があることについて、「数年間の前線生活だ/そこでは人のいのちが、腐つた魚みたいに安つぽくあつかわれた」と語るくだりを何度もブラッシュアップ。兵隊に駆り出されて皮肉にも無残な光景にいささ神経が麻痺してしまっている哀しい性(サガ)を、オブラートに包まず濃厚に示しているところなど、初期の金田一にしか見られない陰影が私は好き。

 

 

映画版『犬神家の一族』の中で、菊人形・笠原淡海の頭が犬神佐武の生首だとわかった時、石坂浩二演じる金田一耕助は一瞬腰を抜かすほど驚愕する。しかし現作におけるその場面では、本書の草稿翻刻にもあるように、戦地で人間らしさを失った光景を散々見てきているため、金田一はどんなに悪夢のような死体を目の当たりにしようとも、映画のように慌てふためく反応は見せない。石坂浩二のああいう演技は、どこまでもオーバーアクション気味に作りたがる映像分野ならではのもの。 

 

 

 裏面を利用している草稿もあって、そこには人形佐七捕物帳の「石見銀山」「狸ばやし」「緋鹿の子娘」、そして長篇「雪割草」の文章が書き込まれている。さらに野本瑠美のエッセイ「『獄門島』と枕屏風」」も収録。「獄門島」には特別の思いがあったのだろう、正史の死後、孝子夫人は味わい深い枕屏風を自分の手で制作し、健在だった頃は大切にしていたのだが、色々あって知らぬ間に破棄されてしまったそうだ。







(銀) 千光寺の古木に吊るされた花子を描写するのに、比喩として美しく怪奇な錦蛇のようだと表現した正史のセンスはお見事。鬱蒼とした木々の枝や幹にヌルヌル絡まっているニシキヘビがどんなにいやらしく無気味なものか、スマホ世代の方々は御存知?




この錦蛇に喩えたヴィジュアルなんてのは、昔の日本の話であっても、都会が舞台では成立させられない。やっぱどうしたって獄門島みたいに世俗から切り離された離島が舞台でないと、せっかくのギミックも空々しく映る。巧妙に組み立てたロジックのみならず、記憶に残る名場面の数々が「獄門島」の魅力を二倍にも三倍にも膨らませてくれるのである。








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