2020年4月16日 Amazonカスタマー・レビューへ投稿
スタンリー・キューブリック監督映画『アイズワイドシャット』では、素性を隠した男と女のいかがわしい目的の為の、余計な詮索をすると災いをなす仮面パーティーの館が出てきます。本作の中でパリの夜を牛耳っているエティエンヌ・ギャランの経営するナイトクラブもきっとあれに近い情事の場をセッティングする魔窟なのでしょう。世間体を重んじる上流階級の人間は特にこんな世界と関わりを持ってはいけない訳で・・・。
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酒・シンガー・踊り子・楽隊。ムーラン・ルージュに彩られたジャズ・エイジたちの退廃の街。そして「表」と「裏」の顔が存在している淫楽の空間。そこで予審判事アンリ・バンコランは知ることになる。オーギュスタン蠟人形館で目撃された後に姿を消した令嬢オデット・デュシェーヌが死体となってセーヌ川に浮かび、オデットの親友クローディーヌ・マルテル嬢までが刺殺され、蠟人形館の中で怪物サティロスの像に抱かれているのを。
令嬢殺しの〝ある伏線〟は最初の数章に張ってあり、再読し確認する愉しみの形は出来ているが入り組んだプロットよりもまだムード作りのほうが先行。のちのカーの傑作だったら怪奇極まる前半のパートを後半の推理パートが切れ味鋭く追走していくのだが。
◇ ポケミス版 → ◆ 本書=創元推理文庫版
◇ 茶色の帽子 → ◆ 幽霊は茶色い帽子をかぶる
◇ 緑の灯影 → ◆ 緑光の凶行
◇ 赤い滴 → ◆ 通路の血だまり
◇ 幻の女 → ◆ 幻が現実に
◇ 秘密クラブ → ◆ 銀の鍵クラブ
◇ エステル嬢 → ◆ 歌手エステル
◇ デュシェーヌ夫人 → ◆ 第二の仮面
◇ 棺のそば → ◆ 棺越しの密談
◇ ドミノの家 → ◆ ドミノの家
◇ 黒い影 → ◆ 死の黒い影
◇ あの声! → ◆ 赤鼻氏のお道楽
◇ クラブへ侵入 → ◆ 潜入捜査
◇ 屏風の陰 → ◆ ジーナの反抗
◇ ナイフ → ◆ ナイフ!
◇ 二重生活 → ◆ 秘そやかな愉しみ
◇ 死人、窓を開ける → ◆ 死人が窓を押しあける
◇ 腕時計 → ◆ 蠟人形館の殺人者
◇ 黒いケイプの男 → ◆ 正々堂々たる一撃
◇ スペイドの三 → ◆ 青酸にカードを一枚
カーの原文は同じ筈なのに、何故こんな違いが生じてくるのだろう。全ての読者が旧訳本を所有しているとは限らないので、今までどこが省かれていたのかを解説で丁寧に指摘し誰でもわかるようにしてほしかった。更に私はこの訳者の言葉遣いのセンスが気になってしょうがない。相変わらず和爾桃子が作品のムードにそぐわぬ日本語を当てるのには萎えてしまうのだ。
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バンコランの相棒であり語り手でもあるジェフ・マールが後半危地に潜入する緊迫した場面での 独白で(216頁)、ドロシー・セイヤーズのハリエット・ヴェインみたいな女性キャラクターならともかく、ジェフは大のオトコなのに〝 おでこ 〟なんて言うか?
〝 額(ひたい)〟だろ?英語から日本語へ translateする時に正しい言葉を選べなければプロではない。
(銀) 1932年に発表されたアンリ・バンコラン・シリーズ第四長篇。何十年も現行本で読めず古書のポケミスやジュブナイル本で渇きを潤すしかない不遇な作品だっだ。
訳者の変な言葉選びはさておき、昨日取り上げた『絞首台の謎』よりはプロットの細部がだいぶ整理されつつある。カーらしいインポッシブル・クライムはまだまだだが次のステップへの予感も漂う。クライマックスにて真犯人に対峙するバンコランの態度をいつものように冷血だと見做している読者が多いようだが、古畑任三郎『すべて閣下の仕業』ラスト・シーンにおける古畑の行動、あれを〈憐れみ〉と見るのであればここでのバンコランにも同じ気配がないとは言えぬ。
バンコランとジェフ・マールのコンビはこれをもって最後となり、『毒のたわむれ』でジェフはパット・ロシターと共に登場するも、『四つの兇器』でバンコランは予審判事の職を退いておりジェフの出番はない。1933年になるといよいよ『妖女の隠れ家』でフェル博士シリーズが、 翌1934年には『黒死荘の殺人』でヘンリ・メリヴェール卿シリーズがスタートする。