750頁以上もある戦後の中村能三・完訳版『月長石』(創元推理文庫/1970年刊)と比べ、本書の森下雨村訳はなんと1/3程度の分量にエディットされている。今更説明するまでもないが、雨村訳のコンセプトは全文そのまま訳出するのではなく、枝葉の部分を一気に刈り込み、コンパクトかつスッキリしたものを提供して、海外ミステリ読者の裾野を少しでも広げることだった。翻って中村能三訳のほうはマニアックに、上・下巻セットから 2 in 1 へとフォーマットも変遷。その 2 in 1 完訳版の本の厚みに一般読者は尻込みしてしまうのか、「冗長」などと評されることもしばしば。冬の夜長、じっくり読み込むにはピッタリの大長編だと思うんだけどね。
ウィルキー・コリンズの実働期はガボリオやボアゴベの時代。日本の探偵小説史に喩えると黒岩涙香みたいなポジションにある。古色蒼然とした恋愛観念はともかく、ミステリ黎明期の作品にしては論理的な謎をしっかり提示していて、最初からバレバレな犯人ではない。同時に、かつて英国人が略奪した民族のアイデンティティーともいうべき月長石(イエロー・ダイヤモンド)を取り返すため、どこまでも印度人たちが執念深く追いかけてくる伝奇色の絡ませ方も良い。江戸川乱歩がジュヴナイル第二作「少年探偵団」(☜)の前半部分にガッツリ引用するぐらい白毫と印度人の因縁話はコワくて、大人子供問わず読む者を惹き付ける。
個人的にはカツフ探偵(中村訳では〝カッフ部長刑事〟と表記)が出ずっぱりではなく、ヴエリンダー家の調査を解かれ、読者の前から一旦姿を消す演出が功を奏しているように思う。それと先程「少年探偵団」について言及したが、聡明ゆえカッフ探偵からもお褒めの言葉をもらうグーズベリ少年は中村能三訳の〈登場人物一覧〉に列挙されていないチョイ役とはいえ、間違いなくカートライト(コナン・ドイル)そして小林芳雄(江戸川乱歩)のプロトタイプだ。
森下雨村ジュヴナイル作品に出てくる東郷不二夫は(小酒井不木の塚原俊夫もそうだけど)スーパーマン過ぎる上、子供なのにまるで大人みたいな振舞いをするもんだから、当時のチビッコはそこに自分を投影できる余地が無く、イマイチ盛り上がれなかった。しかし、江戸川乱歩の小林芳雄になると大人ばりの活躍をする反面、子供らしい可愛げもあり不自然な少年探偵の造形ではない。乱歩は小林のモデルに「月長石」のグーズベリ少年を挙げている訳ではないが、凛々しいだけでなく愛らしさも兼ね備えていたからこそ、彼は時代を超越した人気者になれたのである。
褒めてばかりじゃ何だから気になる点も指摘しておこう。とにかく冒頭で述べたとおり、雨村訳は全体の1/3ほどしか訳出されていないため、雨村訳=「月長石」だとばかり思っていた人は中村訳を読むとビックリするよ。大きなネタバレにならない範囲で一例を挙げれば・・・ヴエリンダー家の主治医・キヤンディとその助手エルザ・ゼニングス(中村訳では〝エズラ・ジェニングス〟と表記)のエピソード。
物語の序盤、キヤンディ醫師は雨に打たれたのが原因で大きく体調を崩し、後半では廃人同然なだけでなく、半ば記憶喪失にも近い状態。そこは雨村訳も中村訳も共通している。ところが助手エルザ・ゼニングスに関する部分を雨村はまるごと削除しているため、雨村訳しか読んでいない読者はゼニングスがフランクリン・ブレエク(中村訳では〝フランクリン・ブレーク〟と表記)に自分の余命は長くないことを語っていたり、どう考えても先に逝くだろうと思われていたキヤンディ醫師が最終的にゼニングスの死を看取る完訳版を読むと、結構困惑するんじゃないかな。全体のテンポは圧倒的に良いけど、「もう少し訳出しといたほうがよかった部分、あったんじゃない?」とツッコミたくなるね、きっと。