2020年8月11日火曜日

『黒死荘の殺人』カーター・ディクスン/南條竹則・高沢治(訳)

2020年3月22日 Amazonカスタマー・レビューへ投稿

創元推理文庫
2012年7月発売



★★★★  例えばH・M全集とか、
            名探偵ごとに作品を集成した本が欲しい




「仄暗い中でなにかが首筋に触れた。あれは短剣の柄(つか=グリップの部分)だった。じゃあその人物は刃の部分をどうやって握っていたんだ?」と一同が慄くシーンがあります。まあ後でオチがつく訳ですが、これ、試しに何かでやってみて下さい。アナタに絶対見えないよう第三者がアナタの首筋を或るモノで撫でたとして、それが何だったか、撫でられたほうはそこまでハッキリ分かるでしょうか? 

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『プレーグ・コートの殺人』『修道院殺人事件』、以前そのタイトルで訳されていたものを最新の創元推理文庫では何故『黒死荘の殺人』『白い僧院の殺人』としてアップデートしたか、理由を解説にて戸川安宣が短く述べている。新訳は高沢治がひとりで訳する時と比べて語り口は若干堅めな感じがする。南條竹則の影響?  

 

 

かつて黒死病に脅えた旧時代の絞刑吏ルイス・プレージの影が残る幽霊屋敷、そして呪いの短剣。70年代に本作の翻訳者として平井呈一に白羽の矢が立ったのもむべなるかな。ゴシック・ムードに演出され心霊学者ロジャー・ダーワーズが誰も入れない石室でズタズタの屍と化す前半、そしてヘンリ・メリヴェール卿が呼び出され霊媒オカルトを論理的に暴いてゆく後半、その潮目の変化がこの長篇の醍醐味。 

 

 

更に起きる第二の事件。人肉の焼ける匂いを嗅がされたハンフリー・マスターズ警部達は暫くの間マトン料理を見るのもイヤだったろうな。真犯人の暗躍手段は本格にしてはややルパンティックだし、ある人物がその従犯だったのはそりゃわからんわ。って、いちいち作者のカーにツッコミたくなるのが読者の悪い癖。 

 

 

〝 幽霊犯人 〟というワードが出てきて、つい私は戦前本格派の驍将と云われた甲賀三郎のことを思い浮かべる。実質甲賀は本格の理想論だけで、バキバキの本格ものを創作小説で作り出せぬまま病死してしまった。本作の石室殺人に使われているような〇〇〇トリックを考案して、本作ぐらいのクオリティの長篇をたったひとつでも遺せていたら、日本の探偵小説史における甲賀の評価(小酒井不木でもいいのだが)は根底から変わっていたと思う。

これはH・M最初の事件。巻末解説でヘンリ・メリヴェール卿の人物像や登場作品等が紹介されておりHM登場作をチェックしたい方には便利。カーをフル・コンプリートした全集が企画されてしかるべきだと思うけれども、先の見えない今の不景気ではまず無理。せめてH・M全集やギデオン・フェル博士全集といった、名探偵ごとに作品を纏めた書籍が欲しいものだ。どこかの奇特な出版社が企画してくれないか?もちろん電子書籍ではなく紙書籍で。 

 

 

 

(銀) 『黒死荘の殺人』は第二次大戦が始まる前に書かれている。先の大戦の頃は英国陸軍省諜報部長として活躍していたH・M、今では暇そうなポストで時間を持て余しているという設定での記念すべき初登場。また語り手のケンウッド・ブレークもこのあとH・Mが手掛ける事件に何度か登場する機会があるのだが、小ネタを気にする人は『黒死荘の殺人』『一角獣殺人事件』『パンチとジュディ』『ユダの窓』の順番に読んで頂きたい。 

 

 

日本における本作歴代翻訳者の顔ぶれを見ると岩田賛西田政治長谷川修二平井呈一仁賀克雄南條竹則・高沢治てな感じで、なかなか味わいのある顔ぶれなのだが、残念ながら初期の頃は完訳が徹底されておらず、特に初心者にはどの訳でもオススメとは言い難い。