本当の意味での初出媒体にあたる『北海タイムス』にて昭和4年5月から12月まで連載された「覆面の佳人」を底本に使用した春陽文庫『覆面の佳人―或は「女妖」―』と、『九州日報』にて翌昭和5年2月から8月までタイトルを変えて再掲載した「女妖」のテキストを各章ごとに一字一句比較してきた訳だが、平成7年に初めて書籍化された春陽文庫版で読んだ時にはすっかり見落としていた点にも気付けたり、とても勉強になった。とはいえ有難くない発見のほうが多かったのも事実なのだが。
この記事を進める前に断言しておかなければならないのは、本書を含む春陽文庫〈探偵CLUB〉シリーズのテキストはまるで信用できない、ということ。戦後のある時期以来、春陽堂書店が刊行する本の校訂・校正は悪化の一途を辿っていったから、このシリーズだけに見られる現象では決して無いとはいえ、せっかくの嬉しい企画をどうしようもないテキストでダメにしてしまう、正にその悪い例だ。そういった面も含め、今回はこの「覆面の佳人」(=「女妖」)という作品について総括してみたい。
▼ 翻案か? そうではないのか?
2021年7月23日における当blog記事(⓪)に転載した本作連載予告の江戸川乱歩【作者の言葉】に「種本はAKグリーン女史のもの」と書いてあったため、あたかも本作はA・K・グリーン作品の翻案であるかのごとく伝えられてきた。しかし、①~⑰の記事で述べてきたとおり本作の粗筋に、小説として黙認し難いほどの矛盾点が生じている事実はどうにも否定できない。A・K・グリーンであれ誰であれ、もし翻案の元ネタが明確に存在していたなら、ここまでプロットの破綻を露呈する事もなかったのではないか。オリジナルの原作は特定できず、翻案とも創作とも呼びにくい奇妙な長篇になってしまっているのだから、どう贔屓目に見ても、これは失敗作としか言いようがない。
「覆面(ヴェール)の佳人」とは誰の事だったのか?初めのうちは綾小路浪子かと思われたが、物語が進むにつれ、もうひとつのタイトル「女妖」の意味合いのほうが拡大し、最終的に覆面の佳人しかり女妖とは、母娘二代にわたる悪女を指すものとして結末を迎えた。でも彼女たちの出番が無くなった最終章のクライマックスをもうひとりの悪役・千家篤麿が飾っているようでは、タイトルの意味が活かされないんだよね。
▼ 無惨なるテキスト
「女妖」の連続検証企画を始める以前、このBlogにて春陽文庫〈探偵CLUBシリーズ〉の中から取り上げていた本は、水谷準の『殺人狂想曲』と江戸川乱歩名義の代作『蠢く触手』の二冊だ。どちらもいわゆる〝差別用語〟とされる表現を隠蔽したり、無意味に漢字を開いたりしていたから、春陽堂のテキスト改変の対象はその程度だろうとたかをくくっていたが、その程度では済まないほど方針が意味不明なのもよくわかった。
なにしろ春陽文庫の底本である『北海タイムス』とほぼ同じである筈の『九州日報』からして、非常にテキストが粗くて閉口。当初この企画を終える際には、「春陽文庫の校訂では話にならないから、たとえ内容は支離滅裂でも、一度ぐらいは真っ当な校訂で出し直してもらいたい」と提案して〆るつもりでいた。ところが想像以上に『九州日報』テキストからして問題が多く、安易に再発を唱えていいのかどうか考え込んでしまった。
プロットの矛盾だけでなく、横溝正史らしくない悪文も目立つ。⑬~⑮の記事でも紹介したが、本日の記事の後段でも触れる池内祥三追悼記事の中で土師清二は、大系社の創業当時に池内が次のような事を語っていたと回想している。(括弧内の注記は私=銀髪伯爵によるもの)
「ぼく(池内)はガリ版をやめ、一々原稿を原稿用紙に浄書して生ま原稿(ママ)にしてくばった。(中略)三社、五社と取引ができると、ぼくは女房とコタツで差向いで浄書する、徹夜をつづけて、疲れると、ドテラのまま、その場にごろ寝をし、目がさめると又浄書にかかりました」
作家から受け取った原稿をコピーする事もデータ転送する事も、昔は不可能。この土師清二の回想文からすると、作家が書いた元原稿は手元に残しつつ書き写した原稿を各新聞社へ送り出す必要がある訳だし、池内祥三夫妻が徹夜して正史の原稿を書き写す作業の途中で、次第に粗い文章にされてしまったか?とも推理したけれど、毎回そんなに雑な書き写し原稿を送っていたら大系社の信用にも関わるから可能性は低い。正史の書いた原稿そのものの文章が粗かったと考えざるをえない。
▼ 連名の謎
なぜ江戸川乱歩/横溝正史の連名で発表したのか。 半年にわたる新聞連載をやらせるには、昭和4年当時の横溝正史のネームバリューでは弱いと判断され、乱歩の名前も借りた連名クレジットになったのでは?という岡戸武平のエッセイにおける解釈がなんとなく定説になっている。「正史単独では弱い」と判断する人物となると、各新聞へ小説を配信する業務を運営していた大系社の池内祥三以外にはいないので、彼に関する文献の中に何か情報がないか探したのだが、乱歩/正史の連名クレジットになった理由を匂わせるような情報は見つからなかった。
「犯罪を猟る男」の頃は正史もまだ上京して間もないし、兄貴分でもあり作家の先輩でもある乱歩の代作提案なら喜んでやっただろう。しかし残りの二篇を書いた昭和3年になると、既に正史は『新青年』編集長のポストにあり、作家としての経験も積んできていたから、「犯罪を猟る男」の時のように嬉々として乱歩の代作をやる気持などもう無くなっていたとしても、それは別に不遜な態度ではなかろう。それなのに、翌昭和4年になって既知の池内祥三から新聞小説連載の話をもらったのはいいが、「横溝君、貴方一人の名前では力不足だから、乱歩さんとの合同名義にしてくれませんか?」なんてもし池内に言われていたら、正史だってクサるというか内心やる気を削がれるよな。
正史は神戸では〝モッサリ〟という屈辱的な扱いをされ、学校を卒業し就職したはいいが、神戸市役所も辞め第一銀行神戸支店も辞め(もしかして馘になったのかも)、その頃自殺まで考えていたと乾信一郎宛書簡にも書いているぐらいだ。それが上京して一転人生が楽しくなり、気の合う仲間もできて毎晩遊興にふけっていた丁度真っ只中に舞い込んできた本作の仕事。たとえ乱歩と連名扱いで、掲載媒体は地方紙であっても、半年にわたる初の新聞連載長篇小説といったら、作家としては十分晴れの舞台なんだがなあ。上記で述べた自分に対しての扱いの低さから、投げやりな姿勢で書き飛ばしてしまったのかな。
▼ 正史も乱歩も本作について一切語らなかった理由
(銀) 否定的な見方に終始してしまったけれど、昭和4年の時点で横溝正史が黒岩涙香調の長篇に挑戦するのが間違いだったとは私には思えない。むしろ絶好のタイミングだった。現に本作が『北海タイムス』で連載開始されたのとほぼ同じ時期に、盟友・渡辺温は正史が編集長を担っていた『文藝倶楽部』で涙香の「島の娘」を補綴連載しているし、江戸川乱歩だって昭和6年に涙香の「白髪鬼」を『富士』にて翻案連載したではないか。
アイディアとしては悪くなかっただけに、本作の執筆に対して、正史が腰を落ち着けてじっくり取り組まなかった(?)のが何とも悔やまれる。ずっと時代が下って昭和30~40年代の沈滞期に金田一ものや人形佐七ばかり改稿せず、むしろ本作をこそ矛盾点を全て綺麗に整えて書き直してくれていたら・・・なんて思うけど、あの頃は社会派ミステリの時代が到来していて探偵小説は古臭いものの象徴だったから、正史が本作を書き直そうなどとはこれっぽっちも考えられそうにない嫌な時代なのであった。