2024年12月29日日曜日

『續菊池寬全集第二卷/勝敗/壊れゆく珠』菊池寬

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平凡社
1934年7月発売



★★★  「勝敗」と「病院坂の首縊りの家」の因果関係





「真珠夫人」(大正9年)の成功を機に通俗路線へ転身したと評される菊池寛。彼にとっての通俗小説とは例えば(「蜘蛛男」以降の)江戸川乱歩みたいなものなのか、あるいはもっと意味合いが異なるのか、説明できるほど菊池作品を精読している訳ではない。ただそんな私でさえ、恋愛や結婚について苦悩したり翻弄されたり、貞操の危機に直面したりする女性キャラクターの話が多いことは聞き及んでいる。本書収録の長篇「勝敗」/中篇「壊れゆく珠」共、その路線にどっぷり準拠した内容だと思って頂いて構わない。

 

 

『病院坂の首縊りの家』初刊本(角川書店)「あとがき」における、横溝正史のこんな発言を御記憶だろうか?

 

〝この小説の発想はこうである。昔、もちろん戦前のことだが、新聞に連載されていた菊池寛の「勝敗」という小説を読んだことがある。おなじ年かっこうの本妻の娘と妾腹の娘が、相反発し、敵視しあいながら、一人の男を中心に勝敗を争うというのだが、どちらが勝ったか負けたかはいまの私には記憶がない。

(中略)

しかし、この腹案はその後永く私の脳裡でくすぶりつづけていた。捨ててしまうには惜しいと思いつづけてきた。それが今度「病院坂の首縊りの家」と、いささか題を改めて完成したのがこの小説である。〟

 

 

昭和67月~12月『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』連載、翌昭和7年には島津保次郎・監督/北村小松・脚色で映画化された菊池寛の「勝敗」。

 

肺炎にかかり急死した貴族院子爵・若江高道には三人の子供がいた。何ひとつ不自由の無いブルジョアな環境に育った鳥子(本妻が産んだ一人娘)。そして妾の子ゆえに、世間から高道の親族だと認めてもらえない町子と美年子(かつて小間使いだった彼女達の母と高道の愛は純粋なものであったけれど、高道の身辺整理が必要になり、別れさせられた)。町子・美年子姉妹は庶子として若江の戸籍に入れてもらえず、母方の苗字・佐伯を名乗り、日陰の身に甘んじながら暮している。

 

母の頼みを受け、父と最後の別れをすべく町子と美年子は若江の家を訪ねた。高道の出棺はもう間近、近しい親族しか死顔に対面できない。二人は血の繋がった子供だと口に出せず、初対面の鳥子をはじめ若江家の人々から屈辱的な扱いを受ける。その若江家だが、直系は鳥子唯一人しか残っていないため、華族令に従い限られた良家の男性と結婚し、養子に迎えなければ華族の地位を失う。選り好みの激しい鳥子が養子結婚の候補として付き合っているのが井上健二。名門だけあって家柄は申し分なく好青年なのだが、彼は警察に目を付けられてもおかしくない左翼活動家のマルクス・ボーイだった。

 

若江家での邂逅以来、奇遇にも再会した町子と健二。男性と知り合うきっかけの無かった町子は健二の人柄にほだされ、健二もまた、鳥子とは真逆な町子の慎ましさに惹かれ、逢瀬を重ねつつ彼らは愛情を深める。その一方、生活のため恥を忍んでダンサーの仕事に就いていた美年子は、ダンスホールにやって来た鳥子から辱めを受けていた。自分達腹違いの姉妹に冷酷な態度を取る鳥子に対し、町子は胸の内に秘めていた怒りを抑えることができず子爵夫人になる為に鳥子が必要としている健二を絶対渡さないばかりか、美年子サイドからも鳥子へ復讐せんと画策するのである。

 

 

「勝敗」の素晴らしいところは、同時代の探偵小説とは比べものにならないぐらい、登場人物が身に付けている服や小物のディティール/東京のちょっとした街並み/サービス業の相場等、昭和初期の風俗が豊かに描かれている点だと思う。以前、園田てる子の非探偵小説(☜)を紹介したが、本作はあれ以上にミステリ色が無い。しかし、さすがは菊池寛。バタ臭くなり過ぎず、日本人の好むメロドラマの嚆矢たる見事なストーリーテリングを披露してくれて、そこには何の淀みも無い。




★4つにしたかった。そうしなかったのは読み終わってモヤモヤが残るから。これから読む方の為に詳細は書かないでおくが、町子を襲う終盤の悲劇はあまりにヘビーで救いが無く、それなのに敵対してきた鳥子のほうは決定的ダメージを受けた印象が薄いままラスト・シーンに至り、突然一条の光が差したかのように幕は下りる。う~ん、大団円であれバッド・エンディングであれ、見え見えな終り方だとつまらないのは百も承知とはいえ、松沢病院での鳥子の変化は唐突だし、あの心境に辿り着くまでの過程をもう少し書き込んでいたなら・・・。併録の壊れゆく珠」にしてもカットアウトするような終わり方でね。

こうして見ると探偵小説は(基本)、犯罪が打ち砕かれて終わるのが宿命ゆえ、
憎々しく思っている主要人物が痛い目に遭わないまま終わる他ジャンルの小説を読むと、どこかムズムズしがちな自分がいるようだ。




本日の記事のタイトルは【「勝敗」と「病院坂の首縊りの家」の因果関係】としている。横溝正史が菊池寛(一般文壇)から受けたかもしれない影響については、谷口基が自著にて言及しているからそちらを見てもらうとして、上段にて引用した ❛二人の女性が一人の男性をめぐって闘争する❜ ようなイメージはそれほど「病院坂」から伝わってこず、結局のところ横溝正史のトラウマとも言うべき複雑な家庭環境の要素しか「勝敗」との共通項は感じられない。




昭和29年の時点で「病院坂の首縊りの家」の原型版「病院横町の首縊りの家」を完成させていたなら、「勝敗」のこの感じが色濃く残る可能性もあったろう。が、なにせ「病院坂の首縊りの家」はオーバーフロー気味な大作と化し、正史のイメージしていた「勝敗」的な趣向はすっかり霞んでしまう。それに、 ❛一人の男をめぐる二人の女の闘争❜ となると女版「鬼火」みたいな二番煎じになる懼れだって有り得る。ここは一度「病院坂」から離れて、〝菊池寛の「真珠夫人」が横溝正史作品に与えている影響は決して小さくはない〟と述べる谷口基の批評を頭に置き、菊池作品に接するのがベターな読み方ではないだろうか。





(銀) 江戸川乱歩が ❛一人二役/胎内回帰願望❜ というテーマに絡め取られていたように、横溝正史も死ぬまで ❛腹違いの子供達が背負う宿命❜ から逃れることはできなかった。
正史の場合は業(ごう)というしかないですな。






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2024年12月26日木曜日

『月長石』ウイリアム・ウイルキ・コリンズ/森下雨村(譯)

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博文文庫
1939年8月発売



★★★★★   原作者をも畏れぬ雨村の刈り込み




750頁以上もある戦後の中村能三・完訳版『月長石』(創元推理文庫/1970年刊)と比べ、本書の森下雨村訳はなんと1/3程度の分量にエディットされている。今更説明するまでもないが、雨村訳のコンセプトは全文そのまま訳出するのではなく、枝葉の部分を一気に刈り込み、コンパクトかつスッキリしたものを提供して、海外ミステリ読者の裾野を少しでも広げることだった。翻って中村能三訳のほうはマニアックに、上・下巻セットから 2 in 1 へとフォーマットも変遷。その 2 in 1 完訳版の本の厚みに一般読者は尻込みしてしまうのか、「冗長」などと評されることもしばしば。冬の夜長、じっくり読み込むにはピッタリの大長編だと思うんだけどね。

 

 

ウィルキー・コリンズの実働期はガボリオやボアゴベの時代。日本の探偵小説史に喩えると黒岩涙香みたいなポジションにある。古色蒼然とした恋愛観念はともかく、ミステリ黎明期の作品にしては論理的な謎をしっかり提示していて、最初からバレバレな犯人ではない。同時に、かつて英国人が略奪した民族のアイデンティティーともいうべき月長石(イエロー・ダイヤモンド)を取り返すため、どこまでも印度人たちが執念深く追いかけてくる伝奇色の絡ませ方も良い。江戸川乱歩がジュヴナイル第二作「少年探偵団」(☜)の前半部分にガッツリ引用するぐらい白毫と印度人の因縁話はコワくて、大人子供問わず読む者を惹き付ける。

 

 

個人的にはカツフ探偵(中村訳では〝カッフ部長刑事〟と表記)が出ずっぱりではなく、ヴエリンダー家の調査を解かれ、読者の前から一旦姿を消す演出が功を奏しているように思う。それと先程「少年探偵団」について言及したが、聡明ゆえカッフ探偵からもお褒めの言葉をもらうグーズベリ少年は中村能三訳の〈登場人物一覧〉に列挙されていないチョイ役とはいえ、間違いなくカートライト(コナン・ドイル)そして小林芳雄(江戸川乱歩)のプロトタイプだ。

 

 

森下雨村ジュヴナイル作品に出てくる東郷不二夫は(小酒井不木の塚原俊夫もそうだけど)スーパーマン過ぎる上、子供なのにまるで大人みたいな振舞いをするもんだから、当時のチビッコはそこに自分を投影できる余地が無く、イマイチ盛り上がれなかった。しかし、江戸川乱歩の小林芳雄になると大人ばりの活躍をする反面、子供らしい可愛げもあり不自然な少年探偵の造形ではない。乱歩は小林のモデルに「月長石」のグーズベリ少年を挙げている訳ではないが、凛々しいだけでなく愛らしさも兼ね備えていたからこそ、彼は時代を超越した人気者になれたのである。

 

 

「月長石」はカツフ探偵やグーズベリ少年のみならず、ヴエリンダー家の老執事・ベットレッヂ(中村訳では〝ベタレッジ〟と表記)など、ひとりひとりの個性が丁寧に書き分けられており、誰の視点で筋を追うかによって見方も変わってくるのではないか。本作は幾人かの手記をリレー形式に繋げながら進行してゆく。普通ならワトソン役、あともう一人ぐらいの手記に限定されるのがよくあるパターンかもしれない。けれどもここでは抄訳の本書でさえ五名以上の手記を繋ぎ合わせているのだから完訳版ともなるとかなりの人数に上り、読者に若干煩わしさを感じさせていないとは言えない。破綻を来してないからいいようなものの、完訳版のほうには無くても別に構わないパートが確かに見受けられる。



褒めてばかりじゃ何だから気になる点も指摘しておこう。とにかく冒頭で述べたとおり、雨村訳は全体の1/3ほどしか訳出されていないため、雨村訳=「月長石」だとばかり思っていた人は中村訳を読むとビックリするよ。大きなネタバレにならない範囲で一例を挙げれば・・・ヴエリンダー家の主治医・キヤンディとその助手エルザ・ゼニングス(中村訳では〝エズラ・ジェニングス〟と表記)のエピソード。

 

 

物語の序盤、キヤンディ醫師は雨に打たれたのが原因で大きく体調を崩し、後半では廃人同然なだけでなく、半ば記憶喪失にも近い状態。そこは雨村訳も中村訳も共通している。ところが助手エルザ・ゼニングスに関する部分を雨村はまるごと削除しているため、雨村訳しか読んでいない読者はゼニングスがフランクリン・ブレエク(中村訳では〝フランクリン・ブレーク〟と表記)に自分の余命は長くないことを語っていたり、どう考えても先に逝くだろうと思われていたキヤンディ醫師が最終的にゼニングスの死を看取る完訳版を読むと、結構困惑するんじゃないかな。全体のテンポは圧倒的に良いけど、「もう少し訳出しといたほうがよかった部分、あったんじゃない?」とツッコミたくなるね、きっと。

 

 

あとひとつ。✕✕✕(これはさすがに伏せとかないとマズイな)を摂取した人が精神に異常を来すのは万人の常識だけどさ。いくらシリアスな悩み事があったとはいえ、✕✕✕✕✕✕を混入させた酒を飲まされ、あそこまで突飛な行動を執るのは現代の医学的見地からすると、どうなんだろ?ここは消えた月長石の行方を左右する最大のキーポイントになるんで、願わくば完全無欠なトリックにしてほしかった。






(銀) 森下雨村と中村能三、どっちの訳が好ましいか、優劣は付け難い。ま、強いて言うなら本来は海外小説だったら完訳にすべきだと思う。ただ、【「気がせられた」「出つ入りつして」「なんど」(=「など」「~なんぞ」の意味?)「御辯舌」(=「おくち」とルビ)】といった雨村独特な言葉遣いの味は捨て難く、本書を満点にした次第。

 

 

 

 

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2024年12月20日金曜日

『海底黑人』南澤十七

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國民社
1944年11月発売



   せめて「海底黑人」がそこそこの佳作だったら




探偵小説、あるいはSFのカテゴリーに属する南澤十七の本を顧みると、なぜかジュヴナイル系が多い。『新青年』をはじめ、探偵雑誌に味のある短篇をいくつか書いていながら、大人向け創作小説を収めた生前の著書は殆ど存在せず、2000年以降マイナー作家が次々復刊の対象になる中、(横田順彌もいなくなり)この作家が話題に上る機会さえ無い。そうなってしまった原因を探るべく、本日は数少ない南澤の大人向け創作長篇「海底黑人」を取り上げる。

 

 

作者は開口一番、【どんなに非人道的であっても、戦争に勝つためには手段を選ばないのがアメリカ】【そのアメリカが仕掛けてくるであろう、病原菌爆弾を用いた細菌戦の実態を伝えるのが本作の趣旨】、この二点を強調した上で物語を語り始める。ちなみに『海底黑人』の刊行された昭和19年秋、日本はサイパン島をアメリカに占拠され、もはや大東亜戦争における現実の戦局は泥沼化していた。

 

 

稻富琢磨博士の家系は代々日本南進の急先鋒だ。アフリカの地へ渡った博士は熱帯病研究に従事置いてするものの諸外国より迫害を受け、アフリカから追放された過去を持つ。拠点をシンガポールへ移し、稻富醫院を設立した博士の研究成果が日本へフィードバックされることも期待されていた矢先、何者かの手によって博士の命は絶たれた。戦争の激化で南方から在留邦人がいなくなろうとも、故人の遺志を継ぐべく博士の妻・君江/長女・よしの/長男・武人の三人は変わらず醫院を守り続けている。そんな稻富一家を敵国イギリスは常時監視下に置いているといった状況。

 

 

ヘンテコな珍作であれ、内容的にはやはり戦時下国策高揚小説として扱われるのだろう。では、どこがどうヘンなのか、ひとつずつ説明してゆく。まず、一つめ。序文であれだけ憎むべき敵はアメリカと云っておきながら、物語に描かれる主要な敵はおしなべてイギリスであり、アメリカ人は出てこない。まあ当時の日本人からすれば〝鬼畜米英〟でワンセットな訳だから、特に問題は無いのかもしれないが。

 

 

二つめのヘンなところ。稻富武人とマライ人のセランパン、この二少年がストーリーの牽引役となるのだが、遠いインドに護送されカルカッタ監獄に幽閉されていた稻富姉弟が脱出するあたりまではスパイ/冒険色も相まって、それほどつまらなくはない。ところがその後、稻富武人たちの活躍をおざなりにしてまで軍の細菌兵器エピソードが優先されるため、武人目線で話を追っている読み手からすれば、著しくバランスを崩される。作者は序文の場で〝細菌戦をテーマにしている〟と明言していたし、日本国民を啓蒙する意味では予定通りだったのかもしれないけれど、それならそれでメインキャラの動きと細菌戦ネタを上手く両立させなきゃダメでしょ。

 

 

三つめのヘンなところ。改めて述べるまでもなく、この長篇のタイトルは「海底黑人」と名付けられている。しかし、3/4ほど読んでもそれらしき登場人物は出てこない。
〝「海底黑人」・・・って何だったんだ?〟と思いながら、全十五章のうちの第十三章まで辿り着き、ようやくその意味が解る。簡単に言えば、それなりに重要な役を担っているニグロ(黑人)の男が潜水艦を操縦して日本軍に協力する・・・ただ、それだけ。そりゃあ彼の登場は稻富琢磨博士の過去とも繋がっていて劇的ではあるけどさ、「海底黑人」が作品全体を象徴するタイトルになってるかと言えば大分ピントがズレていると思うんだがなあ。

 

 

スパイ小説/SF小説/冒険小説・・・ジャンルは何でもよかった。日本国民に知らしめたい情報を物語の中に昇華させられなかったおかげで、褒めようがない駄作になってしまったのは痛い。しかも大人向け創作小説を収録した著書となると本書ぐらいしか無いため、「海底黑人」南澤十七てな感じに低評価されてしまい、それが21世紀の復刊へと繋がらない原因になってるんじゃないかな。ジュヴナイルばかりだと、ぐうの音も出ないレベルの傑作でもない限り、復刊のきっかけにはなかなか結び付かない。逆に言えば、「海底黑人」が合格点を与えられるぐらいの出来だったなら、今日に至る南澤十七復刊の趨勢はきっと違ったものになっていただろう。

 

 

 

(銀) 南澤十七には「金鉱獣」なる新聞連載小説もありながら、完全に忘れ去られているようで残念。この人も人並みに作品の構成力さえ持ち合わせていれば・・・。




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2024年12月18日水曜日

『殺意』フランシス・アイルズ/延原謙(訳)

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日本出版協同株式会社  異色探偵小説選集③
1953年9月発売



★★★   ちょっと不安げな延原訳




初読時、出だしの訳文がこなれていないような印象を受けた。読んでいるうちに馴染んではきたものの、訳者・延原謙は「あとがき」で次のように振り返っている。

 

大きい仕事のあとで、少し休みはしたがまだ疲れが十分なおつておらず、意識的にスピードをゆるめたし、途中で転宅したりしたので、通計八ヵ月くらいかかつてしまつた。校正を読みなおしてみると、訳文の調子が前後で多少ちがつているし、文字の使いかたにも不統一なところがあり、手は加えたけれど、まだ残つていると思う。なおついでながらこの作は物が物だけに浅学な私には難解なところもあり、殊にコンプレックス関係のところなぞ間違った訳をしているのではないかと不安に思つている。(全文ママ)

 

1931年発表。本作最初の日本語訳単行本として刊行されたのが、この日本出版協同株式会社版『殺意』である。延原謙の言う〝大きい仕事〟とは月曜書房版『シャーロック・ホームズ全集』(19511952年刊)のことだろう。このあと東京創元社版『世界推理小説全集20』(1956年刊)にも延原訳の「殺意」は収録されているが、そちらは持っていないので、本書の訳出に満足してなさそうな延原が改訳あるいは微調整を行ったかどうかは未確認。

 

 

主人公エドマンド・ビクリイ学士について身勝手とか女好きとか、ボロカスにクサしている世間のレビューはよく見る。愛の無い結婚をしてしまったとはいえ、妻のジュリアは完全に夫を見下しており、心の行き場を失くしたビクリイ学士が「ぶっ殺してやる!(そんな言い方してないけど)って思うのはそりゃ当然。むしろ、小男で育ちも悪く劣等感に苛まれているわりには情人を二人も拵えてるし、そのうちの一人とは最後まで関係を保っていて、一生異性と縁の無いどこぞの書痴中高年と比べたら(イケてない男にしては)上出来じゃないの。逢引きの最中、怒って女性を殴るのはサイテーだけど。

 

 

妻殺しだけで踏みとどまっていればよかったのに、ビクリイ学士の入れ込んでいた美人娘・マドリンがまさかの豹変。こうなると学士の暴走は止まらず、第二・第三・第四の犠牲者を生む事態にまでエスカレートする。ずっとジュリアの存在を気にしていたとはいえ、マドリンがビクリイ学士を見限って、大地主の一人息子デニスに鞍替えするくだりは、主人公の立場でなくともいきなり過ぎる。後付けでいいから、もう少し彼女の心の変化の説明が欲しいところだ。

 

 

裁判を重ね、なんだかんだありつつビクリイ学士は罪を免れたかに見えた終局、アルヘイズ警視の突き付ける宣告の意味をすぐさま理解できなかった読者もいるのではなかろうか。かったるく見えがちな冒頭のテニス・パーティーをはじめ、作者があちこちで種蒔きしているのは分かる。第四の犠牲者が他の二名より遅れて異常を訴え出した事も、それなりに記述されているものの、あの書き方でエンディングに持ち込まれては、読者に伝わりづらいんじゃない?少なくとも本書の延原訳で該当部分を読み返してみて、私はそのように感じた。

 

 

決してつまらないプロットじゃないのに、細かいポイントでの不徹底がちょっと・・・全体から受ける感じもなんとなく好きじゃない。倒叙らしからぬ面があったりもするし、この作者が描くキャラクター達が発する体臭のせいだろうか。若い時分、本作より先に「伯母殺人事件」「クロイドン発12時30分」を読んだもんで、その順番が違っていたらどんな感想を持っただろう?あ、本の内容とは関係無いけど、当Blogは今までアントニー・バークリーのラベル(=タグ)を作っていなかったから、フランシス・アイルズ名義の本にはバークリーのタグを付けておく。

 

 

 

(銀) また本書「あとがき」の話になるが、延原謙はベネット・サーフ編集のオムニブック『Three Famous Murders Novels』(1941年刊)を入手して「殺意」を翻訳しようと思ったらしい。ただ延原が訳出の際、原書として使用したポケットブックというのが『Three Famous Murders Novels』のことなのかはハッキリ分からない。



その『Three Famous Murders Novels』は「殺意」の他、A・E・W・メースン「矢の家」/EC・ベントリー「トレント最後の事件」を併録しているという。戦前、延原は黒白書房より『トレント最後の事件』を刊行しつつ、戦後の新潮文庫版では同作を新たに訳し直しており、こちらも近々記事にしてupする予定。






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2024年12月16日月曜日

『探偵雜誌ロック撰/探偵小說傑作集』

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筑波書林
1947年8月発売



★★★   西田政治の創作短篇も収録




この本は『ロック』の別冊みたいに見えるけれど、『探偵雑誌目次総覧』における『ロック』のバックナンバー一覧には含まれていないし、作り自体も単行本に近いので、今回はアンソロジーとして扱っている。

 

 

「千早館の迷路」海野十三

帆村莊六は事件の依頼者・春部カズ子と共に、栃木県の山奥にある「千早館」へやって来た。「千早館」とは帆村の舊友・古神子爵が十年の歳月を要して建てた館のこと。しかし、当の古神子爵は日本アルプスで雪崩に遭い、落命している。一方、カズ子の恋人・田川勇が突然書置きを残して失踪。その書置きの中には四方木田鶴子という名前が出てくるのだが、日本アルプスにて古神子爵が遭難した折、同行していたのがその女だった。

 

予想を裏切るゴシック・ホラー的結末は帆村探偵シリーズ全体を見渡しても珍しく、フリーキーな「千早館」へ潜入した帆村に夜光チョークを使わせる小道具のアイディアなど、海野らしくてイイ。ダーク・モードに徹底して完成度を高めていたら、戦後帆村短篇の代表作になっていたと思う。

 

 

「南蠻繪秘話」西田政治

西田政治が翻訳を手掛けた海外ミステリの単行本は過去に多数出回っていた反面、彼単独名義の著書は一冊も無い。論創社編集部の黒田明が〝『西田政治探偵小説選』をリリース予定〟なんて「X」上へ一時期さんざんポストしていたものの、話が雲散霧消したのは皆さんご承知のとおり。2024年も〝『吉良運平探偵小説選』、ようやく出ます。〟と言いながら、お約束どおり刊行予定からいつの間にか消滅している。黒田明の出す出す詐欺を止めさせる社員は誰も論創社に居ないのか?三~四冊程度ならともかく、出せもしない書籍を何十冊も「出します」って言い触れ回る出版社、他にある?(私は聞いたことが無い)








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戦後は江戸川乱歩率いる本格派グループに属していた西田。ネタは割らないでおくけど、〝赤い電光〟というのは、なにげに甲賀三郎が書きそうな題材かも。

 

 

「地藏さんと錐」井上英三

翻訳者として知られる井上英三にも僅かながら創作小説が存在する。本作は〝地藏さん〟の綽名で呼ばれ、何の特徴も無い商業學校の英語敎師・大比良漣吉が甲田警官から持ち込まれた事件を解決する〝田舎のホームズ〟みたいな内容。井上は本書刊行の翌年(昭和23年)逝去。

 

 

「無意識殺人(アンコンシャス・マーダー)」北洋

プロバビリティの犯罪を持ち出しているわりには全然面白くない。

 

 

「メガキーレ夫人の手」渡邉啓助

昆蟲學者ハナモリ・タツンドとメガキーレ夫人・滋野玲子、
薔薇キチガヒの男と花盗人の女による攻防(?)。
派手じゃないけど、いつも啓助を読んでいる人なら、この作の良さが解るはず。

 

 

「怪鳥」城昌幸

ショートショートではないノーマルな短篇。かつて(語り手の)並木/田崎與十郎/相川了助の三人は親しい仲だったが、相川が自殺したその年、與十郎は中央線の寒駅から相当奥まった父祖の地へ何も云わず去っていった。そして今・・・與十郎の妻君サナエから手紙を受け取った並木はSS湖畔の田崎家に来ている與十郎はこの十年病臥しており、別人のように変貌。サナエが並木を呼んだことはなぜか聞かされていない様子。

 

「俺の病氣はな、俺の過去の罪への償ひなのだ。當然受けるべき罰なのだ・・・俺は、やがて死ぬだらう」と言って脅える與十郎。病状を診ている年配の医者・北原氏はそれを妄想だと宥めているわりに、與十郎も北原氏も並木に向かって多くを語ろうとせず。與十郎を苦しめているものは一体何なのか?

 

タイトルに雰囲気作り以上の意味が無いのが惜しいし、日本の探偵小説によくありがちな話かもしれないけど、本書の中ではこれが一番無難な出来。

 

 

「鎌の殺人」下岡松樹

この作家、名前に聞き覚えが無いな。さも犯罪実話みたいな文脈で進行するため、そういうもんだと思って読んでいたが、後半になり探偵役として作家・松井四郎登場、被害者である令嬢の顔を斬り裂いた原因がスーパーナチュラルなものだと明らかにされ、やっと「なるほど、これ創作だったんだ」と判る。前半が犯罪実話調でなければ書き方次第ではずっと印象良くなったのに。

 

 

特輯 獵奇ヴアラエテイ

「電氣椅子秘話」靑江耿介/「ねを・でかめろん」土岐雄三/「淫魔ラスプーチン」中島親

 

特輯と謳っているぐらいだから、編集サイドからすれば埋め草ページのつもりではないんだろうけど、なんという事も無い実話読物。


 

 

(銀) 2002年に光文社文庫『甦る推理雑誌1「ロック」傑作選』が刊行されているとはいえ、本書からあの文庫へ再録された作品はナシ。四年の短命だったけど、『ロック』に作品提供している作家は戦前派から戦後派までバラエティに富んでいた。

 

 

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2024年12月13日金曜日

『津山三十人殺し最終報告書』石川清

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二見書房
2024年11月発売



★★★   もうそっとしといてやればいいのに




都井睦雄の存在をここまで肥大化させる原因を作ったのは、まぎれもなく横溝正史長篇「八つ墓村」(☜)である。いや、それだけなら「津山事件」は単に知る人ぞ知る戦前猟奇犯罪のひとつとして、「鬼熊事件」ぐらいの認知しかされなかっただろう。狂える殺人鬼と怖れられた反面、世間から同情の声もなくはなかった点において、睦雄の境遇は鬼熊こと岩淵熊次郎のそれに若干似ている。

 

 

時代が下り、影丸譲也の「八つ墓村」コミカライズに目を付けた角川春樹が横溝正史猛プッシュを始めるものの、メディアミックス商法にて仕掛けられた野村芳太郎監督映画「八つ墓村」(1977年公開)の巻き起こした過剰なブームは低俗な馬鹿騒ぎに過ぎず、横溝正史作品を一度も読んだことのない人々にまで、睦雄をカリカチュアした悪鬼のような田治見(多治見)要蔵の姿が伝播してゆく。それでもまだこの頃は「津山事件」そのものに対する好奇の目はそこまで露骨ではなかったような記憶があるのだけど・・・ただ、私の知らないところで「八つ墓村」狂騒の残滓に便乗しつつ、後述する筑波昭の著書は刊行されていた訳だが。

 

 

潮目が変わったのは、バブル崩壊した1990年代半ば。あの忌むべきオウム真理教の出現を境に、出口の見えない闇の隧道へ日本は迷い込む。地下鉄サリン事件発生後、堰を切ったかの如く酒鬼薔薇聖斗による神戸連続児童殺傷事件、あるいは世田谷一家殺害事件、過去の事例に当てはまらない陰惨な犯罪が多発。そんな時代の変化に加え、万人がネット環境を持ち、大衆が個々の閉ざされた空間へ引き籠るようになるにつれ、いつの間にか都井睦雄を偶像化する土壌が出来上がっていった。大袈裟かもしれないけど、そんな気がする。

 

 

                   🌺

 

 

現実社会の猟奇的事件を扱った本には煽情的に盛ってるだけのイカモノも少なくないし、二~三日ばかりよく思案した上で本書を購入。決め手となったのは当時の司法省刑事局が作成した例の『津山事件報告書』が複写転載されていたから。著者・石川清は元NHK記者の経歴を持つフリーライターで、2022年逝去。五十七歳の死はあまりに早い。不慮の事故あるいは重患かと推測するも本書には死因の説明が無く、ネットで少し調べてみたが、やっぱり不明。読む前からなんだか禍々しい。

 

 

都井睦雄を除く事件関係者の氏名表記は、過去の「津山事件」本に準じた仮名を流用し、『津山事件報告書』転載ページは黒塗りで処理(よく見ると実名が露出している箇所も)。或る章にて述べられていた内容が別の章でまた繰り返されていたり、無駄の無い論述とは言えないのだが、長年コツコツこの事件に向き合ってきた石川の気概は紙背から伝わってくる。「津山事件」本と無縁だったおかげで、既存の情報に毒されていなかった私はあちこち角を立てることも無く没頭できた。

 

 

とにかく「え ゙?」と思ったのは、都井睦雄の内面だとか彼を取り巻く周囲の目以上に、「津山事件」本の草分けと目されてきた筑波昭が(当Blog的には黒木曜之助と呼んだほうが通りがいいかな)最初に上梓した『津山三十人殺し~村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか』(1981年刊)から、その後の同書改訂版に至るまで(旺文社文庫『惨殺~昭和十三年津山三十人殺しの真相』/新潮OH文庫『津山三十人殺し~日本犯罪史上空前の惨劇』)、自分で捏造したとんでもないフィクションを垂れ流していた事だなあ。もっとも「津山事件」本をチェックしてきた読者には以前から周知の事実だったみたいだけど。

 

 

〝内山寿〟という名の架空の人物を捻出、〝内山〟が睦雄を好色の道に走らせ、また匕首を調達してやったことにしていたり、「津山事件」の二年前世間を騒がせていた阿部定まで持ち出し、睦雄が自分に阿部定をダブらせていたことにしたり、矢野龍渓の作品「浮城物語」を盗用して、睦雄が「雄図海王丸」なる自作小説を書いていたことにしたり、いくら自分の本を売るためとはいえ、よくもまあ人の不幸を肴に、これだけの嘘八百が作り出せたもんだ。こんな人間が堂々と日本推理作家協会の会員になっていたことも、参考がてらお知らせしておこう。
(画像はクリック拡大して御覧あれ)



       

 

                   🌺

 

 

こんな風に私は呟いた。


これまで下山事件の関連書籍上にて飛び交ってきたまことしやかな数々の説に、どれだけ我々は翻弄されたか、思い返しただけでも苦笑してしまう。

柴田哲孝は木田にこう語っている。

〝荒井証言を初めて聞いた瞬間に、私は思いました。「ああ、俺ははめられたな」と。
今思うと、あの情報提供者は、本当の「現場」から私の目をそらせようとしたのでしょうね。
下山事件では決まって、核心に迫るジャーナリストが出てくると、
かく乱する情報を何者かが吹き込んでくるんです。〟

これを素直に受け取っていいものか・・・・ハッタリを吹聴するのは下山事件を追っているジャーナリスト本人なのか、それとも彼らが証言を得ようとしてアプローチする取材対象者なのか。いったい誰の言うことを信じたらいいか、もうよく分からんというのが正直な感想である。私が〝下山ビジネス〟などと揶揄したり、下山本に対して「承服しかねるところが多い」と言いたくもなる理由は、見えないところで作り話を捏造する輩がウヨウヨしている気配がそこはかとなく伝わってくるからなんだよな~。


危惧していたとおり、ありもしないことをそれ風にでっち挙げるやり口は、実録ドキュメントの界隈では日常茶飯事みたい。まあ探偵小説方面でも「旧江戸川乱歩邸の土蔵を乱歩は〝幻影城〟と呼んでいました」(☜)だの「江戸川乱歩は昭和5年頃『猟奇倶楽部』という雑誌の主宰者でした」(☜)だの、根拠の無い情報をばら撒く立教大学の一部のセンセイもいたりするし、目クソ鼻クソって感じかな。




そうそう、これは忘れずに書いておかねばならない。本書の肝である『津山事件報告書』なんだけど、原書見開き2ページ分の複写を本書1ページ枠に当てているため、文字が相当小さくなり、老眼ではない私でさえ読むのに難儀。貴重なこの資料を読破するには、虫眼鏡かハズキルーペが必要だ。原書1ページ分に対し、本書も1ページフルに使って複写転載するのが理想的だったが、本書からして既に800ページを超える厚みゆえ、これ以上ページ数を増やすのは無理っぽい。

また自殺した睦雄の写真や、彼に殺された村民の写真も縮小サイズで掲載されてはいるけれど、村民の遺体はどれも黒塗りで覆い隠されている。




「津山事件」に詳しくないワタシでも、よく調べ上げたなあと敬意を表したくなる一冊だった。だからこそ一言申したいのだが、いまだに犯人が誰か分からないのであればともかく、もうここいらで「津山事件」についてしつこく詮索するのは打ち止めにしたらどうよ。石川清はこの世を去り、1938年5月21日に起きた惨劇の現場をよく知る古老にしたって、寺井ゆり子氏も2016年には鬼籍に入られている。いまさら津山の山奥を踏み荒らしたり、ネタを取るべく関係者の遺族を追い回したところで新情報は出てきやしないさ。いい加減、そっとしといてあげたら?






(銀) 本書の中で、森谷辰也なる人物が「石川清さんの思い出~世界で一番津山事件に詳しい男」という文章を寄せており、同人誌『津山事件の真実』の制作者らしい。筑波昭も大概だが、自分の事を〝津山事件フリーク〟などと名乗るような手合いが研究者ヅラして幅を利かせているのには呆れる。



事件発生から九十年近く経っているとは言いつつ、大勢の人が無惨な殺され方をした事実は厳然として存在している。御一新より昔の話ならまだしも、近現代の岡山にて起きた大量殺人事件に対し〝フリーク〟などという言葉を使うその無神経さが信じられん。毎年倉敷にて横溝正史作品コスプレ集会を催している連中にしても、田治見(多治見)要蔵になり切ってヘラヘラしているところを被害者の遺族の方が目にしたら彼らがどんな気持ちになるか、一度でも考えてみたことがあるのだろうか。






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2024年12月9日月曜日

『新局玉石童子訓(下)~続・近世説美少年録』曲亭馬琴

NEW !

国書刊行会  叢書江戸文庫48  内田保廣/藤沢毅(校訂)
2001年6月発売



★★★★   ❺ 中 絶




2022年の5月に一回目の記事をupした「近世説美少年録」も、いよいよ今回がラスト。たまに当Blogへのアクセス状況を見る機会があるのだけど、続きの記事をずっとお待ちの方がいらっしゃったみたいで、ようやくその責を塞ぐことができる。これまでの内容は下段のマーク左側白文字をそれぞれクリックし、別ウィンドウを立ち上げて御覧頂きたい。

 

 

『近世説美少年録(上)』  ★★★★★

❶ 白 大 蛇  

❷ 阿夏 流離  

 

『近世説美少年録(下)』  ★★★★

❸ 濫 行 邪 淫  

 

『新局玉石童子訓(上)』  ★★★★

❹ 両 者 邂 逅  

 

 

武者修業の身である大江杜四郎成勝と峯張通能は近江を発ち、武芸に長けた者が多いという上野甘楽(今の群馬県)へやってきた。郡司・鏑野範的は腹黒き男にて、この地に逗留している乞丐(かたい=乞食)の如き五十ばかりの瞽者(めしいびと=めくら)の娘・捘手が実は稀に見る美しい乙女だと知り、妾に欲している状況。乞丐親子を助けた成勝と通能はひょんな諍いから韓錦樅二郎/弟・八重作/妹・押絵らと近付きになる。後半、押絵が男勝りの活躍を見せるぐらい、ここは相撲の盛んな里だ。

 

 

捘手に対する手引きを韓錦樅二郎に拒否されたことで逆ギレした鏑野範的は、樅二郎を罠に嵌め投獄。そこへ前巻の近江篇()にて成勝/通能と因縁のあった曽根見伍六郎健宗たちも複雑に絡み、物語は成勝/通能の加勢する上州民 対 甘楽群司の一騎打ちにまでエスカレート。「近世説美少年録」では大がかりな交戦と呼べそうなパートは少なく、数年続いてきた鏑野家の悪政が上州民の決起によって撃滅され、本来あるべき血筋の者に領主の座が戻る本巻の粗筋は、此処に至る一連の流れの中では、やや異色にも思える。

 

 

また上野甘楽篇で注意を引くのは、阿蘇白蛇篇()における幕府軍の侵攻以来、行方知れずになっていた菊池武俊のその後が判明すること。しかも、大内義興の率いる大軍と正面衝突すれば死者を大勢出してしまう事を見越した菊池武俊が自軍の兵を各地に逃がし、自らも出奔してしまうため、阿蘇の山里に取り残された武俊夫人・小芳宜の方に付き添っていたのが捘手の父・鷺森松煙斎(=瞽者の乞丐)、そして韓錦樅二郎の父・間貫佐用六故世だった。

 

 

鏑野家が乗っ取る前の領主も代々肥後の同族だったという縁があり、流れ着いた上州に根を下ろした武俊はあえなく病没したとはいえ、松煙斎しかり樅二郎しかり、菊池ゆかりの者が奇しくも集結。の段階だと武俊は逆徒みたいな書かれ方をしていたし、幕府軍の中に大江杜四郎成勝の父・大江弘元がいたので、読者はてっきり菊池武俊一派を悪者だと思っていただろうが、ここへ来て菊池は一気に善のキャラクターとして認識される。作者は最初からそのつもりだったのか、それとも十三年のブランクが考えを変えさせたのか、定かではない。




 

 

「近世説美少年録」としてスタート、「新局玉石童子訓」と改題の上、再開されたこの長篇も、残念ながらここで中絶してしまい、曲亭馬琴は八十二でその生涯を閉じる。結果的に悪の主役・末朱之介晴賢は本巻では一度も出番が無く、上野甘楽篇の決着が着いたあと作者が今後の再登場を匂わせているのみ。朱之介はうだつの上がらない小悪党から脱皮できぬままだし、善の主役・大江杜四郎成勝もまた一介の武者修行者ゆえ、仮に馬琴が健在で物語がこのまま続行していたとしても、いっぱしの軍を率いて朱之介と成勝が雌雄を決するのは、ずっと先の話になりそう。

 

 

江戸川乱歩の「大暗室」を昭和の「近世説美少年録」とみる説があることは以前述べた。でも、大曾根龍次/有明友之助のエッジの立ち具合に比べれば、本作を読了した人の殆どが〝末朱之介晴賢と大江杜四郎成勝のキャラはあそこまで強力ではない〟と感じるんじゃないかな。やはり悪の主役なら、最低でも中里介山の「大菩薩峠」序盤で輝きを放っていた机龍之助ぐらいの凄味がなくちゃ、ここまでの朱之介じゃあ到底成勝の敵にはなれそうもない。

 

 

本巻(『新局玉石童子訓(下)』)には参考資料として、「近世説美少年録」の始まる十三年前に発表された、本作の初期構想と思しき「月都大内鏡」を併録。

 

 

 

(銀) 自作漫画をエンディングで綺麗に着地させることの不得手な永井豪が国枝史郎の「神州纐纈城」を例に挙げ、「中絶ってカッコイイ!」などと言ってるのをどこかで読んだ。ワタシは全く賛同できないね。

 

 

『近世説美少年録(上)』の月報に掲載されている須永朝彦の寄稿「稗史演劇の美少年」末尾にこんな文章がある。

 

『美少年録』の書替もあり、即ち江戸川乱歩の『大暗室』がそれである。有明友之助、大曾根龍次といふ美貌の異父兄弟が正邪に分れて互に闘ふ話で、身体に密着した黒装束(眠り男ツェザーレ!)を絡つたり「腰部に何かけものの皮を巻きつけたほかは全裸体」といふ姿を曝したりする「ギリシヤ彫刻のアドニスのやうな美青年」にして「悪魔の申し子」たる龍次の方が「正義の騎士」たる友之助よりも強力な魅力を放つてゐる。おまけに彼等が鳥居峠の断崖上で争ふ場面は『八犬伝』の芳流閣楼上決闘の場さながらである。嘘だとお思ひの方は、読み比べてご覧なさい。

 

たびたび私、このBlogで「大暗室」と「近世説美少年録」の近似性を口にしているけど、それを最初に言い出したのは誰だったのか、今頃になって気になり出した。乱歩本人ではない筈。そう思ってちょっくら調べてみると須永朝彦の発言が数点見つかる以外に該当するものが無い。結局須永ひとりが力瘤を入れつつ吹聴していたものと見ゆる。

 

 

今迄この近似性をあまり疑いもせず信用してきたわりに、「近世説美少年録」に関してBlog記事を書き連ねてみると、異を唱えたくなる部分も多いことに気付かされる。願わくば末朱之介晴賢も大江杜四郎成勝も美形プラスアルファのオーラが欲しい。彼らが大曾根龍次対有明友之助ほどに竜虎の対決を繰り広げられるかといえば、未完に終わったこの時点で判断するなら答えはNO。特に悪の星が輝いていなければ、この種の小説は盛り上がらない。どうも須永朝彦はアドニスな外見にばかり気を取られ過ぎていたようだ。






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