「クロイドン発12時30分」がイギリスで発表された1934年(昭和9年)というのは、極東日本では小栗虫太郎が『新青年』に「黒死館殺人事件」を連載していた年。後発のフレンチ警部長篇「船から消えた男」は昭和12年に日本公論社から土屋光司の訳による単行本が出ているのに、 本作は戦前には邦訳単行本が出なかった。今回訳者だけでなくカバーもスタイリッシュに一新、「名作ミステリ新訳プロジェクト」というキャンペーンの一環になっていて、 ベテラン読者ももう一度「クロイドン」に手を伸ばしてみるのに良いチャンス。
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昭和以降の「クロイドン」の文庫を振り返ると、長年流通してきた大久保康雄(訳)による創元推理文庫の近年の版は購買欲が湧きにくいカバーだったのに比べて、平成18年のハヤカワ・ミステリ文庫ではカバー・デザインのセンスがぐんと向上、加賀山卓朗という訳者も悪くはなかったと思う。
そして令和元年創元推理文庫新版。霜島義明の訳は確かに万人向けに最もソフトになっている 雰囲気。注文をつければアンドルー・クラウザー老人の語り口あたりにもう少し〝一族の長〟 らしい重厚さがあったらな。一緒にリニューアルされた解説については ☆3/5。 戸川安宣ばりの書誌データをマニアックに読ませてほしかった。
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「クロイドン発12時30分」というタイトルは字面で見ても印象的だけど、 アンドルー・クラウザーが急死する第一章において、出立する空港がクロイドンという地名なのはまだしもアンドルー一行が搭乗する飛行機の便が12時30分発だとはどこにも書いてなく、 やっとそれがわかるのは中盤にさしかかる検視審問シーンにおいて。 本文中、他に言及されていたっけ? だからこの12時30分という時間はさして物語の大事な ファクターではない。
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主人公の日常が崩壊してゆくヒリヒリするようなサスペンス。発表当時は倒叙での長篇という ドラマツルギーが斬新だったのだが、一世紀近く経った現代では倒叙ミステリーを用いたテレビドラマさえ広く浸透してしまって、この古典に向かっていっぱしにわかったような大口を叩いている世評もある。
どこに問題が? 倒叙だと最初からわかっていても主人公である犯人チャールズ・スウィンバーンの警察連行は唐突。その後の法廷シーンだけではチャールズがどこでミスを犯したのか読者には100%解明されないまま最終判決が下って、最後の23~24章のフレンチ警部のトーク・タイムに至って我々には腑に落ちなかった部分にもようやく納得がいく。そのビミョーな構成をしっくりこない読者もいるかもしれない。私も初読時には22章まで読んで「こんな詰めのまま終わって しまったら裁判官アカンやろ」と思ったクチだ。
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そのような点はあるものの、決末まで快調に物語に乗っかれるし読了後には改めてキー・ポイントを振り返る楽しみもある。クロフツ=地味・退屈な作風といわれるが本作は小難しい専門用語や延々と繰り返す取調べ場面もなくて、一度クロフツにくじけてしまった人やミステリーに馴染みが薄い人にもとっかかりとして、「樽」「ポンスン事件」や他のフレンチ警部ものよりもずっと本作はジャスト・フィットするはず。クロフツ・ビギナーに薦めたいもうひとつの代表長篇である『スターヴェルの悲劇』も早く新訳プロジェクトでリイシューされると、なおよろしい。
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余談だが、この物語の中でダントツに嫌な奴ってチャールズ・スウィンバーンでもなければ 彼に殺される被害者でもないし、犯罪は暴くけど前面にはあまり出てこないフレンチ警部や 他人の詮索に忙しいお喋りなシアマン夫人でもない。 チャールズが結婚したくて仕方がない女性・・・なんだけど男を選ぶ基準が「富」最優先というユナ・メラー、だろ? 「女を見る目は養うべし」というクロフツのアフォリズムがこっそりと。
(銀) ミステリー同人誌『Re-ClaM』第四号でクロフツの特集が組まれたことで、これから 新たなクロフツ・クリティックが生まれてくるだろうか。2020年秋には創元推理文庫の復刊 フェアの一冊として『ホッグズ・バッグの怪事件』大庭忠男(訳)がカバー・リニューアルして再発される。
昔、江戸川乱歩が「クロフツはちょっと・・・」と言ったせいでクロフツに熱を上げる戦後の ミステリ・ファンがいまいち増えなかったという話があるけれど、そこまで乱歩の影響があったのかな? 1956年にはポプラ社からジュブナイルとしてクロフツの『英仏海峡の謎』を(実際 訳したのは氷川瓏だが)江戸川乱歩(訳)名義として売り出した『海峡の秘密』(別題:怪船771号)という本があるのだけれども。