2022年10月3日月曜日

『sumus 第5号/第6号』

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編集人代表 山本善行
2001年1月発売〈第5号〉 2001年5月発売〈第6号〉




★★★★   熊谷市郎と『ぷろふいる』特集




2000年頃sumusというリトル・マガジンがあって、どこかの出版社に依存するでもなく、本好きな人たち数名の手で自主的にインディーズな形で発行されていた。このBlogでいつもなら版元を記している欄に編集代表人として個人名を表記しているのは、そういう理由があるから。今回紹介するsumus5号と第6号の奥付にクレジットされている顔ぶれは次の八名。

生田誠/岡崎武志/荻原魚雷/扉野良人/林哲夫/松本八郎/山本善行/吉川登






昨日の記事の主役だった九鬼澹は雑誌『ぷろふいる』に編集長として迎えられる。博文館から刊行されていた『新青年』と違って『ぷろふいる』は大手出版社がバックに付いておらず、関西のある一人の探偵小説好事家が金主となって創刊した探偵雑誌だった。その金主というのが京都老舗呉服店の長男として生まれた熊谷市郎。80年代、西宮で古書店を営んでいた彼に接触した人があり、戦前~戦後に亘る探偵小説界での出版活動について老境を迎えていた熊谷にインタビューを行いテープにしっかり録音していた。

そのテープの文字起こしをベースに、sumusが第5号でKIMM(くまがい・いちろうず・みすてりい・まがじん)~熊谷市郎氏の探偵小説出版~>と題されたレポート、第6号で<『ぷろふいる』五十年 熊谷市郎氏インタビュー>といった二つの特集を組んでいる。幻の探偵作家を追った企画はありがちだけども、このように出版人へと目を向けた資料は少なくとびきり貴重で面白い読み物だ。






昭和12年に熊谷は事業でしくじりを犯してしまい『ぷろふいる』は終刊に追い込まれる。その時彼は夜逃げ状態で京都を後にしたらしい。それでも探偵小説の出版をあきらめず新しく熊谷書房を立ち上げ単行本を出し続けた。戦争で関西が焼け野原になっても、彼は大和郡山から神戸へ毎日通いながら再起を図る。結局『ぷろふいる』の権利は譲渡する事になったが、かもめ書房しかり熊谷の出版に対する情熱の火が消えてしまうことはなかった。

昨日取り上げた九鬼澹の単行本『戦慄恐怖 怪奇探偵小説集』は八千代書院という版元から出ている。この八千代書院は竹之内貞和という人がやっていた赤本問屋だそうで、熊谷書房名義の単行本の中には熊谷がタッチしていないものが存在し、それらの本も竹之内貞和が資金を出していたと云う。既存の文献に書かれていた内容とはちょっと事情が異なっていたりもするので、こういう証言は有難い。






『ぷろふいる』は原稿料がかなり安かった。それが原因で「横溝正史も濱尾四郎も佐左木俊郎も延原謙も書いてくれんかった」と熊谷はボヤく。博文館の社員だった作家は(随筆なら結構寄稿してくれた水谷準以外は)小説を書いてくれなかったみたい。それにしても熊谷市郎はどっぷり関西の人でネイティブな関西弁を喋るため、文字に起こす際には細かいニュアンスを伝えるのが結構難しかったろうなあ、と第6号のインタビューを読んでいて感じる。

話の聞き手は川島昭夫と横山茂雄。文字起こしをしたのは扉野良人。横山茂雄は大阪生まれだから、インタビューの会話の中で熊谷に合わせて関西弁を喋るのはいいとして、文字に起こした時に聞き手の言葉にまでも関西弁が混じっていると若干紛らわしく見える。聞書きを文字に起こす作業というのは、方言で喋る人がいる場合にはいつも以上に繊細な作業が必要なんだなあ、とつくづく思った。






(銀) 当時の紙面では本名の熊谷市郎ではなく熊谷晃一と名乗っているが、『sumus』の特集記事においては熊谷市郎の名前で呼ばれているので、この記事でもそちらを踏襲している。この『sumus』第5号と第6号、古本市場でもそこまでバカ高い古書価格にはなってない筈だから興味のある方は是非見つけて読んでほしい。他の号にも面白い記事が載ってるヨ。