良かった点は、探偵小説における「実話もの」の意味を検証してくれたこと。森下雨村・甲賀三郎・大下宇陀児・濱尾四郎らの座談会から「支倉事件」
→ 牧逸馬 → 橘外男へ繋げるシークエンスはニクい技。余り俎上に載ることのない西尾正を採り上げたのも良し。できれば瀬下耽あたりも扱ってほしかった。ブックガイドではないし誰も彼も取り上げるのは無理だけども、(江戸川乱歩・横溝正史は外せないとしても)こういう評論で材料にされる主軸作家はいつも代わり映えがしないから。
逆に気になった点。著者の論述が、研究者ならともかく普通の読者には堅苦しく感じさせはしないか。単なる書誌学的な作家論ではないため自然とこういう論調になるのかもしれないが、もう少し読み易い文章にしたらどうか。菊池寛や夏目漱石といった非探偵作家あるいは映画メディア論など、探偵小説以外の材料が頻繁に引用されるので、難解そうな印象を与えているように思える。例えば長山靖生『日本SF精神史』権田萬治『日本探偵作家論』あたりと比べるとよく解る筈。
あと前作『戦前戦後異端文学論』でも見られたことだが、戦前探偵小説の精神が現代のエンターテイメントに及ぼしている影響など無理に総括に取り入れなくていい。いまどき奇想・反骨なものなんて存在しやしないのだし、私が谷口の著書で毎回目に付いてしょうがないのがこの部分。まあ、現代への影響という大義名分を掲げないと出版社に企画が通らないからなんだろうけど。
(銀) 日本における「変格探偵小説」というと例えば「人間椅子」みたいな、所謂性的アプローチによる変態路線のDNAを谷崎潤一郎から江戸川乱歩が受け継ぎ、自作の中で発酵・定着させたので、多くの後続作家が「ああ、探偵小説でこういうのを書いてもいいんだ」と思ってしまった。こういうのは世界各国のミステリーの中でも特異な発展の仕方ではないか。
乱歩は随筆で「デビューして暫くは論理的な内容にこだわっていたが、そういうのを書いてもあまりウケないから段々論理的ではない方へ行った」みたいなことを書いている。だが海外のクラシック・ミステリを読めば読むほど、昔の日本人は乱歩だけに限らず総体的にみて、複雑に入り組んだ謎の創造を小説に落とし込むのが、どうも不得手だったとしか受け取れない。
白石潔は昔の日本人が探偵小説以上に馴染んでいた捕物帳を【季の文学】と定義したが、そこには【人情】というウェットな情緒が通底しており、犯罪のロジックを構築する冷徹さとはベクトルが異なるような気がする(本格路線を貫いた日本の時代小説長篇って無いでしょ?)。また、日本では作品発表の場の制約として、ミステリの醍醐味が大きい長篇でも雑誌や新聞連載で発表するのが当り前で、毎回ストーリーのヤマ場を無理して作らざるをえなくなり整合性が取れなくなることが多かった。
では戦前から書下し長篇がもっと楽にできるような土壌さえあればよかったのか? いや例えそうだったとしても、日本のマーケットは貧弱なので、専業作家として生きていける探偵作家なんてごく稀だし、腰を据えて執筆業に専念しつつ、本格長篇を安定供給するなんて出来そうにない。とりあえず英米作家には一発当てれば、英語圏のどこででも本が売れ、リッチになるチャンスがあるのとは大きな違いだ。