前回(☜)からの続き。
ネット情報によると、復刊ドットコムの『火の鳥〈オリジナル版〉復刻大全集』(函入りハードカバーB5判/2011年刊)は〝初出連載内容再現〟を謳いながら言葉狩りをしている箇所があるそうだ。2011年の復刻大全集を1st editionとするなら、2022年に再発された同書ソフトカバーA5判は2nd edition。で、『04/鳳凰編』を2nd editionで入手してみたら、(旧単行本『火の鳥』は現物では確認していないけれど)やっぱり2nd editionでも本来あるべき表現が消去されていた旨、6月13日の記事(☜)にてお伝えした。
となると、初出・初刊の復刻であろうがなかろうが手塚プロは100%自主規制を前提として作品を再刊し続けているのか、はたまた、どの作家であっても復刊ドットコムは事なかれ主義で言葉狩り改悪編集を行っているのか、知っておかねばなるまい。そういえば「奇子」も2017年に復刊ドットコムから初出ヴァージョンの〈オリジナル版〉が出てたっけ。たしかこれ友達が持ってたなと思って訊いてみたら、「もう何度か読んじゃったし、函入りでサイズがデカいんで(ちなみにこれもB5版)持て余している」と言う。「そんなら御馳走するから是非とも譲ってほしい」とおねだりすると、即OKの返事が。持つべきものは友達だ。
これで大都社Hard Comics版(旧)と復刊ドットコム版(新)、双方の『奇子』単行本を並べて言葉狩りがされているかどうか、比較できるようになった。検証結果は次のとおり。下線は私(=銀髪伯爵)によるもの。
【大】= 大都社Hard Comics版
【復】= 復刊ドットコム版
【大】 上巻 31ページ
天外仁朗「白痴の女にかわいそうじゃないか、にいさん。」
【復】 上巻 29ページ
天外仁朗「かわいそうじゃないか にいさん」
知恵遅れの少女お涼(愛嬌があって私は好きなキャラだ)に関するシーンには元々〝白痴〟表現が使われていたが、復刊ドットコム版では前後の文字ごと消してしまうか、もしくは別の言い方に置き換えてしまっている。〝白痴〟は何度も出てくるので、この一箇所のみ記しておく。
【大】 上巻 33ページ
天外市朗「みんなアメリカのキチガイどものしわざさね」
【復】 上巻 31ページ
天外市朗「みんなアメリカ人どものしわざさね」
【大】 上巻 39ページ
天外仁朗「おやじは気が狂った!!」
【復】 上巻 37ページ
天外仁朗「おやじは狂った!!」
【大】 上巻 158ページ
天外作右衛門「キチガイめが!!」
【復】 上巻 159ページ
天外作右衛門「裏切者めが!!」
〝キチガイ〟は他にも使われているシーンあり。
【大】 上巻 165ページ
天外仁朗「さいわい相手が白痴の女だから」
【復】 上巻 168ページ
天外仁朗「さいわい相手が白痴の女だから」
このコマだけは何故か復刊ドットコム版でも〝白痴〟表現が生き残っている。見落としか?
【大】 上巻 191ページ
天外仁朗「こんな毛唐のスパイのお先き棒(ママ)」
【復】 上巻 195ページ
天外仁朗「こんな外国のスパイのお先棒」
【大】 上巻 340ページ
天外奇子「うん奇子狂人になったの。」
【復】 上巻 346ページ
天外奇子「うん奇子気い狂ったの」
このシーンでは〝狂人〟を書き変えているくせに、復刊ドットコム版下巻309ページの天外志子のセリフでは「狂人の血統なの?」と、そのままになっている。これも見落とし?
復刊ドットコムは「奇子」初出時の別エンディングを初めて単行本収録していながら、こんなに言葉狩りをやらかしているようでは話にならぬ。以前『アドルフに告ぐ/オリジナル版』(国書刊行会)の記事を書いた時にはあまりいろいろ考えず★5つの満点にした。国書刊行会が言葉狩りの語句改変を行っている本なんて心当たりがなく、「アドルフに告ぐ」の掲載誌は大人が読む『週刊文春』だから、自主規制に対して十代向けのマンガ雑誌ほど神経質ではなかったのでは?と軽く考えてもいたし。
連載期間が元号にして昭和58年から昭和60年の間だったから、出版業界全体にもう言葉狩り汚染が浸透していた可能性は十分ありうる。『文春』編集部がすでに言葉狩り対策をとっていれば、連載の段階でヤバそうな表現は手塚に使わせないよう指示していたに違いない。また初出内容に自主規制の対象となりそうな言葉が無いのなら、のちにいくら単行本が再発されようとも言葉狩りをする必要は無くなる。初出の『文春』をすべてチェックするのは無理でも、初刊本ぐらいは目を通しておきたいところだが、私の持っている『アドルフに告ぐ』は三世代目の単行本にあたる平成4年文春文庫ビジュアル版。その点ちょっと詰めが甘く、本日の記事を書きながらずっと気になっていた。(このためだけに中古で『アドルフに告ぐ』初刊本を買いたくはない)
何か良い判断材料はないかな~とネットを見ていたら、あったあった。手塚の単行本の言葉狩りについて参考になるwebサイトを見つけましたよ。次回の記事で紹介します。つづく。
(銀) 手塚治虫は「奇子」の連載をもっと続けたかったが、やむを得ぬ事情があって終了せざるをえなかったと生前に語っている。奇子のその後の人生を描く構想だったそうだけども、これはやらなくて正解。
「奇子」終盤のストーリーは昭和48年まで時代が下ってきていた。奇子ちゃんは物語冒頭(昭和24年1月)わずか四歳、エンディングでは二十八歳ぐらいに成長している(精神年齢はずっと昔のままだけど)。もしもあのエンディングのあとを描くとなると彼女は三十路に入ってしまう。前回の記事でも書いたように、この物語は〈旧・昭和〉を描いているところに商品価値があり、三十を過ぎた奇子が昭和50年代のチャラくなってゆく日本社会の中で生きるなんて、いくら彼女が美人でも私は見たくないし、あの終わり方しか正しくない。