2024年1月19日金曜日

「覆面の佳人(=女妖)」(江戸川乱歩/横溝正史)のテキストは今度こそ信用できるものなのか?②

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 (☜)からのつづき。
202312月に発売された春陽堂書店版『覆面の佳人/吉祥天女の像』の表題作となっている江戸川乱歩/横溝正史合同名義による新聞連載長篇「覆面の佳人」のテキスト(Ⓐ)と、二年前に私がこのBlogにて行った【春陽文庫版『覆面の佳人ー或は「女妖」ー』及びその異題同一作品である『九州日報』連載「女妖」との対比に基づく明らかなテキスト異同一覧】(Ⓑ)を照らし合わせ、リリースされたばかりの「覆面の佳人」(Ⓐ)の校訂・校正は信頼の置けるものになったのか、検証しているところである。

 

 

前回の記事では➊「雪中の惨劇」から➒「古塔の老婆」まで、前半の九章を見ていった。本日は残る後半八章をチェックしていく。前回申したとおり、この色文字を使っている部分は春陽文庫版『覆面の佳人ー或は「女妖」ー』(1997年刊)のテキストと同じ表現になっていて、それだと全面的には信用できないのだけど、もしかしたら私の手元にない『北海タイムス』『いはらき』のテキストが春陽文庫と同じ表現かもしれず、それゆえの制作者がそちらを採用した可能性もありうるので、100%おかしいとは決め付けずグレーな扱いにしている。それぞれの比較箇所にて示しているページはのノンブルを指す。

 

 

 

❿ 「過去の影」

 

この章の(一)は、
〝入って来た千家篤麿と春日龍三、顔を合せるなり、お互にはっとした模様だった。〟
という一文から始まるべきなのに、なんとでは、
前章❾「古塔の老婆」の最後の回(14)が、
「過去の影」の冒頭にズレて組み込まれてしまっている。

本来なら❾「古塔の老婆」は(1)~(14)の十四回分、
❿「過去の影」は(1)~(9)、つまり九回分の話がなければならないのだが、
のテキストは「古塔の老婆」が実質十三回、「過去の影」は十回になってしまって、
幸い話の重複/欠落こそしていないものの、❿には(四)が二つあるという情けないミス。
 
もし『北海タイムス』や『いはらき』がそのような章構成になっており、
その形を選択したのであれば、文中もしくは解説に必ず一言注記を入れてしかるべき移動だ。
それをしていないのだから、制作者のミスだと思われても仕方がない。

 

 

174頁上段/しかも、あの春巣街の事件の

『九州日報』での下線部は〝折柄〟と表記。これだと何がマズいのだろう?

 

 

175頁下段/コップに一杯それ注ぐと、ぐっと飲み干した

『九州日報』では〝コップに一杯それ注ぐと、ぐつと飲み干した〟と表記。

 

 

182頁上段/お母さまだと信じきっていたんですが

『九州日報』では〝お母だと信じきつてゐたんですが〟と表記。

 

 

 

⓫ 「打続く惨劇」

 

197頁上段/由良子は漸く涙を拭きながら

『九州日報』では〝由良子は漸く涙を干(ほし)ながら〟と表記。

 

 

 

⓬ 「恐怖の別荘」

 

203頁上段/細い肩にまとっているショール

『九州日報』では〝細い肩にまとうてゐるショール〟と表記。

 

 

205頁下段/自分の生命(いのち)をとりに来るのではないだろうか

『九州日報』では〝自分のを取りに来るのではないだらうか〟と表記。

 

 

206頁上段/今にもガラスがれそうである

『九州日報』では〝今にもガラスがれさうである〟と表記。

 

 

207頁下段/あたしろしいなんか少しもありませんよ

『九州日報』では〝あたしろしいことなんか少しもありませんよ〟と表記。

 

 

213頁上段/篤麿はあっとばかりに跳ね起きた

『九州日報』も〝跳起(はねお、とルビあり)きた〟となっているが、このシーン、千家篤麿は倒れていた訳ではないのだから、この箇所に限っては準拠すべきでない春陽文庫の〝跳び退いた〟のほうが文脈には合致する。こんな場合、どう処理すべきなのか実に難しい。

 

 

215頁上段/半ば失神した花子の耳許で大声叫んだ

『九州日報』では〝半ば失神した花子の耳許で大聲叫んだ〟と表記。

 

 

216頁上段/窓から半身を乗り出すようにして

『九州日報』では〝窓から半身(はんしん)乗り出すやうにして〟と表記。

 

 

 

⓭ 「奔 馬」

 

224頁上段/この間までお婆様がいたんだけど

このあとの小夏の口振りは『九州日報』でも全て〝お婆さん〟に変わっており、もそれに倣っている。基本的には底本に従うのが定石であるが、この点に関しては全て〝お婆さん〟で通してしまった春陽文庫のように、〝お婆様〟or〝お婆さん〟のどちらかで統一するのがいいように思った。他にも呼び名が揺れているところは多い。

 

 

225頁上段/白鳥が二三羽群をなして泳いでいる。

『九州日報』では〝白鳥が二三羽宛(づつ)群をなして〟と表記。
漢字の〝宛〟は〝ずつ〟と読む場合もあるので、〝宛〟を削除してしまうのはどうだろう?

 

 

227頁上段/綾小路さんのお家(うち)のお方ではありませんか

『九州日報』では〝綾小路さんのお方ではありませんか〟と表記。
『北海タイムス』か『いはらき』、どちらかのテキストに〝お家の〟の部分はあるのか?

 

 

233頁下段/不意この打撃頭が狂った

『九州日報』では〝不意この打撃〟と表記。
もし私なら、この箇所は〝不意のこの打撃に〟と修正するね。

 

 

236頁下段/うっとりと聞きとれていた。

前回の比較時に、私は〝聞き入っていた〟じゃないの? などと指摘したが、
うっとりとして聞くことを〝聞き蕩(と)れる〟と言うそうなので、
『九州日報』の表記に倣ったは決して間違いではない。good Job

 

 

239頁下段/其の名も何時の間にやら山根星子と変えて

この人物名は『九州日報』でも〝山根星子〟になっている。これは春巣街の死美人のことで、ストーリーが進むにつれ彼女の呼び名が二転三転していることは、以前この記事(☜)に記しておいた。❹「時計の中」の章では、濠州通いの船の水夫だった庄司三平が半年前の船客名簿上の氏名を覚えていて、「あの死美人の名は白根星子だ」と申告しているため、矛盾が生じている。死美人が濠州にいた時、白根星子という苗字を微妙に変え、
山根星子と名乗っていた時もあった・・・と押し通すこともできるけれど、
山根と白根、ここではいずれの苗字を採用すべきか?アナタならどちらを採る?

 

 

 

⓮ 「黒い棘」

 

243頁下段/彼女の周囲は真暗(まっくら、とルビあり)闇だった

『九州日報』では〝彼女の周圍は真闇(まっくら、とルビあり)だつた〟と表記。

 

 

249頁上段/度肝を抜かれたで由良子の顔を見た

『九州日報』では〝度肝を抜かれた(てい、とルビあり)で由良子の顔を見た〟と表記。
ルビを振ったのままでいいのに。

 

 

249頁下段/薄紫の靄が屋根に降り始めた。

『九州日報』の下線部は〝家の屋根に降り始めた。〟と表記。

 

 

252頁下段/花子はもう(なかば、とルビあり)失神したような気持ちで

『九州日報』では〝花子はもう半ば失神したやうな氣持で〟と表記。

 

 

257頁上段/身動きする事も出来ないのだった

『九州日報』では〝身動きをする事も出来ないのだつた〟と表記。

 

 

259頁上段/恐ろしい拷問の備えを此処へ持ってきておいたのだ。

『九州日報』では〝恐ろしい拷問の場合を〟となっている。これはおそらく『九州日報』のミスで、きっと作者は〝恐ろしい拷問のを此処へ持ってきておいたのだ。〟と言いたかったのだと想像する。『北海タイムス』や『いはらき』に〝備え〟という表記が無いのなら、似たような意味であってもこんな風に変えてはいけない。

 

 

261頁下段/突然出現した人物の顔を見つめていた。

『九州日報』は旧い読ませ方の〝瞶(みつ)めてゐた〟で表記。
上記Ⓐの一文から四行後では〝遉(さすが)〟という字を使っているんだし、
〝見つめて〟じゃなく〝瞶めて〟でもよかろうて。

 

 

 

⓯ 「疑問の家」

 

262頁下段/そう弱音を吐く様じゃ頼もしくありませんぜ

『九州日報』では〝さう弱音を吹く様ぢや〟と表記。
ネットで調べたら意外にも「弱音を吹く」という言い方を昔の人はしていたそうだから、
そのまま活かすべきだったのだ。この旧い表現、私も知らんかったけど、
校正者もきっと知らなくて〝吐く〟に変えてしまったんだな。

 

 

263頁上段/「へえ、一体誰ですねえ」

『九州日報』では〝へゑ、一體誰ですねゑ。〟と表記。

 

 

266頁上段/手別けして二人の行方

『九州日報』では〝手別して(ママ)二人の行衛を〟と表記。
これも上記の〝瞶めて〟同様、旧い文字遣いを活かしてほしかった。

 

 

269頁下段/自分も(ま)のあたりに見て

『九州日報』も春陽文庫も〝目〟の字を使っているのに、何故〝眼〟の字を?

 

 

271頁上段/凝っと聴き耳をたてゝいたが

『九州日報』での下線部は〝聽き耳たてゝゐたが〟と表記。

 

 

273頁上段/その人影は身動きもしないで、

『九州日報』での〝人形〟、春陽文庫での〝人間〟、その両方ともは異なっている。

 

 

278頁上段/春巣街のもあなたは、

『九州日報』も春陽文庫もこの下線部は〝(うわさ)〟になっていたが、
それだと意味が通じないから、私は過去の記事にて〝〟が正解なんじゃないか?と述べた。
の校正者がこのBlogを見ていたかどうかはともかく、
ここは〝時〟以外に選択肢は無いと思う。

 

 

 

⓰ 「袋の鼠」

 

279頁上段/(しか)も自分はその中心にいるのだ

『九州日報』では〝(しか)も自分はその中心にゐるのだ〟と表記。

 

 

この章(⓰)における綾小路浪子と木沢由良子のお互いの呼び方が『九州日報』では、
「由良さん」「由良子さん」/「浪子さま」「浪子さん」といった具合に一定していない。
ういう時は統一したほうがいいのだろうか?
それとも底本のとおり揺れたままにしておくべきなのだろうか?改めて考えさせられる。

 

 

283頁上段/あたしは花子さんまでも殺そうとした

『九州日報』では〝  あたしは花子さんまで殺さうとした〟と表記。
無理に〝も〟を加える必要は無い。

 

 

287頁上段/蛭田検事がまだお見えになりませんので

このセリフの下線部を『九州日報』も春陽文庫も蛭田君と表記していたが、これまた過去の記事で指摘したように、同僚ながらまだ若い刈谷検事が蛭田のことを君付けするのはおかしい。
だからにて〝蛭田検事〟へと修正したのはgood job

 

 

289頁上段/ひらり自分から先に飛降りた

『九州日報』では〝ひらり自分から先に飛び下りた〟と表記。

 

 

289頁下段/「あなた、油断しては駄眼ですよ。気をつけよ」

駄目〟を〝駄眼〟としていたり、『九州日報』では〝気をつけなさいよ〟とされているのに〝気をつけてよ〟になっていたり、恥ずかしい校正ミス。

 

 

290頁上段/手に鉄の棒のようなものを持ってきた

『九州日報』には〝棒〟なんて表記は無い。『北海タイムス』や『いはらき』にも〝鉄の棒〟とは書いてないような気がする。

 

 

294頁上段/「何しろ、お兼が殺されているので、

『九州日報』では「!お兼が殺されてゐるので」、春陽文庫は「なにせ、お兼が殺されているので」と言った風に、どれも異なっている。

 

 

 

⓱ 「剥がれた假面」

 

296頁上段/物凄い輝きが、めらめらとその眼の中に

『九州日報』の下線部は〝物凄い輝きがヂロヂロと〟と表記。

 

 

297頁下段/あたしはもう死にそうです

『九州日報』では〝あたしはもう死にさうだ〟と表記。
お嬢様の春日花子は通常ならこんな言葉遣いはしないだろうが、自分の目の前で愛する成瀬子爵が息の根を止められそうになり、錯乱状態だったから思わず〝死にそうだ〟なんて荒っぽい言葉を吐いたのだと妄想するのも一興。

 

 

301頁上段/彼はピストルを左に持ち換え右の手で壁の表を探っていたが、

及び春陽文庫のように〝左に持ち換え右の手で〟とするよりも、『九州日報』の表記どおり〝左の手に持ち換え〟にしたほうがずっと自然な感じがする。

 

 

302頁上段/花子は最早あたりを構う心の余裕もなかった

『九州日報』における下線部の漢字は〝餘裕〟。

 

 

302頁下段/勇気ある方はついて来て下さいよ

『九州日報』では〝勇氣のある方はついて来て下さいよ〟と表記。

 

 

303頁下段/定まらぬ足どりで、こちらへ近づいてくる

『九州日報』では〝定まらぬ足どりで、此處(ここ)へ近づいて来る〟と表記。

 

 

306頁下段/千家篤麿は最早逃げたり隠れたり決して致しませんわ。

これもねえ、『北海タイムス』や『いはらき』にて〝隠れたりは〟と表記しているのならわかるけど、の校正者はなんで『九州日報』の〝逃げたり隠れたり決して致しませんわ〟だと不服なのかな?

 

 

308頁上段/「あの人何が言えますものか。

『九州日報』は〝あの人何が言へますものか。〟と表記。

 

 

311頁下段/いや子爵ばかりではない。

〝子爵〟と〝蛭田〟を取り違えている作者の失態。
他の中途半端な箇所よりも校正者はこの下線部こそ〝蛭田へと訂正しておくべきだった。

 

 

 

 

以上、このような結果になった・・・疲れた・・・。テキストの面だけ見れば、言葉狩りのみならず校訂・校正者が好き勝手に細部を書き変えているのが目立つ春陽文庫版に比べると、底本におけるオリジナルの語り口に可成近付ける事が出来ていると思う。

だがそれでも、今回の比較を通して見てもらうとわかるように、
表記が揺れている名称を全て同じように統一したほうがいいのか、
判断に迷う箇所が多くて、校正者は大変だったに違いない。
それとは別に、漢字を含む旧い表現をどこまで残し、どこから先は現代風に直すのか、
その辺のルールが固定されていない印象も受けた。

なにより、❸「古びたる肖像畫」での章題誤記や、
❾「古塔の老婆」と❿「過去の影」の間に見られた一話分のズレなど、
みっともないミスが生じたのは遺憾。

 

 

いくら戦前の小説であっても、単行本や全集にするため作者もしくは第三者がキチンとした校訂を一度でも施しているテキストを用いて復刊するのなら、それほど混乱はしないだろう。なにせ「覆面の佳人」(=「女妖」)は作者がラフに書き飛ばしたまま長年放置されていたものゆえ、文章の粗さだけでなくストーリーにも矛盾点が多すぎるため、そんじょそこらの人間が復刊作業に携わるには相当ハードルが高すぎた。

 

 

 
 
(銀) たまたまかもしれないが、章によって気になる箇所の発生している数が異なっており、❾「古塔の老婆」以降の後半部分のほうが目に付く差異がズラズラ出てきて参った。それは執筆した横溝正史のせいなのか、それともの校正を担当者した佐藤健太・浜田知明のいずれがどの章を担当したかによるものなのか、邪推するのも面白い。
 

 

 

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