♡ 本書、あるいは本書に収められている短篇「H大佐夫人」がなぜ一部の人に知られているのかといえば、カストリ雑誌『猟奇』(戦前の雑誌『猟奇』とは別物)に昭和21年発表されたこの作品が発禁処分を食らっている事、そして本書冒頭<推薦の言葉>を元・吉本興業の林弘高(彼の姉は吉本せい、兄は林正之助)と並んで、あの江戸川乱歩が書いている事から来ている。それほど長い文章でもないし、乱歩の推薦文をここ(☟)に記しておこう。
〝北川千代三君は、私の知るT君のペンネームである。そのT君が、北川の筆名で作品集を出した。内容は、私のジャンルとする探偵小説ではない。その意味で、充分な批判はここでは避けたい。しかし、この作品の中に盛られた心理描写には、別な面を衝いている。私はその点を推す。北川ことT君よ、これを契機として、良い物を書いてほしい。〟
♡ このように北川千代三というのは筆名であるらしい。実は「北川千代三というのは戦前から活動している俳優・芝田新の事で、北川千代三以外に徳田純宏という筆名もある」、そんな風聞がある。芝田新のwikipediaにはそれについて何の言及もしてないし、この説が載っているという某資料を自分の目で確かめた訳でもないから、今日の記事は話半分で読んで頂きたいのを前提に進めてゆくとして__ 。昭和24年の捕物作家クラブの発足には探偵小説の大家である乱歩も深く関わっていたのだが、会員名の中にはなにげに徳田純宏の名も見つかる。もし上記のT君というのが本当に徳田純宏なら、乱歩は俳優名の芝田新ではなく徳田純宏として彼のことを認識していたのか。(芝田新の本名は川上勇之進という)
wikipediaを見るかぎり芝田新は昭和15年頃から昭和30年あたりまで殆ど映画に出演していないように見える。そこにはどういう理由があったのか旧い日本映画に疎い私には知る由もないが、ネットで調べてみると北川千代三名義の作品は『猟奇』以外に、『読切傑作集』『デカメロン』『花形講談』『ロマンス読物』『千夜一夜』『りべらる』などといった雑誌上でも見つけることができる。本書収録の「白日夢」に至っては探偵雑誌『妖奇』にも掲載されたようだが、あの雑誌の場合は再録も多いから、すぐに初出誌と断定せず、しっかり確かめたほうがいいかも。俳優としての活動をしていなかった時期(?)に、彼はどういう経緯か、作家として怪しげな小説を書き続けた。『猟奇』では北川千代三と徳田純宏の作品が同居している号もある。
♡ 本書は八つのエッチな短篇を収録。
「綺麗すぎた母」
「妖しい構図」
「白日夢」
「ガス」
「小幡小平次」
「美濃屋の若寡婦」
「伊豆六の妾」
「H大佐夫人」
上記に掲げた乱歩の推薦文を読んで、本書を未読の方も薄々気付かれたとは思うがこれらの短篇はどれも探偵小説でないのは勿論のこと、一小説としても弱さがある。カタストロフィはおろか話のオチというかサゲが無く、アダルト映像の無い時代だったから当時の日本人がいかがわしい目的に使うぶんにはよかったのかもしれないけれど、話の締め括りにはやっぱり何かしら一捻り欲しい。しかもこの本、作者自身の誤字なのか出版社サイドの誤植なのか、間違いが多くて若干読みにくい。
未亡人/人妻の色香にムラムラするオトコ。男の肌と長い間ご無沙汰していたためによろめいてしまうオンナ。「綺麗すぎた母」のラストにはちょっとした人情味があったり、江戸時代を舞台にした「小幡小平次」には怪談テイストがあったり、「白日夢」では食いちぎられた指をめぐる親子二代に渡る因縁が描かれていたり、テクニックが上手ければもう少し出来が違ってきそうな題材もあるのに、文筆業がメインではない悲しさ。
「H大佐夫人」以外の本書収録短篇の正確な発表時期は把握していないが、「H大佐夫人」終盤にある、〝B29が空襲にやってきそうな状況下で狭い防空壕の中で若い男を自分の泉に招き入れる美しい人妻〟というエロいシーンはよほど乱歩のお気に召したのか、これとよく似た趣向が乱歩自身の「防空壕」や「化人幻戯」に見られるのは御存知のとおり。本書の中には覗き趣味だけでなく胎内回帰願望といえそうなエロもなくはないし、う~む、これでは北川千代三は乱歩に結構影響を与えた存在となってしまうではないか。こんな結論でいいのか?
(銀) 北川千代三の正体なり作品一覧については私が不勉強なだけで、カストリ雑誌や性風俗雑誌の分野ではもっと詳しい研究と発見が既にされているのかもしれないし、乱歩と北川の交流関係もこれから少しづつ解明される可能性はあるだろう。