2024年6月13日木曜日

『怪奇探偵ルパン全集②水晶の栓・怪紳士(下)』ルブラン(原著)/保篠龍緒(譯)

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平凡社
1929年5月発売



★★★★★   保篠か 保篠以外か





『名探偵読本7/怪盗ルパン』に収録されている小林信彦+田中潤司+榊原晃三による座談会「怪盗ルパンの虚と実」。そこで小林信彦はこう語る。

 

〝ぼくの読んだ〈ルパン〉は、あくまでも保篠がつくったものでしょう。だから、そのプラスとマイナスとあると思うんだけれども、ともかくそれしか知らないわけだから。それでその後ね、もっと正しい訳だと思うけどね。読んでみても、なぜだか違うわけですわな。あのべらんめえ調じゃないと気分が出ない(笑)。〟

 

一方、若い頃中井英夫のアシスタントをしていた『新青年』研究会メンバーの村上裕徳は、『「新青年」趣味Ⅺ』にて羽根木時代を振り返り、軽装版の保篠龍緒訳ルパン全集を揃えていた中井のこんな発言を紹介。

 

〝堀口大学の訳は典雅過ぎちゃって・・・・、やはりルパンは保篠の訳じゃないと面白くない〟

 

 

 


昭和20年代まで、ルパン・シリーズを読むなら翻訳者はほぼ保篠龍緒一択といっていいぐらい彼の一人舞台だったし、アルセーヌ・ルパンを日本に根付かせた保篠の功績に異議を唱える人などいないと思う。そうは言いつつ、保篠の訳が頭に刷り込まれた小林信彦や中井英夫のような世代がいる反面、時代が下ってきて保篠以外にも様々な人がルパン翻訳を手掛けるようになると、「保篠のルパン訳はアラが多い」といった声がチラホラ出始めて。

そんな批判も併せて紹介したいのだが、それがどの本(あるいは雑誌)に載っていたか、どうしても思い出せない。とりあえずここでは、保篠のルパン訳に否定的な見方をする人も少なからずいる事のみ記しておく。

 

 

 

前にも書いたとおり、保篠龍緒の創作ものは文章に深みが感じられず、一度読めばもう十分なのに、ルパンの翻訳だとなぜかそこまでつまらなく感じないのは不思議だ。とにかく私はルブランが勝手にホームズとワトソンをダシに使っているのがイヤなので「怪人對巨人」は論外。「奇巌城」など子供の頃一番最初に読んだルパン・シリーズであり、ホームズさえ出てこなければもっと褒めたい作品なんだが、これも却下。そうなると長篇ではやっぱり「813」か「水晶の栓」がトップに来る。

813」とその敵役LMに比べ、「水晶の栓」と怪代議士ドーブレクは(本書ではこう表記しているので、ここではそれに従う)過小評価されてるような気がして、今日は「水晶の栓」を選んでみた。

 

 

 

保篠訳ルパンを一度も読んだことのない方は、いわゆる彼のべらんめえ調についてどんなイメージを持っておいでかな?捕物帳みたいな口調?では、昭和4年に刊行された本書『怪奇探偵ルパン全集②/水晶の栓・怪紳士(下)』より、ルパンがドーブレクに見得を切るシーンの一節を見て頂くとしよう。(括弧内はルビ)

 

 

ルパンはフゝンと肩を峙(そびや)かして、
「狒々野郎、默れッ」と怒鳴り付けた。「貴樣は人は誰れでも皆貴樣の樣に、獰惡、無慈悲だと思つてゐやがるんだ。オイ、俺の樣な怪賊が、道樂にドン・キホーテの眞似をして居ると思つて居るのか?貴樣は俺がそんな醜惡な野心を以て此の事件に飛び込んで居ると思つて居るのか?そんな事を捜すない。貴樣なんぞには到底俺の心意氣なんざあ解りやせんぜ、爺(おやぢ)。それよりも、俺の問題に返事をしろ・・・・どうだ、承知するか?」

 

 

同じ場面を、小林信彦と中井英夫が保篠訳との比較に挙げていた堀口大學の訳でどうぞ。使っているテキストは新潮文庫『ルパン傑作集(Ⅵ)水晶栓』(昭和3585日発行/平成5122536刷)。

 

 

ルパンが肩をすぼめてみせた。
「けだものめ!」吐き出すように彼が言った。「あんたは他人まで自分みたいに情け知らずの冷血漢だと思っている。あんたさぞ驚いているだろう。わしのような悪党がドン・キホーテの役をして時間つぶしをしているのが腑におちかねて?だからどんな下劣な動機でわしが動いているかと考え込むんだ?だが無駄だから探すのは止せ、あんたの頭じゃ解りっこない。それよりもさっさとわしに返事をしな・・・・・承知するかい?」

 

 

 

この部分は『怪奇探偵ルパン全集②水晶の栓・怪紳士(下)』において、べらんめえ調が突出して目立っているのでお目にかけた。如何だろう?漢字の使用が多い保篠訳の字面を現代人が読んだら目がチカチカするかもしれないが、雰囲気を盛り上げる熱気みたいなものはこちらのほうが確かに伝わってくるし、このセリフだけ見ればなんともバタ臭く受け取られそうだけど、全体的にはそうでもない。

後発の堀口訳はどうか?一見するとわかりやすくて読み易くなったように感じるわりに〝わしのような悪党がドン・キホーテの役をして時間つぶしをしているのが腑におちかねて?だからどんな下劣な動機でわしが動いているかと考え込むんだ?〟のところなんかクセがあって、拒否反応を示す読者もいるかも。なにより堀口はルパンに〝わし〟と言わせているのが個人的に好きじゃないね。

 

 

 

保篠がルパン・シリーズをどのぐらい正確に翻訳しているのか、フランス語原文を読めないことには判断できないから、最終的には訳された文章の好みの問題になる。かつて東京創元社が提言したように、Lupinはリュパンと発音するのが本当は正しいのだろうが、我々日本人はあまりにもルパンと呼ぶことに慣れ過ぎてしまって、今更リュパン表記を受け入れるのは非常に難しい。そういった肌感覚も含めて、少なくとも私は堀口訳より保篠訳のほうが楽しめる。保篠のルパン訳は山中峯太郎のホームズ訳に比べれば(あれはもはや訳ではなく翻案なのだろうが)、ずっとまともだし。

 

 

 

保篠訳のルパン本は大正から昭和に至るまで膨大な数に上るため、同じ作品でも翻訳された文章は時代によって微妙に変化しているのではないか?今日は保篠と堀口大學の訳を比べてみたが、同じルパン作品の保篠訳でも、版元が変わったりして本が出し直されるたびテキストに手が加えられているのか、そのうち検証してみたい。

 

 

 

 

(銀) 『怪奇探偵ルパン全集②』は「水晶の栓」だけでなく、短篇「ハートの七」「王妃の首飾」を併録。平凡社は一番最初のルパン短篇集「怪紳士」を一冊に纏めず、①と②に分散させており、こういうのは得てして各巻のページ数を調整したい目的によることが多い。そのせいで本巻のタイトルは『水晶の栓・怪紳士(下)』になっているのである。

 

 

 

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