『随筆黒い手帖』(☜)にて、戦前の国内探偵小説をお化け屋敷と揶揄した松本清張。先輩作家にもかかわらず故人だからか、甲賀三郎に対する物言いはとりわけキツイ。ただ、その中で、〝「荒野の秘密」の前半は印象に残る〟と洩らしている点が私は気になった。もし清張が甲賀を評価するとしたら、その作品は無難な「支倉事件」あたりでお茶を濁しそうなものなのに「荒野の秘密」とは意外だ。もう何年も前に読んだっきりだし、粗筋はおおよそ覚えているとはいえ、ディティールまでは頭に浮かんでこない。それで、この長篇を読み返してみる気になった。
「荒野の秘密」は婦人層をターゲットにした月刊料理雑誌『料理の友』に昭和6年1月号から昭和7年1月号まで連載された。挿絵担当は亀井実。戦前の女性誌に載る長篇探偵小説は大抵の場合においてメロドラマ風になる傾向が高く、これなどまさにその王道路線と言えるだろう。では登場人物を見て頂こうか。
【町田玲子】
御多分に洩れず、清純で美人な主人公。母はいない。
【町田陶造】
東京に居を構える玲子の父親。会社退職後、雑誌に小説風の実業物語を執筆している。玉垂村という茨城県下の寒村にある荒地が競売に出されたので、その土地を競り落とすよう現地に玲子を差し向ける。
【須田男爵】
白髪長身、六十恰好の品の良い老紳士。荒地競売入札者の一人。かつてはその村の大地主だったらしい。
【原山繁】
やはり東京からやって来た荒地競売入札者の一人。母一人子一人で暮らしている青年画家。
【原山きし子】
繁の母。因循な引込み思案、昔風の女性。亡き夫の意向により、九州の片田舎で人目を避けて侘しい生活をしていたが、幾つかの理由が重なった事から東京へ移住。なぜか町田陶造は彼女の顔をスケッチした画用紙を隠し持っていた。
【豐沼三吉】
玉垂村に近い山田村の住人。乱暴な獣のような気質と優しい地蔵様のような気質、二面性を持つ野卑な大男。玲子を自分のものにしたがっている。
【おくま婆】
玲子を敵視する意地の悪い老婆。
【博徒の源公】
玉垂村の外れにある飯屋の主人。前科持ち。彼の妹に関して豐沼三吉と対立。
【お力婆】
隣村から豐沼三吉の家に呼び寄せられた老婆。産婆・看護婦の経験あり。
【栗田春樹】
お力婆さんの回想に出てくる、農村へやってきた男振りの好い都の青年。自称画家。
玉垂村の荒地に埋められている忌まわしいもの、それを取り巻く謎が本作の背骨であることは言うまでない。さしたるトリックも見当たらず、涙香調スリラー劇のいったいどの部分が清張の心の襞に引っ掛かったのか?どうも私にはピンと来ないのだが、想像を逞しくして思い当たる理由を列挙するとしたら、こんな感じになる。
A レギュラー・キャラクターに限らず探偵役、いや警察さえも使っていないこと
→ なんせ庶民派の清張は名探偵キャラが嫌いだからなあ。
B 競売のシーンから始まるというのは、確かにユニークかも。
しかも売りに出されているのは、お宝でもなんでもない只の土地だし。
C 寒村に住む田舎の人々、通り一遍でない豐沼三吉の性格、この辺がよく書けている?
→ 田舎が描けてりゃ良いってもんでもないが。
D 本作のクライマックスで明らかになる数々の真相は、リアリティ最優先の清張から見ると、いかにも探偵小説らしい〈力任せ〉の産物だったので、飛び道具を使わずじっくり書けていると思ったストーリーも、最期のほうになって失望させられてしまった。だから、其処に至るまでの前半だけを褒めた?
→ 結末のサプライズに強引にぶっこんだ〝成りすましの錯覚〟について、甲賀は「常に暗がりだったから」と一応説明しているものの、この部分はいくら探偵小説とはいえ、詰めが甘かったと私も思う。
決定的なネタバレにならぬよう肝心なところはボヤかしておいたけど、私の浅い読解力ではこれぐらいしか浮かばない。まあ清張も高飛車な言い方をした手前、ちっとは甲賀をフォローしようとして、たまたま「荒野の秘密」を持ち出したのかもしれないけどね。
ただ読み返してみて思ったのだが、上段にて触れた〝錯覚〟の真相に至るまでの大枠は、アクロバティックな活劇や誰も知らない特殊知識によるトリックに頼らず、ミニマムな状況設定だけで勝負できている。黒岩涙香直系のオールド・スクールな題材だけれども、読み手をグイグイ引っ張り込んでゆく甲賀三郎流ストーリーテリングの見事さが如実に表れていて、本当は★★★★★にしたいぐらいの、楽しめる内容じゃないか。探偵役のレギュラー・キャラクターや理化学トリックを使わずとも、この男は面白い小説を書けるのだ。
(銀) 甲賀の随筆集『犯罪・探偵・人生』に収められた「探偵小說家の呪文」の中から、一部引用。
〝探偵小說はいかにリアリズムを裝うてゐても、結局メロドラマに過ぎないものである、と私は思つてゐる。だから、探偵小說には少くとも一ヶ所ぐらゐは馬鹿々々しいと思はれるところがある。探偵小說家の骨の折れるところはこゝであつて、もし彼がこの點を讀者に馬鹿々々しいと感ぜられたら、それこそ肩の肉を見られた「鐵の王子」見たいに、全く致命的なのである。〟
自ら、探偵小説にはメロドラマ性が付き纏うものだと吐露してます。何にせよ、これでもし甲賀が終戦間際に病死せず、戦後も現役探偵作家としてバリバリ活躍していたら、間違いなく甲賀三郎 vs 松本清張の火花を散らす舌戦が繰り広げられただろう。
過去にこちらの記事(☜)で、横溝正史が成りすましネタに嵌まっていた事を取り上げた。齟齬無くバッチリ成功している訳ではないけれど、同時期に甲賀も本作で成りすましを扱っている。この点が成功していれば、私の中で「荒野の秘密」はもうワンランク評価が上がっていた。
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