探偵小説、あるいはSFのカテゴリーに属する南澤十七の本を顧みると、なぜかジュヴナイル系が多い。『新青年』をはじめ、探偵雑誌に味のある短篇をいくつか書いていながら、大人向け創作小説を収めた生前の著書は殆ど存在せず、2000年以降マイナー作家が次々復刊の対象になる中、(横田順彌もいなくなり)この作家が話題に上る機会さえ無い。そうなってしまった原因を探るべく、本日は数少ない南澤の大人向け創作長篇「海底黑人」を取り上げる。
作者は開口一番、【どんなに非人道的であっても、戦争に勝つためには手段を選ばないのがアメリカ】【そのアメリカが仕掛けてくるであろう、病原菌爆弾を用いた細菌戦の実態を伝えるのが本作の趣旨】、この二点を強調した上で物語を語り始める。ちなみに『海底黑人』の刊行された昭和19年秋、日本はサイパン島をアメリカに占拠され、もはや大東亜戦争における現実の戦局は泥沼化していた。
稻富琢磨博士の家系は代々日本南進の急先鋒だ。アフリカの地へ渡った博士は熱帯病研究に従事置いてするものの諸外国より迫害を受け、アフリカから追放された過去を持つ。拠点をシンガポールへ移し、稻富醫院を設立した博士の研究成果が日本へフィードバックされることも期待されていた矢先、何者かの手によって博士の命は絶たれた。戦争の激化で南方から在留邦人がいなくなろうとも、故人の遺志を継ぐべく博士の妻・君江/長女・よしの/長男・武人の三人は変わらず醫院を守り続けている。そんな稻富一家を敵国イギリスは常時監視下に置いているといった状況。
ヘンテコな珍作であれ、内容的にはやはり戦時下国策高揚小説として扱われるのだろう。では、どこがどうヘンなのか、ひとつずつ説明してゆく。まず、一つめ。序文であれだけ憎むべき敵はアメリカと云っておきながら、物語に描かれる主要な敵はおしなべてイギリスであり、アメリカ人は出てこない。まあ当時の日本人からすれば〝鬼畜米英〟でワンセットな訳だから、特に問題は無いのかもしれないが。
二つめのヘンなところ。稻富武人とマライ人のセランパン、この二少年がストーリーの牽引役となるのだが、遠いインドに護送されカルカッタ監獄に幽閉されていた稻富姉弟が脱出するあたりまではスパイ/冒険色も相まって、それほどつまらなくはない。ところがその後、稻富武人たちの活躍をおざなりにしてまで軍の細菌兵器エピソードが優先されるため、武人目線で話を追っている読み手からすれば、著しくバランスを崩される。作者は序文の場で〝細菌戦をテーマにしている〟と明言していたし、日本国民を啓蒙する意味では予定通りだったのかもしれないけれど、それならそれでメインキャラの動きと細菌戦ネタを上手く両立させなきゃダメでしょ。
スパイ小説/SF小説/冒険小説・・・ジャンルは何でもよかった。日本国民に知らしめたい情報を物語の中に昇華させられなかったおかげで、褒めようがない駄作になってしまったのは痛い。しかも大人向け創作小説を収録した著書となると本書ぐらいしか無いため、「海底黑人」=南澤十七てな感じに低評価されてしまい、それが21世紀の復刊へと繋がらない原因になってるんじゃないかな。ジュヴナイルばかりだと、ぐうの音も出ないレベルの傑作でもない限り、復刊のきっかけにはなかなか結び付かない。逆に言えば、「海底黑人」が合格点を与えられるぐらいの出来だったなら、今日に至る南澤十七復刊の趨勢はきっと違ったものになっていただろう。
(銀) 南澤十七には「金鉱獣」なる新聞連載小説もありながら、完全に忘れ去られているようで残念。この人も人並みに作品の構成力さえ持ち合わせていれば・・・。