本作には〝およそ五千六百個の桃の種をつぶして茹でれば致死量となりうる青酸が抽出できる〟という意味の一節があります(122頁を見よ)。非科学的で未熟な昔の見識なんだろうなと思いがちですが、ネットで調べると満更間違いでもないようで、桃・ビワ・梅・アーモンドといったバラ科に属する植物の未成熟期の種にはシアン化合物という青酸の元となる成分が確かに含まれているそうです。種さえ大量に食べなきゃ問題は無く、またこれを知ったからといって謎の真相には全然直結しません。だから安心してここに書いている訳でして・・・。
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60年前、1871年のブライトン。毒入りチョコを子供に持たせて、買った店で別のチョコと返品交換してもらう事でこっそり店頭商品の中に混入、気付かぬままそれを他の客が口にするというクリスティアナ・エドマンズの非道な事件は誰でも知っているほど有名だった。
それと全く同じ出来事が四ヶ月前ソドベリー・クロスで起きる。ミセス・テリーのよく繁盛している雑貨屋で売っているチョコレート・ボンボンを食べて死者が出たのだ。マージョリー・ウィルズ嬢は周辺の住民から毒を仕込んだ犯人だと思われ、不穏な状況にある。この事件捜査のため本作の狂言回し・エリオット警部がスコットランド・ヤードから村へ派遣されてきた。
一方、マージョリーの住むベルガード館。彼女の叔父マーカス・チェズニーは桃栽培の実業家で心理学の研究にもうるさい。この当主マーカスが「人の観察はいかにあてにならないか」を実証する寸劇仕立ての実験を行うと言い出す。寸劇鑑賞者はマーカスの友人であるイングラム博士、マージョリー、そして彼女のフィアンセ/ジョージ・ハーディング。ハーディングにはこの寸劇をシネカメラで映像撮影する役目も。夜も更けて邸内の一室で寸劇が始まると、シルクハットに長いレインコートそして黒サングラスとマフラーで身を包んだ誰だかわからぬ第二の演者が現れマーカスに無理やり緑色のカプセルを呑ませてしまった。
短い寸劇が終わり桃果樹園の責任者ウィルバー・エメットが第二の演者としてマーカスのヘルプをしていると思いきや一同は彼が窓の外で殴打され倒れているのを発見。その直後苦しみ出したマーカスは死亡、案の定カプセルには毒物が入っていた。外出先から急いで帰ってきたマーカスの弟ジョセフ・チェズニー医師も含めベルガード館の人間には皆アリバイがあり、小煩いクロウ本部長らを指揮しなければならない若きエリオット警部は頭を抱えてしまう。
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大がかりな因縁や飛び道具も無く一見地味に受け取られそうな作品だが、寸劇に際しマーカスが用意していた十の質問の矛盾点や、ミセス・テリーの店で毒物混入が行われた本当の理由など、どれもごまかし無く説明がなされるから読み終わってスッキリする。大広間ほどに広くない暗闇の部屋で、傍にいる者に動きがあったかどうかそんなに解らないものかな?というちょっとした疑問。それと、246頁でジョセフがリボルバーを発射してしまうシーン。銃口を他人のうなじに押し当てて発射したら軽傷では済まないと思うんだが。注文を付けるとすればそのふたつ。
訳文の中で読み手が首を傾げそうな単語がある。それは筥崎丸(23頁)と早生銀(24頁)。前者は当時の日本の欧州航路客船。カーにも認知されているほどメジャーな船だったのかな。後者はマーカスが栽培している桃のうち、早めに収穫できる品種のことを言っているのでは?どちらも原文ではどう表現されているのか気になる。
ロマンスや派手な演出にあまり寄りかからず、細かい謎の論理を積み重ねて物語を面白く成立 させるワザは(残念ながら)日本の探偵小説には見られないものだ。なんで作者はわざわざマーカスに十の質問を拵えさせたり寸劇を撮影させたのか?物事には必ず意味がある。初めて読む方はタイトルになっている〝カプセル〟ばかり気を取られぬように。
(銀) 事件と片想いと。エリオット警部が悩みを打ち明けるシーンでのギデオン・フェル博士のリアクションには温かみがある。これがH・Mだったらボロクソに皮肉を言われてエリオットは相談どころではなかったに違いない。
本書の帯には「名探偵フェル博士 vs ❛ 透明人間 ❜の毒殺者」と書いてあり誤解を生みそう。本作でいう透明人間というのは寸劇中にマーカスを毒殺した第二の演者の姿がまるで「H・G・ウェルズの描いた(服を着ている時の)透明人間のようだ」と譬えられている処から来ているのであってInvisible Man の姿なき殺人者がフェル博士と対決する訳ではない。