昭和26年11月に連載スタートした「悪魔が来りて笛を吹く」のあと、金田一耕助長篇としては(ジュブナイルを除くと)暫く間を空けて執筆された「幽霊男」。贔屓の引き倒しよろしく横溝ファンは本作に次ぐ「吸血蛾」「三つ首塔」「悪魔の寵児」のエログロ・スリラーに向けられる批判に対し〝発表誌の特徴にあわせて正史は通俗的な長篇を書いたんだ〟と擁護する。
そういう意図も全く無いとは思わないが、どう見ても「悪魔が来りて・・・」までの金田一長篇にあった魅力が欠落しているのは否定のしようがなく、また「幽霊男」「吸血蛾」が発表された『講談倶楽部』は講談社の大衆向け月刊誌であり、「犬神家の一族」「女王蜂」を連載した同じ講談社の『キング』と比べても客層や誌面のカラーはそれほど変わらないのだから、発表媒体の変化によって内容を書き分けたという見方はどうなのか?
よく読むと「幽霊男」にも正史の得意な伏線回収ワザは確かに見られる。そして、ぱっと見では読者に気付かせないけれど、江戸川乱歩の通俗長篇の中で正史が評価していた「蜘蛛男」を意識しているフシもなくはない。ところが伏線を張るストーリーや各種設定がなんともチープで野暮ったく、殺人エンターテイメントとしても人間ドラマとしても弱い。
そもそも佐川幽霊男(さがわ ゆれお)なんていう名前からして江川宇礼雄(えがわ うれお)【注】のシャレなんだろうが、「びっくり箱殺人事件」に代表されるように既存有名人の名前を頂戴した正史作品はいつもスベりがち。横溝正史という人は論理的プロットを物する腕は優れているが、キャッチコピーみたいなもの、つまり作品名や登場人物名の発案に関しては甲賀三郎や大下宇陀児にさえ負けている。
【注】江川宇礼雄。「ウルトラQ」の一の谷博士役で有名な名優だが、実は横溝正史と同世代で戦前から映画監督/脚本家としても活動していた。
金田一長篇は田舎に限る、と誰もが言う。そのとおり、傑作は不思議と田舎が舞台になっているものに集中している。でも「女王蜂」は田舎の泥臭さにそこまでとらわれてはいないし、「悪魔が来りて・・・」そして由利・三津木シリーズ長篇「蝶々殺人事件」だって田舎の因習とは無縁ではないか。都会を舞台にすると正史は良い長篇が書けない訳では決してないのだ。ただ、私は本作や「吸血蛾」「悪魔の寵児」と比べたら、戦前戦後問わず由利・三津木シリーズ長篇のほうが(たとえ活劇スリラーであっても)断然好き。金田一シリーズの失速は正史の老齢化や時代の変化と切り離せないのだから、あまり責めても仕方のない事なのだが。
やはり「悪魔が来りて・・・」で正史の黄金期は終わってしまったのだ。それを考えると昭和32年に「悪魔の手毬唄」を書けたのは立派。私はフェミニストでも何でもないが「三つ首塔」とか清純なヒロイン宮本音禰が未知の男に都合よく犯され彼に染まっていく・・・なんてのは不快でしかない。「幽霊男」を読んでいても、ただでさえちんちくりんな風貌の金田一耕助がコスプレ姿で潜入捜査したって失笑なだけで、彼の良さが発揮される演出ではない。加えて正史が頻繁に使用する「あつはつは」「うつふつふ」も鬱陶しく響くのみ。
(銀) 「幽霊男」は昭和29年10月に連載終了しているのに、映画化された『幽霊男』は早くも同じ10月に公開されている。ということは連載が終わってもいないうちから映画制作が始まっていた訳で、過去にも「本陣殺人事件」「蝶々殺人事件」「八つ墓村」「犬神家の一族」さらに「女王蜂」「悪魔が来りて笛を吹く」は既に映画化されていたのだから、「幽霊男」も連載開始時から正史のもとへ「横溝センセイ、この新作も是非映画化したいですぅ」みたいな外野の声が届いていた可能性はある。通俗ものならあまり悩まず書き飛ばせるのだし正史も外野の声を意識した上で比較的ラクな煽情路線を選んだか。
いずれにせよ、マイナー作家の作品なら褒めてもいいけど、天下の横溝正史作品としてこれではいただけない。